「傘姫様……?」
「……っ、申し訳ありません」
慌てて手にしていたナイフとフォークを置いた傘姫は、着物の袖で涙を隠した。
先程とは比にならないくらいに次から次へと溢れる涙は傘姫の頬を濡らし続け、花は困惑せずにいられなかった。
「も、申し訳ありません。何かお口に合わないものが──!」
「いえ……っ。そういうわけではなく、お料理は大変美味でございました。それなのに、お食事中に……本当に、本当に……申し訳ありません」
肩を震わせる傘姫は、そう言うととうとう顔を隠してしまう。
吐き出される息も震えていて、花はおろおろしながら傘姫を見ていることしかできなかった。
「違うのです、これは悲しみの涙ではなく……。まさかもう一度、こうして源翁様と向かい合って食事ができるとは思わなくて……。こんなことがあるのかと、感極まってしまったのです……」
零された言葉に、花だけでなくその場にいる全員が息を呑む。
ゆっくりと着物の袖を下ろすと涙で濡れたまつ毛を伏せ、そっと微笑む傘姫は何かを思い出すように言葉を選びながら話を続けた。
「私と源翁様は……本来ならば、住む世界の違うもの同士。決して結ばれることはないと知りながらも、道ならぬ恋に落ちました」
それは、ふたりの悲しい恋の話だった。
付喪神である傘姫と、人である源翁和尚。ふたりがどのようにして出会い、心を通わせたのかはわからない。
けれど、それが決して甘いばかりの話ではないことは、今の傘姫を見ていれば伝わってきた。
「源翁様はいつも、月の美しい夜には私のそばにいてくださいました。私と出会えたことは、何物にも代えがたい宝のようだと……そう言って、私を抱き締めてくださいました」
白い月灯りの下で、寄り添うふたりの姿は不思議と容易に想像することができた。
美しい傘姫と、彼女を包み込むようにしてそばに立つ源翁和尚。
「源翁様は最期の最期まで、私を大切にしてくださったのです。私のことを心から愛していたと……。そして自分が死んだあとも、私達が出会い過ごしたこの寺を、見守り続けてほしいと私に願い、亡くなりました」
──それが、五十年前の今日に交わされた、ふたりの約束なのだろう。
そして愛する人がいなくなっても尚、傘姫が現世で生きる理由だった。
「付喪神である私は、主人の最後の願いを百年でも二百年でも叶えるために生きてゆきます。だから源翁様、どうかご安心くださいませ。あなたの愛したものが……私達が過ごしたあの場所が、この先も美しく在り続けるように、傘姫はこの身が朽ち果てるまで、守り続けると誓います」
涙を払い、今は亡き想い人を前に改めて誓いを立てる傘姫の愛の深さを目の当たりにした花の目からは、自然と涙が零れ落ちていた。
──以前、八雲が『付喪神が本懐を遂げて成仏することは滅多にない』と言っていたが、花は改めてその現実を思い知った。
百年以上を生きる付喪神は、持ち主である人と同じ時間軸は生きられない。持ち主が旅立ったあとも、傘姫は器であるものが現世に有り続ける限り、成仏することは許されないのだ。
そして今の傘姫の持ち主は源翁ではなく、源翁和尚とともに過ごした寺院の主に違いない。
ともすれば傘姫には、本懐を遂げての成仏は難しい。なぜなら傘姫の本懐とは、源翁と約束したとおり、『ふたりが出会い、過ごした寺院を見守り続けること』に違いなく、その約束には期限はないに等しいのだ。
もちろん、源翁からすれば傘姫に少しでも長く現世にいてほしいという想いもあったのだろう。それは人なら、ほとんどの人が願うことだろうと花も思う。
自分の大切な人には、少しでも長く幸せに生きてほしい。たとえ自分が現世からいなくなったとしても……。花の母も花にそう言い残して、先に常世へ旅立った。