住職さんにもう一度お礼を言って寺を出た俺は、ひとまず軍手やらのこぎりやらをうちの玄関にしまい、そのまま隣の家の門扉をくぐった。
 玄関に笹を立てかけた俺は、奥に向かって「雪乃!」と呼びかける。玄関先でしばらく待っていると、二階から雪乃が眠たそうに目をこすりながら降りてきた。
「なんだ、お前。昼間から寝てたのか?」
「うっさいな……。さっきまで勉強してたけど、あんたがなかなか来ないから、待ちくたびれて眠たくなっちゃったんじゃない」
 雪乃がぶすっとした表情で、俺をにらみつけてくる。半分以上寝ていた朝と違って意識がはっきりしているから、俺に対する内弁慶(うちべんけい)っぷりも平常運転だ。
 一緒に育ってきたせいか、この幼馴染み、俺に対しては言動から何から容赦がないんだよ。今朝みたいに、いきなり変な要求してくることもあるし。そのくせ、昔から外ではいつも俺の陰に隠れる人見知りっぷり。なんというか、なかなかなつかない生意気な家猫のようなやつなんだ。
 まあ、根は素直ないいやつなんだけどな。ただ、とことん不器用で恥ずかしがり屋で、感情をうまく表現できないってだけで……。そんで、周囲につっけんどんな態度を取ってしまうだけで……。でなければ、俺も幼馴染みという理由だけで、ここまで世話を焼いたりしない。
 それに雪乃が引きこもりなのも、ある意味では仕方がないことだったりする。
 こいつ、今でこそダメ人間だけど、中学時代までは学業において神童と呼ばれたほどの才女だったんだ。その学力たるや、あの夏希をも上回っていたほどだから、相当なもんだろう。
 そもそも夏希が俺たちとつるむようになったのだって、小六のときにテストで雪乃に挑んで返り討ちにされたことがきっかけだしな。以来、雪乃と夏希は何度もテストで勝負を繰り返したが、両者満点の引き分けを除いて、すべて雪乃の勝ちだった。
 ちなみに余談だけど、この才女、引きこもった今も勉強だけはしっかり続けていて、すでに有名国立大に入れるレベルの学力は有している。夜更かし上等な根っからの勉強フリークなんだ。趣味が勉強なんてやつ、俺はこの幼馴染み以外に知らない。夏希は微妙なレベルだが。
 そして何を隠そう、こいつは俺の家庭教師でもあったりする。家事を引き受ける報酬代わりに、勉強の面倒を見てもらっているんだ。俺が高校で平均レベルの成績を維持できているのも、こいつの指導あってこそだ。
 とまあ、そんなふうに雪乃は勉学最強だったんだけど、その才能がこいつに与えたのは、恩恵(おんけい)だけじゃなかったんだ。いや、雪乃からしたら、この才能はただ自分を苦しめるだけの厄介者でしかなかったのかもしれない。
 その兆しが現れたのは、小学六年の二学期になったころからだった。中学受験をするやつを中心として、雪乃を(ねた)む連中が少しずつ出始めたんだ。
 それまで普通に接してくれていた友人が、雪乃の才能を理由に離れていく。それどころか、ときには嫌がらせさえしてくる。
 結局、最後までこいつから離れなかったのは、俺と夏希だけだった。
 俺や夏希ができる限りフォローをしていたけど、もともと引っ込み思案な性格だ。雪乃が一握りの人間を除いて心を閉ざすまでに、そう時間はかからなかった。中二になるころには学校を休みがちになり、そこへ追い打ちをかけるような事件を経て、中三の夏から完全な不登校かつ引きこもりとなってしまった。
 こんな感じで、こいつもこいつなりに、つらい経験をしているのである。必要以上の才能に苦しむ、かわいそうな少女なのだ。
「……何? 今度は人の顔見ながら、妙に優しい笑顔なんかして。すごくキモいんだけど。キモすぎて軽く鳥肌まで立ってきたんだけど」
「お前はほんと、俺の心をえぐるようなことを平気で言うな」
 しかも、変質者でも見るような視線つきで……。てか、自分の体を抱きながら、俺から距離を取っていくな! いくら俺がお前の言動に耐性あるっていっても、さすがにちょっと泣きそうだぞ!
「ああもう、悪かったよ。ただ、お前がどんだけダメ人間として落ちぶれても、俺は見捨てねぇって、決意を新たにしてただけだ。気にしないでくれ」
「……あんた、全然人のこと言えないからね。というか、一発ぶん殴っていい?」
「そんなことより、お前に頼まれてた笹、もらってきたぞ」
 怒り顔の雪乃をスルーして、靴箱に立てかけておいた笹を指差す。
 歳のわりに小さな拳を握りしめていた雪乃も、頼んできただけあってこれは気になっていたらしい。俺への怒りを保留にし、つっかけで三和土(たたき)に下りてきた。
 同じ高さの場所に立つと、こいつの頭の天辺(てっぺん)が俺の鼻の頭くらいにくる。髪はぼさぼさだけど、それでも女の子らしい香りがして、少しドキリとした。
 そんな俺の動揺になど気づくこともなく、雪乃が笹の葉に手を触れる。その顔には、満足げなほほ笑みが宿っていた。思わずこちらまで笑顔になってしまう。
「どうだ? お気に召したか?」
「まあまあじゃない? ベランダに置くにはちょうどいいかも」
「そうかそうか。じゃあ、お礼の言葉のひとつでももらいたいもんだね。これでも俺、夏希たちの誘いを断って、こいつを取りにいってきたんだぞ」
 わざとらしく得意げに胸を張って、雪乃を見下ろす。
 べつに、本気で礼を言ってほしいわけではない。うれしそうなこいつを見ていたら、ちょっとからかいたくなったってだけだ。
 案の定、雪乃はとたんに仏頂面(ぶっちょうづら)に戻り、半眼で俺を見上げてきた。もっとも、それも束の間のことで、すぐに明後日の方を向いてしまった。
 意外だ。てっきり「うっさい!」とか言い返してくるかと思ったのだが……。
 俺が拍子抜けしていると、雪乃はくちびるをもごもごと動かし、やがて小さく口を開いた。
「その……あ、ありが……とう……」
 真っ赤な顔でくちびるをとがらせながら、か細い声でお礼の言葉を口にする雪乃。
 一方、俺はびっくり仰天。
「おおう! まさか、本当に言うとは思わなかった。明日は雪でも降るのか? 夏だぞ、今」
「……あんた、本当に一発殴られたいわけ?」
 再び拳を握りしめた雪乃が、プルプルと震え出した。
 いかんな、そろそろマジ怒りだ。さすがに、からかいすぎたか。このままだと本当に殴りかかってきそうなので、ここは素直に謝っとこう。
「すまん、すまん。なんか珍しくしおらしかったんで、ついな。喜んでもらえたなら、何よりだ。暑い中、せっせと運んできた甲斐があったってもんだ」
「あっそ! どうりで汗臭いと思った!」
 すっかりへそを曲げてしまったらしい雪乃が、地味に傷つく言葉を残し、家の奥に引っ込んでいく。そんなに汗臭いかな、俺……。こっそりとTシャツの袖のにおいを嗅いでみる。
「大和、お腹空いた! 早く晩ごはん作って!」
 奥から雪乃の不機嫌そうな大声が響いてくる。
 体が小さいせいか、俺の何倍も頭いいのに妙にガキっぽいんだよな。あと、虫の居所が悪いからか、声量がいつもの二割増しだ。
 俺は思わず笑ってしまいながら、靴を脱いで家に上がった。
「雪乃、今日の晩飯は何食いたい?」
「……オムライス」
「はいよ、了解」
 手のかかる幼馴染みの要望を聞き、俺は早速キッチンで料理に取りかかった。