「待ってろよ、今、美味いものを作ってやるからな」
 子供を家につれて帰って、最初にしたのは夕食を作ることだ。
 子供は誰かに食事を作ってもらったこともなければ、自分のために用意される料理を見たこともないと言って、覗きこんできた。その表情は年齢相応に可愛い。

「なになに、お兄さん、男のくせに料理なんかするの?」
「男のくせにとはなんだ、今は男女平等だぞ」
「なにそれ、どうでもいいよ、それよりなに作るの、ちゃんと食べれる?」
「食えるさ」
「ふうん」
 自信満々にフライパンを振るったが、草薙だって特別料理が上手いというわけではない。一人暮らしなので、多少は自炊もするという程度だ。したがって出来はそう良くないが、自分で食べても、吐き出すほど不味くはない。まあまあ食える範囲のシロモノだろう。
 妙な自信を持って、出来上がった料理を食卓に並べた。といっても、ただのチャーハンとワカメスープ、それに出来合いのマカロニサラダだけだ。だが子供は、目を丸くしてそれらを見つめ、食べていいんだぞと告げると、驚くほどガツガツと食べた。
「おいおい、もっとゆっくり味わって食えよ、チャーハンは逃げないぞ」
「なに言ってんの、味わうほどの出来じゃないよ」
「あ、言ったな! これでも自信作なんだぞ」
「これが自信作なの? お兄さん食生活貧しいね、可哀想に」
「あ、のな!」
 少しムッとしたが、それ以上の反論は止めた。それは子供の表情が外で見ていた時よりずっと和らいでいたからだ。生意気な口も憎まれ口にしか聞えないし、なにより夢中でチャーハンを頬張る様子が微笑ましい。大人びた口を利き、世界の裏も表も知り尽くたかのような、したり顔をしているより、それはずっと好ましく感じられた。
 今なら答えてくれるかもしれない……なんとなくそう思え、草薙は夕食を食べ終えた子供に、もう一度、名前を聞いてみた。
「もうそろそろいいだろ? 名前を教えてくれないか?」
 だが、その途端、彼の表情は一変する。誰も信じていない、誰にも心を許さない、その決意を秘めた完璧な無表情だ。
「契約違反です、なにも聞かないといいませんでしたか?」
「でもほら、名前がないと、話し辛いじゃないか」
「それならフォックスと呼んでください、それでいいです」
「そうはいかないよ、なんか呼び難いだろ」
 なにか他に名前はないのかと訊ねると、子供は目を閉じて暫く黙り込んだ。そして自分の中でなにか結論が出たのか、観念したのか、ゆっくりと瞼を開く。
「……ゼノです」
「ぜの?」
 本名なのかなと戸惑いながら、オウム返しに聞き返したが、彼は小さく頷くだけで多くは語らなかった。

「オーケー、わかった、いいよ、ゼノだね、じゃあゼノ、これからもよろしく」
 改めて頭を下げ、握手を求めると、ゼノは少し驚いて嫌そうに眉を顰めた。それに構わず右手を押し付ける。すると草薙の勢いに呆れたのか、ゼノは苦笑し、右手を差し出した。
 ほんの一瞬、触れ合った掌は、とても冷たかった。

 ***

 小説一本で食べていくほどの大作家でもなかった草薙は、物書きとは別に、普通の仕事も入れていた。書く時間を優先させたいので、それほどハードな仕事は出来ないが、軽いデスクワークや軽作業ならできる。目下の仕事は本屋の店員だ。軽そうに見える本も、束になれば結構重い。見た目よりはきつい仕事だったが、一日中本の見える環境というのも楽しい、そこは気に入っていた。

「ただいま……」

 一日の仕事終えて家に帰ったとき、ゼノはだいたい不在だった。
 雑事を終えて帰れば、帰宅時間は夜九時を回ることも多い。普通の子供ならその時間は家にいて、保護者の帰りを待っているものだ。早い家ならそろそろ寝入っている時間だろう。しかしゼノはいたためしがない。草薙が戻る時間が早くても遅くても、彼はいない。

 あまり帰りが遅いので、最初の日は心配で、アパートの前でうろうろと途方に暮れながら待ち続けた。
 戻って来たゼノは、心配して佇む草薙を見つけると、バツの悪そうな表情で目を伏せた。
「待ってなくていいのに……風邪、ひきますよ」
 草薙と目を合わせないようにか、俯いたまま歩いてきたゼノは、小声でそう呟いた。言葉は冷たいが、仄かな温かみを感じて、心がほっとなる。殊更に無関心を装い、部屋に入っていくゼノを、どこか浮き浮きとした心地で追いかけた。

「お帰り、どこ行ってたんだい?」
「それを言わなきゃならない理由はないですよね?」
 行き先を訊ねると、ゼノは途端に無愛想になった。手にした小さなクラッチバッグを長椅子に投げ捨て、そのままどっかと腰を下ろす様は、まるで年季の入ったヤクザかなにかのようだ。年齢のわりに貫禄があり過ぎる。
「いや、理由はないけどさ……」
 呟きつつ、ゼノの様子を確かめると、頬骨のあたりに殴られたような痕があった。よく見ると、朝にはきれいだった服も薄汚れていて、所々切れかけている。また揉め事かと思えば、心も暗くなる。
「ないなら詮索しないでください、僕が何をしていようと、どこに行こうと、あなたには関係ない話だ、遅く戻るのが不愉快だというなら、出て行きますよ」
「そうは言ってないよ、ただ心配するだろ、そんなに汚れて、怪我までしてる」
「たいしたことないですよ、子供の痣なんてありふれたモノだ」
 そりゃ、相手が本当に子供ならなと、草薙も頭の中で嘯いた。
 もちろんゼノだって子供だし、どこが他の子と違うのかと聞かれれば困るが、誰が見ても違うということだけはわかる。だがそこを指摘して、お前は普通の子供じゃないだろと言うことは、さすがに出来なかった。
 そんなことをしたら、自分は他の大人たちと同じになる。
 ゼノを信じず、偏見を持った目で見て、彼は異常だ、普通じゃないと追い詰める大人。おそらくそれは彼の敵だ。そちら側へ分類されたらもう二度と、彼は心を許さなくなるだろう。
 今だって気を許しているとまでは行っていないかもしれないが、彼を疑うことで、状況はずっと悪くなる。
 少なくとも彼は今、自分を信じ、ここに戻ってきてくれるのだ。ようやく得たその信頼だけは壊したくない。
 だから、彼が心を開き、全てを話してくれる気になるまで、気長に待つべきだと考え、その日も、追求はやめた。

 ***

「どうだ、狐坊主の様子は?」
「重田さん……」
 子供と同居を始めて二週間、重田は毎日意味ありげな目をしていたが、その日、とうとう様子を訊ねて来た。しかし、その言い方がいただけない。
「狐って、その言い方はやめてくださいよ、あの子はそんな名じゃありませんよ」
 狐なんて、それではまるであの子がFOX事件に関わりがあるかのように聞えるではないか。

──あり得ない話ではない。

 ふと、そんな思いが過るが、それはあり得ないと首を振る。あんな小さな子に連続殺人など、物理的に無理だろう。
「じゃあなんだ、あいつが自分でそう言ったんだぞ、それとも、本名を名乗ったか?」
「本名じゃないとは思いますけど、ゼノだって」
「ゼノ? なんだそりゃ、何人だよ、偽名に決まってんじゃねえか」
「だから、本名じゃないと思うって言ってるじゃないですか」
「狐ってのも、馬鹿にしてるが、ゼノね、まったく、人を喰うにもほどがあるな、ますます怪しい」
「そんな……」
 ゼノ=狐=FOXだ。
 重田はそう言いたげだった。しかし口に出してそうと言うには相手が子供過ぎる。ゼノはまだ小さい、ほんの子供なのだ、どこからどう見ても、ごく普通の……。

 普通の?

 アレが普通か?

 普通なんかじゃない、あの子供は普通じゃない。ではなんだと聞かれれば答えようもないが、あれはただの子供ではない。あれはまるで……。
「違う!」
「なんだ、どうした?」
 心の声を否定するため、草薙は叫んだ。突然大声を出す草薙を見て、重田も首を傾げる。
「すみません、なんでも……」
 自分が保護している子供を疑うなんてどうかしてる。草薙は項垂れた。だが重田は、さもありなんという顔で、草薙の肩を叩く。
「なにがなんでもないだ、あのガキのことだろ、お前にもわかるんだ、あいつは普通じゃないってな」
「そんなことないですよ! あの子はただちょっと捻くれただけの子供です、なんで重田さんはあの子のことをそんなふうに言うんです? なにか理由でもあるんですか?」
 実はあるのかもしれない。半分そう思いながら聞くと、重田はそんなに言うなら、面白いモノを見せてやろうかと懐に手を入れた。
 ほらと言って差し出されたのは、一枚の写真だ。若い夫婦らしき男女が写っている。
 撮影されたのは室内、おそらく夫婦の住む家の一室だろう。手前に卓袱台があり、夫婦は仲良さそうに寄り添って写っている。
 背後には大きな窓があり、窓の向こうには、少し荒れた感じの木々や空など、外の風景が見える。夫は自信に満ちた表情でカメラを見つめていた。その手は力強く妻の肩を抱き、妻も微笑んでいる。
「これが?」
 そのなんの変哲もない写真をチラリと見て、訊ね返した。すると重田は、もっとよく見ろと写真の片隅を指差す。そこには部屋に置いてある三面鏡が映り込んでいる。
「ほらここ、よく見ると、この鏡部分に、子供が写ってるだろ」
「ああ……そういえば」
 鏡に映り込んで見える小さな影は、ピントがブレているのでよくはわからない。子供かどうかさえ怪しい。その前に、本当に人間か? なにかの影が、人らしく見えているだけなのではないかとさえ、見える。
 だが訝しがる草薙とは裏腹に、重田は熱心に話した。

「これは、この前話した事件の最初の犠牲者と思われる夫婦だ」
「ああ、金子巡査が発見したとかいうやつですね」
「ああ、写真は夫婦が殺される直前、つまり今から五年前に撮られた、で、ここに映ってる子供、ナニモノだと思う?」
「何者って……二人の子供、では?」
「違うね、夫婦には子供がいなかった、少なくとも、戸籍上はな」
「戸籍上……え? まさか」
 その可能性に気づき、息を飲む草薙に、重田はそうさと大きく頷く。そしてもう一度、その写真を見せつけながら聞き返してきた。
「子供のない夫婦を映した写真に子供が映ってる、そいつは誰だ?」
「誰……」
「子供はいたんだ、だが何らかの理由で隠されていた、とは思わないか?」
「それは……」
 重田は声を潜め、若い夫婦には、子供がいて、その子供は出生届けも出されずに、世間から隠されて育ったのではないかと囁く。それはただの憶測だが、それが本当なら痛ましい。
 しかし……。
「でも、だとしたら、夫婦が死んだとき、この子はどうなったんです? その前に死んでたとしても、遺体が出るはずでしょう?」
「死んでなかったとしたら?」
「え……いや、生きてても死んでても、そこにいれば見つかるでしょう?」
「いなかったとしたら?」
「どういう意味です? なにが言いたいんですか」
 重田は、若夫婦を殺したのはその子供なんじゃないのか、もしくは、子供は両親が殺されるところを見ていたのではないのか……そして、親の死を確認した後、自身で家から出て行ったのかもしれないと話した。
 理屈としてはありだろうが、いささか話が飛躍し過ぎだ。それに、本当にそんな子供がいたのかさえ怪しい。草薙はあり得ませんよと写真を突き返した。

「あり得ねえか……まああり得ねえよな、けどな草薙、もう一度よく見てみろ、ここに映ってる子供、今お前んとこにいるガキ、ゼノに似てると思わねえか?」

「え……?」
 重田に指摘され、もう一度写真の隅に写る子供らしき人影を見つめた。そう言われてみれば、似て見える。しかし写真はピントが合っていない上、ぼけていて本当に人間かどうかさえ怪しい。本人だと言われれば、そうとも見えるが、それもおかしい。
「重田さんは、あの子がこの写真の子供、殺害された若夫婦の子だと言うんですか?」
 だが、その写真は五年前のモノだ、その中にいる子供が、今も同じ姿であるとは考え難い。それではあの子が歳をとっていないことになる。
 
――刑事さんは僕が鬼か悪魔とでも?

 突然、あの日、ゼノが言ったセリフが頭の中で再生された。
 まさかあの子は、本当に歳をとらないのか?
 鬼か悪魔か、それとも幽霊……?

「あり得ません!」
 草薙は、自分の中に湧き出た疑問に自ら嫌悪し、語尾を強めた。あの子はちょっと変わっているだけの、可哀想な子供だ。頭の中でそれだけを繰り返し、重田に食ってかかる。
「そんなありもしないネタに拘ってるから、事件が迷宮入りになったんじゃないんですか? もっと現実的に考えるべきだ」
「わあってんよ! けど俺はもうずっとこの事件を追ってんだぞ、やりつくしたわ!」
「それは五年前の話でしょ、それも独断の単独捜査だった、もう一度、冷静な目で調べれば、なにか違うモノも見えてくるかもしれない、そうじゃないですか?」
 半ばヤケクソで言い返すと、重田もその勢いに押され、口を閉じた。だから草薙も、それで話を終わりにしようとした。だがそこで重田は急に顔を上げる。
「わかった、お前がそう言うなら、今から現場へ行こうじゃないか!」
「え? ぇえ?」

 ***

 五年前、重田の所属する高輪警察署管内で、事件はおきた。
 当時重田は、殺された金子の無念を思いながら、単独無断で、何度も、若い夫婦の殺人事件現場へ足を運んだという。そこで見つけたのが、さきほど草薙にも見せた一枚の写真だ。何度目かに現場へ足を向けたとき、箪笥と壁の隙間に落ちていたのを失敬して来たらしい。

「それ、違反じゃないですか? なにか見つけたら、捜査本部へ渡すのがルールなんじゃ?」
 重田に連れられ、現場へ向かう車内で、草薙はやり過ぎですよと諭した。だが当の重田は意にも介さない。
「煩いな、その頃はもう本部もこの件は頭にもなかったんだよ、他に凶悪事件が相次いでたからな」
「だからってネコババは……」
 よくないですよと言いかける草薙に、重田は固いこと言うなと開き直り、ようやく辿り着いた夫婦の惨殺現場へと足を踏み入れた。
 殺人事件があった貸家など、誰も借りようとはしない。まして昭和の時代に建てられた古い平屋だ、借り手などつかないし、取り壊すにも金がかかるので捨て措かれてある。
 放りっぱなしで荒れ放題の現場へ、重田はズカズカと入り込んで行く。草薙も慌てて後を追った。
「いいんですか、勝手に入って」
「気にすんな、どうせ誰も見てねえよ」
「そうですけど、家主の許可とか……」
「してられるか、こんなボロ屋、早くしなけりゃ壊れちまう」
「まあ……そう、でしょうね」
 荒れ果てた室内を見回しながら、草薙も納得した。不良少年のたまり場にされているらしく、あちこちに空き缶やコンビニ菓子、カップ麺の食べかすなどがあり、畳や壁にはスプレーやマジックで書かれた落書きだらけだ。これでは今更証拠など出てこないだろう。
 しかし重田はかなり本気のようだ。両手に手袋を嵌め、残された箪笥や押入れを開け始める。仕方なく、草薙もあたりを探った。だがさすがに事件後五年もたてば、なにも出てくるはずがない。全ては当時の警察が持ち出した後だ。見つけられるのは最近この貸家に出入りしているらしい不良少年たちの置き土産ばかりだった。
 これは収穫ゼロだなと諦めかける頃、押入れの奥を漁っていた重田が、ちょっと来いと声を上げた。
「どうしたんですか?」
 何気なく覗きこむと、重田は、押入れの床板を引き剥がしていた。なにもそこまでしなくてもと思ったが、よく見ると、その下には、丸い、クッキーの空き缶があった。
 今はあまり見なくなったが、昔ならどこの家でも客用にとおいてあった、高級そうなクッキーの缶だ。湿気のせいか、年月のせいか、錆び付いて、あちこち穴が空き、ボロボロになっている。
 両手で掴み、取り出すと、ぽろぽろと赤錆が落ちた。重田は、取り出した空き缶を床の上におき、そっとその蓋を開ける。中には、十数枚の写真が入っていた。
 それは保管されているというよりは、見たくないから捨てたという感じで、薄汚れ、所々破けて、水滴や埃に塗れていた。

「重田さん、これ……」
「ああ」
 その写真を見て、言葉を失った。そこにはゼノ……ゼノと思しき子供が写っていた。
 生まれたばかりの赤子のゼノ。二歳くらいのゼノ。五歳くらいのゼノ。そして小学校へ入学する頃と思われる年齢のゼノ。
 写真の中のゼノは、徐々に痩せて不健康になっている。写真越しでも確認出来る傷や、痣もたくさんあった。一際大きく目立つのは、左腕にある大きく変色した痣だ。
 今も彼の腕に同じ痣がある。となると、やはりこれはゼノなのか? しかし、どの写真も、薄汚れ、滲んでいて、はっきりとは判別出来ない。ただそう見えるだけかもしれない。
 草薙は、その写真の子供を、ゼノではないと思い込もうとしていた。
 これは五年前の写真だ、彼であるはずがない。

 カタン……。

 その時、誰かが部屋に入ってくる気配がして、重田と草薙は慌てて身を隠した。
 ギィイッと、外れかけたドアが開く音がし、薄い板張りの床を踏む音が続く。あきらかに人の気配だ。
 そいつは何かを確かめるようにゆっくりと侵入してくる。その足音は軽く、かなり小柄な人間、もしくは子供ではないかと思えた。
 やがて短い板床をひたひたと歩く足音はやみ、湿った畳を擦るような音がしてくる。ペタペタと響く足音は、靴も靴下も履いていない、素足を想像させた。今、隣の部屋だ。ゆっくりと、確実に、草薙たちのいる部屋へと近づいて来る。
 息を潜め待ち構えていると、そいつは躊躇うことなく、その部屋へと入って来た。
 誰だろうかと思ったが、相手から姿が見られないように、こっそり伺っていたため、足元しか見えない。やはり裸足だ。しかも、小さい。
 子供? ……まさか、ゼノか? 咄嗟に視線を上げた。
「ぁ」
 思わず出かけた声を、草薙は慌てて飲み込んだ。
 入って来たのは、まさしく今まで、半信半疑で疑っていたゼノだ。目の前を平然と通り過ぎていく。

 なぜゼノがここにいるのだ?
 まさか本当に事件と関係があるのか?
 あの写真の子供はゼノなのか?

 ゼノは草薙に気づかず、押入れの横の壁に凭れるように座り込んだ。片膝を抱え、その膝に顔を埋めて俯く様子は、ひどく疲れているようにみえる。
 俯いたゼノは、羽虫の羽ばたきほどの小さな声でなにか呟いていた。その声は、「声」と言うより「音」で、煙りや空気の流れに音があるとしたらこんな感じだろうと思われる。
 なんといっているのか気になるが、小さすぎて聞き取れない。
 焦れた草薙が身を乗り出そうとしたとき、ゼノは突然顔をあげ、押し入れの中を覗き見た。そして床板が剥がされているのを見つけると、驚きの表情で中を確認する。
 写真はボロけたクッキー缶と共に、反対側に隠れている重田が持っている。そこにはなにもない。それに気づいたゼノは瞳を見開いて呆然としていた。口を固く結び佇む姿は、大事にしていた宝物を理不尽に奪われ壊された小さな子供のようで、胸が痛む。
 思わず、ごめん、写真はここにあるよと言いかけるが、重田がそれを止めた。もう少し様子を見たいらしい。
 様子を見たら、すぐ返してやってくださいよ。心の中でそう呟いて、草薙も黙る。
 あとから考えれば、そのときすぐ、なにをしているんだと声をかければよかったのだが、ついかけそびれた。その隙にゼノは、床下から何かをひっつかみ、踵を返した。来たときと違い、恐ろしく素早い。外敵に気づいた獣が逃げ去るときのようだ。
 ゼノの豹変に気を取られ動けなかった草薙は、同じく唖然とする重田と共にそれを見送った。そして数秒もたってから、慌てて動き出す。

「ゼノ!」
「待てっ、小僧!」

 どたどたと足音も荒く、二人は外へと飛び出した。
 だが、明るく、日差し溢れる小さな庭に、ゼノの姿はなかった。

 貸家の外には車一台がようやく止まれる程度の狭い庭があり、庭は細い市道に繋がっている。舗装もされていない土埃の舞う市道は、ひと目で見渡せる直線道路だ。
 道の片側は、似たような古い貸家が並んでいるが、どれも道から少し引っ込んでいて、隠れる隙間はない。念のため一軒一軒中を覗いてみたが、姿は見えなかった。反対側は、人も立ち入りたくないだろう、草茫々の雑木林だ。そこに潜んでいるとしか考えられないが、耳を済ませても、足音一つしなかった。
 
「チックショー!」

 二人が呆然と佇む砂利道の端には小さな雑草が白い花をつけ、音もなく風に揺れていた。