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 その日、私がいつものようにつくも質店に行くと、珍しく真斗さんと飯田店長が二人とも揃っていた。

「こんにちは! お二人揃っているなんて、珍しいですね」

 今日は十一月の下車にしては暖かく、私は無縁坂を登る途中で暑くなって脱いだ薄手のコートをカウンターに置く。

「こんにちは。もしかしたら、梨花さんに会えるのも今日が最後かもしれないと思ったからね」

 飯田店長は目元を緩め、目尻に深い皺が寄った。

「今日が最後?」

 私は意味がわからずに首を傾げる。

「今日で約束の五〇時間だよ。少し早いけど、二ヶ月間ご苦労様」
「え……」

 私は一瞬何を言われたのかわからず、飯田店長を見上げる。けれど、すぐにその意味を理解した。

 私がつくも質店でお手伝いを始めたのは、大切な万年筆を売ろうとして、紆余曲折を経て結果的に店長に五万円を借りたからだ。『借金がわりに五〇時間分のお手伝いをする』という約束だった。
 つまり、その五〇時間が終わったと言っているのだ。

「うそ。もう、そんなに経ちます?」
「ちょうど今日で五〇時間だね。一応、就労管理帳に記録していたから」

 座ったままの真斗さんは、お店用のパソコンを顎で指す。
 一方、私は呆然とした。

 今日でちょうど五〇時間?
 じゃあ、ここでお手伝いをするのは今日が最後?
 そんな……。何も心の準備ができていないし、お別れの品も買っていない。 

 それに──。

 私は真斗さんと、その肩に乗るフィリップを見つめた。いつもならずっとお喋りをしているフィリップは、今日は何も喋らずに小首を傾げている。

 ──こんなに急に、お別れだなんて。
 
 借金がなくなったという安堵、急な終わりへの戸惑い、もうここに来れないという寂しさ……。色々な感情がぐちゃぐちゃに入り交じって、言葉が出てこない。

「そこで提案なんだけど──」

 立ち尽くす私の顔を、飯田店長が覗き込む。

「梨花さんさえよかったら、このあともうちで働かないかな? これまでと同じ、時給一〇〇〇円で」
「え、いいんですか?」
  
 私は目を見開き、飯田店長を見返す。

「いいよ。梨花さんがいてくれると、助かる。なあ、真斗?」
「だな。俺、来年M2になるから、正直言うと院の研究が忙しい。いてくれると助かる」

 真斗さんも頷いて見せる。
 『M2』というのは修士課程(マスター)二年のことで、つまり、大学院の修士課程の最高学年だ。修士号をとるためには修士論文を書く必要がある。 

「よかったら、やってくれないかな?」

 飯田店長がにこりと笑う。私は胸がジーンと熱くなるのを感じた。

「やります。やらせて下さい!」
「よかった。じゃあ、今まではただのお手伝いの立場だったけれど、改めてよろしくね」

 飯田店長はそう言うと、目尻の皺を深くした。