タクシーに乗っている間、私は葵さんとの会話を思い出していた。
 あのとき私は、仕事も恋愛もダメダメで、心がいつもどこか遠くを彷徨っていたんだ。
『色んな自分があって素敵だって、言ってくれた』
『え……』
『ありがとう。菜乃ちゃん』
 あのときの葵さんの笑顔は、まるで太陽のようだった。
 誰かに心からお礼を言われることが、あんなにも嬉しいなんて忘れていた。
 そうだ。あの日から、少しずつ自分の心を取り戻していけるような気がしたんだ。
 葵さんの言葉のお陰で。葵さんの笑顔のお陰で。
 それなのに、どうして世間はこんなにも厳しいのだろう。
 自分の味方だったファンの子たちから『だまされた気分です』と言われている葵さんは、きっと今、世界にひとりぼっちでいるみたいな気持ちになっているだろう。
 ……そんなの絶対、許せないよ。
 だって私、知ってる。ひとりぼっちでいることが、どんなに寂しいことか。
 しばらく思い出していなかった幼少期の記憶が脳を掠め、ずきっと痛みが走る。
 そのとき、ちょうどタクシーが公園の近くに辿りついた。
 屋根付きのベンチに、人影がぼんやりと見える。
 お金を払って、タクシーが走り去っていくのを見届けてから、私はゆっくりとその陰に近づいた。
 目深にかぶったキャップに、黒の大きめのTシャツに、地味な色のスニーカー。気配を消すようなファッションの葵さんを、初めて見た。
「葵さん」
 私が呼びかけると、葵さんは、帽子を少しだけあげて、目を丸くした。
「本当に来ると思わなかった」
「行きますって、言ったじゃないですか」
「はは、そうだけどさ……」
 ウィッグもつけていない、Tシャツ姿の葵さんは、まるで少年みたいだ。
 隣の席に座って、私たちは暫し沈黙する。
 目の前に広がる池を見つめてから、私はゆっくりバッグの中からお弁当箱を取り出す。
「とりあえず、食べてください!」
「……え? なにこれ」
 困惑した表情を浮かべる葵さんに、私はお弁当箱を差しだす。
「大葉味噌おにぎりです! 人間、お腹が減ってるとろくなこと考えないんですから、まずは食べてください」
 いつかの草壁さんの言葉をそのまま葵さんに伝える。
 最初は戸惑っていた葵さんだが、おそるおそるおにぎりに手を差し伸べて、パクリとひとくち食べた。