まずい。意識が朦朧としてきた。
 家まであともう少しなのに、私の足は弱った子鹿のようにふらふらと地面をさまようばかりで、まっすぐ歩くことができない。
 三軒茶屋駅ならどこでもタクシーを拾えそうだが、いかんせんここは環七通りから外れた住宅街だ。小さなお店が密集した三角地帯も通り過ぎた。
「い、家まであともう少しなのに……」
 よく考えたら、終電に間にあわせるためにバタバタと会社を出たせいで、財布をランチ用のミニバッグに入れたまま、デスクに忘れてきた。
 つまり、今の私にはタクシー代を払うお金すらないのだ。
「ぜ、絶望的だ……」
 この閑静な路地裏で倒れたら、いったい誰が気づいてくれるだろう。しかも時刻は深夜の一時だ。
 ダメだ。もう立っていられない。
 いよいよ電柱に寄りかかったそのとき、背後から微かに人の気配を感じ取った。
 その人影は、一度私の前を通り過ぎてから、再び私に近づいてきた。
「ただの酔っ払いかと思ったけど、違うみたいだな」
「え……?」
「どうした、花井(ハナイ)」
なぜこの人は私の名前を知っているんだろう……?
 うつろな目を凝らすと、その人物の輪郭が徐々にはっきりとしてきた。
 パリッとした白シャツが、恐ろしくきれいな体型によくフィットしている。
 伸ばされた手は大きくて頼もしそうで、思わずその手を取りそうになった。
 ようやくゆっくり顔を上げてその人の目を見つめると、私はその場に固まってしまった。
「く、草壁さん……⁉︎ いやそんなまさか……」
 その人の顔を見て、私は衝撃で一気に目を覚ました。
 目の前には、エリートSEとして有名な、同じ会社に勤める上司がいたのだ。
 ありえない。エリートすぎて企画営業部の落ちこぼれである私ごときが話しかけていい人ではない。そもそも業種が違いすぎるので仕事で話す機会もないけれど。
 しかも、草壁さんは超冷徹人間としても名高く、こんな方に、助けを求められるわけがなかった。
 だけどもう、限界だ……。
「花井、こんな目の前で倒れられたら夢見が悪すぎる。病院向かいたいならタクシーか救急車を呼……」
 病院という言葉を聞いて、私は草壁さんの言葉を遮って呻き声を上げた。
「させ……て……た……」
「え? なんて言った今」
「なにか食べさせて……ください……。お腹が空きました……」