訊ねられ、なんと答えていいのか迷った。考えてみれば、自分はこの子の名前も聞いていない。それどころか、声を聞いたのも初めてだ。答えに詰まる草薙とその子を交互に見つめ、重田はふんと鼻を鳴らした。
「なるほどな、このガキか、お前の肋骨の原因は」
「あ……」
 草薙も思わず口ごもる。重田は胡散臭そうに表情を歪め、まるで大人に対するようにその子を睨んだ。
「答えんでいい、見りゃわかる、なかなかいい面構えだ」
 チンピラに絡まれている子供を助けようとしたという話はしたが、年恰好までは話していない。それなのにそうと察したらしい。さすが元刑事だなと舌を巻く。
「で、お前さん、なにもんだ?」
「あなたに答えなきゃならない義務はないと思います」
 子供の言葉遣いは元の余所余所しい敬語調に戻った。顔つきも、さっきより全然おとなしい。少し大人びているだけの小学生に見えるが、重田はなにか感じたらしい、ニヤリと笑い、子供の前に立つ。
「おお、言うね、義務はあんだよ」
 重田はその子に、自分たちは刑事だと話した。驚いた草薙が、嘘はだめですよと言いかけるが、重田に遮られる。どうやらなにか考えがあるらしい。仕方なく黙った。
 刑事だという言葉に、子供は驚かなかったようだ。だが気のせいか、その目には二人への蔑みが見える。
「警察ですか」
「そう、おまわりさんだ、嘘はダメだぞ、お前、家出少年だろ?」
「ハズレ、違います」
 その一言で、それまでほとんど表情を崩さなかった子供も、意表を突かれたように表情を崩し、笑った。子供らしいとは言わないが、その子が笑うのを初めて見た草薙は、意外に普通な部分もあるんだなと、妙に感心しながら、話しかける。
「あれからどうしたんだい? 怪我は? しなかった?」
「別に……」
「でも血が出てただろ?」
「擦り傷ですよ、子供の擦り傷なんて、珍しくもないでしょう?」
「ああ、まあ、そうだけどさ……」
 子供の遊びは危険に満ちている。小学生くらいなら、ちょっとした打ち身や擦り傷は日常茶飯事かもしれない。だがアレは違う。相手は大人だ。自分が駆けつけなければ、あのまま殺されていたかもしれない。言葉どおりに見過ごせない。
 だいたいあの時間あんな所でなにをしていたんだ? こんな小さな子供が大人相手にトラブルなんて、絶対事件性ありだろう。そう考えると、事情を聞きたくなるが、なんと聞いていいのか思い浮かばない。草薙が戸惑っていると、重田が先に口を開いた。
「おいおい、助けてくれた恩人にその態度はないだろう? その節はありがとうございましたくらい言えないのか?」
「助けられた覚えはないですね、だいたいこの人が来なければ、連中も二、三発殴って終了だったんだ、こっちとしてもいい迷惑なんですよ」
「ほう……ヤクザと揉め事とは穏やかじゃないな、小僧、名前は?」
「聞いてどうするんです?」
「いいから名乗れ」
 十二歳かそこらの子供に、重田は強い口調で名前を言えと迫った。普通の子供なら、その迫力と怖い顔に怯え、泣きべそになるところだ。だがその子は違っていた。早く言えと挑戦的に訊ねる重田を、濁った目で見返すだけだ。
 子供が喋らないので、重田はその子の目の前まで近づき、子供と同じ目線になるように屈んだ。
「俺が優しく聞いてるうちに、早く名乗れよ、家なき子」
「国家権力振り翳し、年端もいかない子供に脅しですか? 警察もやることがヤクザ並みだ」
 一人前に皮肉を返した子供の目は酷く冷たかった。しかし重田も怯まない。
「名前は?」
 重田の目には、あからさまな敵意が見える。それは、これと睨んだ犯人を問い詰める刑事の目だ。
 しかしいくらなんでもこの子が犯人というのはあり得ない。だいいちなんの接点もない。これは完全に八つ当たりだ。抗議しようとした草薙は、だが子供の返事を聞いてぎくりとした。

――フォックス。

「なに?」
「えっ?」
 驚く二人を、子供は睨むような強い視線で見ていた。その目には憎悪すら浮かんで見える。
 あの夜も感じた。なぜかわからないが、憎まれているような、そんな気になる敵意溢れた目だ。
 しかし自分にはこの子に憎まれる覚えはない。もちろん重田にだってないだろう。草薙はそれを確認するように、背後の重田に振り返った。すると重田は、なにか自分に不利な証拠を叩きつけられた容疑者のような顔をして、子供を見返していた。
 まさか本気でこの子を疑っているのか? 妙な予感に冷や汗が出る。しかしこんな小さな子があんな残酷な殺人を犯すとは思えない。
 しかし重田はさきほども、まだ四歳のみゆに、犯人の手がかりを証言させようとしていた。考えてみれば常軌を逸している。目の前の子供を、犯人とするかもしれない。
 草薙がそう考えを巡らせている間に、重田は子供の襟首を掴んで凄んでいた。
「嘘をつくな」
「なんで怒るんです? そう答えて欲しかったんじゃないんですか?」
 襟首を掴まれ、噛み付きそうな顔で睨まれても、子供は怯まなかった。怯むどころか、冷たい目で重田を見返してくる。それは敵意というより、バカな大人をからかうような、蔑みの目だ。重田は握り締めた拳を震わせながら、歯軋りした。
「どういう意味だ? 俺は事件のことなんか言ってねえぞ、やっぱりお前、なんか知ってるな? なにを知ってる? さっさと吐いちまえ」
「やれやれ、こちらは無抵抗の子供ですよ? 自分の思い通りにならないからと暴力に訴えるようでは、ヤクザ以下ですね」
「なんだとっ!」
「重田さん!」
 子供の挑発に乗り、重田は怒鳴る。握り締めた襟首を捻り上げ、その勢いに子供の身体は僅かに浮いた。さすがにこれはやり過ぎだと感じた草薙が慌てて止めに入る。
「やめてください、相手は子供ですよ、ちょっとふざけただけでしょう? 大目に見てやりましょうよ」
「どこが子供だ、こんな子供がどこにいる! おい、お前! お前はいったい何歳なんだ? 見た目どおりの歳じゃねえだろ!」
「なに言ってるんですか、歳をとらない人間はいませんよ、それとも刑事さんは僕が鬼か悪魔とでも?」
 重田の暴言に、さすがに頭にきたのか、子供も不愉快そうな表情になった。これまで殆ど見えなかった彼の感情が、波だっているのがわかる。
「おう、そうさ、悪魔、お前は悪魔だ、そうじゃなきゃそんな口利けるわけがない、さあ言ってみろ、お前の名前は? 歳はいくつなんだ!」
「やめてくださいっ!」
 あまりの言い様に、怒りが湧いて来た。相手は子供だ。年齢よりは大人びた口を利くし、少々捻くれてはいるが、それでも子供だ。彼が本当になにかしたとも思えない。
 こんな子供に大の大人が殺せると、本気で思うのか? だとしたらそれはただの思い込み、偏見だ。草薙は、今にも子供を殴りそうな重田の腕を押さえ、後ろへと下がらせた。
「冷静になってくださいよ重田さん、まさか本気でこの子を疑ってるわけじゃないでしょう?」
「草薙……」
「重田さんが言った最初の事件は、今から五年も前ですよ? その頃この子はいくつだと思うんです、ありえませんよ」
「五年……か」
「そう五年です、まさか本気で歳をとらない人間がいるとか思ってるわけじゃないでしょう?」
「そう、だな」
 草薙の言葉で理性を取り戻したのか、重田は黙った。だがまだ納得は出来ていないという顔だ。
 これ以上、彼に非常識な行動はさせられない。未成年への恐喝、暴行罪で彼のほうが捕まってしまう。思い余った草薙は、治まりのつかない表情の重田を納得させるため、そして自分の気持ちの整理を付けるため、子供の保護を提案した。
「この子のことは、僕が責任を持って対処します」
「お前が?」
「ええ、見たところ、行く所もなさそうなので、とりあえず、家に引き取って様子を見ますよ、一緒に住めばあの子も少しは心を許すでしょうし、それでいろいろ聞いてみます」
 それでいいでしょうと訊ねると、重田は未だ納得しかねる表情ながら、わかった、そうしろと頷いた。しかし、ありがとうございますと礼を言い、振り返ると、子供はとても不愉快そうな顔をしていた。
「引き取る? 正気ですか? 小汚い浮浪児の一人や二人、放っておいても世間に害はないでしょう?」
「必要があるとかないとかの問題じゃあない、僕がそうしたいんだ、大丈夫、僕はこのオジサンと違って大人だし優しい、人畜無害だ」。
 草薙がそう言って胸を張ると、子供は目を丸くした。
「人畜無害って、能無しって意味じゃないの?」
「え? あれ? そうかな?」
「そうだよ」
 決まってるでしょと、子供は笑った。だが笑われても不思議と腹は立たない。さっきまでの、冷たく大人びた言葉より、ずっと感じがいいからかもしれない。
 草薙がほっとして微笑むと、子供は気まずそうに視線を逸らし、また壁を作った。

「あなたは、大人しく優しい、人畜無害の人間が、一番始末が悪いって、わかってますか?」
「え?」
「自分は善良だと信じてる人間が、実は一番厄介なんだ、目の前で犯罪が起きていても自分に関係なければ行動を起こさない、結局見殺しにするんです、同情も愛情も口だけなんですよ」
「いや、それは……」
 子供の声は心なしか低く響いて聞えた。まるで、深い井戸のそこから響いてくる魔王の声のようだ。反論する言葉が見つけられずに黙り込む。すると子供はさらに、身振りを加えて続けた。
「だからあんたらは誰も救えない、真実が見えてない、いや、見ようともしてない、気にも留めてない、留めているふりだけだ」
 子供は、なにかに急き立てられるように、酷く早口で話した。それがとても不自然だ。
「待ってくれ、言ってる意味がわからない、キミはなにか知ってるのか?」
 子供の挑発に、つい声を高くして詰め寄った。それを振りきろうと子供はもがく。
 暫しの揉み合いのあと、上着の袖が捲れ、細い腕が顕になった。
「え……?」
 捲くり上げられ現れた彼の左腕には、赤黒く引き攣った火傷の痕があった。
 それは深くドス黒く、肌に張り付き、肉の半分が壊死して出来た穴のように、少しへこんでいる。草薙も思わず絶句した。
 言葉を失う草薙を見て、子供は憎々しげに顔を歪ませる。その表情に全てを察した。
 この子は、心無い大人に酷い目に合わされたことがあるのだ、そしてそれを忘れられない。
 大人を憎み、人を信じず、一人で生きる道を選んだ。可哀想な子だと思った。

 子供一人で生きる。言葉で言えば簡単だが、現実はそうもいかない。十二歳やそこらでなにが出来るだろう? この子が、生きるために、なにか犯罪めいたことをしてきたとしても、それを責めることは出来ない。
 食べなければ餓える。餓えれば死ぬ。誰だって飢え死には嫌だろう、切羽詰れば食い逃げくらいするかもしれない。あの夜、揉めていたのも、もしかしたらそういう経緯なのかもしれない。

「ごめん、言いたくないなら今は聞かないよ、聞かないから、とにかく僕とおいで」
「警察の言うことなんか信じると思うのか?」
「あ……」
 彼の憎しみの具体的な理由はわからないが、おそらく警察にも恨みがあるのだろう。自分を追い詰める大人たちの群れに、警察機構も含まれるのだ。
「いや、ごめん、実はさっきの、あれ、嘘なんだ」
「ウソ?」
「ああ」
 疑心暗鬼で全ての大人を敵に回そうとしている子供を安心させたくて、草薙はあっさりと白状した。
 自分たちは刑事などではない、小説家とそのアドバイザーだ。そう教えると、子供の表情も微妙に変わる。しかし気を許す様子はない。ジリジリと後ずさる子供に、草薙は手を差し伸べた。
「キミの身元は探らない、ただ心配なんだ」
 草薙が進むごとに子供は下がる。ここで逃げられたらもう二度と会えない。そんな気がして上ずった。
「キミの嫌がることはしない、約束する、信用してくれ」
「信用? 出来ないね」
 信用という言葉に、子供は大げさに反応した。それまでよりずっと太く低い声で、身振りを交えて熱弁を振るう。
「信用という言葉に騙される人間は多い、自分は大丈夫だ、安全だ、信用してくれ? それで? 信じてどうなった? そいつは助かるのか? いや違う、助からないね、みんな自分が可愛いんだ、いざとなったら逃げちまう、残された者はどうなる? 信じ損だ、わかるかいお兄さん、信じたモンがバカを見るのが世の中なんだよ」
「そんなことない!」
「あるね、信用なんかした途端、足元を掬われて真っ逆さまだ、賭けてもいい、あんたもいつか逃げるんだよ」
「逃げないよ!」
 何度訴えても、子供は信じようとしない。このままでは逃げられる。彼が逃げたからと言って、自分になにが起きるわけでもないのに、背中に熱い汗が流れた。追い詰められた焦りからか全身が火照る。
 子供は半身を翻し、逃げ出す寸前だ、草薙はただ待ってくれと訴え続けた。

「おい、小僧、いい加減にしろよ、こっちは穏便にしてやってるんだ、あんまり聞かないと、通報するからな」
 痺れを切らせたのか、そこで重田が割って入る。言うことを聞かない気なら、家出少年として警察に引き渡してやるぞと脅した。
 子供はそれにピクリと反応した。重田の言動を見つめ、その真意を測るように口を結び、ただ目を凝らす。
「心配しないで、そんなことしない、だからこっちへおいで」
「どうせ後ろ暗いところがあるんだろ、早く頷いといたほうが身のためだぞ」
 それでも躊躇う子供に、重田はさらなる脅しをかける。子供は草薙と重田を交互に見ながらも、じりじりと下がっていく。気ばかりが焦った。
「止めてください重田さん! 僕はそんなことしませんよ!」
 本気で、やめてくれと思った。そんな追い詰め方ではこの子の信用は得られない。自分は彼を助けたいのだ。
 怒鳴る草薙の剣幕に気おされ、重田も一瞬黙る。その隙に草薙は一歩踏み込み、下がろうとする子供を抱きしめた。
「信じてくれ、僕は絶対裏切らない、なにがあってもキミを護る、必ずだ!」
「なにがあっても?」
 心からの叫びに、子供は初めて反応した。訝し気に少し首を傾げながら聞き返す。その僅かな反応を手掛かりに、草薙はなにがあってもだと、オウム返しに答えた。子供の瞳に光が宿る。
「その言葉に、自信はあるの?」
「もちろんだ」
 それこそ自信満々に答えると、子供はニヤリと笑った。
「震度いくつくらい?」
「え? いや、えっと……?」
 これは冗談なのか?
 話の流れについて行けず、つい口ごもる。すると子供はプッと吹き出し、そのうちケラケラと声を出して笑いだした。
「お兄さん真面目過ぎ」
「え? ぁ、え、そうかな……?」
「自覚ないの、超天然」
 一頻《ひとしき》り笑った子供は、急に気まずくなったのか、唇を噛んで俯いた。その姿は虐められて帰った小さな子のようで、胸が締め付けられる。この子には誰かの愛情が必要なのだと心から思った。
「おいで」
 出来る限りの優しい声で草薙は、話しかけた。子供は暫くの間、差し伸べられた手と、草薙の顔と、その背後にいる重田を、交互に見つめていた。