「色んな自分があって素敵だって、言ってくれた」
「え……」
「ありがとう。菜乃ちゃん」
 そのときの葵さんは、可愛いや美しいという言葉よりも、かっこいいという言葉がしっくりきた。
 ……そういえば、こんな風に面と向かって誰かに感謝をされたのはいつぶりだろう。
 枯れていた心に、突然優しい雨が降り注ぐような、そんな温かい気持ちになった。嬉しかった。すごく単純な言葉で涙腺が緩んでしまうなんて、私はいったい今までどれだけ限界の毎日を送っていたのだろう。
 あの店にいなければ、私はきっと、葵さんのように素敵な人とは出会えなかった。
 こんな風にまっすぐにお礼を言われるなんてこと、体験できなかった。
 あのとき、草壁さんに声をかけてもらわなかったら、私は今日も飲みたくない宴会に参加して、安いお酒に眠らされて、仕事で浴びせられた言葉を思い出してうなされてたかもしれないんだ。
 そう思うと、私もなにかあの店に恩返しをしたくなってくる。
 ……ううん。というよりも、葵さんみたいな、あの店を心のよりどころにしているお客さんのために、私もなにか役に立ってみたい。
 草壁さんのそばで、色んな風景を……生き方を見てみたい。
 慌てて一気飲みした缶チューハイが今さら効いてきたのだろうか。
 葵さんの優しい笑顔を見ていたら、がらにもなくそんなことを思ってしまった。



「……遅かったな。なにかあったかと思って心配すんだろ」
 お店に戻ると、ドアを開けた瞬間草壁さんが顔をあげた。
 焦っている様子の草壁さんを初めて見た。
 たしかに、よーく見ていると、意外と表情にレパートリーがあるのかもしれない。
 そんな余計なことを考えながら、私は「待たせてすみません」と謝りながらバターを渡した。
 カウンターに座った葵さんは、棚に置いてあったウィスキーで勝手にハイボールを作りはじめている。
「菜乃ちゃんは? 飲む? ここ、お酒は自分で作って自分で伝票に書く制度だから」
「なんと……。ギリギリの人件費ですね」
「そうそう、たまに皿洗いも手伝うときあるからねー」
 驚きながら自分のグラスに氷を入れると、葵さんはそんな私を見てなにか思い立ったように、急にパチンと指を鳴らした。
「あっ、そうだ、いいこと思いついた。爽君、菜乃ちゃんバイトに雇ったら?」
「ええっ」
 思ってもみない提案に、私は驚き目を丸くした。