「草壁さん、ハッピーバレンタインです!」
「……ちゃんと市販だろうな。不安すぎる」
「いきなりなんてこと言うんですか!?」
 2月14日。葵さんと一緒に、草壁さんと植物レストランのお客さんたちにチョコを作ろうと企画して、十五個ほどお菓子を準備した。
 そして、一番乗りでお店に来た私は、早々に草壁さんにチョコを渡したというわけだ。
 草壁さんは、私の料理レベルを知っているのでかなり不安げな瞳で手作りチョコを見ていたが、私は自信ありな顔でお菓子のプレゼンをする。
「このお店をイメージして、ミントチョコを使ったトリュフにしました! 爽やかなミント味と口溶けのいいチョコの相性が抜群なはずです!」
「たしかに、話だけ聞くと美味しそうだな」
「まあ、ほとんど葵さんに手伝ってもらいましたからね……えへへ」
 なんて言ってると、目の前で草壁さんは箱の蓋を開けて、少し不恰好なトリュフチョコを摘んだ。そして、口の中にそっと一粒運ぶ。
 私は草壁さんがチョコをもぐもぐと食べている間、合否を待つ受験生のような気持ちになっていた。こ、この沈黙、なんだか緊張してしまう……。
 結果を聞くのが怖いと思っていると、草壁さんは「美味い」と一言言い放った。
「ミントが爽やかでいいな。甘さも控えめでちょうどいい」
「ほっ、ほんとですか!?」
 私は嬉しくて思わず草壁さんに近づいて満面の笑みを浮かべてしまった。
 草壁さんは、そんな私を見て一瞬固まっていたが、ついつい嬉しくてニヤケが止まらなくなってしまう。
「草壁さんにそう言ってもらったら安心しました! 私の師匠的な存在なので……!」
「師匠」
「これで安心してみんなに配れます! よかったー!」
「俺は実験台だったのかよ」
 草壁さんの鋭いツッコミを無視して、私は紙バッグからいくつものチョコを取り出した。
 料理の師匠のOKをもらったら、もう何があっても安心してみんなに配れる。残念だけど葵さんは今日来れないと言っていたから、私はカウンターの隅にチョコを並べて、テイクフリーで持っていってもらうようにセッティングした。
 草壁さんはそんな私を見ながら、突然ぽつりと呟く。
「本命チョコも準備したのか?」
「えっ、なんですかいきなりっ」
「なんとなく」
 なんとなくって……。草壁さんから何かを質問してくるなんて珍しいから、少しドキッとする。
 もちろん、本命チョコなんてひとつも作ってない。でもそれを言ったら寂しい女だと思われそうだったので、私は見栄を張ってこう答えた。
「あ、ありますっ! 本命はこの中に!」
「思い切りテイクフリーの札がついた籠の中にか?」
「冗談ですっ、本命は別に取ってあります!」
「ふぅん」
 秒でバレるのなら、無駄な見栄なんか張らなければよかった。
 私はすぐに自分の発言を後悔し、正直な気持ちを草壁さんに打ち明ける。
「すみません、嘘です……。本命とか一切なく平等チョコです……」
「平等チョコ」
「あ! でも強いて言うなら特別なチョコはありましたよ! 草壁さんに渡したやつ!」
「え?」
 そう言うと、草壁さんは珍しく目を一瞬だけ丸く見開いた。
 私は、草壁さんが手にしているチョコを指さして、話し続ける。
「草壁さんのチョコだけ、二粒多めに入れてます! だから私の本命は草壁さんですね! なーんて……」
 冗談で言ったつもりだったけど、草壁さんがそのまま沈黙してしまったので、話してる途中からなんだか照れ臭くなってしまった。
 草壁さんのチョコを多くしたのは、いつもお世話になってるからということ以外に深い意味はないし……。うん。
 気まずくなった私は話題を逸らそうと、今朝会社で見かけた出来事について早口で問いかけた。
「そ、そういえば女性社員が朝から草壁さんのデスクに列作ってましたけど、本命チョコいくつもらったんですか?」
「あれは部署ごとのしきたりみたいなものなのか? 美味しいものをもらえるのは素直に嬉しいが、毎年大変そうだし誰かが断ち切った方がいいんじゃないか」
 いや、うちの会社にそんなしきたりはないので、草壁さんのは恐らくシンプル本命チョコです……と心の中で突っ込みながら、私は苦笑いする。
 そうこうしているうちに、草壁さんは私があげたチョコをもうひとつ口に運んだ。
 なぜこの人は、チョコを食べているだけでこんなにも絵力があるんだ……。
 思わずその様子をじっと見ていると、草壁さんが急にカウンターに手を置いて、身を乗り出してきた。
 目の前に突然草壁さんの美しい顔が迫って、私が言葉を失っているうちに、草壁さんはひとこと言い放つ。
「俺の本命は花井だけだ」
「え……」
「本命チョコの数の話。これ、せっかくだから本気にして受け取っとくよ」
 そう言って、余裕のある笑みを浮かべている草壁さんは、どう考えても確信犯だ。
 案の定、草壁さんの突然の甘いセリフに振り回されてしまった私の顔は、分かりやすく赤く染まっていることだろう。
「……さて、そろそろ今日も開店とするか」
 まに受けてしまっている私の気持ちも知らずに、草壁さんはさっと表情を切り替えて、エプロンを腰にシュルッと巻いた。
 私も慌てて椅子から立ち上がり、仕事モードへ切り替えようとする。
「は! そ、そうですね、もうそんな時間! 今日は何を作るんですか?」
「バレンタインだから、ひとまずデザート用のガトーショコラでも作るか」
「草壁さんのケーキ、めっちゃ食べたいです!」
「はは、花井はほんと食欲旺盛だな」
 今度は、子供みたいな笑顔を見せてくれる草壁さん。
 さっきの大人っぽい笑みを浮かべる彼にも、今の彼にも、どちらにも同じくらいドキッとしてしまう。
 もし、草壁さんはただの上司、という壁を自分の中で壊したら、私はいったいどうなってしまうんだろう……?
「うーん……?」
 一瞬思考が停止したので、私は考えることをやめた。
 そんなことよりも、今日は草壁さんと作った料理を美味しく食べたい!
 ここに来たときだけは、難しいことは全部忘れていいのだから。
 私はさっと髪の毛を縛り、カウンターの中へと入って、料理の手伝いを始める。
「草壁さん、今日もたくさんお客さん来てくれるといいですねっ」
「……そうだな」
 呑気な笑顔を浮かべる私をみて、草壁さんは静かに口角を上げる。
 今はただ、この距離感が心地よくて、私はとても幸せなのだ。

 お互いに、もっと近づきたいと思っていることに気付くのは、あともう少しだけ先のお話。
 

end