「それはそれで、残酷だったのかもしれない」
 気づけば再び、私は教室へ戻っていた。外は暗く、教室の蛍光灯が白々しく照っている。
 ほんのひとときの幻覚。生々しい疑似体験に、
「――人生、残酷ね」
こめかみに冷たい汗が伝う。悪夢にうなされ目覚めた深夜二時のように。

「まず第一に、あなたは夏生ではないのだし」
「どうしてそう思うの」
「夏生はもっともっと残酷な人だった。あなたほど優しくない。もっともっとずるかったの。ずる賢い狐みたいな人間だった。だけどなんでかな、私の頭の中ではだんだんとあたかも彼が紳士だったかのように、美化されていったのね」

 窓を見る。私の姿が映っている。鏡のように。その向こうには、夜空に浮かぶ満月。私の頭上に重なっている。

 でも夏生の姿は映らない。窓ガラスのどこを確かめても、ぽっかりとその姿は抜け落ちている。

「あなたの方がよっぽど優しい。あなたは私が美化した偽物の品川夏生そのもの。そして、こうやって私のこじらせた過去の恋に付き合ってくれる。優しい嘘つきね」
「嘘だと見破られるところが、僕の甘いところだよ」
 彼は肩をすくめた。それは夏生の仕草にはなかったものだ。
「あとさ、狐がずる賢いって、そんなイメージある?」
「日本人の大半がそう思ってるわよ」
「嘘だぁ」
 コントみたいな反応に、私の汗はいつしか引いていた。
 汗だけではない。燻っていた恋の炎も、自然と消えていた。