夏生のことを忘れたかに見える3年の歳月。

 19、20、21歳と、その時間のすべてを夏生のことを忘れるために使ってきたのかもしれない。
 かなりムキになって、必死に、そういう時間の使い方をしてきた。

 22歳になった私にはわかる。
 その3年間の努力は無駄だったと。

 なぜならば、今、私は母校の校門前にいるからだ。

――夏生のことなんて、忘れられるはずがないのだ。

 就職が無事決まり、卒業もほぼ間違いない見通しの現在、知らずと向かっていたのが、夏生と出会った体育館前の廊下だ。
 風を遮るものがなく、春には寒ささえ感じた渡り廊下。

 暦の上では秋だというのにまだ夏が残っているかのような――そう、残暑ということばが似つかわしい気候の中、一人ここへ来た。

 何のために?
 ……何のためだろう?


 やはり、亡き人を偲ぶには、墓や仏壇の前よりも、その人との思い出の場所の方がふさわしいからだろうか?