郡司はハハハと笑いながら廊下を走っていく。
 藍ちゃんはりんごみたいに顔を真っ赤にしていて、いつもの藍ちゃんじゃない。
 気づいたら教室には僕と藍ちゃんしか残ってなくて、さすがの僕でも察してしまった。
 夕日が差し込む教室で、なんとも言えない甘酸っぱい空気が流れていく。
 どうしよう。困った。
 僕の心の中はそんな感情でいっぱいだった。
 中学に入ってから、数人に告られることがあったが、正直恋愛感情というものがまったく分からない。
 可愛いとか、かっこいいとか感じるときはあるけれど、でもそれは『僕もあんな風になりたい』という憧れに近くて。
 異性への意識とか、中学生なら誰しもあるらしい感情が僕には欠落していて、藍ちゃんに対してもそうだった。
 だからしょっちゅう『かわいい』なんて平気で言えたし、髪の毛だって無防備に撫でたり触ったりしてきた。
 もし今から告白されるのだとしたら、完全に僕が思わせぶりな態度を取ってしまったせいだ。
 嫌だ。僕はもう、誰のことも傷つけたくない。
 だって、告白を断るたびに女の子は悲しそうに泣くから。
「あのね、葵、私……」
「今日の髪形、すごくいいね」
「え? あ、ありがと……」
 藍ちゃんは、肩の長さのボブをくるんと内巻きにしていて、ほんのりリップも塗っている。
 その全部が僕のためだけに準備したことなら、より一層切ない。
 だから、傷つけたくないんだ。
 ごめん、藍ちゃん、僕はその気持ちには答えられないよ。
「藍ちゃんとは、本当にファッションの趣味合うね。そんな友達がいて嬉しい」
「葵、聞いてほしいの。私ね、ずっと葵のことが」
「ごめん、聞けない」
「え……?」
 ビー玉みたいにきれいな瞳が、悲しい色に染まっていくのを見て、胸が張り裂けそうになる。
「藍ちゃんのこと、傷つけたくない。だから、その話は聞けない」
「それって……」
「ごめん。僕、恋愛の意味で好きな人も、好きになれそうな人も、出会えたことないんだ」
 それだけ言って、教室をあとにした。
 ごめんって、胸の中で何百回も唱えた。
 テニスコートに出て、外周を走るウォーミングアップをしていると、めずらしく暗い顔で郡司が近づいてきた。
「……なあ、さっきの告白、どうしたわけ?」
「え? 告白なんてされてないよ」
「え! そうなの? なんだ」