確かに、森鴎外の代表作の『鴈』の舞台はまさにつくも質店がある無縁坂だし、夏目漱石の『三四郎』の作中で三四郎と美禰子が出会った心字池は、今も東京大学本郷キャンパスの構内に残されて『三四郎池』と呼ばれているらしい。

 今度、真斗さんにお願いして案内してもらおうかなぁ。
 でも、あの不愛想具合で「やだ」って言われてしまうだろうか。その表情が想像できて、思わず笑みが漏れる。

 目の前の『文豪の石』なるものは灰色のなんの変哲もない大きな石だった。
 長細い形をしており上表面が平べったく、確かに座るのにはちょうどいいように見える。

「座ってみようよ。次のサークル誌用に、いいアイデア湧くかも」
「そうだね」

 さっきまで頭の中に湧いていた異世界の陰陽師と神様のお話は、今のところそれ以上膨らまない。

 また何か書きたいな、とは思うけれど、一貫して筋の通ったストーリーはなかなか浮かばないものだ。けれど、一旦駄目だと思ったネタでも少し経てば一気にストーリーが膨らんできたりもする。

 ──どうか、いいアイデアが湧いてきますように。

 初冬の昼下がり、近づいてくる真冬の寒さを前に風は冷たいけれど、思ったよりも日差しがあれば温かい。目を閉じると、人のさざめきと僅かな風の音、そして鳥の囀りが聞こえてきた。

「亜美ちゃん、今日は誘ってくれてありがとうね」

 何も相談なんてしていないけれど、きっと亜美ちゃんは私が創作活動で悩んでいることに気が付いている気がする。
 入学当初、学科もサークルも一緒だった私達は、よくお互いにプロットを見せ合ってはああでもない、こうでもないと盛り上がっていた。それが、今年の初めを最後に、一切なくなったのだから。

「ううん、私が行きたかったの。ご利益あるといいね。頑張ろう」

 亜美ちゃんはなんでもないように屈託なく笑う。
 笑顔が眩しくて、その優しさが身に染みる。

 いつか、自分の書いた小説でたくさんの人をこんな笑顔にできたらいいな。

 そんなことを思って、胸にじんわりと温かいものが広がる。ずっとやる気が起きなかった創作意欲が、久しぶりに回復してくるのを感じた。

「森鴎外記念館がここから近いみたいだから、ちょっと散策して帰ろうよ。まだ時間は平気だよね?」

 亜美ちゃんはスマホで時間を確認すると、顔を上げる。今日はこの後、つくも質店にアルバイトに行くことを事前に伝えていたのだ。