【梅沢 詩月(うめざわ・しづき)】



 藍と橙のグレデーションの中に丸く切り抜かれた穴。
 その穴から地上にこぼれ落ちる淡い月光。
 その光はこの時間ではまだあまりにも弱く、足もとに影を作ることもない。

 昼を吸い込んだアスファルトが急速に冷えていく匂い。
 首元のストールを強く巻き付ける他方の手には、スーパーのビニール袋。一人分の食材。
 どこかの換気扇から漂うカレーの匂いに、バイエルンの練習音。
 家路を急ぐ子どもの嬌声。

 やっと一人になることができた、という苦みの混じった幸福を、舌の上で転がす。

 おやすみは言わなくていい。
 おはようも、お疲れ様も、愛しているよも、言わない。
 自分がいかに相手よりも正しいかを証明する必要も、相手がいかに自分よりも正しいか聞かされることもない。

――私は一人。

 呪文じみた独り言をこぼしながら、築年数だけは重ねているマンションの鍵を回した。
 スイッチと同時に灯るLEDの冷たさが目に心地よい。

 思わずこぼれたため息で手を洗い、エプロンの紐を締め、調理にかかる。
 ごりごりと人参やじゃがいもの皮を剥いたり、アスパラガスをゆでたり、薄切り肉に片栗粉をまぶしたり。

 黙々と包丁を動かしていると、孤独はほんの少し和らぐものだと祖母は言っていた。
 今ならそれがわかる。

 食事には作った人の思いが込められているとよく言う。
 だが調理の過程ではむしろ思いは滅却されるものではないかと私は思う。
 何も考えず、何も感じず、ただ手を動かす。
 無心に肉や魚や野菜に手を加えていると、そのうち、一人ではないというおぼろげな確信が芽生える。
 彼らが私に自らの命を捧げてくれる、だから私もそれに応えてやらねばならない。彼らの魅力を目一杯引き出してやらねばならない。

 チーズとゆでた野菜を肉で巻き、フライパンに並べていくと、それが何人分の食事なのかではなく、何回分の食事なのかということが意識される。

――全部、私のもの。

 そう、ここにあるものは、何もかも私のものだ。
 フライパンの上も、冷蔵庫の中も、食器棚の中も、風呂場の中も、トイレの中も、寝室も、クローゼットの中も、家具から家電から絨毯からカーテンから、空気に至るまで。

 ありとあらゆるここにあるものは、全部私だけのものなのだ。

 じゅう、と菜箸で肉の焼け具合を確認してから、全ての肉巻きをひっくり返した。