「いったいどうなってるんだ、今月に入って五人目だぞ」
新たな被害者の遺体を検分した矢島は、やれやれと頭を掻きながら歩き出した。現場は人通りも少なくない都内の小さな公園だ。そこの植え込みの影で、被害者は発見された。瀬乃夫婦の遺体と同じく、滅多刺しのボロカス状態だった。
「名乗りを上げてから急に数が増えましたよね」
三浦は、一通りの検視報告や、現場の様子をメモに取りながら、のろのろと後を追う。
「図に乗りやがって、狐野郎が」
瀬乃夫婦殺害事件から、二か月、同一犯と思しき殺人事件は、七件も続いている。最初の事件から五日後、立て続けに二件の殺しがあり、さらに三月に入って五件が相次ぐ。お陰で警察も大忙しだ。
事件の正式名称は「北新宿無差別連続殺人事件」とされているが、長すぎるし、わかりにくい。感情的にもしっくりこない。だから矢島は現場に残された署名の頭文字をとって、事件を「FOX事件」と命名した。
無差別なのに連続と判断したのは、現場に同じ署名、「Fiend Ogre Xeno-」というのが残されているからだ。
この話はマスコミにも漏らしていない。よって、模倣犯というのもあり得ない。同一犯でほぼ決まりだ。
Xenoの後に続く数字は、最初が二十六、次が二十七、その次が二十八と一つずつ大きくなっている。おそらくは何かのカウントだろうと思うが、なぜ二十六からなのかは不明だった。
「これが一つずつ減ってくってんなら、カウントダウンと思うところなんですけど、なんで増えてくんでしょうねえ」
「そりゃカウントダウンじゃねえからだろうさ」
「じゃなんですか?」
「俺が知るか、犯人に聞け」
「聞きたいですよ、けどどこにいるかわからないじゃないですか」
「だから探してんだろ!」
いまだ呑気な声の三浦に、思わず怒鳴った。この超新人類は、自分の身に降りかからない火の粉など怖いとは思わないのかと苛々する。矢島のイラつきを知らずか、三浦はさらにぼやいた。
「けどこう手がかりなしじゃはどうにも……」
二人は、二月始めに瀬乃夫婦殺害事件が起きてから、ほとんどつきっきりで捜査にあたってきた。三月に入ってからは公休も取れないほどかかりきりだ。だがいまだ、指紋も凶器も発見出来ていない。悲鳴や物音を聞いたという証言はいくつかあるが、肝心の目撃証言がまるで出て来ない。たまになにか見ている者がいても、女子高生がいたとか、小学生くらいの子供がいたとか、いや、フードを被った若い男だったとか、まちまちで当てにはならない。完全にお手上げ状態だった。
だが矢島はふんと鼻を鳴らす。
「手がかりはあるだろ、例の署名だ」
「署名ったって、アレじゃあなんのことだか」
「Fiend Ogre Xeno それぞれの頭文字を繋げるとFOXとなる」
「それはもうわかってますよ、けど……」
「けどじゃねえ、頭働かせろ、FOXとはなんだ?」
「なにって、狐、でしょ?」
「ああ、そして、狐と言えば突き当たる奴がいるじゃねえか」
矢島の指摘に、三浦はああと頷いた。
二人の管轄する新宿区には、いくつかの指定暴力団と、それに類似する組織がある。その中の一つに、サウス商会という商社があった。
表向きは輸入雑貨を扱うスタートアップカンパニーだ。だが実際は違う。
雑貨や家具、煙草などを輸入販売しつつ、裏では金貸しや、違法、合法ドラックも扱う。
さらに業務提携、アドバイザーなどの名目をつけて、界隈の飲食店や会社から、顧問料、コーディネイト料、提携上納金などを取り立てる。やっていることは暴力団と同じだ。顧客は最下層のクズがほとんどだが、なぜか政財界、芸能界の大物も多い。それに、最近ではごく普通の一般家庭にまで、手を広げ始めたらしい。
なぜ、ごく普通の家庭がそんな奴らの餌食になるのか、その理由は簡単だ。連中は輸入雑貨やダイエットドラッグなど、暇と金を持て余した主婦やOLが飛びつき易い商品を安価で取り扱っている。そしてもう一つ、社員、構成員がみな若く、物腰も柔らかい、ホスト紛いのイケメン揃いだからだ。
彼らの容姿を見て、その優男ぶりに、女性はのぼせ上がり、男性は自分のほうが強そうだと安心して深みに嵌まる。しかし、彼らが頭も尻も軽いチャラ男に見えるのは最初だけだ。いったん捕まえてしまえば態度は豹変、たちまち猛獣と化す。
しつこく陰湿な取り立てや脅し、たまに思い切って警察に駆け込む者がいても、相手のほうが一枚上手、ただの痴話喧嘩、じゃれてただけだと説明すれば、みな信じて帰ってしまう。警官が帰った後には、より恐ろしい報復があり、被害者は口を閉ざす。その繰り返しで、彼らは勢力を広げて来ていた。
そしてそのサウス商会の代表取締役社長をしているのが、新貝幸人《しんかいゆきと》という男だ。歳は三十二だが、見た目は二十代半ばくらいにしか見えない。明るい金髪に、派手で安っぽいスーツやスカジャン姿が多いこともあって、知らない人間は彼を社長とは思わないだろう。
そこが付け目で、新貝は自ら取り立てや売買に顔を出すことも多い。一見、気の弱そうなチャラ男だが、その実ズル賢く、残忍な一面を持っていて、狡猾な性格とも相まって、その世界では狐と呼ばれ、恐れられていた。
「狐ってのが嵌まるだろ?」
「嵌まり過ぎじゃないですか? それじゃバレバレだ」
「バラしたいのかもしれねえだろ」
「なんで?」
「俺が知るかよ、自慢したいんじゃねえのか、今、世間を騒がしてる連続殺人犯は俺だぞってな」
「まさか、それほどバカじゃないでしょう」
「バカだよ、でなきゃこの東京で縄張り荒らしなんぞ思いつかねえさ」
サウス商会は商社だ。暴力団紛いの営業はあっても暴力団ではない。だがやっていることは暴力団と同じであり、関係者から見れば越権行為、立派な縄張り荒らしとなる。連中と縄張りが被っている筒井組からしてみれば、サウス商会は目の上のコブ……いや、目障りなガキだ。今はまだ小競り合い程度で済んでいるが、いつか抗争に発展するだろう。すでにあちこちで一触即発の状態だった。
「矢島さんは、新貝がFOXだと?」
「どうかな、だが無関係とも思えんだろ」
「でも奴にそんな度胸ありますかね、チンピラでしょう?」
FOXによる被害者は、いずれも酷い死に様を晒している。目玉やら脳みそやら内臓やら、全て、これでもかというほど傷つけられ、ぐちゃぐちゃだ。その手口は回を追うごとに残酷さを増し、先日など、抉り取られた目玉が、パクリと割れた被害者の腹に突っ込まれていた。
「奴の目を見たことがあるか? 正気じゃねえぞ」
「ドラッグですか?」
「さあな、だがまともじゃないってのはわかる、まともだったら筒井組に喧嘩売ったりはしない」
そんな大げさなと三浦は思った。
新貝幸人と直に話したことはないが、遠目からなら見たことがある。背もそう高くないし、体つきも痩せていて貧弱なほうだ。確かに目つきは鋭いが、どう見ても粋がったチンピラか、その成れの果てといったところに見えた。とてもこんな猟奇的殺人を犯すようには見えない。
三浦が疑っているのを察したのか、矢島は三浦の背をぽんぽんと叩きながら足を速める。
「だから、これから調べようじゃねえか、お前もその目で確かめろ、白か黒か」
「見てわかれば苦労しませんよ、だいたい令状はあるんですか?」
「ちょっと会って話を聞くだけだ、んなもんいらんだろ」
ちょっと話すようなことか? 相手が取り合わなかったらどうするんだ、その可能性のほうが高いぞと、ぶつぶつ言いながら、三浦はそのあとに続いた。
***
「サウス商会……ここですか?」
北新宿の大通りから一本中へ入った細い路地に、古びた四階建てのビルがあった。サウス商会と書いてある安っぽいブリキの看板は、半分錆びていて、文字が読み難い。周りにはピカピカの新築ビルや高層マンションが建ち並び、小奇麗な街となりつつあるのに、そこだけが昭和のようだ。
正面にガラス張りのウインドウがあり、中にはアンティークというよりは、廃棄物のような家具や小物がディスプレイされている。全体的にアメリカの片田舎といった雰囲気だ。
入り口の自動ドアはガタがきていて、開くときにがくがくと震えた。
中もウインドウと同じくアメリカンな小物や雑貨、家具で埋め尽くされ、かなり雑多なイメージだ。足の踏み場もない。
転がる雑貨を乗り越えながら奥へ進むと、突き当りに狭いエレベータがあった。それに乗り込み四階まで上る。そのビルは他に非常口くらいしか通路がなく、上に行くにはどうしてもそのエレベータを使うことになる。中は大人が四人入ると窮屈に感じる狭さで、ちょっと息苦しい。古いこともあるが、あきらかに消防法違反だろう。
「狭いですね」
「ああ」
「それに、なんか臭う」
「葉っぱだろ、連中、隠す気ねえな」
「合法ってやつなんでしょ、見つかっても摘発はされない」
「危険ドラッグっていうんだよ、あんなの、法の目掻い潜ってるだけじゃねえか、結局は麻薬だ」
「でも逮捕は出来ないですよね」
「うるせえな」
やけにゆっくりと上るエレベータに焦れながら矢島は毒づく。それをいつものことと眺める三浦は、また別のことを考えていた。
もし、今ここに、拳銃を持った暗殺者が来たら逃げられない。拳銃を持っていなくても、刃物一つでやられるかもしれない。中が狭く、身動きが取れないうえ、出入り口も狭い。前から誰か来たら、ぶつからずにはすれ違えない。エレベータという事情で考えれば、ドアが開いた途端、ハチの巣にされそうだ。
もしかしたら新貝は、そういうことも考えて、こんな狭くて古いビルに居を構えているのかもしれない。だとしたら、かなりズル賢い奴だ。
だが、逆に考えれば、それほど用心深い奴があんなバレバレの見え透いた署名を残すだろうか? それに、動機がない。被害者たちと新貝に接点があるとも思えない。
外れじゃないのか? そう思い始めるころ、鈍いエレベータは、ようやく四階についた。
扉はそれまでガタついていたとは思えないほどスムーズに開き、正面にいる新貝のニヤけた顔が目に入る。エレベータを出ると直接社長室になっているようだ。不用心だなと思い、それまでの構えた気持ちが萎えた。
これはなにも考えていない見た目通りのチンピラに違いない。やはり外れだ。
「なんだ、矢島さんじゃないですか、これはまた我が社へなにしに? 座り心地のいい椅子でもお探しですか?」
矢島らを見た新貝は、異名通りの狐のような顔で、ニタリと笑った。金髪に白いシャツ、金ぴかに輝いた丈の短い上着と、目立つ金鎖のアクセサリー。下はビンテージのジーンズと白い革製の靴で、とても社長というなりではない。だがなぜか、有無を言わせない迫力があった。
「それもいいがな、今日はちょっと聞きたいことがあんだよ」
「怖いですね、うちのモンがなにかしましたか?」
「それを聞きてえんだよ、逸らすんじゃねえ」
「はいはい」
「ここ数か月、この界隈で猟奇殺人が相次いでんだ、でな、俺はその下手人がお前かお前の子分じゃねえかと踏んだんだが、どうだ?」
矢島はいきなり核心を突いた。いきなり過ぎて三浦も驚く。これでは相手を警戒させるだけだ。もう少し遠回しに探れないのかと呆れる。だがそれが功を奏したのか、新貝は表情を崩した。張り付いたような笑顔は消え、憮然とした真顔だ。
「それはいきなり過ぎですね、うちは商社ですよ、そんな物騒なことしませんね」
「そうかい、じゃ昨日の夜中十二時ころ、どこで何してたか聞かしてくれ」
「アリバイですか? まあいいですけどね、うちで寝てましたよ」
「それを証明できるか?」
「できませんね、一人だった」
「ふうん……」
矢島は疑い深そうに鼻を鳴らした。彼の身長は新貝と同じくらいなのだが、それをわざわざ腰を曲げて屈んでまで、下から見上げるように新貝の顔を覗きこむ。かなりの至近距離だ。新貝は渋い顔で、少し面倒臭そうに片手を振り、半歩下がった。
「私は独身だ、一人住まいの真夜中、証人がいるほうがおかしいでしょう? まさかそれで怪しいとか言わないでくださいよ?」
「ま、そこまで無慈悲じゃねえよ」
「どうも」
少し機嫌の悪そうな表情で、新貝は早口にしゃべった。これは怪しいと三浦は目を見張る。
彼が犯人ではないだろう。だが、あきらかに動揺している。深く追及もしないうちから言い訳を並べるのがおかしい。なにか隠している証拠だと思った。
だが矢島はそこからの追及をしない。
「俺も別に本気で疑ってんじゃねえんだ、けど、この若いのが気になるって言うもんだからよ」
「えっ?」
矢島は言い出しっぺはこいつだと三浦を指さす。新貝はちらりを顔を上げ、横目で三浦を睨んだ。酷く冷たい目だ。人を傷つけることなどなんとも思っていない、人外の空気を感じる。
こんな奴に遺恨を持たれたくない。咄嗟にそう考え、言い出したのはそっちでしょと反論しそうになった。しかしこれはなにかの作戦かもしれないと考え、すんでのところで口を閉ざす。
「気を悪くせんでくれ」
「大丈夫ですよ、職務ってヤツだ、それも疑いは晴れた、もうお終いでしょう?」
「そうだな」
「ではごきげんよう、また来てください、今度はいい椅子を買いに」
「おう、そうさせてもらうわ、三浦、ほら、帰るぞ」
「あ、はい」
矢島に促され、三浦はそそくさと身を翻した。その途端、背中にゾッとするような冷気を感じ、思わず振り向く。
「なにか?」
「ぁ、いえ……」
新貝は、異様に細められた目で、にんまりと微笑んでいた。顔は笑ってるのに、ゾッとする。先日友人と観に行った能舞台「黒塚」に出てくる鬼女のようだ。殺人鬼というのは、こんな目をしてるんじゃないかと思った。
「すみません」
彼の背後に、死神の大鎌が見える。早く帰らないと、この場で切り殺される。そんな気がして、三浦は慌ててエレベータに乗り込んだ。
がくがくと震える三浦に驚き、矢島は目を見開く。どうしたと訊ねられ、ただすみませんとだけ、答えた。
彼がFOXかもしれない……なんの根拠もなくそう思った。
*
「糞が! 調子乗ってんじぇねえぞ!」
エレベータのドアが閉まると同時に、新貝は苛々と机を蹴飛ばした。さらに気持ちの治まらないまま、隣の部屋に控えている柄シャツを着た男を呼びつける。
別に用などない。ただ苛々を発散したいだけだ。
なんでしょうかとやってくるそいつの頬をぴしゃりと平手打ちすると、男はなんで自分がと気の弱そうな顔でおどおどと見返してくる。その態度が気に障り、もう二発、往復ビンタを食らわせて、ついでに机の上の灰皿を投げつけた。柄シャツの男はひいと悲鳴をあげ、しゃがみ込む。
そいつを横目で睨み、まだ治まらないので、今度は蹴ってやろうかなと考えたところで、別室からもう一人出てきた。短めの髪をオールバックに固めた背の高い男だ。
「どうしました幸人《ゆきと》さん?」
「あ? うるせえよ塚原《つかはら》、出てくんな」
「すみません、大きな音がしたもので、田中が不始末をしでかしたんなら私の責任です、処分は任せてください」
「ひっ……っ」
処分と聞いて柄シャツの男、田中は、また悲鳴を上げた。新貝も別にそこまでしたいわけではない。だいたい田中は悪くない。これは八つ当たり、単なる憂さ晴らしだ。仕方なく持ち上げかけた足は下ろした。
「……せえな、そんなんじゃねえよ」
「おや、ではただの八つ当たりですか?」
「ただの八つ当たりだよ!」
バツ悪く答えると、背の高い男、塚原は、僅かに口角を上げ、小さな笑いを噛み殺す。それにムッとした新貝は、用はないなら出てけと怒鳴った。だが塚原は聞こえぬふりだ。
「刑事が来ていたようですが?」
「ああ、見当違いの話さ、最近起きてる連続殺人の犯人はお前じゃないのか、だとさ」
「ああ、それはたしかに濡れ衣ですね、なんでまた」
「さあな、適当に言ってんだろ、俺が目障りなんじゃねえの? ったく、あっちもこっちも敵ばっかだ」
「始末、しますか?」
イラつく新貝と反対に、塚原は静かだった。なにを考えているのかわからない黒く淀んだ瞳で、刑事を排除するかと訊ねる。これが世辞やノリでなく、本気だから怖い。
新貝は、こっちもやれやれだと息を吐きつつ、そこまでしなくていいと答えた。
「俺はちょっと出かけて来る、連中がまた来たらお前適当に相手しといてくれ」
「どちらへ?」
「散歩だよ散歩」
「最近筒井組の動きが激しい、無用な散歩は控えてください」
「大丈夫だって、奴らも白昼堂々やりに来るほど暇じゃねえだろ」
「それはわかりません、私たちはそれだけ彼らを怒らせてる」
「向こうが勝手に怒ってるだけだ、俺たちはまっとうなビジネスをしてる」
「そんな言い訳が通用するような相手ではないと思いますが?」
「だいじょぶだって、すぐ戻る、じゃ、あとは頼んだぜ」
机の引き出しから愛用のクラッチバッグを取り出した新貝は、急ぎ足でエレベータへ向かう。心配した塚原は、護衛を連れて行ってくれと引き止める。だがそうはいかないのだ。あそこに他人は連れて行けない。
甘い顔をしていると、本当について来そうな塚原を牽制するため、新貝は少し機嫌の悪い表情を作り、睨みを効かせた。
「奴らが仕掛けて来たら返り討ちにしてやるさ、とにかくついてくんな」
「幸人さん!」
新貝は足早にエレベータに乗り込み、素早く閉じるのボタンを押した。扉は追いかけてくる塚原の鼻先でぴしゃりと閉まる。他に下へ降りる手段がないわけではないので、その気になればついて来ることは出来るが、塚原は頭が固い。そうはしないだろう。組織のボスがついて来るなと言っているものを、部下が違えるわけにはいかないと考えるはずだ。
事務所で一人焦れているだろう塚原を想像し、新貝は箱の中でクスリと笑った。
塚原とはボスと部下の関係だが、実は幼馴染でもある。子供のころ、気が弱くてイジメられっ子だった塚原を、よく庇ってやったものだ。彼はそれを恩にきて、ずっと傍に侍り、ボディガードを務めてくれている。少々頭が固いのが難点だが、頼りになるいい男だ。力も強い。
だが忠誠心が強すぎて、時々暴走するのが欠点だった。心配はありがたいが、時として迷惑だ。
「さてと……」
エレベータを降りた新貝は、首を振らずに目だけであたりを覗ってから歩き出した。その後を、矢島と三浦の両刑事がつけてくる。わかりやすい挑発は、それに乗った新貝がどう動くか見るためのモノだったらしい。
新貝もそれは気づいていた。知らぬふりをしているのは、無駄に騒いで余計な注目を浴びたくないからだ。それに、どうせ彼らは真相には辿り着けない。放っておいて害はないだろうと踏んでいた。
ただ問題は、彼らの推理があながち外れでもないというところだ。
「ったく、面倒臭えことになってきやがったな」
つけてくる二人を意識しながら、腕時計を確認し、ビルの陰で携帯を取り出す。コールすること十三回で、相手は出た。
「ゼノか? ああ俺だ、今日の取り立ては済んだか?」
「ずいぶん早い催促ですね、まだ昼過ぎたばかりじゃないですか、これからですよ」
「なんだ、さっさとやれよ、それが済んだらちっと話したいことがあんだよ」
「話したいこと?」
会いたいと言うと、電話では話せないのかとゼノは聞き返してくる。もちろんそれはだめだ。
「どうしても、顔を見て話したい、それに、人に聞かれちゃ困る、俺も……お前もな」
他人に聞かれたら困る話と聞いて、ゼノは沈黙した。どうやら相談中らしい。
彼らの話し合いは長引くことが多い。もともと性格が違い過ぎるのだ。だから新貝も急かしはしなかった。煙草を吹かしながらのんびりと待つ。そして二本目の煙草が半分ほど消費されたころ、ようやく返事が返ってきた。
「わかった、ではマンホールで会おう」
返事をしてきたのはオウガのようだ。ゼノは引っ込んだらしい。なにか揉めたかなと思ったが、そこは追及しなかった。それよりもまずは会うことを優先したい。
「懐かしいね、いいぜ、じゃ時間は今から二時間後だ、それまでに仕事は済ませて来いよ?」
「努力はしてみる、期待はしないでくれ」
「努力ってのは目に見えねえもんなんだよ、結果が全てさ、結果を持って来いよ?」
「後で会おう」
「ああ、期待してるぜ」
背後に迫る数名の影を意識しながら、新貝は通話を終えた。
「痛っ」
久しぶりの休日を、満喫し、映画館から出てきた草薙は、出口横にある看板につま先をぶつけ、小さく舌打ちをした。一か月前から楽しみにしていた映画は大満足の出来映えで、鼻歌交じりに飛び出してきた矢先だ。暗い上映室からいきなり野外に出たので、明るさに目が眩んだのかもしれない。
「ついてないな」
新調したばかりの白いバッシュに黒い筋がついた。傷になっているかもしれない。確認しようと草薙は身を屈める。指でそっと擦ってみると、筋は少し滲んで薄くなる。どうやら看板についた汚れが移っただけのようだ。これなら洗えば落ちるだろう。気を取り直し、顔を上げた。その瞬間、風が頬を通り抜けた。
「え……?」
それは妙にくすぐったい感覚で、草薙はきょろきょろとあたりを見回した。
行き交う見知らぬ人々、華やいだ明るい街並み。見慣れたごく普通の光景だ。だがそのありふれた景色の中に一つ、小さな異物があるのを見つけた。それは薄汚れたカーキ色のフード付きロングコートを着た少年だ。
少年はスクランブル交差点の端にある時計台に背を預け、町行く人々の群れを見ていた。だがその視線には一片の同情もなく、酷く冷たい。三月だというのに、彼の周りだけ真冬のようだ。
暦の上では春、まだまだ寒い日はあるが、今日は小春日和で暖かい。気温は十七度を上回っている。草薙も浮かれて白いバッシュを下ろした。気の早い者は半袖だというのに、ロングコートは不自然だ。この気温であれでは、中で大汗だろう。
何者だ?
つい注目して見つめた。すると少年は視線に気づき、僅かに表情を変えた。眉が少し歪んだ程度の小さな変化だが、元が無表情だったので、その意味はストレートに伝わる。
お前も死ぬか?
憎しみの籠った目が、そう囁いているように見えた。ドキリとして、心臓が凍り付く。冷たい汗が背中を伝い、真昼だというのに、あたりが薄暗くなった気がした。
カーキ色のコートを羽織った少年は、フードを目深に被り、顔は半分以上隠れている。どんな顔をしているかなどわからない……はずだ。
だがその憎しみだけはヒシと伝わった。少年の憎しみで世界が歪んで見える。
目を開けたまま夢を見ているような、悪夢に魘され、目覚める寸前のような嫌な感じがして、草薙は瞬きを繰り返した。そして、何度目かの瞬きのあと、少年の姿がないことに気づいた。
目を離していたのは一瞬だ、その一瞬で、彼は消えた。そんな馬鹿なとあたりを見回す。だがざわめく雑踏のどこにも、彼の姿はなかった。まるで魔が通ったようだ。
腑に落ちない思いはそれから暫く続いたが、せっかくの休日だ、もやもやしてばかりいるのは勿体無い。気を取り直した草薙は、前日から下調べしておいたヒーローカフェへ向かい、そこで軽い昼食をとった。
いい歳をした大人がヒーロー好きなんて、他人が聞いたら呆れるかもしれないが、草薙はそれが好きだった。先ほど観てきた映画も子供に大人気の特撮ヒーローモノだ。
特別そのヒーローが好きと言うのではない。ヒーローという存在自体が好きなのだ。子供のときからの憧れで、その頃は自分もいつかヒーローになるんだと信じていた。
ヒーローになる方法は二つある。一つはオーデションを受けて、特撮ヒーローの主人公を演じる俳優になるという道。もう一つは、実際に弱き者、助けを求める者を救う職業に付くことだ。警察官や消防士、医者などがそれにあたるかもしれない。あいにくそのどれにもなれなかったが、何かのときに率先して助けに走れる、そういう人間でいたい。それが草薙の信条だった。
ヒーローカフェのあとはデパートの玩具売り場や、パソコンショップを回ってヒーロー玩具やゲームを物色した。夕食も外で済ませ、そのまま酒を飲む。そしてだいぶ過ごしてから店を出る。
時刻はすでに真夜中で、昼間交差点で少年を見かけてから十二時間が過ぎていた。
***
過ごしすぎた酒のせいか、少し足元がふらつく。久しぶりの休暇ではしゃぎ過ぎたらしい。酔いを醒まそうと、草薙は当てもなくふらふらと町を歩き出した。
ネオン輝く繁華街を彷徨っていると、どこかで怒鳴り声がする。真夜中の繁華街、酔っ払い同士の喧嘩など珍しくはない。最初は無視しようかと思った。しかし怒鳴る声は一人や二人ではないようだ。昼間見た映画の影響か、放ってはおけないという気になった草薙は、声のするほうへ歩きだす。
「ブッ殺されてえのか、ああ?」
突如、物騒な台詞が聞え、ギクリとして足を早める。
細くて暗い道には、小料理屋や怪しげなスタンドバー、屋台などが軒を連ねている。一流店が立ち並ぶ繁華街と違って、裏通りは如何わしい雰囲気に溢れ、どこか余所の国に来たかのようだ。道が狭い上に入組んでいて、声がどこからなのか、わかり難い。
ようやく声のする場所に行き当たると、あたりには外灯もなく薄暗かった。突き当りの薄暗い路地際に小さな稲荷の祠があり、大柄な男が四人、大声をあげ、拳を振り上げている。
男らに囲まれているのは、十二歳くらいに見える子供だった。暗い色のフード付きロングコートを着ている。昼間見たあの少年に似ている? ふとそう感じたが、その子は、昼間の少年より幼い感じがした。人違いかもしれない。
子供は、出来るだけダメージを軽減させようとしているのか、身体を丸めて蹲っていた。蹴られても泣き出さないところは凄いというか、根性だけはありそうだが、いかんせん多勢に無勢、さらに、大人と子供では相手にもならない。
「おい! なにをしてるんだ、やめろ!」
思わず叫ぶと、男たちが一斉に振り向く。一瞬ドキリとしたが、そこで引っ込むわけにもいかない。深酒の勢いも借り、草薙は男たちに向かって行った。
「子供相手に寄って集って、大人げないと思わないのか!」
「なんだテメエは?」
「引っ込んでろ! 殺すぞ!」
男たちは口々に罵る。だがそんな事で臆してもいられない。相手は子供だ、どんな事情があろうとも、悪いのは連中のほうだ。
「どういう事情か知らないが、子供相手に大の大人が四人がかり、卑怯だろ」
「うるせえんだよ、てめえ酔っ払いか?」
「怪我しねえうちにさっさと帰れ」
怖い物知らずに正論をかます草薙を、男たちは胡散臭そうに睨む。酒が入って気が大きくなっていた草薙も、負けずに睨み返した。気分は昼間見たヒーロー映画の主人公だ。
「ここらで止めておくのが、利口だぞ、今なら見逃してやる……」
しかし、思い上がった快進撃もそこまでだった。最後の決め台詞を言い終わらないうちに、先頭にいた男に殴り飛ばされる。
「なにふざけてんだ? すっこんでろっつったろ!」
男は怒鳴り、その後は袋叩きだ。腕には少し自信があったのだが、飲み過ぎた酒が災いしたらしい、身体は思うように動かない。
やられっぱなしで蹲る草薙を、男たちは容赦なく殴る。反撃のチャンスを窺いながら、草薙は子供の行方を捜した。
子供は、そこから数メートルと離れていない祠の前に立っていた。殴られ続ける草薙をじっと見ている。その瞳は、子供とは思えないほど冷たかった。無関心というよりは、憎まれてでもいるようだ。
だが恨みを買うような覚えはない。なにしろ、今日初めて会ったのだ。ではなんだと考えたが、繰り返される暴力に考えが纏まらない。やがて瞼も腫れ上がり、目視し難くなる。思考は麻痺し、身体も動かなくなった。
草薙が倒れると、男らは自らの勝利に酔った愉悦に浸る表情で捨て台詞を残し、再び子供に向かって行った。子供はコートのポケットに両手をいれたまま、つっ立っている。異様に落ち着きはらった表情で、動こうともしない。黒く濁った冷たい瞳だけが、ギラギラとして見えた。
その目はなんだ?
ふと感じた薄気味悪さを振り払うように、何度も同じ事を考えながら、草薙はそこで気を失った。
「大丈夫ですか?」
どこからか聞こえてきた声で再び目を開ける。瞼が腫れているので、半開きにしかならないが、声の相手を見返す。そこには一人の制服警官がいた。意識がはっきりしない。時間はだいぶ経っているようだ。辺りは明るくなり始めている。
「すみません、大丈夫です」
たいしたことはないと答えながら、よろよろと立ち上がる。
あの子はどうしただろう?
子供の行方を捜し、あたりを見回す。だがその姿はなく、その代わりのように、昨夜の連中だろう男たちが転がっていた。
なにがあった?
戸惑いながらも草薙は、中の一人に手をかける。ヒヤリと冷たく固い感触がして、血の気が引いた。
死んでいる。
咄嗟に、うつ伏せに倒れているそいつを引き起こすと、なにかが地面にポトリと落ちた。
なんだ?
何気なく目で追い、それが生々しく赤く濡れた、人の眼球だと気づいた。草薙と共に男を覗きこんでいた警官は、情けなく尻餅をつく。どうやら腰を抜かしたらしい。アワアワとわけのわからない声を発しながら後ずさった。
その隙に草薙はほかの男たちの様子も見て回った。倒れているのは三人、だが夕べはたしかもう一人いたはずだ。それに子供を入れれば、あと二人足らない。
「ちょっと、ダメですよ、勝手に現場を弄らないでください、なに探してるんですか?」
ようやく気を取り直したのか、立ち上がって来た警官が訪ねる。草薙は夕べのあらましを簡単に伝えた。
「夕べ、この現場にあと二人いた筈なんだよ、あんた見てないか?」
「二人ですか、そりゃ大変だ」
どれどれと身を乗り出して来た警官と一緒にあたりを探しまわる。そして祠の後ろ側で、四人目を見つけた。
「うわっ!」
それを見た警官が悲鳴をあげる。草薙も、思わず顔を顰めた。そいつは、祠に背を預け、座らされた形で、死んでいた。
抉られたのだろう両目には、L字型に曲がった細い金属の棒が突き立てられている。流れ出た血が、乾いた頬に筋を作っている。
「酷いな」
思わずと、そう呟きながら、男の様子を観察した。目のほかに、背中や腹など数ヶ所からの出血がある。裂かれた腹は血に染まり、黒く変色した臓物が見えた。
胸の傷と腹の傷、それに瞼、そのどれが最初につけられたものかはわからないが、おそらく犯人は、相手が絶命してからも傷つけ続けたに違いない。物凄い執念だ。もしくは怨念か、生半可な思いではこれほど酷く切り裂けないだろう。
「よく平気ですね」
警官は、遺体を観察する草薙に、眉を顰めて呟いた。
「あんたこそ、警官のくせに、そんなに臆病でどうするんだ」
怯えて尻込みする警官を余所に、草薙は他の遺体の様子も見て回った。みな数ヶ所を刺され、絶命しているようだ。致命傷は胸の傷あたりだろう。被害者四人のうち、三人は目を切られるか抉られるかしているが、残り一人の眼球は無事だ。それに、傷の数も他の三人に比べて少ない。殆ど一突きのように見える。
なぜだろう? そこに妙な違和感を持った。
「ああもう、勝手に触らないでください、現場を荒らすと公務執行妨害で逮捕しますよ!」
「ちょっと見てただけだよ」
「今触ってたでしょ、ほら、離れて!」
違和感の理由を探ろうとしたが、警官も職務だ、急に険しい表情で離れなさいと牽制する。つまらないことで逮捕勾留というのもちょっと困るので、草薙も渋々と被害者から離れた。
「これ、もう通報はしたのかい?」
「あ、まだだ」
「早くしたほうがいいんじゃない?」
「今しますよ!」
草薙の指摘で急に気づいたのか、警官は署へ連絡を入れようと慌てる。だが慣れない殺人事件のせいで気が動転したのか、手順を度忘れしたらしい。あたふたと懐を探るだけだ。その隙に、草薙はこそりとその場から立ち去った。
***
「酔っ払って喧嘩、挙句に骨折、なにやってるんだよお前は」
「喧嘩じゃないですよ」
大したことはないと思ったのだが、肋骨にヒビが入っていたらしい。仕方なく医者へ行った草薙を、友人の重田《しげた》は間抜けな奴と笑った。少しムッとしたが、彼は自分より十五も年上だ、とりあえずそれ以上の反論は止めた。
治療を終えると、重田はやれやれというように肩を竦め、総合病院の扉をくぐる。草薙もとぼとぼとその後に続いた。
分厚い硝子板一枚で仕切られた外の世界は、呆れるほど明るい。春先の空は明るく澄み、日差しのせいか、まだ三月だというのに、夏のように暑く感じられた。
こんな明るい世界にいると、今朝見た惨劇が嘘臭く思えてくる。サスペンス映画の予告編を見て来たような気分だ。
「まったく、これからってときになにやってんだか」
「すみませんね」
草薙はつい先日、小さな出版社の小さな賞を受賞して文庫本デビューを果たしたばかりの新人作家だった。物語はSFアクション物で、現代社会に暗躍する羅刹《らせつ》という名の鬼と人知れず戦い、世界を守ろうとする男の話だ。つまり草薙は、ヒーローになりたいという夢を、自分の書く物語の中で実現することにしたわけだ。
重田とは二年前、行きつけのバーで知り合った。元刑事だとかでいろいろと話を聞いているうち親しくなった。今も貴重なアドバイザー兼、保護者のようなものだ。
「ふん、まあいい、ところで、お前、本当になにも見てないのか?」
「なにをですか?」
「犯人をだよ、決まってんだろ」
「見てませんよ、俺はその前に気を失ってたし、気づいたら全員殺されてた」
「チッ、しょうがねえな」
少しでもなにか見ていれば、次回作のヒントになるだろうにと、重田は渋い顔だ。自分としても惜しいことをしたとは思う。だが一応遺体の様子は見れたし、あれ以上はさすがに無理だ。公務執行妨害で逮捕なんて洒落ならないし、下手すると、犯人扱いされてしまう。第一発見者が犯人なんて、よくある話だ。
「で? そのガキはどうしたよ?」
「え?」
「えじゃねえよ、お前が庇ったとかいうガキだよ、いたのか?」
「いや、それは……」
「なにやってんだよ」
続けざまにぼやかれ、草薙は頭を掻いた。元刑事だけあって、重田はこういう話にうるさい。しかし、こちらはただの小説書きで、探偵でも警官でもない。おまけに怪我人だ。たしかに、あの子供のことは気になるが現場を観察できただけでも褒めて欲しいくらいだと思った。
「あれ……?」
「どうした?」
「ああ、いや……」
腐りながらもふと、昨夜の子供のことを思い返そうとしたのだが、どうしたことか、その顔が思い出せない。
かなり大きめのロングコートを着ていたのは覚えている。だがどんな顔だったのかまでは思い出せない。
背格好は、小六から中学入りたてくらいだったと思う。思うが、具体的な顔は出てこない。
「なんでもないです」
犯人を見ていないどころか、庇ったはずの子供の顔も覚えていないと話したら、また大げさにぼやかれそうだと思い、草薙は言葉を濁した。
「しかしまあ、お前も呑気に気絶してたお陰で死なずに済んだってこった、よかったな」
「僕はいいですよ、でもあの子が心配だ」
だいたい小学生が外に出歩く時間ではなかった。しかもあんな繁華街の路地裏、一人でいること自体おかしい。もしかしたら家出少年かもしれない。いや、あの状況だ、誘拐ということも考えられる。
「誘拐かもしれないとは思いませんか?」
「ならお前を殴った連中が誘拐犯か? じゃあそいつらは誰が殺したんだ、まさかそのガキじゃねえだろ」
「当たり前じゃないですか」
「じゃあ誰だ?」
「もしかしたら、正義の味方じゃないですかね、密かに活躍しているヒーローが、子供を助けたとか」
「漫画じゃねえぞ、だいたい子供を助けるためなら人を殺してもいいのか? そんなのヒーローじゃねえよ」
「……ですね」
テレビのヒーローは、子供たちが狙われているとわかれば、相手の怪人を容赦なく倒す。命を奪うのはよくないと、怪人を逃がしてやるヒーローはいない。
だがそれはあくまでも子供向けヒーローアニメや特撮での話で、実際はそう出来ない。
しかも、相手は正体不明の怪人ではなく、人間だ。子供を助けるためとはいえ、殺すわけにはいかない。それは殺人だ。
草薙もそれはわかっていた。だがどこかで割り切れない。
もしも本当に、そいつが極悪人で、そいつを殺さなければ自分の大事な人が殺されるとわかっているなら、どう働きかけても改心など絶対にしないとわかっているなら、殺《や》るしかないのではないのか? たとえそれが犯罪になるとしても、悪を蔓延らせるよりはずっといい。
頭ではそう思った。しかしおおっぴらに殺人を肯定するわけにもいかない。それに、犯人がヒーローとは限らない。
「重田さんは、この事件の犯人はどんな奴だと思いますか?」
思わず聞いたのは、物書きの性か、元刑事だという男の見解を聞いてみたくなったのだ。
「人殺しの考えてることなんか俺にわかるかよ」
すると重田は急に不機嫌になり、ぷいと横を向いた。気のせいか、妙に落ち着きがなく見える。手持無沙汰に片手をポケットに突っ込み、煙草を探すふりだ。
「もしかして、なんか知ってるんですか?」
「なんでそう思うよ?」
「そりゃ長年の付き合いですからね」
なにか気になることがあるとき、なにか隠しているとき、重田は不機嫌になる。自分からは決して言い出さないが、なにがあったかを聞いて欲しいのだ。大抵の場合、突けばすぐに話し出す。
「犯人について、なにか知ってるんでしょ? 教えてくださいよ」
聞けば次回作のヒントにもなるかもしれないでしょうと迫ると、重田は微妙に視線を上げ、暫く間をおいてから口を開いた。
「お前、FOX事件って知ってるか?」
「FOX? 狐ですか? いえ」
知りませんと答えると、重田は少し躊躇うように視線を泳がせ、、歩道の先に見えたコーヒーショップを指した。
「ここじゃなんだ、そこで話そう」
「はい」
草薙もあとに続き、店の中で一番奥まった静かな席を陣取る。重田は席について早々、珈琲を注文し、それが来るまで黙って煙草を吹かし続けた。たぶん、他人に聞かれたくない話なのだろう、草薙が早く話してくださいよとせっついても聞こえないふりだ。そして案の定、ウエイトレスが珈琲を運んで来て立ち去ってから、おもむろに身を乗り出した。
「いいか、これは俺が内々で聞いた話だ、誰にも話すなよ」
「わかりました」
重田が内々に聞いた相手というのは、おそらく昔の同僚、現役の刑事だろう。これはかなり核心に触れる話に違いないと、草薙も息を飲む。重田はまだ湯気を立てている淹れたての珈琲を机の端に追いやり、低い声で話しだした。
「北新宿無差別連続殺人事件、通称FOX事件、被害者数は今年に入ってすでに七人、いや、お前が遭遇した連中も入れれば十一人になる」
FOX事件の被害者は男女半々、年齢も二十代から五十代と幅広い。交友関係を洗ってみても、これといった接点はなく、共通点といえば、殺し方くらいだ。捜査も難航しているらしい。
被害者はすべて、刺殺。それも、何度も何度も執拗に刺されている。浅い傷も数多く、絶命までにはそれなりに時間がかかったと思われる。
直接の死因は、腹や顔面を大きく切り裂いたことによるショック死、失血死だが、それよりも、猟奇的設えが注目された。
内臓が地面に飛び散るほど切り裂かれていたり、目玉が刳り貫かれていたりと、いちいちセンセーショナルだ。現場はいずれも被害者の血で真っ赤に染まっていて、酷い有り様だったらしい。
だが不思議なことに、それほどの失血を伴う残虐な殺害方法にも関わらず、目撃情報がほとんど出ていない。
遺体の様子からして、犯人はそうとう返り血を浴びているはずだ。それが誰にも目撃されていないというのは腑に落ちない。捜査関係者の間でも、犯人は超能力者か幽霊かと、冗談めかして囁かれていると、重田は話した。
それだけ聞くと、手口はたしかに夕べの事件とよく似ている。いや、ソノモノだ。
FOX事件の手口が世間に知れ渡っていれば、模倣犯という考え方もありだが、事件自体のことはともかく、被害者の目が抉られていることが多いという話は報道に載せていないらしい。実際、草薙も知らなかった。
となると、夕べのあれも、FOXである可能性は高い。
「じゃあもしかしたら夕べあそこにFOXが来たかもってことですか?」
「ああ、かもな」
「え、ぇ、でも、じゃあなんで……」
なんでFOXは自分を殺されなかったのだろう? 草薙がそう言いかけると、重田も小さく頷いた。どうやら同じことを考えたらしい。
「そうさ、なんでFOXはお前を殺さなかった? それは標的じゃあなかったからじゃないのか?」
「つまり、無関係と思われていた被害者たちには、隠された共通点がある、すくなくとも、犯人にとっては誰でもいいわけじゃなかった」
「ああ、そうだ、FOXは無差別犯じゃない、奴はなにかしらの意図を持って、犯行を繰り返してるんだ」
そこまで話して、重田は一息つこうと思ったのか、また煙草を取り出した。草薙は煙草を吸わないので、冷めてしまった珈琲に手を伸ばす。
自分を落ち着かせようとするように、重田はことさらゆっくりと煙草を燻らせた。体ごと横を向き、草薙を見ないように視線を逸らせる様子はどこか悲愴だ。まるで親の仇を思うような苦渋の表情に、草薙も興味を引かれた。
もしかしたら、彼が刑事を辞めた理由になにか関係があるのかもしれない。
だいたい重田は、そこまで調べて、どうするつもりだったのだろう。ただの興味と言ってしまうには越権行為過ぎる。彼の情報源は元同僚の刑事だろうが、その刑事にしても守秘義務を怠っていることになる。二人揃って違反行為となれば、それなりの覚悟をしているとしか思えない。
覚悟とはなんだろう。まさか重田は犯人が誰だか知っているのか?
「重田さん、もしかして、犯人、知ってるんですか?」
思い切って訊ねると、重田は目を丸くして、知ってるわけないだろとぼやいた。苦虫を噛み潰したような渋い顔だ。しかし、まんざら外れでもなかったらしい。実はな、と話を続ける。
「ここだけの話、俺は事件の第一被害者とされてる瀬乃夫婦が最初じゃねえと睨んでるんだ」
「えっ?」
驚いて思わず声が大きくなった。さして広くもないコーヒーショップに、草薙の声が響き、客の何人かは二人を振り返って見つめる。重田はバカ野郎と呟きながら草薙を睨み、静かに話せと自らも声を落とした。
「どういう事です?」
「瀬乃夫婦殺害事件の五年前、現場から十キロ先にある貸家で、似たような手口の殺しがあったんだよ」
五年と数ヶ月前、東京都千代田区の古い貸家で、若い夫婦の惨殺体が発見された。見つけたのは異臭がするとの通報で様子を見に行った警官、金子祐一《かねこゆういち》巡査だ。発見時、夫婦はすでに死んでいて、死後五日以上経過していた。
季節は冬から春に移る頃で、暖かい日が続いていた。空調の利かない閉め切った屋内で、夫婦の遺体が腐り始めたのが異臭の元だ。玄関を入り、すぐのところに台所があり、中央にある食卓の下に、妻の遺体があった。夫のほうは続く六畳間のテレビの前だ。テレビはつきっ放しで、畳の上には栓の開いたビールの缶があった。
夫の遺体には背中に一ヶ所、腹や胸、顔などに数十ヶ所の刺し傷があり、妻のほうは胸に一箇所だ。凶器は不明だが、柳葉包丁か登山ナイフなどの鋭い刃物と思われる。
妻のほうは正面から一突きで殺されていることから、犯人は妻の側の知人ではないかと推測された。傷は斜め上からのモノのようで、刺された時、妻は床に座り込んでいたのかもしれない。
椅子もあるキッチンで、床に座りこんでいるとしたら、その時傍にいた人物は、そうとう親しい相手ということになり、その点からも、妻の知人説が有力だ。
「事件から三日後、夫婦の住んでた貸家の裏にある雑木林で金子巡査の遺体が見つかった」
「え……?」
遺体には、夫婦殺しの夫のほうと同じく、背中に一箇所、腹や足などに数ヶ所の刺し傷があり、両目は真一文字に切り裂かれていた。生体反応から、目を切り裂いたのは、彼がまだ生きているうちだということまで、判明している。
「犯人は、夫婦を殺した奴と同一ですか?」
「最初は違うとされた、金子と被害者夫婦に接点がないからな、だが金子には殺害されるような理由もない、夫婦殺しの犯人が、口封じか、警告かなにかの理由で殺したんじゃないかってのが俺の推理だ」
「で、そいつがFOXだと?」
「ああ」
最初の夫婦は目玉を切りつけられたりはしていない。だが、夫の刺し傷と、瀬乃夫婦の刺し傷は似ている。もし金子を殺したのがFOXなら、最初の夫婦殺しもFOXだ。
「でもその夫婦は目を切られたりはしてないんでしょ」
「まあな、けど、最初はそこまで考えてなかったのかもしれないだろ」
「えぇっと、つまり、最初の殺しは不可抗力か、突発的なものだった……とか?」
「そうだ」
重田は当時、捜査本部にもその話をしたらしいが、共通点が少な過ぎると撥ね付けられたという。たしかに、それだけで同一犯とするには弱い。
「他になにかないんですか」
「あったらとっくに提出してる、ないからここだけの話なんだろ」
忌々しそうに答える重田の目は、ギラギラとした光りを放っていた。重田は本当になにか知っているのかもしれない。たぶん、他人には言えないネタを握っている。それを自分に打ち明けないのは、信用されていないか、重田自身も思うほど確信がないかのどちらかだ。
「重田さんは、そのときの犯人が、今また犯行を繰り返してると思ってるんですね」
「ああ」
「でもその事件は五年も前の話なんでしょ、なんで今になってまた……?」
「今急にじゃないかもしれんだろ」
「どういう意味です?」
「発覚した殺し以外に、被害者がいるかもしれん、お前、殺人事件が一年に何件あるか知ってるか?」
「え? いえ」
「東京だけで百件だ、年間で百人以上の人間が殺されてる、それも認知されている件数だけでだぞ、その中に、FOXの犠牲者がいないと言えるか?」
「いやそれは……」
重田はきっとその中にFOXはいる。と呟いた。小さな声だったが、その執念がよくわかる。
彼はきっと、その犯人を捕まえたいのだ。だが刑事を辞めてしまった今、その権限はない。ジレンマだなと思った。
だが、そう考えてみると、おかしい。重田はなぜ、刑事を辞めたのだろう? そこを訊ねると、彼は捜査を打ち切られたからだと答えた。
重田には、新人の頃から世話になった大先輩にあたる刑事がいた。叩き上げの平刑事ながら豪胆で情熱的なその男は、重田が三十になる前に犯人の凶弾に倒れ殉職している。金子巡査はその先輩刑事の息子だった。
少し気の利かないところがあるが、心優しい青年で、世話になった先輩に恩返しする意味でも、特に目をかけていた。いつかは刑事課に推薦してやろうと思っていたし、心から応援していた。その矢先の事件だ。犯人は絶対捕まえると墓前にも誓った。
しかし捜査は難航、捜査本部も縮小され、捜査員は全員他の事件に回らされた。事実上の捜査打ち切りだ。
重田は自分一人でもと食い下がったが却下された。そこで仕方なく無断で単独捜査を続け、懲戒処分を受けた。それに腹を立てて、辞表を叩きつけたというのが顛末らしい。
重田らしい話だ。さぞや心残りだったろう。草薙は彼の無念を思い、冷めた珈琲を一気に飲み干した。
「調べてみますか?」
「お前何言ってんだ、そういうのは警察に任せとけばいいんだよ」
思い切って切り出すと、重田は驚き、目を丸くした。だが心なしか頬が紅潮している。本当はやりたいのだろう。
「けど、気になるんでしょ、やりましょうよ、僕だって気になります」
自分は夕べFOXに出くわしてるのかもしれない。一歩間違えば殺されていたかもしれない。そう思えば他人事ではない。それに、ここまで聞いてしまえば自分も気になる。
「僕も関わってる、当事者だ、放っておけませんよ」
「お前は物語の主人公にでもなった気か? 相手は殺人犯だ、遊びじゃない、無茶すると殺されるかもしれないんだぞ」
「今、この話を知ってるのは僕たちだけなんでしょ、やらないでどうするんですか」
自分はヒーローになりたかった。ヒーローになって、悪い奴から弱い者を守りたかった。だが俳優になるような美男ではないし、ヒーローを演じるというのは自分の考えと少し違う。かといってレスキュー隊員になれるほどの体力もない。だから作家になったのだが、それでヒーローへの道を諦めたわけではない。自分に出来ることがあるのなら、率先してやるべきだ。でなければ信条を曲げることになると草薙は力説した。
「やりましょう重田さん、僕たちでFOXの正体を突き止めるんだ」
元々やりたかったのだろう、草薙の説得に重田は動いた。すでに刑事ではないので、捜査権はないが、作家とアドバイザー、次回作の取材ということにしてやればいいと話し合った。
本当に危なくなったら、知り合いの刑事にバトンタッチする。とにかく、実行あるのみだ。h
***
FOX追うと決めた翌々日、草薙と重田は、都内の児童擁護施設を訪れた。そこに、被害者の一人、山本美優《やまもとみゆ》(二十六歳)の隠し子が引き取られているからだ。
美優は一人暮らし、都内の小さな会社のOLで、ごく平凡な女性だった。それが無残な遺体となって発見されたのは半月前。見つけたのは、滞納された家賃の取立てに行った大家で、遺体の両眼には、料理用の菜箸《さいばし》が突き刺さったままだったという。死後、二週間が経過していた。
「会ってどうすんですか」
「子供は事件現場にいて、母親が殺されるところも見ていたらしい、だが犯人はその子を殺さなかった、その理由を知りたくないか?」
「隣の部屋とか、押入れとかに隠れてたんじゃないんですか? 犯人は子供がいるのに気づかなかったとか」
「かもな、けど、これまで一切証拠を残していかなかった用心深い犯人が、子供に気づかないのは、いかにもお粗末じゃないか?」
「重田さんは、なにか他に理由があると? でもその子、まだ四歳なんでしょ?」
「ああ、でも話くらい出来るだろ」
「そりゃ……」
四歳にもなれば、口は利けるだろうが、意味のある証言が取れるとは思えない。だから捜査本部だって、子供のほうは施設に入れてそれきりなのだ。もしなにか聞けたとしても、それに証拠能力があると認定されるかどうか……。
「あそこで座ってる子がみゆちゃんです」
「美優?」
施設職員の言葉に、少し驚いて聞き返す。職員の女性は、哀れむようにその子を見つめ、事情を話した。
「ええ、あの子は戸籍もなくて、名前も付けられていなかったんですよ、母親は子供を自分と同じ名前で呼んでいたようで、あの子は自分で、みゆだと言ったんです、だからそれがそのままあの子の名前になりました」
「なんだそれは」
「……酷い話ですね」
重田は呆れ声でやるせなさそうに呟いた。草薙も眉を寄せる。
職員の話では、山本美優は人知れず妊娠し、人知れず自宅で出産していたようだ。そのまま子供をアパートの一室に閉じ込め、名前も付けず、出生届も出さずに育てて来た。出産しただろうと思われる時期に、会社を二週間ほど休んでいるが、それ以降は普通に出勤し、普通に勤務しているので、子供の世話は帰ってからまとめてやっていたのだろう。
酷い話だが彼女も本気で子供を疎んじていたわけではなかったのかもしれない。絵本を与え、時々は読み聞かせなどもしていたようだ。その証拠に、みゆは、同年代の子供と比べても、体格はやや劣るが、言葉や知能程度に目立つ遅れはないと職員は話した。
「少しは愛情があったってことですかね」
「そんなもんか? 忙しいときは放っておいて、可愛がりたい気分のときだけ可愛がる、ペットと同じじゃないか」
「ですね」
重田は苛々した表情で言い捨て、同情と憐憫の目で少女、みゆを見つめ、歩きだす。草薙もそれに続いた。
大きなガラス窓がある広間の片隅に、幼子みゆはぺたりと座り込んでいた。小さなぬいぐるみを片手に握り、なにをするでもなく、大きな瞳を見開き、どこともつかない場所を見ている。
なにを考えているのだろう?
僅か四歳という小さな子供に、いったいなんと話しかければいいのか……戸惑いながら近づいていくと、重田は、お前が行けと草薙を突いた。年寄りのオヤジよりは、若い兄ちゃんのほうが、子供も受け入れるだろうと言うのが彼の主張だ。だが思春期近くならまだしも、相手は四歳、四十代も二十代もそう変わらないような気がする。それでもまさか出来ませんよとは言えないので、そろそろと近より、目線が同じくらいになるように、彼女の前で屈んだ。
「こんにちは、みゆちゃん?」
話しかけると、みゆは、緩慢な仕草で顔を上げる。
「なに、してるのかな?」
みゆは返事をしなかった。薄汚れたぬいぐるみを固く握り、動かない。その頑なな瞳を見ていると哀しくなる。この子は唯一の肉親、母親を、見知らぬ殺人鬼に殺されたのだ。たぶん自分のことも、得体の知れない怪物かなにかに見えているのだろうと思った。
みゆの握っているぬいぐるみは、ウサギかなにかだろうか、酷く汚れていた。たぶん、彼女がほんの赤ん坊の頃からずっと手元にあったのだ。そのぬいぐるみだけを友にし、拠り所として生きてきたのかもしれない。感傷に浸りながら、草薙は再びみゆに話しかける。
「えっと、可愛いね、それ、名前とか、あるのかい?」
「みゆちゃん」
「え?」
美優はその子の母親の名で、そして今は本人の名でもある。その名を、ぬいぐるみにも同じくつけたということだろうかと戸惑った。すると傍でそれを聞いていた施設職員の女性がそれを補足した。
「みゆちゃんは、なにを聞いてもみゆちゃんだと答えるんです、たぶん、それしか名前を知らないんじゃないかと……」
その言葉に、草薙は絶句した。彼女の世界は、それほどに狭いのだ。自分と母親と、ぬいぐるみの区別がつけられないほどに、狭い。
母親のほうにも事情はあったのかもしれない。だがそんなモノ、子供には関係ない。どんな不都合があろうとも、どんなに望まなかろうと、育てる義務がある。育てないのは大人の罪だ。
自分はそんな大人になりたくない。まだ相手すらいないが、いつか結婚して子供が出来たら、きっと大事にする。こんな哀しい目をした子供にはさせたくないと草薙は思った。
「みゆちゃん、あのね、お兄さん、みゆちゃんにちょっと聞きたいことがあるんだ、聞いてもいいかな?」
話しかけると、みゆはきょとんとした顔で、草薙を見返した。四歳の子供には、難しい言い方をしても、わからないだろうと考えた草薙は、あえて直接的な言い方で訊ねる。
「みゆちゃんのお母さんが死んじゃったとき、誰かそこにいただろ?」
「しんじゃったとき?」
「ああ、えっと……誰かお母さんを苛めてなかったかな?」
小さな子に死を理解しろというのは難しいかもしれない。だから、苛めたという言い回しに変えてみた。だが彼女は意味がわからないらしく首を捻るばかりだ。なんと聞けば答えられるのか、そこが難しい。すると、考え込む草薙の肩越しに、重田が声をかける。
「おまわりさんがみゆちゃんの家に来たことがあるだろ?」
「……うん」
「おまわりさんが来る前ね、みゆちゃんと、みゆちゃんのママの他に、誰かいなかったかな?」
訊ねられたみゆは、そこでようやく、自信なさげに頷く。それに勢いを得た重田は、みゆの前にしゃがみこみ、自分の言葉を確認するように、ゆっくり訊ねた。みゆはそこで初めて、聞かれている意味を本当に理解したのかもしれない。はっきりした声で、いたと答えた。
「いた? どんな奴だった? 男か、女か?」
いたとの答えに重田も興奮したのか、厳しく問い詰める。だが相手は四歳児だ、草薙は慌てて止めに入った。
「待ってください重田さん、相手は子供ですよ、そんな聞き方しちゃ……」
案の定、みゆは怯えた表情になり、壁際へと下がった。泣き出されると困ると、草薙は重田を押し退けた。
「ごめん、怖いおじさんは追い払ったから大丈夫だよ、僕たちは、その一緒にいた人のことを聞きたいんだ、どんな人だったか言えるかな?」
優しく微笑みながら、怯える彼女が安心するまで辛抱強く待った。みゆは、ただジッと草薙を見ている。そして暫くして話しても大丈夫だと判断したのだろう、小さな声で答えた。
「おにいちゃん……」
「お兄ちゃん?」
「うん、おにいちゃん、みゆにおかしくれた」
「お菓子? え?」
一瞬、面食らった。彼女の言う、お兄ちゃんというのが、犯人だとしたら、そいつはみゆの母親を殺しておいて、みゆは殺さず、それどころか、菓子を与えて帰った……ということになる。
まさか犯人がロリコンだった、なんてオチではないだろう。ではどういうことなんだ?
草薙が首を捻っていると、さっき退けた重田が、再び口を挟む。
「そのお兄ちゃんは、みゆちゃんにお菓子をくれただけかい? なにか話してないかな?」
だが、重田の顔が怖いからか、それとも言っている意味がわからないのか、彼女はまたなにも言わなくなった。証言を取るには相手が子供過ぎる。それは充分にわかっていたが、手がかりは他に何もない。重田も言い方を変えながら、辛抱強く訊ねた。
「お兄ちゃんに会ったのはそのときが初めてかな? 前にも会ったことある人かな?」
「おにいちゃん、おかしくれるの、みゆに、ほらって」
「えっと、だから……」
要領を得ない答えに、重田が焦れる。だがそこに少しひっかかりを感じた草薙は、待ってくださいと割って入った。
「みゆちゃん、お兄ちゃんは、いっぱいお菓子くれるんだね、優しい、いいお兄ちゃんだ」
「うん」
「みゆちゃんはお兄ちゃんのこと、大好きなんだね」
「うん」
「そうか……ね、お兄ちゃんは、みゆちゃんになにかお話してくれるのかな?」
「ん、とね……わかんない」
「そうか、じゃあなにか気が付いたことないかな? どんなお兄ちゃんだった?」
「わかんない、でもおかしいっぱいくれるよ、いいこだねって」
「お兄ちゃんがそう言ったんだね」
「うん」
みゆは、「お菓子をくれる」と言った。「くれた」と過去形ではなく、「くれる」と……。
妙に生々しい言いまわしだ。
もしかしたら……。
「みゆちゃん、もしかしてそのお兄ちゃん、今も、ここへ来る?」
「うん」
幼子みゆの返事に、草薙と重田は顔を見合わせた。山本美優を殺害した男、FOXかもしれない男が、この子に会いに来る。今も、この施設までやって来ている。まだその男が犯人と決まったわけではないが、可能性は高い。
二人は慌てて施設の職員に、みゆに会いに来る男はいないかと訊ねた。だがその答えはNOだ。
みゆは殺人事件に関わる子供だ。だから面会者には、より以上に厳重になる。それでなくとも、面会希望者がいれば、住所や身分など、事細かに尋ねるし、当然書面にも残す。それ以前に、理由のない者に子供への面会は許可していない。つまり、そんな人間はいない、ということだ。
「どういうことですかね、その男は本当にいるんでしょうか?」
山本みゆとの面会を終え、養護施設を後にした草薙は、それまで感じていた疑問を重田にぶつけてみた。
「もしかして、あの子の妄想、いや、想像なんじゃ……」
みゆは、母親に見捨てられ、その母親も目の前で惨殺されたのだ。それからずっと、見も知らない大人の中でたらい回しにされて来た。みゆの言う、お兄ちゃんが、彼女の淋しさが生んだ妄想ではないとは言い切れない。そう話すと、重田は訝しげな表情で首を振った。
「あの子の母親が殺されてから、発見されるまで二週間だ、あの子はその間、ずっと母親の遺体のある部屋にいたんだ」
「ええ」
「ええじゃない、二週間だぞ? 四歳の子供が、二週間、どうやって生きてきたんだ? 夜露は凌げても、飯は無理だろ? どうやって飢えを凌いだんだ?」
「あ、そうか……」
「もしも、もしもだ、本当にそのお兄ちゃんとやらがいて、あの子に菓子を与えていたとしたら……あの子は発見されるまでの二週間、その菓子で生き延びていたのだとしたら……どうなる?」
「どう? どうなるんです?」
狐につままれたような感覚で、草薙は聞き返した。だが重田にも明確な答えはないのだろう、急に不機嫌になり、持っていた手帳で草薙の頭を叩いた。
「想像力を働かせろよ、それが糸口になる」
「すいません……」
そういう重田さんだって、わからないんでしょ、とは言い返せないので、草薙も黙りこんだ。
そこから二人、暫くは、なにも話さずに歩いた。そして施設から少し離れた市営駐車場に停めてあった車に乗り込もうとしたときだ、道の先に、見知った顔が歩いているのを見つけ、草薙は、立ち止まった。
「あれ? あの子……」
「ん? どうした?」
道路の端に下水に繋がる側溝があり、側溝の向こう側は雑草が生い茂る空き地になっている。その草陰に隠れるように、その子はいた。
「いや、ちょっと……すいません、ちょっとここで待っててください」
首を傾げる重田を残し、草薙は走り出した。そこにいたのは、先日、草薙が助けようとした子供だ。子供は走ってくる草薙を見て、一瞬顔を顰めたが、逃げはしなかった。
「やあ、ようやく会えた、僕を覚えてるかな?」
「覚えてますよ、他人の喧嘩に割って入って返り討ちにされたお節介さんでしょう? こんなところでいったい何を?」
初めて口を利いた子供は、酷く大人びた口調で話した。
「あ、いや、僕は仕事で……」
容姿と言葉遣いが不一致で、面食う。草薙は答えに詰まりながらその子を見返した。先日は暗くて気づかなかったが、着ている服は酷く薄汚れていた。ビンテージというよりは、古着……古着というよりは、ゴミ捨て場から拾って来たようなボロだ。
「えっと、キミの家はこの近くなのかな?」
「別に、通りがかっただけですよ」
家を訊ねると、子供はムッとしたような顔をした。やはりそうかと勝手に頷く。
この子供は家出少年に違いない。こんな民家もなにもない町外れに、子供一人で歩いているというのが、まずおかしい。
「こんなところでなにを?」
「答える義務はないですね」
訊ねれば訊ねるほど、子供は不機嫌になる。だがそれは聞かれたくないことを聞かれたときの気まずさからくる不機嫌と見える。だからしつこく食い下がった。
「ああ、でも出来れば聞きたいな、家はどこ? お母さんは家にいる?」
「なんで、そんなこと、聞くんですか」
母親の話を出すと、子供はまた急に表情を変えた。後ろめたさを隠すかのように、落ち着きがなくなり、おどおどと、背後へ下がっていく。このままでは逃げられる。草薙は子供を怯えさせないように人の良い笑顔を作り、ゆっくり一歩を踏み出した。
「あ、えっと……ほら、ご挨拶とかしたいし……」
草薙のしどろもどろの説明を、どうとったのか、暫く弱々しい足取りで後ずさりしていた子供は、不意に顔を歪ませた。
「てめえナニモンだ? 警察か?」
「え……?」
突然呟かれた子供の声は、酷く敵意に満ちていた。いや、それよりも、その表情の険しさと、態度に驚く。まるで一端のヤクザかチンピラだ。思わず怯むと、子供は動きの止まった草薙を睨みながら、長上着を翻し、背中のほうへと右手を回す。
なにか隠している?
なんだ?
これからなにが起こるのか、観察しようと草薙は咄嗟に目を見張る。だが子供が何かを取り出す前に、背後から声をかけられた。
「草薙、お前なにやってんだ」
重田だ。
なかなか戻って来ない草薙を心配し、様子を見に来たらしい。声が聞こえたと同時に、子供は動きを止め、すうっと、潮が引くように、静かな面に変わっていった。その一連の動きが、八ミリ映画のアニメーションのように残像を描き、脳裏に焼きつく。それはまるで、今そこにいた誰かが、クルリと背を向け、出て行ったかのような印象だ。
だが子供はそこにいる。草薙は、どういうことだと、瞬きしながら振り返った。重田はそこで初めて、その子供に気づき、怪訝な表情で眉を寄せる。
「この子は?」
「あ、いや……」
訊ねられ、なんと答えていいのか迷った。考えてみれば、自分はこの子の名前も聞いていない。それどころか、声を聞いたのも初めてだ。答えに詰まる草薙とその子を交互に見つめ、重田はふんと鼻を鳴らした。
「なるほどな、このガキか、お前の肋骨の原因は」
「あ……」
草薙も思わず口ごもる。重田は胡散臭そうに表情を歪め、まるで大人に対するようにその子を睨んだ。
「答えんでいい、見りゃわかる、なかなかいい面構えだ」
チンピラに絡まれている子供を助けようとしたという話はしたが、年恰好までは話していない。それなのにそうと察したらしい。さすが元刑事だなと舌を巻く。
「で、お前さん、なにもんだ?」
「あなたに答えなきゃならない義務はないと思います」
子供の言葉遣いは元の余所余所しい敬語調に戻った。顔つきも、さっきより全然おとなしい。少し大人びているだけの小学生に見えるが、重田はなにか感じたらしい、ニヤリと笑い、子供の前に立つ。
「おお、言うね、義務はあんだよ」
重田はその子に、自分たちは刑事だと話した。驚いた草薙が、嘘はだめですよと言いかけるが、重田に遮られる。どうやらなにか考えがあるらしい。仕方なく黙った。
刑事だという言葉に、子供は驚かなかったようだ。だが気のせいか、その目には二人への蔑みが見える。
「警察ですか」
「そう、おまわりさんだ、嘘はダメだぞ、お前、家出少年だろ?」
「ハズレ、違います」
その一言で、それまでほとんど表情を崩さなかった子供も、意表を突かれたように表情を崩し、笑った。子供らしいとは言わないが、その子が笑うのを初めて見た草薙は、意外に普通な部分もあるんだなと、妙に感心しながら、話しかける。
「あれからどうしたんだい? 怪我は? しなかった?」
「別に……」
「でも血が出てただろ?」
「擦り傷ですよ、子供の擦り傷なんて、珍しくもないでしょう?」
「ああ、まあ、そうだけどさ……」
子供の遊びは危険に満ちている。小学生くらいなら、ちょっとした打ち身や擦り傷は日常茶飯事かもしれない。だがアレは違う。相手は大人だ。自分が駆けつけなければ、あのまま殺されていたかもしれない。言葉どおりに見過ごせない。
だいたいあの時間あんな所でなにをしていたんだ? こんな小さな子供が大人相手にトラブルなんて、絶対事件性ありだろう。そう考えると、事情を聞きたくなるが、なんと聞いていいのか思い浮かばない。草薙が戸惑っていると、重田が先に口を開いた。
「おいおい、助けてくれた恩人にその態度はないだろう? その節はありがとうございましたくらい言えないのか?」
「助けられた覚えはないですね、だいたいこの人が来なければ、連中も二、三発殴って終了だったんだ、こっちとしてもいい迷惑なんですよ」
「ほう……ヤクザと揉め事とは穏やかじゃないな、小僧、名前は?」
「聞いてどうするんです?」
「いいから名乗れ」
十二歳かそこらの子供に、重田は強い口調で名前を言えと迫った。普通の子供なら、その迫力と怖い顔に怯え、泣きべそになるところだ。だがその子は違っていた。早く言えと挑戦的に訊ねる重田を、濁った目で見返すだけだ。
子供が喋らないので、重田はその子の目の前まで近づき、子供と同じ目線になるように屈んだ。
「俺が優しく聞いてるうちに、早く名乗れよ、家なき子」
「国家権力振り翳し、年端もいかない子供に脅しですか? 警察もやることがヤクザ並みだ」
一人前に皮肉を返した子供の目は酷く冷たかった。しかし重田も怯まない。
「名前は?」
重田の目には、あからさまな敵意が見える。それは、これと睨んだ犯人を問い詰める刑事の目だ。
しかしいくらなんでもこの子が犯人というのはあり得ない。だいいちなんの接点もない。これは完全に八つ当たりだ。抗議しようとした草薙は、だが子供の返事を聞いてぎくりとした。
――フォックス。
「なに?」
「えっ?」
驚く二人を、子供は睨むような強い視線で見ていた。その目には憎悪すら浮かんで見える。
あの夜も感じた。なぜかわからないが、憎まれているような、そんな気になる敵意溢れた目だ。
しかし自分にはこの子に憎まれる覚えはない。もちろん重田にだってないだろう。草薙はそれを確認するように、背後の重田に振り返った。すると重田は、なにか自分に不利な証拠を叩きつけられた容疑者のような顔をして、子供を見返していた。
まさか本気でこの子を疑っているのか? 妙な予感に冷や汗が出る。しかしこんな小さな子があんな残酷な殺人を犯すとは思えない。
しかし重田はさきほども、まだ四歳のみゆに、犯人の手がかりを証言させようとしていた。考えてみれば常軌を逸している。目の前の子供を、犯人とするかもしれない。
草薙がそう考えを巡らせている間に、重田は子供の襟首を掴んで凄んでいた。
「嘘をつくな」
「なんで怒るんです? そう答えて欲しかったんじゃないんですか?」
襟首を掴まれ、噛み付きそうな顔で睨まれても、子供は怯まなかった。怯むどころか、冷たい目で重田を見返してくる。それは敵意というより、バカな大人をからかうような、蔑みの目だ。重田は握り締めた拳を震わせながら、歯軋りした。
「どういう意味だ? 俺は事件のことなんか言ってねえぞ、やっぱりお前、なんか知ってるな? なにを知ってる? さっさと吐いちまえ」
「やれやれ、こちらは無抵抗の子供ですよ? 自分の思い通りにならないからと暴力に訴えるようでは、ヤクザ以下ですね」
「なんだとっ!」
「重田さん!」
子供の挑発に乗り、重田は怒鳴る。握り締めた襟首を捻り上げ、その勢いに子供の身体は僅かに浮いた。さすがにこれはやり過ぎだと感じた草薙が慌てて止めに入る。
「やめてください、相手は子供ですよ、ちょっとふざけただけでしょう? 大目に見てやりましょうよ」
「どこが子供だ、こんな子供がどこにいる! おい、お前! お前はいったい何歳なんだ? 見た目どおりの歳じゃねえだろ!」
「なに言ってるんですか、歳をとらない人間はいませんよ、それとも刑事さんは僕が鬼か悪魔とでも?」
重田の暴言に、さすがに頭にきたのか、子供も不愉快そうな表情になった。これまで殆ど見えなかった彼の感情が、波だっているのがわかる。
「おう、そうさ、悪魔、お前は悪魔だ、そうじゃなきゃそんな口利けるわけがない、さあ言ってみろ、お前の名前は? 歳はいくつなんだ!」
「やめてくださいっ!」
あまりの言い様に、怒りが湧いて来た。相手は子供だ。年齢よりは大人びた口を利くし、少々捻くれてはいるが、それでも子供だ。彼が本当になにかしたとも思えない。
こんな子供に大の大人が殺せると、本気で思うのか? だとしたらそれはただの思い込み、偏見だ。草薙は、今にも子供を殴りそうな重田の腕を押さえ、後ろへと下がらせた。
「冷静になってくださいよ重田さん、まさか本気でこの子を疑ってるわけじゃないでしょう?」
「草薙……」
「重田さんが言った最初の事件は、今から五年も前ですよ? その頃この子はいくつだと思うんです、ありえませんよ」
「五年……か」
「そう五年です、まさか本気で歳をとらない人間がいるとか思ってるわけじゃないでしょう?」
「そう、だな」
草薙の言葉で理性を取り戻したのか、重田は黙った。だがまだ納得は出来ていないという顔だ。
これ以上、彼に非常識な行動はさせられない。未成年への恐喝、暴行罪で彼のほうが捕まってしまう。思い余った草薙は、治まりのつかない表情の重田を納得させるため、そして自分の気持ちの整理を付けるため、子供の保護を提案した。
「この子のことは、僕が責任を持って対処します」
「お前が?」
「ええ、見たところ、行く所もなさそうなので、とりあえず、家に引き取って様子を見ますよ、一緒に住めばあの子も少しは心を許すでしょうし、それでいろいろ聞いてみます」
それでいいでしょうと訊ねると、重田は未だ納得しかねる表情ながら、わかった、そうしろと頷いた。しかし、ありがとうございますと礼を言い、振り返ると、子供はとても不愉快そうな顔をしていた。
「引き取る? 正気ですか? 小汚い浮浪児の一人や二人、放っておいても世間に害はないでしょう?」
「必要があるとかないとかの問題じゃあない、僕がそうしたいんだ、大丈夫、僕はこのオジサンと違って大人だし優しい、人畜無害だ」。
草薙がそう言って胸を張ると、子供は目を丸くした。
「人畜無害って、能無しって意味じゃないの?」
「え? あれ? そうかな?」
「そうだよ」
決まってるでしょと、子供は笑った。だが笑われても不思議と腹は立たない。さっきまでの、冷たく大人びた言葉より、ずっと感じがいいからかもしれない。
草薙がほっとして微笑むと、子供は気まずそうに視線を逸らし、また壁を作った。
「あなたは、大人しく優しい、人畜無害の人間が、一番始末が悪いって、わかってますか?」
「え?」
「自分は善良だと信じてる人間が、実は一番厄介なんだ、目の前で犯罪が起きていても自分に関係なければ行動を起こさない、結局見殺しにするんです、同情も愛情も口だけなんですよ」
「いや、それは……」
子供の声は心なしか低く響いて聞えた。まるで、深い井戸のそこから響いてくる魔王の声のようだ。反論する言葉が見つけられずに黙り込む。すると子供はさらに、身振りを加えて続けた。
「だからあんたらは誰も救えない、真実が見えてない、いや、見ようともしてない、気にも留めてない、留めているふりだけだ」
子供は、なにかに急き立てられるように、酷く早口で話した。それがとても不自然だ。
「待ってくれ、言ってる意味がわからない、キミはなにか知ってるのか?」
子供の挑発に、つい声を高くして詰め寄った。それを振りきろうと子供はもがく。
暫しの揉み合いのあと、上着の袖が捲れ、細い腕が顕になった。
「え……?」
捲くり上げられ現れた彼の左腕には、赤黒く引き攣った火傷の痕があった。
それは深くドス黒く、肌に張り付き、肉の半分が壊死して出来た穴のように、少しへこんでいる。草薙も思わず絶句した。
言葉を失う草薙を見て、子供は憎々しげに顔を歪ませる。その表情に全てを察した。
この子は、心無い大人に酷い目に合わされたことがあるのだ、そしてそれを忘れられない。
大人を憎み、人を信じず、一人で生きる道を選んだ。可哀想な子だと思った。
子供一人で生きる。言葉で言えば簡単だが、現実はそうもいかない。十二歳やそこらでなにが出来るだろう? この子が、生きるために、なにか犯罪めいたことをしてきたとしても、それを責めることは出来ない。
食べなければ餓える。餓えれば死ぬ。誰だって飢え死には嫌だろう、切羽詰れば食い逃げくらいするかもしれない。あの夜、揉めていたのも、もしかしたらそういう経緯なのかもしれない。
「ごめん、言いたくないなら今は聞かないよ、聞かないから、とにかく僕とおいで」
「警察の言うことなんか信じると思うのか?」
「あ……」
彼の憎しみの具体的な理由はわからないが、おそらく警察にも恨みがあるのだろう。自分を追い詰める大人たちの群れに、警察機構も含まれるのだ。
「いや、ごめん、実はさっきの、あれ、嘘なんだ」
「ウソ?」
「ああ」
疑心暗鬼で全ての大人を敵に回そうとしている子供を安心させたくて、草薙はあっさりと白状した。
自分たちは刑事などではない、小説家とそのアドバイザーだ。そう教えると、子供の表情も微妙に変わる。しかし気を許す様子はない。ジリジリと後ずさる子供に、草薙は手を差し伸べた。
「キミの身元は探らない、ただ心配なんだ」
草薙が進むごとに子供は下がる。ここで逃げられたらもう二度と会えない。そんな気がして上ずった。
「キミの嫌がることはしない、約束する、信用してくれ」
「信用? 出来ないね」
信用という言葉に、子供は大げさに反応した。それまでよりずっと太く低い声で、身振りを交えて熱弁を振るう。
「信用という言葉に騙される人間は多い、自分は大丈夫だ、安全だ、信用してくれ? それで? 信じてどうなった? そいつは助かるのか? いや違う、助からないね、みんな自分が可愛いんだ、いざとなったら逃げちまう、残された者はどうなる? 信じ損だ、わかるかいお兄さん、信じたモンがバカを見るのが世の中なんだよ」
「そんなことない!」
「あるね、信用なんかした途端、足元を掬われて真っ逆さまだ、賭けてもいい、あんたもいつか逃げるんだよ」
「逃げないよ!」
何度訴えても、子供は信じようとしない。このままでは逃げられる。彼が逃げたからと言って、自分になにが起きるわけでもないのに、背中に熱い汗が流れた。追い詰められた焦りからか全身が火照る。
子供は半身を翻し、逃げ出す寸前だ、草薙はただ待ってくれと訴え続けた。
「おい、小僧、いい加減にしろよ、こっちは穏便にしてやってるんだ、あんまり聞かないと、通報するからな」
痺れを切らせたのか、そこで重田が割って入る。言うことを聞かない気なら、家出少年として警察に引き渡してやるぞと脅した。
子供はそれにピクリと反応した。重田の言動を見つめ、その真意を測るように口を結び、ただ目を凝らす。
「心配しないで、そんなことしない、だからこっちへおいで」
「どうせ後ろ暗いところがあるんだろ、早く頷いといたほうが身のためだぞ」
それでも躊躇う子供に、重田はさらなる脅しをかける。子供は草薙と重田を交互に見ながらも、じりじりと下がっていく。気ばかりが焦った。
「止めてください重田さん! 僕はそんなことしませんよ!」
本気で、やめてくれと思った。そんな追い詰め方ではこの子の信用は得られない。自分は彼を助けたいのだ。
怒鳴る草薙の剣幕に気おされ、重田も一瞬黙る。その隙に草薙は一歩踏み込み、下がろうとする子供を抱きしめた。
「信じてくれ、僕は絶対裏切らない、なにがあってもキミを護る、必ずだ!」
「なにがあっても?」
心からの叫びに、子供は初めて反応した。訝し気に少し首を傾げながら聞き返す。その僅かな反応を手掛かりに、草薙はなにがあってもだと、オウム返しに答えた。子供の瞳に光が宿る。
「その言葉に、自信はあるの?」
「もちろんだ」
それこそ自信満々に答えると、子供はニヤリと笑った。
「震度いくつくらい?」
「え? いや、えっと……?」
これは冗談なのか?
話の流れについて行けず、つい口ごもる。すると子供はプッと吹き出し、そのうちケラケラと声を出して笑いだした。
「お兄さん真面目過ぎ」
「え? ぁ、え、そうかな……?」
「自覚ないの、超天然」
一頻《ひとしき》り笑った子供は、急に気まずくなったのか、唇を噛んで俯いた。その姿は虐められて帰った小さな子のようで、胸が締め付けられる。この子には誰かの愛情が必要なのだと心から思った。
「おいで」
出来る限りの優しい声で草薙は、話しかけた。子供は暫くの間、差し伸べられた手と、草薙の顔と、その背後にいる重田を、交互に見つめていた。
「待ってろよ、今、美味いものを作ってやるからな」
子供を家につれて帰って、最初にしたのは夕食を作ることだ。
子供は誰かに食事を作ってもらったこともなければ、自分のために用意される料理を見たこともないと言って、覗きこんできた。その表情は年齢相応に可愛い。
「なになに、お兄さん、男のくせに料理なんかするの?」
「男のくせにとはなんだ、今は男女平等だぞ」
「なにそれ、どうでもいいよ、それよりなに作るの、ちゃんと食べれる?」
「食えるさ」
「ふうん」
自信満々にフライパンを振るったが、草薙だって特別料理が上手いというわけではない。一人暮らしなので、多少は自炊もするという程度だ。したがって出来はそう良くないが、自分で食べても、吐き出すほど不味くはない。まあまあ食える範囲のシロモノだろう。
妙な自信を持って、出来上がった料理を食卓に並べた。といっても、ただのチャーハンとワカメスープ、それに出来合いのマカロニサラダだけだ。だが子供は、目を丸くしてそれらを見つめ、食べていいんだぞと告げると、驚くほどガツガツと食べた。
「おいおい、もっとゆっくり味わって食えよ、チャーハンは逃げないぞ」
「なに言ってんの、味わうほどの出来じゃないよ」
「あ、言ったな! これでも自信作なんだぞ」
「これが自信作なの? お兄さん食生活貧しいね、可哀想に」
「あ、のな!」
少しムッとしたが、それ以上の反論は止めた。それは子供の表情が外で見ていた時よりずっと和らいでいたからだ。生意気な口も憎まれ口にしか聞えないし、なにより夢中でチャーハンを頬張る様子が微笑ましい。大人びた口を利き、世界の裏も表も知り尽くたかのような、したり顔をしているより、それはずっと好ましく感じられた。
今なら答えてくれるかもしれない……なんとなくそう思え、草薙は夕食を食べ終えた子供に、もう一度、名前を聞いてみた。
「もうそろそろいいだろ? 名前を教えてくれないか?」
だが、その途端、彼の表情は一変する。誰も信じていない、誰にも心を許さない、その決意を秘めた完璧な無表情だ。
「契約違反です、なにも聞かないといいませんでしたか?」
「でもほら、名前がないと、話し辛いじゃないか」
「それならフォックスと呼んでください、それでいいです」
「そうはいかないよ、なんか呼び難いだろ」
なにか他に名前はないのかと訊ねると、子供は目を閉じて暫く黙り込んだ。そして自分の中でなにか結論が出たのか、観念したのか、ゆっくりと瞼を開く。
「……ゼノです」
「ぜの?」
本名なのかなと戸惑いながら、オウム返しに聞き返したが、彼は小さく頷くだけで多くは語らなかった。
「オーケー、わかった、いいよ、ゼノだね、じゃあゼノ、これからもよろしく」
改めて頭を下げ、握手を求めると、ゼノは少し驚いて嫌そうに眉を顰めた。それに構わず右手を押し付ける。すると草薙の勢いに呆れたのか、ゼノは苦笑し、右手を差し出した。
ほんの一瞬、触れ合った掌は、とても冷たかった。
***
小説一本で食べていくほどの大作家でもなかった草薙は、物書きとは別に、普通の仕事も入れていた。書く時間を優先させたいので、それほどハードな仕事は出来ないが、軽いデスクワークや軽作業ならできる。目下の仕事は本屋の店員だ。軽そうに見える本も、束になれば結構重い。見た目よりはきつい仕事だったが、一日中本の見える環境というのも楽しい、そこは気に入っていた。
「ただいま……」
一日の仕事終えて家に帰ったとき、ゼノはだいたい不在だった。
雑事を終えて帰れば、帰宅時間は夜九時を回ることも多い。普通の子供ならその時間は家にいて、保護者の帰りを待っているものだ。早い家ならそろそろ寝入っている時間だろう。しかしゼノはいたためしがない。草薙が戻る時間が早くても遅くても、彼はいない。
あまり帰りが遅いので、最初の日は心配で、アパートの前でうろうろと途方に暮れながら待ち続けた。
戻って来たゼノは、心配して佇む草薙を見つけると、バツの悪そうな表情で目を伏せた。
「待ってなくていいのに……風邪、ひきますよ」
草薙と目を合わせないようにか、俯いたまま歩いてきたゼノは、小声でそう呟いた。言葉は冷たいが、仄かな温かみを感じて、心がほっとなる。殊更に無関心を装い、部屋に入っていくゼノを、どこか浮き浮きとした心地で追いかけた。
「お帰り、どこ行ってたんだい?」
「それを言わなきゃならない理由はないですよね?」
行き先を訊ねると、ゼノは途端に無愛想になった。手にした小さなクラッチバッグを長椅子に投げ捨て、そのままどっかと腰を下ろす様は、まるで年季の入ったヤクザかなにかのようだ。年齢のわりに貫禄があり過ぎる。
「いや、理由はないけどさ……」
呟きつつ、ゼノの様子を確かめると、頬骨のあたりに殴られたような痕があった。よく見ると、朝にはきれいだった服も薄汚れていて、所々切れかけている。また揉め事かと思えば、心も暗くなる。
「ないなら詮索しないでください、僕が何をしていようと、どこに行こうと、あなたには関係ない話だ、遅く戻るのが不愉快だというなら、出て行きますよ」
「そうは言ってないよ、ただ心配するだろ、そんなに汚れて、怪我までしてる」
「たいしたことないですよ、子供の痣なんてありふれたモノだ」
そりゃ、相手が本当に子供ならなと、草薙も頭の中で嘯いた。
もちろんゼノだって子供だし、どこが他の子と違うのかと聞かれれば困るが、誰が見ても違うということだけはわかる。だがそこを指摘して、お前は普通の子供じゃないだろと言うことは、さすがに出来なかった。
そんなことをしたら、自分は他の大人たちと同じになる。
ゼノを信じず、偏見を持った目で見て、彼は異常だ、普通じゃないと追い詰める大人。おそらくそれは彼の敵だ。そちら側へ分類されたらもう二度と、彼は心を許さなくなるだろう。
今だって気を許しているとまでは行っていないかもしれないが、彼を疑うことで、状況はずっと悪くなる。
少なくとも彼は今、自分を信じ、ここに戻ってきてくれるのだ。ようやく得たその信頼だけは壊したくない。
だから、彼が心を開き、全てを話してくれる気になるまで、気長に待つべきだと考え、その日も、追求はやめた。
***
「どうだ、狐坊主の様子は?」
「重田さん……」
子供と同居を始めて二週間、重田は毎日意味ありげな目をしていたが、その日、とうとう様子を訊ねて来た。しかし、その言い方がいただけない。
「狐って、その言い方はやめてくださいよ、あの子はそんな名じゃありませんよ」
狐なんて、それではまるであの子がFOX事件に関わりがあるかのように聞えるではないか。
──あり得ない話ではない。
ふと、そんな思いが過るが、それはあり得ないと首を振る。あんな小さな子に連続殺人など、物理的に無理だろう。
「じゃあなんだ、あいつが自分でそう言ったんだぞ、それとも、本名を名乗ったか?」
「本名じゃないとは思いますけど、ゼノだって」
「ゼノ? なんだそりゃ、何人だよ、偽名に決まってんじゃねえか」
「だから、本名じゃないと思うって言ってるじゃないですか」
「狐ってのも、馬鹿にしてるが、ゼノね、まったく、人を喰うにもほどがあるな、ますます怪しい」
「そんな……」
ゼノ=狐=FOXだ。
重田はそう言いたげだった。しかし口に出してそうと言うには相手が子供過ぎる。ゼノはまだ小さい、ほんの子供なのだ、どこからどう見ても、ごく普通の……。
普通の?
アレが普通か?
普通なんかじゃない、あの子供は普通じゃない。ではなんだと聞かれれば答えようもないが、あれはただの子供ではない。あれはまるで……。
「違う!」
「なんだ、どうした?」
心の声を否定するため、草薙は叫んだ。突然大声を出す草薙を見て、重田も首を傾げる。
「すみません、なんでも……」
自分が保護している子供を疑うなんてどうかしてる。草薙は項垂れた。だが重田は、さもありなんという顔で、草薙の肩を叩く。
「なにがなんでもないだ、あのガキのことだろ、お前にもわかるんだ、あいつは普通じゃないってな」
「そんなことないですよ! あの子はただちょっと捻くれただけの子供です、なんで重田さんはあの子のことをそんなふうに言うんです? なにか理由でもあるんですか?」
実はあるのかもしれない。半分そう思いながら聞くと、重田はそんなに言うなら、面白いモノを見せてやろうかと懐に手を入れた。
ほらと言って差し出されたのは、一枚の写真だ。若い夫婦らしき男女が写っている。
撮影されたのは室内、おそらく夫婦の住む家の一室だろう。手前に卓袱台があり、夫婦は仲良さそうに寄り添って写っている。
背後には大きな窓があり、窓の向こうには、少し荒れた感じの木々や空など、外の風景が見える。夫は自信に満ちた表情でカメラを見つめていた。その手は力強く妻の肩を抱き、妻も微笑んでいる。
「これが?」
そのなんの変哲もない写真をチラリと見て、訊ね返した。すると重田は、もっとよく見ろと写真の片隅を指差す。そこには部屋に置いてある三面鏡が映り込んでいる。
「ほらここ、よく見ると、この鏡部分に、子供が写ってるだろ」
「ああ……そういえば」
鏡に映り込んで見える小さな影は、ピントがブレているのでよくはわからない。子供かどうかさえ怪しい。その前に、本当に人間か? なにかの影が、人らしく見えているだけなのではないかとさえ、見える。
だが訝しがる草薙とは裏腹に、重田は熱心に話した。
「これは、この前話した事件の最初の犠牲者と思われる夫婦だ」
「ああ、金子巡査が発見したとかいうやつですね」
「ああ、写真は夫婦が殺される直前、つまり今から五年前に撮られた、で、ここに映ってる子供、ナニモノだと思う?」
「何者って……二人の子供、では?」
「違うね、夫婦には子供がいなかった、少なくとも、戸籍上はな」
「戸籍上……え? まさか」
その可能性に気づき、息を飲む草薙に、重田はそうさと大きく頷く。そしてもう一度、その写真を見せつけながら聞き返してきた。
「子供のない夫婦を映した写真に子供が映ってる、そいつは誰だ?」
「誰……」
「子供はいたんだ、だが何らかの理由で隠されていた、とは思わないか?」
「それは……」
重田は声を潜め、若い夫婦には、子供がいて、その子供は出生届けも出されずに、世間から隠されて育ったのではないかと囁く。それはただの憶測だが、それが本当なら痛ましい。
しかし……。
「でも、だとしたら、夫婦が死んだとき、この子はどうなったんです? その前に死んでたとしても、遺体が出るはずでしょう?」
「死んでなかったとしたら?」
「え……いや、生きてても死んでても、そこにいれば見つかるでしょう?」
「いなかったとしたら?」
「どういう意味です? なにが言いたいんですか」
重田は、若夫婦を殺したのはその子供なんじゃないのか、もしくは、子供は両親が殺されるところを見ていたのではないのか……そして、親の死を確認した後、自身で家から出て行ったのかもしれないと話した。
理屈としてはありだろうが、いささか話が飛躍し過ぎだ。それに、本当にそんな子供がいたのかさえ怪しい。草薙はあり得ませんよと写真を突き返した。
「あり得ねえか……まああり得ねえよな、けどな草薙、もう一度よく見てみろ、ここに映ってる子供、今お前んとこにいるガキ、ゼノに似てると思わねえか?」
「え……?」
重田に指摘され、もう一度写真の隅に写る子供らしき人影を見つめた。そう言われてみれば、似て見える。しかし写真はピントが合っていない上、ぼけていて本当に人間かどうかさえ怪しい。本人だと言われれば、そうとも見えるが、それもおかしい。
「重田さんは、あの子がこの写真の子供、殺害された若夫婦の子だと言うんですか?」
だが、その写真は五年前のモノだ、その中にいる子供が、今も同じ姿であるとは考え難い。それではあの子が歳をとっていないことになる。
――刑事さんは僕が鬼か悪魔とでも?
突然、あの日、ゼノが言ったセリフが頭の中で再生された。
まさかあの子は、本当に歳をとらないのか?
鬼か悪魔か、それとも幽霊……?
「あり得ません!」
草薙は、自分の中に湧き出た疑問に自ら嫌悪し、語尾を強めた。あの子はちょっと変わっているだけの、可哀想な子供だ。頭の中でそれだけを繰り返し、重田に食ってかかる。
「そんなありもしないネタに拘ってるから、事件が迷宮入りになったんじゃないんですか? もっと現実的に考えるべきだ」
「わあってんよ! けど俺はもうずっとこの事件を追ってんだぞ、やりつくしたわ!」
「それは五年前の話でしょ、それも独断の単独捜査だった、もう一度、冷静な目で調べれば、なにか違うモノも見えてくるかもしれない、そうじゃないですか?」
半ばヤケクソで言い返すと、重田もその勢いに押され、口を閉じた。だから草薙も、それで話を終わりにしようとした。だがそこで重田は急に顔を上げる。
「わかった、お前がそう言うなら、今から現場へ行こうじゃないか!」
「え? ぇえ?」
***
五年前、重田の所属する高輪警察署管内で、事件はおきた。
当時重田は、殺された金子の無念を思いながら、単独無断で、何度も、若い夫婦の殺人事件現場へ足を運んだという。そこで見つけたのが、さきほど草薙にも見せた一枚の写真だ。何度目かに現場へ足を向けたとき、箪笥と壁の隙間に落ちていたのを失敬して来たらしい。
「それ、違反じゃないですか? なにか見つけたら、捜査本部へ渡すのがルールなんじゃ?」
重田に連れられ、現場へ向かう車内で、草薙はやり過ぎですよと諭した。だが当の重田は意にも介さない。
「煩いな、その頃はもう本部もこの件は頭にもなかったんだよ、他に凶悪事件が相次いでたからな」
「だからってネコババは……」
よくないですよと言いかける草薙に、重田は固いこと言うなと開き直り、ようやく辿り着いた夫婦の惨殺現場へと足を踏み入れた。
殺人事件があった貸家など、誰も借りようとはしない。まして昭和の時代に建てられた古い平屋だ、借り手などつかないし、取り壊すにも金がかかるので捨て措かれてある。
放りっぱなしで荒れ放題の現場へ、重田はズカズカと入り込んで行く。草薙も慌てて後を追った。
「いいんですか、勝手に入って」
「気にすんな、どうせ誰も見てねえよ」
「そうですけど、家主の許可とか……」
「してられるか、こんなボロ屋、早くしなけりゃ壊れちまう」
「まあ……そう、でしょうね」
荒れ果てた室内を見回しながら、草薙も納得した。不良少年のたまり場にされているらしく、あちこちに空き缶やコンビニ菓子、カップ麺の食べかすなどがあり、畳や壁にはスプレーやマジックで書かれた落書きだらけだ。これでは今更証拠など出てこないだろう。
しかし重田はかなり本気のようだ。両手に手袋を嵌め、残された箪笥や押入れを開け始める。仕方なく、草薙もあたりを探った。だがさすがに事件後五年もたてば、なにも出てくるはずがない。全ては当時の警察が持ち出した後だ。見つけられるのは最近この貸家に出入りしているらしい不良少年たちの置き土産ばかりだった。
これは収穫ゼロだなと諦めかける頃、押入れの奥を漁っていた重田が、ちょっと来いと声を上げた。
「どうしたんですか?」
何気なく覗きこむと、重田は、押入れの床板を引き剥がしていた。なにもそこまでしなくてもと思ったが、よく見ると、その下には、丸い、クッキーの空き缶があった。
今はあまり見なくなったが、昔ならどこの家でも客用にとおいてあった、高級そうなクッキーの缶だ。湿気のせいか、年月のせいか、錆び付いて、あちこち穴が空き、ボロボロになっている。
両手で掴み、取り出すと、ぽろぽろと赤錆が落ちた。重田は、取り出した空き缶を床の上におき、そっとその蓋を開ける。中には、十数枚の写真が入っていた。
それは保管されているというよりは、見たくないから捨てたという感じで、薄汚れ、所々破けて、水滴や埃に塗れていた。
「重田さん、これ……」
「ああ」
その写真を見て、言葉を失った。そこにはゼノ……ゼノと思しき子供が写っていた。
生まれたばかりの赤子のゼノ。二歳くらいのゼノ。五歳くらいのゼノ。そして小学校へ入学する頃と思われる年齢のゼノ。
写真の中のゼノは、徐々に痩せて不健康になっている。写真越しでも確認出来る傷や、痣もたくさんあった。一際大きく目立つのは、左腕にある大きく変色した痣だ。
今も彼の腕に同じ痣がある。となると、やはりこれはゼノなのか? しかし、どの写真も、薄汚れ、滲んでいて、はっきりとは判別出来ない。ただそう見えるだけかもしれない。
草薙は、その写真の子供を、ゼノではないと思い込もうとしていた。
これは五年前の写真だ、彼であるはずがない。
カタン……。
その時、誰かが部屋に入ってくる気配がして、重田と草薙は慌てて身を隠した。
ギィイッと、外れかけたドアが開く音がし、薄い板張りの床を踏む音が続く。あきらかに人の気配だ。
そいつは何かを確かめるようにゆっくりと侵入してくる。その足音は軽く、かなり小柄な人間、もしくは子供ではないかと思えた。
やがて短い板床をひたひたと歩く足音はやみ、湿った畳を擦るような音がしてくる。ペタペタと響く足音は、靴も靴下も履いていない、素足を想像させた。今、隣の部屋だ。ゆっくりと、確実に、草薙たちのいる部屋へと近づいて来る。
息を潜め待ち構えていると、そいつは躊躇うことなく、その部屋へと入って来た。
誰だろうかと思ったが、相手から姿が見られないように、こっそり伺っていたため、足元しか見えない。やはり裸足だ。しかも、小さい。
子供? ……まさか、ゼノか? 咄嗟に視線を上げた。
「ぁ」
思わず出かけた声を、草薙は慌てて飲み込んだ。
入って来たのは、まさしく今まで、半信半疑で疑っていたゼノだ。目の前を平然と通り過ぎていく。
なぜゼノがここにいるのだ?
まさか本当に事件と関係があるのか?
あの写真の子供はゼノなのか?
ゼノは草薙に気づかず、押入れの横の壁に凭れるように座り込んだ。片膝を抱え、その膝に顔を埋めて俯く様子は、ひどく疲れているようにみえる。
俯いたゼノは、羽虫の羽ばたきほどの小さな声でなにか呟いていた。その声は、「声」と言うより「音」で、煙りや空気の流れに音があるとしたらこんな感じだろうと思われる。
なんといっているのか気になるが、小さすぎて聞き取れない。
焦れた草薙が身を乗り出そうとしたとき、ゼノは突然顔をあげ、押し入れの中を覗き見た。そして床板が剥がされているのを見つけると、驚きの表情で中を確認する。
写真はボロけたクッキー缶と共に、反対側に隠れている重田が持っている。そこにはなにもない。それに気づいたゼノは瞳を見開いて呆然としていた。口を固く結び佇む姿は、大事にしていた宝物を理不尽に奪われ壊された小さな子供のようで、胸が痛む。
思わず、ごめん、写真はここにあるよと言いかけるが、重田がそれを止めた。もう少し様子を見たいらしい。
様子を見たら、すぐ返してやってくださいよ。心の中でそう呟いて、草薙も黙る。
あとから考えれば、そのときすぐ、なにをしているんだと声をかければよかったのだが、ついかけそびれた。その隙にゼノは、床下から何かをひっつかみ、踵を返した。来たときと違い、恐ろしく素早い。外敵に気づいた獣が逃げ去るときのようだ。
ゼノの豹変に気を取られ動けなかった草薙は、同じく唖然とする重田と共にそれを見送った。そして数秒もたってから、慌てて動き出す。
「ゼノ!」
「待てっ、小僧!」
どたどたと足音も荒く、二人は外へと飛び出した。
だが、明るく、日差し溢れる小さな庭に、ゼノの姿はなかった。
貸家の外には車一台がようやく止まれる程度の狭い庭があり、庭は細い市道に繋がっている。舗装もされていない土埃の舞う市道は、ひと目で見渡せる直線道路だ。
道の片側は、似たような古い貸家が並んでいるが、どれも道から少し引っ込んでいて、隠れる隙間はない。念のため一軒一軒中を覗いてみたが、姿は見えなかった。反対側は、人も立ち入りたくないだろう、草茫々の雑木林だ。そこに潜んでいるとしか考えられないが、耳を済ませても、足音一つしなかった。
「チックショー!」
二人が呆然と佇む砂利道の端には小さな雑草が白い花をつけ、音もなく風に揺れていた。
その日は重田と遅くまで話し合った。あの写真は本当にゼノなのか、あそこに現れたのは本当にゼノなのか、だが、だどしたらあの子はナニモノなのだ。五年以上も歳をとらず、一瞬にして消え去る少年。それではまるでSFかオカルトだ、有り得ない。もっと現実的に考えろ。だがしかし……。 何度突き詰めても話はそこで止まり、堂々巡りにしかならない。それでも繰り返し議論し、気が付けば深夜になっていた。
「ただいま……」
帰宅した草薙は、部屋にゼノがいないことを確認し、溜息をついた。
テーブルの上に置いてある丸い目覚まし時計は午前零時を少し過ぎている。いつものことだが、こんな時間まで彼はどこで何をしているのだろう?
追及をはじめると、思い浮かぶのは昼間あの貸家に現れた姿だ。形はたしかに子供なのに、まるで数十年も生きてきたような静寂の目をしていた。いつも見ている顔なのに、よく知っている子なのに、その異様に気圧され、声をかけるどころか、身動きすらできなかった。
あの空気は子供の持てるものではない。
あれは……まるで……。
その先に思い及んだとき、草薙はゾッとした。
あのとき、追いかけて飛び出した道にゼノの姿はなかった。いかに小柄な子供とはいえ、時間的にも、地形的にも、人ひとりが消えてしまうのは納得できない。まるで白昼夢だ。
重田にも、あれは二人の先入観が見せた幻ではないかと話したぐらいだ。しかしまさかそれもあり得ないだろう。
自分はこれまで普通の世界で真っ当に生きてきた。妙なドラッグもやったことがないので、幻覚をみるという経験もない。だからそれがどういうものなのかは想像することしか出来ないが、そもそも幻覚とは、あんなにはっきりと見えるモノなのか? 真昼間、あの姿はあまりに鮮明だった。
あれは幻なんかじゃない。本物だ。だがそれでは消えたことはどう説明する?
どうしてもそこで行き詰まり、結論はでない。
ゼノは、なにか隠している。あの子には大きな秘密がある。それだけは事実だ。しかしわからないことを考えていても仕方がない。零時を回ったし、ゼノももうすぐ戻ってくるだろう。きっと腹を空かせている。食事の支度をしておこうと、草薙は腕まくりをした。
遅い(遅すぎる)夕食のメニューはクリームシチューだ。子供に人気の品だし、誰でも作れる。
だがやがて帰って来たゼノは、張り切って作ったシチューを見て、どうせならカレーが良かったと子供っぽく呟いた。せっかく作ったのにと力が抜けたが、なぜかちょっと嬉しかった。我儘《わがまま》を言うのは気を許しているからに違いないと思うからだ。
「そういうなら食うな」
「僕が食べなけりゃ誰が食べるんですか、やせ我慢しないで、早くよこしなさい」
「やせ我慢はどっちだよ、まったく……」
ぶつぶつと文句を言いながらもテーブルに皿を並べ、二人で向かい合って食べた。ゼノは相変わらず無口で、余計なことはほとんど話さないが、初日よりはずっとしゃべるようになった。時々、ちょっと子供とは思えない鋭い意見を言うので、そのたびドキリとさせられるが、それも楽しい。
「犯人はこの男だ、間違いないよ」
「え、なんで?」
食べながら何気なくつけた深夜ニュースで、若い女性の殺人事件が報道されていた。
被害者は二十八歳の女性、職業はホステスだ。ニュースの映像では知人が撮ったという女性の自宅が映し出され、映像は室内と玄関先、ドア口付近まで流された。一人暮らしの女性の部屋というには少し乱雑ではあったが、これといって目立つ不審点はない。
近隣の住人の証言では、彼女はストーカー被害にあっていたらしいという話で、それを裏付けるように、ドアスコープには、目張りがしてあった。だがストーカーらしき男の姿を見た者はいない。
女性は実家を遠く離れて暮らしており、交友関係も少ない。ストーカー被害届も出していなかったらしい。捜査はいきなり暗礁に乗り上げているとアナウンサーが淡々と原稿を読み上げた。
一人暮らしの女性を狙うなんて卑劣極まりまない。いったいどこの誰がこんな酷いことをと草薙は憤った。
だがそこで被害者の恋人という男のインタビューが流されたとき、それを見たゼノが、こいつが犯人だと言ったのだ。
「なんで……?」
「なんで? 犯人でなければ、なんでこんな早朝、彼女の家に行ったんです? 午前五時ですよ、早すぎます」
「いやでも、前の日にデートの約束をしてたのに、彼女が来なかったから、様子を見に行っただけだって……」
「それもそいつが言ってるだけでしょう? 二人が付き合ってるという証拠は? 裏は取ったんですか?」
「それは、わからないけど……」
「取ってないはずだ、もしくは取れてない、犯人はこの男ですよ、第一発見者を装う、よくある手だ」
「なんでそう思う?」
「簡単ですよ、この女に男なんかいません、それだけです」
「え……?」
断言するゼノには、なにか確信があるようだった。しかし事件は今初めて報道されたばかりだ、なぜそう言い切れるのかわからない。だがなぜと問い返すと、一瞬だけ、顔を顰めたゼノは、ただの勘ですよと答えた。
「待てよ、そんなはずないだろ、なにか根拠があって言ってるんじゃないのか? 知ってるなら教えてくれ」
「知りません」
「ゼノ!」
しつこく問い詰めると、ゼノは仕方なさそうに画面を指さした。
「さっき、彼女の部屋の写真が映ったでしょ、そのとき、机の上に雑誌が置いてあった、それと、カード」
「え、そうだっけ?」
「そうです、で、その雑誌がマイノリティものなんですよ」
「マイノリティ?」
意味がわからず、草薙は首を傾げる。するとゼノは指先を輪っかになるように繋いでみせ、少し低い声で、「サッフィー」と言った。
「さ? なに、それ?」
「やだな、物書きのクセに、察してくださいよ」
「関係あんのかよ」
「ありますよ、もっと調べてください」
「ごめん、お手上げだ、教えてくれないか」
自分で調べろと、ゼノは口を閉ざした。ここまで来てそれはないだろうと、草薙も突っ込んでいく。するとゼノはやれやれと首を竦め、ソファに寄りかかった。テーブルの上からカップをとって、コーヒーを飲む仕草など、大人びて憎らしいくらいだ。
「雑誌の名前です、サッフィー、レズビアン専用の出会い系雑誌だ」
「え?」
「それに、カードも置いてあった、あれ、レズビアンバーの会員証です」
「ウソだろ……」
「本当です、二丁目にある、ラレルって店だ、行ってみればいい、きっと常連ですよ、数あるレズビアンバーの中でもラレルはミックスがないことが売りでね、つまり彼女に男なんかいないってことです」
「ミックスがないって?」
「そこからですか?」
「すみません、そこからです」
教えてくれと頼むと、ゼノは、なんでこんなことまで説明しなきゃならないんだと、大げさに首を振り、呆れ顔で説明した。
「スタッフはもちろん、客も従業員も全て女性、男性は入れないってことですよ」
「え、普通はそうじゃないのかい?」
「違いますよ、ゲイバーだって女性客を拒まないでしょ、ハッテン場だと普段は男性オンリーだけど、それでも女人禁制ってわけでもない、異性を完全にシャットアウトするってのは、客の半分を切ることになるんだし、店側としてはリスクもあるんです、だから普通はレズバーでも男性客を拒みはしないし、普段は入れなくても、特別な日を設けて入店出来るようにしてたりする……けど、ラレルにはそれがないんですよ、完全女性オンリー、それだけガチってことです」
「へえ、すごいな……なんでそんなこと知ってるんだ」
「ちょっと、知り合いがいるものでね」
「知り合いって……」
どういう知り合いなのだと言いかけると、ゼノは、たちまち不機嫌になった。
「契約違反です、こちらのことは詮索しない、そういう約束でしたよね?」
「ぁ、まあ、それは……」
「ならあとは自分で確かめるか考えるかしてください、くれぐれも、店へ行って、僕から聞いたなんて言わないでくださいよ? 営業妨害だ」
少し低くなった声でそう釘を刺し、ゼノはリビングから立ち去ろうとした。まさかこのまま出て行く気じゃないだろうなと焦り、草薙も立ち上がる。だが、どこへ行くんだと問いかける草薙に、ゼノは寝所《ねどこ》と答えた。
寝所ということは、眠るということだろう。それならいいと、草薙は再び座り込む。
「途中まで上手くいってたのにな……」
にこやかに食事をし、たいした意味のない会話を楽しく交わし、穏やかに過ごした。ニュースの話をするまでは機嫌も良かった。
テレビなどつけなければよかったと思いながら、草薙は、眠りについたろうゼノの部屋の扉を見つめた。
なぜゼノがそんな如何わしい店の中の話を知っているのか、なぜあんな大人のような口を利くのか、問い質し、言わなければ調べるべきだと思いつつ、それを躊躇った。
その謎に迫れば、あの子は消える。そんな気がして、怖かったのかもしれない。
***
「こんな時間にどこ行くのよ」
「別に……ちょっと川を見に行こうかなって」
前の晩、草薙と軽い言い争いをした。それが引っかかっていたのかもしれない。浅い眠りのあとの目覚めはだるく、意識がしゃんとしない。だから川を見ようと思って昼前に外に出た。天気は明るい花曇り、散歩するにはちょうどいい。
「また川? あんた川好きねえ」
なにがいいのとフィーンは呟き、道端の小石を蹴る。オウガは先を行く二人の後ろから、黙ってついて来る。
ゼノは、川を眺めるのが好きだった。水の流れを見ていると、自分の中の汚い部分まで流され、清められていくような気がする。
「なにそれ、アンタうんこなの? アタシは流されるなんてごめんだわ」
「酷いな、でも僕らが初めて会ったのも、川辺だったじゃない」
「まあね」
フィーンと出会った地、そして、初めて「彼」と言葉を交わした地。それだけでも、「川」はゼノにとって、意味のある場所になっていた。
人が水辺を好む理由など、だいたいそんなものだ。なにか面白くないことがあれば、だいたい川に向かう。
だから今も、験直《げんなお》しに川へ行こうと考えた。だがそれを話すと、フィーンは件《くだん》の失言の上げ足をとる。
「そういえばあんた、なんであの間抜けにあんなこと言っちゃったわけ?」
「たしかにな、ただでさえ疑われてるんだ、余計なことを話して妙に勘繰られても困る」
それまで黙って二人の後について来ていたオウガもしゃべり過ぎだと釘を刺す。
「あれくらい……どうせバレやしない」
本当はゼノ自身も、余計なことを言ったと思っていた。しかしなぜか素直に頷けず、つい投げやりに答えた。すると二人は、かわるがわる、そういう問題ではないと文句を並べる。
「草薙がラレルへ行ったらどうなる、そこからこっちの正体がバレるぞ」
「まさか、行かないよ、もし行ったとしても、ラレルは男子禁制だ、入れてもらえないし、話は出来ないんだ」
「わかんないわよ、ああいうのに限って意外に大胆なんだから、なんか掴むかもしれないでしょ」
「万が一ということもある、店には釘を刺したほうがいい」
「そんなことしたらかえって怪しいよ」
「面倒くさいな、今のうちにブチ殺しとこうか」
「殺らないまでも、なにか対策が必要なんじゃないか?」
「そこまでしなくても……」
フィーンとオウガは放ってはおけないと詰め寄る。話を大きくしたくないゼノは、返事に詰まった……と、そこで丁度よく、携帯が鳴る。
「待って、電話だ」
「そんなのほっときなさいよ、こっちの話のが大事だわ」
「わかってるよ、でもちょっと待って」
ゼノは、フィーンを宥めながら、通話ボタンを押した。
────俺だ、今日のぶんは済んだか?
かけてきたのは新貝だった。仕事は済んだのかと訊ねている。だがいつもは確認などしない。それに、時間的に言っても催促が早すぎる。
「ずいぶん早い催促ですね、まだ昼過ぎたばかりじゃないですか、これからですよ」
「なんだ、さっさとやれよ、それが済んだらちっと話したいことがあんだよ」
「話したいこと?」。
新貝は何かあれば直接やって来る。それが電話予約するなど珍し過ぎる。今は塒《ねぐら》が他人の家なので、そこに易々と訪ねて行けないからかもしれないが、それにしても早すぎる。これはなにかあったとみるべきだろう。
「ちょっと! あんたひとの話、聞いてんの? (電話)切りなさいよ!」
話の腰を折られたことで、フィーンはテンションを上げる。彼女の機嫌を損ねると手が付けられなくなる。ゼノは胸の内だけで溜息をついた。
「誰からだ?」
イラつくフィーンを背後に押しやり、今度はオウガが出てきた。
自分たちは闇の住人だ。連絡先を知っている人間は限られる。かけてくる者はさらに少ない。ゼノは新貝だと答えた。
「新貝? フォックスか? こんな時間に?」
「ああ」
新貝はいつもノーアポだ。時刻はだいたい夜中過ぎか明け方、こんな真昼間は珍しい。
「あいつが電話してくるなんて何事だ? おかしいじゃないか」
「なんか、会いたいんだって、どうする?」
「必要ないわ、用なんてないし」
「いや、会おう、なにか嫌な予感がする」
「必要ないって言ってんでしょ! あいつは何考えてるかわかんない男よ、話すことなんてないわ!」
「よせ、フォックスは敵じゃない」
「敵よ! 信用出来ないわ」
「俺たちが捕まれば奴だって困るんだ、裏切りはしない」
「は? 何言ってんの? アイツは大人よ、汚らしい男よ、信じたらバカを見るのはこっちなの!」
話してみるべきだというオウガの言葉に、フィーンは嫌悪感剥き出しの顔で叫んだ。彼女にしてみれば、大人、まして男は、全員敵に思えるのだろう。ゼノはまだ子供に近いので免除だが、大人の男はとことん嫌う。
オウガは十八だが、背が高く、体格がいいので、ぱっと見たところ、成人に見える。おかげで、彼の寡黙で断定的な性格とも相まってか、フィーンとの相性はあまり良くなかった。
自分の容姿がフィーンのお気に召さないことは、オウガもわかっていたが、直せと言っても、無理だ。苛々としながら文句を返す。
「俺たちにはあの男が入用《いりよう》なんだ、少しくらい我慢したらどうだ」
「うるさいわね、あんたの意見なんか聞いてないわ! アタシが嫌だって言ってんのよ」
「フィーン、やめなよ」
「なにが! 冗談じゃないわ、なんでオウガに指図されなきなんないの? ああだこうだボス気取り、エラそうに!」
「悪かったな! そんなに嫌なら話さなきゃいいだろ!」
ゼノが自分ではなく、オウガの味方をしたと思ったのだろう、フィーンはヒステリックに怒鳴る。それにつられ、オウガも怒鳴りかえした。これではめちゃくちゃだ。
「もういいよ、わかった、フォックスとは話さない、携帯も捨てる、僕らだけでやろう」
「何言ってんだ! よせ!」
携帯を捨てると言うと、オウガは慌て、ゼノとフィーンを押しのけた。
「かせ、俺が出る、話したくないならお前たちは引っ込んでろ!」
ゼノから取り上げた携帯を片手に、オウガは、暫く躊躇い、深呼吸してから、電話に出た。
「わかった、ではマンホールで会おう」
「懐かしいね、いいぜ、じゃ時間は今から二時間後だ、それまでに仕事は済ませて来いよ?」
「努力はしてみる、期待はしないでくれ」
「努力ってのは目に見えねえもんなんだよ、結果が全てさ、結果を持って来いよ?」
「後で会おう」
「ああ、期待してるぜ」
二言三言、短い会話で要点だけ話し、電話を切った。
待ち合わせ場所に例の川辺を指定したのは、ゼノの影響かもしれない。
その川に、オウガ個人としての思い出はないが、そこはやはり意味のある地に思えた。彼と出会い、自分たちの運命が変わった場所だ。
「聞いた通りだ、二時間で済ませるぞ」
「無茶だ」
「なに勝手に請け負ってんの、バカなの?」
オウガの宣言に二人は意義を唱える。しかしオウガも譲る気はなかった。携帯の向こうからは、ただならぬ空気を感じた。きちんと会って話すべきだ。
ゼノもフィーンも子供過ぎる、大人に近いと言っていいのは自分だけだ。冷静に全体を把握できるのも自分だけだろう。だからここは非情でも横暴でもいい、二人を護るためにも、自分がその責を負わなければならない。
「別にお前にやれとは言ってない、仕事は俺がやる、お前たちは休んでろ、特にフィーン」
「なによ!」
「お前は出てくるな、話が拗れる」
「ふざけんな! あんたの指図なんか受けないって言ってんでしょ!」
「やめなって、フィーン」
「ゼノ、お前もだ、少し休んでろ」
引っ込めと言うと、ゼノは当惑した顔をした。言い方が悪かったかなとは思ったが、そこで訂正してもわざとらしい。だいいち、何といえば二人を傷つけずに済むのかが思いつかない。仕方なく黙った。ゼノも、フィーンも口を閉ざす。
二人は無言で闇に消え、残されたオウガも、同じく無言で歩き出した。
オウガが、その日予定していた三件の取り立てを済ませ、待ち合わせの川辺へ向かったのは、十七時過ぎだった。一時間半ほどの遅刻だ。
それでも新貝はいるだろうと軽く考えながら、河原へと降りていく。
川は水深がかなり深く、流れも速い。噂では肉食の外来魚もいるとかで、遊泳禁止、釣りも禁止だ。嘗《かつ》てフィーンが住んでいた排水溝も、最近ではすっかり汚れ、水質も悪化した。行政はあたりを危険区域として立ち入り禁止の看板を立てている。
だが世の中、何事も建前だけだ。看板はあれど、管理者はいない。金の入ったクラッチバッグを抱え、オウガは看板の横をすり抜けた。
暫く天気が続いたので堤防土手の土は乾いていて、歩くたび土埃が舞う。あたりは茶色く霞み、景色が見づらい。だが、音はよく聞こえた。
下のほうで、誰か複数人が、怒鳴り合っている。いや、争っている。
大勢で一人を嬲っているようだ。
嫌な予感に足を速める。背の高い雑草が邪魔でよく見えないが、土手を降り切ったところではっきりと視認できた。数名の強面に捕らわれ、嬲られているのは新貝だ。
散々に殴られ、顔中血だらけになった新貝を、数名の男が取り押さえ、さらに痛めつけようと、腹に蹴りを入れている。立膝をつくように抱えられた新貝は、まだかろうじて意識があるのか、自分を殴る男たちを、ぼんやり見ていた。口元には僅かな笑みが湛えられ、不気味さが漂う。得体の知れない恐怖にかられたように、男たちはムキになって新貝を攻めていた。
経緯はわからないが、新貝は一応身内側だ。フィーンに言わせれば、信用出来ない男だが、無視も出来ない。ここは恩を売る意味でも、助けておくべきだろうと考え、オウガは懐《ふところ》から縁引き針を取り出した。
足音もなく走りながら針を固く握り直し、一番手前にいる男の背に突き立てる。咄嗟のことで避けきれなかった男は、ほとんど一撃で倒れた。オウガの針は男の心臓を掠めて肺を貫き、男が血反吐を吐く。
「テメッ何もんだ!」
驚いた男の仲間たちが口々に叫び、何人かがやっちまえと飛び掛かって来る。そいつらを殴り、一人、また一人と針を刺しながら、オウガは舌打ちをした。
人数が多過ぎる。
自分の武器は、一対一の不意打ちを想定した小さなものだ。こうした大きな立ち回りには向いていない。フィーンのナイフを使えばいくらかマシだろうが、彼女は出したくない。それに、フィーンなら連中を倒したあと、新貝のことも殺しそうだ。それも困る。仕方なく、孤軍奮闘した。
長い時間をかけ、そこにいた男たち、総勢六名を倒したオウガは、自らも傷つき、ふらふらになりながら、排水溝横のコンクリートに座り込んでいる新貝の元へと歩いた。
力を使い果たしたのだろう、足が縺れて上手く歩けない。そのまま倒れこむと、新貝は傷だらけの顔でくすりと笑った。
「どうした、へろへろじゃないか」
「新貝さんだってへろへろでしょうに」
「俺か? 俺は休んでただけさ、こんなの別に、痛くも痒くもねえな」
「ずいぶんな強がりだ」
「ははっ」
自分が助けに来なければ、今頃殺されてたかもしれない。なぜこんなことになったのだ、奴らは何者だと訊ねると、新貝は血だらけの指で懐を探り、煙草を掴みながら答えた。
「筒井組の連中だろ、ガキのくせにやくざの縄張りに手、出すなとさ」
「新貝さんをガキ呼ばわりですか」
「奴らから見れば、俺もお前も同じさ、目障りな余所者、生意気なガキなんだろ」
「新貝さん、いくつでしたっけ?」
「歳なんか聞くな、気が滅入るだろ、だいたいお前、来んのが遅えんだよ、お前が来ると思って、奴らをここに誘い込んだっつうのに、いっこうに来やしねえ……死んだらどうすんだよ」
「結果、間に合ったんだから良しとしましょうよ」
「間に合ってねえよ、色男が台無しだ、慰謝料取んぞ、こら」
「勘弁してくださいよ」
コンクリートに寝転んだまま、軽口を叩いていたオウガは、そこですっと半身を起こした。呼び出しの真意が聞きたい。
「で、今日はなんの用です? 話とは?」
勢いきって訊ねると、新貝は右手を差し出した。まずは上りが先、ということらしい。渋々と金を渡す。
先を聞きたがるオウガをからかうように、新貝はゆっくり札を数えた。オウガはじりじりしながら待ち続ける。彼は札を三度も数えてから良し、と小さく呟き、そこから三枚、オウガへ渡す。
「ネコババはしてねえな、感心、感心」
「そんなことしませんよ」
「そうだな、子供は素直が一番だ」
「で?」
彼とは、子供の頃に出会っているせいか、いつまで経っても子供扱いだなと息を吐きながら、オウガは再び訊ねる。新貝は咥えた煙草に火を点け、深く吸い込んでから、煙りと一緒に芝居じみた科白《せりふ》を吐き出した。
「気をつけろ、警察が動いてる」
「え……?」
「今日、うちに探りに来た、連中はそれほど間抜けじゃねえ、今みたいなやり方を続けてたら、何れ捕まるぞ」
「なにか聞かれたんですか?」
「連中、俺か俺の部下が連続殺人犯だと思ってるらしい、アリバイを聞かれた」
「それは……」
不味いですねと言いかけるオウガを新貝は睨む。機嫌が悪そうだ。
「最近派手過ぎんだよ、なに気取ってんだ、署名なんか残すな、闇から闇、それが続ける秘訣だぞ」
しかしそれではフィーンが納得しない。
彼女はすべての人間を憎んでいる。今は署名を残し、自分たちの存在を主張することで、かろうじて押さえている状態だ。それをやめたら見境をなくすだろう。それは困る。
答えを躊躇っていると、新貝はオウガの後頭部をぺシンと叩いた。そしてよろめく肩を抱き寄せながら、耳元に唇を寄せる。
「お前の護りたいもんはなんだ? よく考えろ、このままじゃ破滅だぞ」
「え?」
小声で囁かれる言葉に思わず顔を上げる。新貝は真剣な顔をしていた。
「お前、オウガだろ? 話せてよかったよ」
「なんで?」
「見くびんなよ、何年付き合ってると思う」
長い付き合いにはなるが、新貝と直接話したのは実は初めてだった。いつも電話越しか会うときはゼノを介して話す。話せて良かったと言われ、オウガは言葉を失くした。すると新貝は一瞬ニヤリと笑いかけ、すぐ真顔に戻った。彼の視線はすでに遥か彼方だ。
「銃、渡したろ、必要ならそれも使え、足は付かねえ、さっきも、もう少しでやられるとこだったじゃねえか、もっと考えて動くんだよ、いいな?」
そういう新貝さんはと聞き返すと、俺は考えてると不愛想に返された。しかしあのリンチシーンを見る限り、それもあまり信用は出来ない。彼も見境のない子供だ。
だが、それもいらぬ心配なのだろう、新貝はもう帰れと言いながら、探りを入れてきている刑事の名前の書かれた紙と写真を、オウガに渡した。
「何度も言わせるな、しばらく自重するんだ」
「しかし……」
「捕まれば全てが終わりだぞ、自重しろ、いいな?」
独断でわかったと返事は出来ない。だが、新貝の言っていることは正しいと、オウガは理解した。
「考えておきます」
「おう、考えろ、よくよく考えて動け」
「はい、そうしますよ」
すみませんでしたと頭を下げ、帰りかけたとき、ふと気になってオウガは振り向く。
「新貝さんは? 大丈夫なんですか?」
「別に、敵だらけなのはいつものことだ、子供は早く帰んな、後始末はしとく」
燃え尽きた煙草を排水溝に投げ込んだ新貝の横顔は、沈みかけた夕日に紛れ、よく見えなかった。
町の外れに大きな川があった。海へと続くその川は、水深も深く、さらに違法に放たれた肉食の外来魚も繁殖している危険な場所だ。当然遊泳禁止地域であり、釣り人もほとんどない。
その川の外壁に、町中から集められた下水が川へと流れる排水口があった。出口付近は高さ一メートルほどしかなかったが、奥に向かえば直径四メートル以上になる場所もある。ネズミどころか、大蛇やワニだって軽々と住むことができそうな下水管だ。その町で流れ出た汚水の殆どが、そこを流れ、下水処理場で浄水され放流される。
その排水口から少し離れた川岸の草むらに、酷く痩せた小さな子供が倒れていた。
身体中傷だらけで血塗れのその子は、腫れて半分しか開けられない瞼を開き、オレンジ色に霞む世界を見つめていた。
ここで死ぬのかな?
子供はまるで他人事のように、自分の死を考える。そこに生への未練はない。だが目を閉じようとしたとき、遠くから人の声が聞こえて来た。
「たとえばうちでお前をミンチにして便所にでも流しちまえば、糞と一緒に下水処理されてこの川へ流れ着くって寸法さ、そうなりてえか?」
夕刻の日差しがあたりをオレンジ色に染める中、金髪に近い薄茶色に髪を染めた、まだ若そうな男が凄む。脅された男は、そいつよりも二回りも大きな身体を震わせ、許してくださいと地面に頭を擦り付けていた。
「広い下水管ん中、あっちへふらふらこっちへズドーン、無料の水上コースターを楽しんだ後、綺麗に洗ってもらってここへ流される、快適な旅だろ? 憧れねえか?」
「勘弁してください、助けてください、もう二度とやりません、本当です、命だけは……」
「なんだ、コースターは嫌いか?」
「お願いです、勘弁してください!」
ひたいを擦りつけたまま、ひたすらに許しを請う大柄な男を、金髪男は面白くなさそうに見下ろす。周りには、金髪の手下どもが同じような顔で睨みを効かせ、うろうろしていた。
金髪はその中の一人、二メートルはあろうかという背の高い男に顎をしゃくり、背後へ下がる。するとすかさず別の男が折り畳みの携帯椅子をどうぞと広げた。金髪がそこに座ると、もう一人が細身の葉巻煙草を仰々しく手渡し、また別の一人が金のライターで火を点ける。金髪がそれを一吸いすると、それを合図のように、最初の背の高い男が動いた。
ひれ伏して土下座している大柄な男の右耳すれすれの位置に、ドスンと音を立て、短刀が突き立てられる。ビクリと大きく跳ねた大柄な男は、子ネズミのように震え、ひいひいと空気の漏れるような声を上げた。
「ミンチは嫌か?」
背の高い男に訊ねられた大柄な男は、必死に頷く。背の高い男は暫くそれを見つめ、ゆっくり立ち上がった。コンクリートの上には、突き立てられた短刀が残る。
それを拾って振り回せば、この場にいる何人かは殺れるかもしれない。しかし男は情けなく土下座したまま、顔を伏せ続けていた。そこに天の声が降る。
「オーケー、わかった、じゃあこうしよう、お前、塚原と決闘しろ」
「え?」
ひれ伏していた男は、驚いて顔を上げる。その拍子に金髪と目が合い、慌てて逸らせた。
男のこめかみには冷や汗が滲み、背中もびっしょりだ。生きるか死ぬか、その選択を迫られ、思考はめまぐるしく回転する。
塚原とは、そいつの目の前に立つ、背の高い男のことらしい。
細身で異様に背が高い塚原は、金髪から指名されても顔色一つ変えず、濁った硝子玉のような目で、ひれ伏した男を見ていた。
「俺は強いモノが好きでね、塚原はうちで一番強い、そいつを倒せたら、お前にも価値があると認めようじゃねえか、塚原も、いいな?」
「はい」
塚原は落ち着いた声で頷き、ほんの半歩だけ前に出た。それだけで空間が歪んだように、風さえ生温くなった。
塚原の足が進むたび、その場の重力が増す。その異常空間で、ひれ伏した男の精神は擦り切れ、限界を越えたのだろう。手元に落ちていた短刀を握り締め、雄叫びを上げて立ち上がった。
男は、どうせ殺されるなら一人でも道連れにと思ったのか、それともただ自棄になっただけか、施された短刀を先頭に、塚原へと突進した。だがその切っ先が届くより早く、塚原は少しだけ身体を捻ってそれをかわす。突き立てられなかった短刀が空を切り、男は勢いで前のめりに倒れ掛かった。塚原はそれを見逃さず、背後から男を蹴りつける。
「うわっ……わっ!」
倒れた男の背に塚原の手が乗せられる。起き上がれなった男は、ひいひいと息を乱し、手足をバタ付かせた。
脅しの言葉も、前置きもなく、男の背を右手で押さえたまま、塚原は空いた左手で男の首を捻る。グキッと鈍く嫌な音がして、男は絶命した。塚原は男が死んだことを掌で確認し、ゆっくりとその場を離れる。
すべてが一瞬で、静か過ぎた。驚く間も、慄く間もない。金髪男も、面白くなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。
「なんだ、もう終わりか? 塚原、お前本当にサービス精神がねえな」
「申し訳ありません」
もっと楽しませろよと金髪がぼやきながら立ち上がる。塚原はすみませんと頭を下げ、畏まった。金髪もそう怒っているわけではないのだろう、まあいいさと頭を掻き、他の連中に、死体の始末を言いつける。
男たちは行儀の良い返事をして、死んだ男の身体を持ち上げ、横を流れる川へと運んで行った。金髪男は、それを確かめるでもなく腕組みをしながら、川の下流を眺めていた。
「ったく、使えねえな」
「すみません」
「お前のことじゃねえよ、あいつだ」
「はい」
あいつとは、たった今、始末した男のことだ。塚原は、新人の教育も自分の仕事なので、きちんと仕込めなかった自分の責任です、申し訳ありませんと、三度、頭を下げる。律儀に謝る塚原に、金髪男は苦笑した。
「お前ほんと、真面目だな」
「すみません」
「いちいち謝んじゃねえよ、ナンバー2が、謝ってばかりじゃカッコつかんだろうが」
「はい、すみません」
「ちっ」
きりがねえなと金髪はぼやき、再びすみませんと言いかけた塚原も苦笑する。そのときだった。
「ボス!」
死体の始末をしようとしていた男たちが声を上げる。金髪の顔に緊張が走り、塚原は何事だと連中のほうへ駆け寄る。そして暫くしてから金髪の下へ戻って来た。
「どうした?」
「それが……」
死体の始末をしようと男たちは川岸へ向かった。そこで見つけたらしい。
新貝のやり方は一風変わっていて、死体は鉄製の重い椅子に座った形で括りつけられる。それをそのまま川底へと放り込むと、あとは魚が全て食い尽くしてくれるという寸法だ。骨は残るが、こんな川の底を、わざわざ浚いに来る奴もいない。だから格好のゴミ捨て場だった。
男たちは大きな身体を折り畳み、紐で縛ろうと鼻歌交じりに作業を始めた。しかしそこで、すぐそばの草むらになにかが動く気配がするのに気付いた。なんだろうと覗きこむと、、それは血塗れの小さな子供だった。そこで慌ててボスに報告に来たということらしい。
「子供?」
「はい」
「死んでんのか?」
「いえ、それが……」
「なんだ、生きてんのかよ」
「そのようです」
それまで無表情だった塚原が眉を顰める様子を見て、金髪男も現場へ歩く。大きな川の、雑草が生い茂る水際に、半分、川に落ちかけた形で、子供は倒れていた。
一見しただけでは、少年か少女かわからない、ボサボサで伸び放題の髪に、小さな手、それはまだ幼児と言ったほうが正しいような小さな子供だ。
薄い半袖のシャツは擦り切れ、その隙間から覗く肌は治りかけた傷や、出来たばかりの傷、鬱血痕などで埋め尽くされていた。ひと目で暴行を受けたとわかる子供を見て、金髪も眉を顰める。
「おい、そいつをこっちへ連れて来い」
「はい」
「そっとだぞ」
「わかりました」
男たちは命令されるまま、子供を河川敷の端にある排水口横のコンクリートまで運び、そっと下ろす。金髪は子供の身体を跨いで屈み、その頬をパンパンと叩いた。子供はノロノロと瞼を開く。
「ガキ、お前、名前はなんてんだ?」
「……晴《はる》」
「晴か……で、晴、誰にやられた?」
「ぉとうさん」
晴の返事に、金髪は口を固く結んだ。そして暫くの沈黙の後、傷だらけの晴を睨んで、立ち上がる。
「いいか、晴、世の中弱肉強食だ、やられたくないならやり返せ、殺されたくなけりゃ殺せ、それしかお前の生きる道はねえぞ」
「え……?」
聞いたことのない言葉を聞いたと、血塗れの子供、晴は目を見張る。金髪男は不愉快そうに口を尖らせながら話した。
「お前の身体は傷だらけだ、だが、顔と胸には目立つほどの痕はねえ、見上げたもんだ」
瞼は腫れてるけどなと、金髪は皮肉に口の端を上げる。その笑みは、子供に対するものではなく、晴を一人前の男として扱っているような、妙な温かさを感じさせる。
「僕……」
金髪男は戸惑う晴に一瞥し、男たちに向き直った。そして早く死体の始末をしてしまえと命令し、自分も一緒に晴の傍を離れる。塚原もそれにつき従った。
男たちが死体の始末をつけている間も、晴はずっと排水口横にいて、大人たちのすることを見ていた。その視線を背中に感じ、塚原が小声で訪ねる。
「始末、しなくても?」
「かまわねえよ」
「しかし……」
「いいから放っとけ、あいつは喋らねえさ」
「信用すると?」
殺害現場と死体の始末を見られた。子供とはいえ、このまま放っておくのはあまりに危険だ。本当に喋らない保障はない。もし誰かに洩らされたら終わる。殺しておくべきではないかと進言した。だが金髪男は譲らない。
「信用とかじゃねえよ、あいつは話さねえ」
「しかし!」
いくら言っても納得出来ないらしい、塚原は危険ですとにじり寄る。根負けした金髪は、晴に振り返り、手招きをした。
手酷く痛めつけられ、起き上がる事も困難だろうに、晴は呼ばれるまま立ち上がり、金髪男の前まで歩いてきた。ここで行かなければ男が廃る。小さな瞳がそう言っているようだ。
金髪は、晴と同じ目線になるようにしゃがみ込み、真正面からその目を見据える。
「晴、お前の覚悟を見せてみな」
「覚悟……」
「ああ、生きる気があるなら、こいつを引け」
金髪男はそう言って、晴にロープを渡す。ロープは大男の死体に十字に絡みつき、椅子と身体を結び付けようとしていた。後はそれを引き絞るだけだ。
「こいつはな、ろくに仕事もしないでうちの金で遊び呆けてた、で、そいつがバレたら全部女のせいにして自分だけ助かろうとしやがった、せこくてズルイ、ふてえ奴だ、だから始末した」
ロープで縛りあげ、鉄製の椅子に括りつけて、川に沈める。それで終いだ。金髪はそう話した。晴は口を硬く結び、死体になった男と、金髪男を交互に見つめる。
晴がどうするのか、塚原と部下たちは固唾をのんで見守る。三月の河川敷に、夕暮れ時の冷たい風が吹き、川面が揺れた。
そして、時間にしたらほんの数秒ののち、晴はそのロープを引いた。
極太のロープはキッチリと死体を縛り上げる。金髪男は完成した芸術品を見守るようにそれを見つめ、ロープを返そうとする晴にニコリと笑った。
「いい子だ、これでお前も共犯だ、わかるな?」
「うん」
晴と金髪男は、二人にしかわからない暗号を交わすようにニヤリと笑い合った。それを見守る塚原は、ほんの少し眉尻を上げ、金髪男の横に立つ。
「これで文句ねえだろ?」
「はい」
晴の面構えに、なにを感じたのか、塚原も金髪男に倣って頷いた。
やがて死体を始末した男たちは、金髪と塚原に仔細を報告し、一同は晴を残してその場を去ろうとした。それを晴が呼び止める。
「待って、おじさん!」
「ぁあ?」
呼び止められた金髪は、いかにも嫌そうに振り向き、晴をやぶ睨みする。
「誰がオジサンだ? てめえ」
「え、ぁ、じゃあ……」
「じゃあじゃねえよ! お前俺をいくつだと思ってんだ? 二十七だぞ、どう見てもお兄さんだろうが!」
「ごめんなさい……じゃあ、お兄さん」
「んだよ!」
「名前、なんていうの?」
子供らしく首を傾げ、晴は名を訊ねた。その問いに、金髪男は意表を突かれたような顔で沈黙する。
名乗るのか、名乗らないのか……だが、まさか名乗る筈がない、そんな周りの思惑とは裏腹に、金髪男は口を開いた。
「新貝だ、新貝幸人」
「新貝さん? 僕は晴、石崎晴《いしざき はる》」
「苗字なんざどうでもいいさ、晴、それがお前の名だ、そうだろ?」
「うん」
「うんじゃねえ、ハイだ」
「はい!」
「よし、いい子だな、俺のことはフォックスとでも呼んでくれ」
「フォックス?」
「ああ、FOX、狐って意味さ」
「狐……」
小さく呟く晴に、新貝は一枚のカードを渡した。白い紙に赤、黄、緑の鮮やかな縁取りがあり、左下には、手のひらのような形の葉っぱの絵が描いてある。南国の香り漂う名刺だ。
「サウス商会 代表取締役社長 新貝幸人」そう書かれてある。
漢字が難しく、晴にはまだ読めないだろう。しかし、読めるか読めないかが問題なのではない。その名刺《カード》を渡したということが重要なのだ。それは、新貝が晴を認めたということになる。配下の男たちも、それには驚きを隠せなかった。
だが新貝は連中の戸惑いに構わず、不敵に口の端を上げる。
「金が欲しくなったら来な、話は通しとく」
「え……?」
「這い上がれるか、上がれないか、そいつはてめえ次第だ、その気があるなら来い」
戸惑う晴の頭を軽く撫で、新貝は立ち上がった。
歩き出す新貝に、塚原がなにやら小声で囁く。それに頷き、少し笑いながら、金髪男、新貝は消えた。
取り残された晴は、置いてけぼりをくらったような空虚な瞳で、呆然と空を見上げる。いつの間にか日は沈み、たった今までオレンジ色だった世界は、薄墨色に変わっていた。
***
「あなた、誰?」
暫く呆然としていた晴は、突然聞えて来た声に慌てて顔を上げる。どこから現れたのか、そこには初めて見る、美しい少女がいた。
すっかり闇に包まれた河川敷には冷たい風が吹き、少女の長い髪を弄る。彼女の後ろには、大き過ぎる満月が見えた。
大きな月は薄赤く光り、今にも地上へ落ちて来そうだ。その光に照らしだされた少女は、とてもこの世の生き物とは思えなかった。
「そこでなにしてるの?」
少女は、その美貌に似合わない薄汚れたボロボロのマントを纏い、用心深く、一定の距離を保って話しかけてきた。素っ気無い言い草が、逆に彼女の美しさを際立たせる。人知れず、生唾を飲み込みたくなるような異常な美貌だ。十二歳の晴は、その感情がなんなのかわからずに、ただ慄いた。
「怪我、してるの?」
少女は、慄き、縮こまる晴のほうへ手を伸ばした。そして傷の一つ一つを確認し、立ち上がる。
「いらっしゃい、なにもないけど、手当くらい出来るわ」
凛とした瞳に見惚れた晴は、すぐには動くことが出来なかった。それを彼女は、警戒しているからと思ったのか、少し和らいだ表情でぎこちなく笑い、手を差し伸べる。
「私の名は琥珀《こはく》、心配しないで、少なくとも、あなたの敵じゃないから」
琥珀と名乗った少女は、後ろにある排水口へと歩いた。暫く雨もなかったので、流れ出す水は少ない。彼女はその中へ入って行く。
河川敷に設置されたその排水口は、幅二メートル、高さ一メートルほどで、常闇へ四角い口を開けている。冥府への入り口だ。
ついて行ったら何かが変わる。二度と戻れなくなる。咄嗟にそう思ったが、手の中にある新貝の名刺が背中を押した。
――行け、行ってそいつを手に入れろ。
ゼノはなにか隠している。犯人でないとしても、なにか知っているはずだ。そう考えた重田は、その日、せせこましく建て込んだ古いビルに張り込んでいた。
草薙にも話したが、彼はどうしても信じられないらしい。あの日、あの貸家で自分たちが見たゼノの姿も二人の思い込みが見せた幻だと主張した。後を追った時、どこにも姿が見えなかったのが、その理由だ。
アレは幻、あくまでも、ゼノは普通の子供だという草薙を説得するのは諦めた。そして仕方なく、単独で調べを進め、そのビルに、ゼノらしき子供が出入りしていることを掴んだ。
そこは所謂《いわゆる》雑居ビルで、一階と地下はスナックや喫茶店などの飲食店が入り、二階は小さな会社や怪しげな組合の事務所、三階、四階がアパートになっている。築五十五年だとかで、老朽化が進み、取り壊し寸前だ。
だが、店子やアパート住民には、金に余裕がないモノが多く、ここを出たら行く当てがない。毎年のように持ち上がる改築計画は、そいつらの反対に合い、いつも頓挫する。ビル経営者に、強行するほど金がないというのも、理由の一つのようだが、いかんせん、ボロ過ぎる。消防法にも引っかかるし、なにより危険だ。そろそろ限界だろう。
ここを追い出されたら行く当てのない住民や店子はどうなるのか、そんなところまで、行政は面倒を見ない。
「世の中無情だらけさ、お上なんぞ金持ちの役にしかたたねえ、そういうもんだ、哀しいね」
誰に言うともなく呟き、暗くなっていく空を見上げた。ゼノは週初めの月曜か火曜、だいたい午後二時過ぎに現れ、三階に住む女のもとへ通っているらしい。
女はそろそろ四十路《よそじ》にもかかろうという歳で、場末のキャバレーに勤めている。十二歳やそこらの子供が通う場所としてはかなり不自然だ。これが例えば母親かと考えれば納得もいくが、もしゼノがあの写真の子供だとしたら、それもあり得ない。
「ちっ」
色あせてきた太陽を睨み、重田は大きく舌打ちをした。既に夕刻近いというのに、ゼノはまだ来ない。これは空振りだったかなと息を吐く……と、そのとき、傾き、沈みかけた夕日を背に、ゼノは現れた。
着古したシャツに擦り切れた長上着、小さな身体に不釣合いな太いズボンと、鈍く光るキーチェーンが彼の目印だ。
茶色の手持ちバッグ片手に現れたゼノは、さすがあの歳で大人と渡り合うだけあって、かなり用心深いらしい。目的のビルの数メートル手前から、歩みを緩めた。周りを窺うように一歩一歩、静かに進む。
顔はさして動かしていないが、微妙な変化も見逃すまいとしているのがわかる。そうとう場数を踏んでいるなと感心しながら、重田は目的のビルに入っていこうとするゼノに声をかけた。
「よう、久しぶり」
「あんた……」
ゼノは、いきなり現れた重田に、顔を顰めた。虚をついてやれたらしいと、少し胸がすく。
「そんな顔するなよゼノ、知らない仲じゃないだろ、どうだ、元気にやってるか?」
「元気ですよ、重田さんこそ、お元気ですか?」
「ああ、俺はいつも元気さ」
「そうですか、それはよかった、では僕は急ぎますので……」
失礼しますとゼノは踵を返す。重田はその行く先へ回り込み、とうせんぼするように行く手を阻んだ。
「どこへ行く? お前の目的地はここだろ? 俺にかまわなくていい、用事を済ませろよ」
逃げようとするゼノの細い手首を握り、引き止めると、彼は小さく舌打ちをし、動揺を取り繕うように視線を下げた。
「何の話です? 通りがかっただけですよ」
素っ気無く返される声も、少し震えている。どうやら痛いところを突けたらしい。だとすればこれは当たりだと、重田も勢いづく。
「逃げる気か? 逃げられると思うのか?」
「別に逃げてません、帰るだけです、子供は家に帰る時間なんでね」
「都合のいいときだけ子供になるなよ、え?」
「最初から子供ですよ、そう見えませんか?」
「見えねえな」
掴んだ手首を、後ろ手に捻り上げながら脅すと、ゼノは大げさに悲鳴をあげ、痛がって見せた。おそらく騒いで人を集め、混乱に乗じて逃げる気だ。
脅すだけの理由があるのだが、実情はともかく、傍から見れば、相手は子供、児童虐待だ。騒ぎになっては不味い。重田は暴れようとするゼノの口を塞ぎ、ビル影へと引き摺り込んだ。
「今更殊勝ぶるなよ、女のところに行くんだろ? 目的はなんだ? そこでなにをしてる?」
「離せ……」
細い腕が折れるのではないかと思えるほど捻り上げ、問い詰めると、ゼノは苦しそうに顔を歪めて呻いた。だがまだ話そうとしない。そこで重田は、懐から例の写真を取り出し、ゼノの目前に掲げた。
「これはお前だろ? これも、これも、こいつもお前だよな?」
足元へ写真を投げ捨て怒鳴ると、ゼノは急におとなしくなった。いや、おとなしくなったのではない、怒りに声が出なくなったのだ。
ぶるぶると身震いし、歯軋りしながら呻くゼノの声は、とても子供のそれとは思えないほど低く深くなった。まるで野生の熊か虎だ。
見る間に冷たくなっていく彼の身体は、鋼のように硬く、その緊張と昂ぶりが知れる。さすがに驚いて見入っていると、彼は、癲癇発作のように手足を震わせ、押さえつける重田の力を跳ね返す勢いで背筋を硬直させた。
「ゼノ?」
事実がどうあれ、見かけは子供だ、異常な緊張状態を見て、重田もつい手の力を抜いた。その途端、ゼノは重田の拘束を逃れ、身を翻す。羽織っていた長上着の裾が翻り、それがまるで大きな蝙蝠の羽根のように見えた。
「おい……大丈夫か?」
思わず声をかけると、肩で息をしていたゼノは、自分の状態を把握する為か、辺りを見回し、それから自分の手や身体をしげしげと見つめた。そして深呼吸するように深く息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。
「あんた……ウザイね」
「ゼノ……?」
痙攣の後のゼノはさっきまでとは別人のように見えた。両腕はだらりと下げられ、薬物中毒者ように瞳孔が拡大している。白目部分は赤く血走り、全体に滲んで見えた。
身を翻したときに取り出したのか右手には太いナイフが握られている。身体全体をゆらゆらと揺らし立つ姿は伝説の中から這い出したモンスターのようだ。
殺される。
なんの疑いもなく、そう感じた重田は、逃げなくてはと心で感じながらも、動けずにいた。逃げようにも、足が地面に縫い止められたかのように固く、持ち上がらない。それどころか頭が痺れ、意識さえ遠のく。視界もぼやけ、近づいてくるゼノの姿が霞む。万事休すだ。
「く……っ」
今ようやくわかった。事件の被害者たちは、傷が浅いにも関わらず、なぜ逃げ遂せなかったのか……。
逃げたくとも、逃げられなかったのだ。
足が動かず、声も出せない。気を抜くと息さえ詰まりそうな緊張を強いられ、ただ静かに歩いてくる死を待つしかなくなる。
そうか、そうなのかと頷き、重田は瞼を閉じる。あとは落ちるだけだ。
──やめろ! ……っ!
そのとき、鋭い声で、何者かが叫んだ……ような気がした。
しかし、意識はすぐに閉じ、その声が誰なのか、確かめることは出来なかった。
次に重田が意識を取り戻したのは、それから数時間後、時計の針は二十一時を回っていた。
ゼノが現れたのが十七時過ぎだったので、あれから四時間近く倒れていたことになる。
薄暗い裏路地に倒れていたため、誰にも気付かれなかったらしい。さすがに肌寒い。重田はぶるぶると震えながら起き上がり、あたりを見回した。ゼノがいた気配はどこにもない。
あれは夢だったのかとさえ思うが、それはない。だとしたら自分はなんでこんなところに倒れているのだ。それに……。
重田は懐に手をやり、それからあたりの地面を探った。そのどちらにも、ゼノと思しき少年の映った写真はなかった。
***
「あ、おかえりゼノ、今日は早いな」
その日、ゼノが戻って来たのは十九時前だった。いつも遅いゼノにしては、かなり早い。この家に馴染んできた証拠かなと嬉しくなった草薙は、軽い調子で声をかける。
「予定が狂ったんで、少し早仕舞いにしたんですよ」
ゼノもごく軽く、返事を返してきた。同居初日に垣間見せた子供らしい言動ではないが、気を許しているのがわかり、草薙もますます調子に乗った。
「へえ、なにを……って、これも聞いちゃ不味いのかな?」
「別に、ただの仕事です」
「仕事ねえ……」
何気なく相槌を打ちながら、ゼノの様子を観察する。身元は調べられなくとも、日々の観察くらいはしておきたい。ゼノもそれはわかっているのだろう、ジロジロ見つめられても文句は言わなかった。
「気は済みましたか?」
上から下まで嘗め回すように眺める草薙に、ゼノは呆れ声だ。だがそれも気を許している証拠だと思えば、いっそ楽しい。
注意深く観察していると、手首に薄い痣があるのを見つけた。昨夜はなかった傷だ。思わず手を取る。
「これは? どうしたんだ、また新しい傷じゃないか」
「重田さんですよ、ちょっと外で会って、トラブったんです、あの人、馬鹿力ですね」
「重田さん? なんだ、まさか殴られたとかしたのか?」
「まさか、彼だっていい大人だ、理由もなく子供を殴るようなリスキーなことはしませんよ」
「そりゃ……けど」
重田はFOX事件とゼノに拘り過ぎだ。
だいたい自分たちは警察ではない。調べ直してみましょうと突いた自分も悪いが、五年も前の事件をいまさら素人が調べてもなにがわかるというのだ。しかも証拠は写りの悪い写真だけ、それも証拠とは言い難い。
最初の夫婦に、実は子供がいたとしても、事件に関係あると断言は出来ない。
それなのに重田は、本気でゼノがFOX事件に絡んでいると思っている。今日だって、言えば止められると思って、一人で調べていたのだろう。そしてゼノを追ったに違いない。最初から企んでいたのだ。
そう思うと腹も立つし、標的にされたゼノが心配になる。
だがゼノは気にならないらしい。もしくは面倒なだけか、肩を竦めて話題を変えた。
「もういいでしょう、それより腹が減った、夕食はまだですか?」
「え、ああ、出来てる、すぐ食えるそ、今日はハンバーグだ」
「それは豪勢だ、どうせ出来合いでしょうけど」
「煩いな、そういうお前はなんか作れんのかよ?」
「子供は料理なんかしないものです」
「またそうやって都合のいいときだけ子供になる」
「皆さんそう言いますね」
子供っぽい憎まれ口に軽いジャブを返し、それにつられてゼノが笑う。まだまだぎこちないが、久々に見た笑顔だ。それに気をよくし、草薙も笑った。
その日、ゼノはよく喋った。
普段は無口で、気が向かなければ一言も喋らない。だが時々こうして冗舌になる。
なにか良いことがあったのか、それとも反対に、なにか嫌なことがあったのか、そこはわからないが、そういうときの彼は、支離滅裂で面白い。
草薙は、子供らしくテレビアニメに興じるゼノを見つめ、全て重田の思い込みだと思おうとした。
*
その翌日も、家に帰るとゼノは家にいた。いつも腰掛けている長椅子に横になり、どうやら眠っているようだ。肌身離さず持ち歩いているクラッチバッグも投げ出されたまま、床に落ちている。
「こんなところで寝て……風邪ひくぞ」
やれやれと肩を竦めながら、寝息をたてる幼い顔を見つめた。
彼の顔や身体には、擦り傷や、痣になりかけた傷があちこちにある。着ている服も薄汚れていた。
汚れた服は着替えさせ、洗濯だって二日おきにはしている。それなのにゼノの服はいつも埃だらけ、泥だらけだ。自分の知らぬ昼の間、彼はどこで何をしているのだろう?
大人しく優しい、人畜無害の人間が、実は一番始末が悪い。
突然、会ったばかりの頃、ゼノが言った言葉を思い出した。
なにかがあるとわかっていて何もしないのは、逆に罪なのかもしれない。ふとそんな気がした。
知るべきだ。その思いに押され、草薙は眠るゼノの横に落ちているクラッチバッグを拾い上げる。彼がいつも手放さないので、それを手に取るのは初めてだ。意外に重い。
バッグは薄茶色の革製で、クロコダイルの押型が入っている。バッグというよりは、大きな長財布といった感じだった。
いったいなにが入ってるんだろうかと、なぜかドキドキしながら、L字のファスナーに手をかける。
……と、すぐ隣のやや上から、酷く冷静な声がした。
「おい、なにをしてる?」
「え、あ?」
それは寝てるとばかり思っていたゼノだった。ひどく不愉快そうに顔を顰め、草薙の手元を見ている。慌てて開きかけたファスナーを閉じようとしたが、慌て過ぎていたのか、これが上手くいかない。何度かつっかえ、挙句に中身を床にぶちまけてしまった。
「あ、ごめん……っ?」
ぶちまけた中身を急いで拾おうとして、また驚いた。ぶちまけられたバッグの中身は、使い古された一万円札だった。
「これ……」
よく見れば札は万札だけでなく、五千円札や千円札も多く混じっている、それに小銭も少々……何れにしても子供の持ち歩く金額ではない。
草薙は、中の一枚を拾い上げ、これはなんだと問おうとした。だが振り向いた先にゼノはいない。
消えた?
一瞬、本気でそう疑ったが、そうではなく、彼は草薙が振り向く前に長椅子から下りていただけだ。
ゼノは草薙のすぐ前に屈み、散らばった札束や、なにか書き付けたメモ書きのような紙切れを拾いだした。慌てるでもなく、取り繕うでもなく、淡々と札束を拾い、クラッチバッグに仕舞っていく様子に、草薙は言い尽くせない恐怖を感じた。
「人の物を勝手に見るのはプライバシーの侵害です、その札も、一枚でも取ったら窃盗罪ですよ」
「とってない! ……じゃなくて、なんだよこれは!」
わかっていてわざと言ってるなと思いながらも、つい突っ込んだ。するとゼノもそれに乗るように、ニコリと笑う。
「一万円札ですよ……見たことないですか?」
「諭吉くらい見たことあるよ! そうじゃなくて、この金はどうしたんだって聞いてるんだ」
「別に疚しい金じゃない、正しい労働の対価です」
「なにが労働、子供がそんな大金稼げるわけないだろ、お前、いったいなにしてるんだ?」
札束は、床に落ちた分だけでも二十万以上はあった、とても子供が持ち歩く金額ではない。違法な事でもしなければ、こんな大金を得られるわけがない。
ゼノはなにか法を犯す行為をしている。
そう結論を出した草薙は、いつになく厳しく追求した。するとゼノは、札束をバッグに仕舞い、追求から逃れるように立ち上がる。
「だから、労働ですよ」
「だから! どんな仕事なんだと聞いてるんだ!」
のらくらと話を逸らそうとするゼノにカッと来て、つい怒鳴った。するとゼノは潮が引く様にすっと真顔になり、知らないほうがいいですよと答えた。
そういう言い方をされれば余計に気になる。それはつまり、なにか人に言えないことをしているということではないか。
ゼノは子供だ、周りの大人に影響され、唆されれば、簡単に悪い道へ走るだろう。中学生以上にもなれば、ある程度自己責任だろうが、この年齢の子供では責められない。環境が悪いのだとしか言い様がない。
ゼノ自身もそれはわかっているはずだ。だからこんな言い回しになる。誰だって、悪いと知ってやっていることを、そう簡単に話しはしない。
しかしこのままでいいわけがない。彼は重田に疑われているし、そうでなくとも、子供はもっと子供らしくあるべきだ。
彼が子供らしく生きられなかったこれまでの時間は、不憫だとしか言い様がないが、これからは自分がいる。自分は彼を信じ、護ると約束した。それは守りたいし、信じて欲しい。
草薙は、自分を信じて話してくれと説得しようと考えた。しかしゼノはその言葉が前に出る前に、踵を返す。
「待て! どこ行く気だ?」
「出て行くんですよ、面倒なことになりそうなんでね」
そう答えるゼノは、草薙に背をむけたまま、振り向こうともしなかった。札束の入ったクラッチバッグを片手に、すたすたと玄関口へ歩いて行く。
このまま行かせたら、もう彼を止められない。
背中に冷や汗が流れる。
「面倒じゃない! そうじゃなくて、いいから、行くな、ゼノ!」
「さよならお兄さん、お元気で」
「待てって言ってんだろっ!」
ここでさよならなんて、考えもしなかった。完全に自分の失敗だ。慌てた草薙は、出て行ったゼノを追いかける。
だが勢いよく開けた扉の向こうに、ゼノはもういなかった。
***
三川合流地点と呼ばれる大きな河の河川敷に、小さなテントがあった。あたりには雑草が生い茂り、地面には大きな石がごろごろと転がっていて、キャンプをするには適さない場所だ。
もちろん、そのテントは観光客やアウトドア好きな学生が張ったモノではない。住んでいるのは住所不定無職の中年男性だった。
男は二十代半ばで交際二年の恋人と結婚、その後、二人の子供にも恵まれ、裕福とは言えないが、それなりに幸せな人生を送っていた。だがある日突然、会社が倒産し、男の運命は狂った。
買ったばかりのマイホームはローンが滞って人手に渡り、家も車も贅沢品はみな失った。妻は貧乏暮らしに嫌気が差したのか、幼い子供を残し、失踪。子供を抱え、就職活動も出来ずに最後の金も使い果たし、食料も尽きたとき、男は子供を道連れにと死を選んだ。
だが、いざ首を絞めようとしたとき、安らかで無邪気な寝顔を見て決心が揺らいだ。男はそのまま逃走し、その後、一度も家には帰っていない。
男が逃げたとき、子供はまだ三歳と五歳だった。一人では生きられない、死んでしまうだろうと、意識の裏でわかっていた。
自分はあの子らを一思いに殺さず、ジワジワと死せる、餓死という道に追い込んだのだ。ただ自分の手を汚したくないという身勝手な思いだけで、幼子に何より残酷な最後を見せた。人でなしだと自分を責めて彷徨っていた。
男が家を出てから二ヶ月も過ぎた頃、ただ漠然と生きていた男の元へ、一人の少年が現れた。
少年は男に子供の写真を見せ、ボイスレコーダーに吹き込んだ肉声を聞かせた。子供たちは、無邪気に笑い、話し、仕事に出かけた父親を待っていると話していた。
ただ、涙が出た。
自分は子供を置き去りにして逃げたのに、死んでもいいとさえ思っていたのに、子供らは父親である自分の帰りを待っている。仕事に出かけたのだと信じ、おとなしくいい子で待っている。
上の子はまだ小さな下の子の面倒をみ、下の子も上の子の指示を信じて懸命に頷いていた。
この健気な子らを、自分は殺そうとしたのかと後悔で一杯になり、涙だけがダラダラと流れた。それを見つめ、少年は言った。
──お前はこいつらが嫌いか?
──邪魔だと思うか?
──死んで欲しいのか?
その問いに、男はただただ首を振り、泣いた。
生きていて欲しい。幸せになって欲しい。出来るなら、自分の手で幸せにしてやりたかった。それが無理なら、どこか遠くででもいい、幸せに、普通に生きて、人生を真っ当して欲しいと心から願った。
幸せに生きて欲しい。そう呟いた男に、少年は、それなら自分に協力しろと言った。
「幸せなんて、自分で掴むもんだ、そこまでは面倒みきれない、だが普通に見える程度に生きるだけなら、なんとでも出来る、あんたが本気で願うなら叶えてやろう、その代わり、あんたの全てを俺によこせ」
「わたしの、全て……ですか?」
「ああ、全てだ」
***
「おかえりなさいゼノさん、今回は長かったですね」
テントの幕を捲り上げ、中へ入ってきた子供に、男は腰を低くして頭を下げる。深夜の河川敷には他に人影もなく、男は親子ほども歳の離れた子供に、敬語まで使っての最敬礼だ。子供はそれを忌々しそうに睨んだ。
「誰がゼノよ、余計な口叩いてないで消えな!」
「あ、これはフィーンさんでしたか、どうもすみません、はいはい消えます」
子供の機嫌の悪さに男も慌てて腰を上げる。そして、今にも殴りかかってきそうな拳を気にしながら、そそくさと外へ出て行った。あとには、子供が一人、残される。
一人になった子供は、テントの中央にどっかりと腰を下ろし、静かに目を閉じた。
男の足音は遠のき、辺りは無音になる。聞こえるのは自分の呼吸音と心臓の音、そして遠くに流れる川の水音だけだ。
「ゼノ、アンタどういう了見よ! なんで殺さないわけ?」
「必要ないよ、あの人はラウじゃない」
「あの間抜けじゃないわよ、重田のほう! アイツは知り過ぎだわ、突っ込まれたらどうするの!」
「たしかに、面倒は早めに片付けたほうがいいな、なぜ止めた、ゼノ?」
「ほら! オウガも同じ意見よ、あんな奴ぶっ殺すべきだわ!」
「賛成はしてない、関係ない人間を殺すのは流儀に反する」
「関係あんでしょ! アイツはこっちを疑ってんのよ、殺るか殺られるかだわ!」
重田の疑いはほとんど正解だ、疑われるのは仕方がない。
彼は最初からこちらを疑っていた。根拠はあの写真だろう。だがその写真はもう始末した。
警察でもない彼に、自分たちを逮捕する権限はない。少々邪魔臭いが、生かしておいても害はないはずだとゼノは思っていた。しかしオウガたちはそう思えなかったようだ。なにか手を打つべきだと主張する。
「今回ばかりは俺もフィーンに賛成だ、奴は放っておくと、俺たちに突き当たる」
「でしょ」
「ああ、どこから綻ぶかわからないんだ、消しておくべきだと思う」
二人がかりの説得にも、ゼノは頷かなかった。反論もしない代わりに、押し黙る。
身体は小さいが、ゼノは意外に頑固なところがある。気に喰わないことはとことん気に喰わない。なにがあろうと、自分の根本を変える気はないのだ。
今も、ゼノは拘《こだわ》っている。重田を殺すことをではない。おそらく、重田と繋がる草薙を、気にしているのだ。
温かい家庭というものを経験したことのないゼノは、家族に焦がれていた。いや、自ら知らず、飢えていると言ってもいい。彼が草薙との絆を切りたくないと考えるのは、ごく当たり前だと納得できた。
しかし、それは相容れない願いだ。彼らを切らなければ、足元が狂う。
切るべきだとオウガは思い、だが同時にゼノの思いも叶えてやりたいと願ってしまった。
「反対か? ゼノ?」
「二人が本気で思うなら反対はしないよ」
「では評決だ、まず、草薙はどうする? やるか?」
「アタシは殺るべきだと思うわよ、オウガはどうなのよ」
「彼まで殺す必要はないと思う、害はなさそうだ」
「僕も反対」
「反対二票、オーケー、草薙は殺さない」
「ふん」
「では次ぎ、重田はどうする?」
「殺すに決まってんでしょ! 、厭らしく嗅ぎまわって、ウザいのよ、いろいろと!」
「俺もそう思う、流儀には反するが、あいつは殺っておくべきだ」
「当然よ、アタシが殺るからね!」
「……ということだ、ゼノ、二対一だが、反論はあるか?」
俯くゼノを気遣うように、オウガは静かに訊ねる。だがゼノは、俯いたままだ。
答えの返ってこない問いが宙に浮き、フィーンは髪を逆立てて怒鳴った。
「なに黙ってんの、なんとか言いなよ!」
怒鳴っても脅しても、ゼノは答えない。フィーンはますます苛立ち、テンションを上げる。
「ちょっと! 往生際悪いわよ!」
「フィーン、少し黙ってろ、ゼノは今考えてるんだ」
「考える? は、なにを考えるって? 殺るのよ、決まってるでしょ!」
「いいから黙ってろ、最終判断はゼノだ」
「はいはい」
叫ぶフィーンを制し、オウガはゼノにしゃべらせようとした。しかしゼノは答えない。
フィーンは結論をと迫り、オウガもそれは賛同していた。ただ問題は、ゼノに、無理矢理うんと言わせることは出来ないということだ。
そして彼がうんと言わなければ、自分らは動けない。
「ゼノ、あとはお前次第だ、俺たちはお前の判断に委ねる」
「オウガ……」
「アタシは殺るべきだと思うわよ、でも結局、本当に決めるのはアンタよ、ゼノ」
「フィーン……」
「さあ、どうするの《どうする?》」
重田を殺すことは、ゼノの意見で却下された。それがフィーンには不満だったのだろう。それからの殺しは、より残酷に、より派手になった。
派手な立ち回りはおのずと目立つ。それにつれ、警察の動きも激しくなる。足跡を残し過ぎなのだ。
「何度も言わせるな、やり過ぎはダメだ、深い追いするな、遊びじゃないんだ」
「そうよ、遊びじゃないわ! 奴らを殲滅《せんめつ》させるのよ、それにはまだまだ、やり足りないわ」
「どこまでやれば気が済む? それはヒステリーだぞ」
「うるさいわね、あんたの意見なんか聞いてないのよ」
「フィーン!」
「気に喰わないな」
すれ違う意見にオウガは怒鳴る。顔を顰めたフィーンは、ナイフ片手に外へ出た。
「待て、フィーン!」
オウガが慌ててあとを追う。だが一度出てしまった彼女を捕まえるのは難しい。その背中はたちまち闇に消えた。
***
署名付き殺人が起こってから三か月、FOX事件は加速度的に件数を重ねていた。なんとしても犯人を捕まえようと、矢島と三浦の二人は、独自の推理を元に、犯人の足跡を追う。しかしここにきて、壁にぶち当たった。
予測していた犯人像がぶれてきたのだ。
最初の署名がなされた事件、瀬乃夫婦には、世間から隠された子供がいた。それも二人だ。日頃から放置虐待されていたらしく、事件が発覚したとき、兄弟の弟のほうはすでに餓死していた。残された兄のほうは弟が死んでいることにさえ気づかず、飢え、凍えながら、二階の小汚い一室で暮らしていたようだ。
戸籍はなかったが、妻の通院記録から、兄のほうは八歳だとわかった。極度の栄養不良で、体格は四歳児並みだった。
弟のほうは通院記録もなかったので、年齢はわからない。検視はされたが、遺体の腐敗も進み、もともと成長不良だったことも予測されるので、正確な年齢も不明のままだ。
そして次の犠牲者にも幼い子供がおり、事件後保護された子供の胸や腹、尻などには火傷や痣など、無数の傷が見られた。その後も犠牲者のほとんどに我が子を虐待していたという痕跡が見られるにいたり、三浦たちは、理由はともかく、動機はそれだと断定して、捜査を進めた。
しかし、ここ数件おきた事件がその予測を覆す。
被害者に子供がいないのだ。
たまにいても、虐待の様子はなく、それどころか模範的な家庭人であることが多くなった。そうなってくると、被害者の我が子虐待という共通点に注目して捜査を進めていた捜査本部も、見解が変わってくる。三浦、矢島の二人へも、その件に固執するなとお達しが出た。
「まったく、本部も何考えてんだか、共通点は子供の虐待、それで決まりじゃねえか」
矢島は捜査本部の方針に不満のようだ。せわしなく煙草を吹かし、時折フィルターを噛みしめる。彼がヘビースモーカーなのは仕方がないにしても、道端でスパスパやられては困る。三浦は小さく肩を竦めた。
「矢島さん、ここ、路上喫煙禁止区域ですよ」
「あ? うるせえな、ちょっとくらいいいだろ」
「ダメですって、刑事が法律違反は不味いですよ」
「法律じゃねえよ、条令だろ」
「同じですよ」
三浦の苦言に顔を顰めた矢島は、同じじゃねえよと愚痴りながらも、靴の裏で煙草を揉み消す。三浦はすかさずポイ捨てしないでくださいよと付け足した。矢島も渋い顔だ。
「ほんとにうるせえな、お前は俺の女房か?」
「冗談でしょ、矢島さんみたいな旦那いりませんよ」
「ふん」
続けざまに文句を言われ、矢島はへそを曲げたらしい、口をへの字にして大股で先を歩いていく。子供のような拗ねかただ。三浦は早足でそのあとを追った。
「で、どうするんです?」
「どうもしねえ、予定通りだ」
「でも本部は固執するなって」
「っせえな、現場を見てねえ本部の言うことなんか聞けるか、俺は俺の勘を信用する、お前も自分の勘を信じろ」
「はあ……」
刑事になって二年、いまだかつて、勘など働いたことがないと三浦は愚痴り、のろのろと矢島のあとについて行く。行く先は彼の持つ情報屋のところだ。
ドラマと違い、実際の警察としては、裏家業と繋がる情報屋というものは存在しない。それは癒着に繋がり、汚職に繋がり、ひいては違法捜査ともなる。真っ当な警察官としては、許されない行為だ。
しかし矢島は少し外れた頭を持っているのだろう、厳密に言えば違法となる捜査も平気でやった。そのせいで上からは睨まれているし、いつも一緒にいる三浦も胡散臭い目で見られていた。正直、そこは少し迷惑だ。
だが、刑事としては、矢島の勘を信じていた。だから仕方なくついて行く。
お目当ての情報屋、ウサ子との待ち合わせ場所は新宿二丁目……の、外れにある小さなゲイバーだった。
ウサ子というのはそこのママだとかで、常時その店にいるらしい。
開店前の夕刻四時、店の戸を開ける。店内は暗く、誰もいなかった。
「おかしいな、ここで待ってるという話だったのに」
矢島は訝しがり、店の明かりを点けた。
中は、小さなカウンターと二人掛けのテーブル席が二つしかない狭さで、雑然していた。
昨晩の名残りか、酒やつまみの皿が出しっぱなし、スパンコールのついた派手で安っぽいドレスや、レスラーが履くのかと聞きたいくらい大きなハイヒールが転がったままで、酷い有り様だ。
なにか事件にでも巻き込まれたのではないかと思ったが、店内の惨状は、矢島に言わせればいつものことらしい。ただ、そこにウサ子がいないのはおかしいという。
「ふん、なにかあったか」
矢島は用心深く、あたりを見回す。落ちている衣装をつまみ、その下を覗き込んだり、テーブルの上になにか変わったものでもおいてないか確かめたりと、ゆっくりと店内を回り、何かを探していた。
「なにか探してるんですか?」
訊ねると矢島は、ウサ子の行方だと答えた。
ウサ子の店は年中赤字で、店の売り上げより、情報屋としての収入のほうがはるかに多い。それでもウサ子が店をやめないのは、そこが好きだからだ。
アタシのような半端モノが生きてくのに、ここは必要なのよと、剃り残しの青髭だらけの顔で、よく笑っていたという。
ではなぜ情報屋をしているのかと言えば、店を維持するためだ。ウサ子には店がそれだけ大切な場所であり、そこに根を張り生きている。それが呼び出しておいて、そこにいないというのが引っかかるという。
「奴のほうから呼び出して来たんだぞ、それだけでかいネタってことだ、それが金も貰わないで行方不明ってのは、解せないだろ」
「そんな大げさな、ちょっと買い物とか、出掛けてるだけかもしれないでしょ」
「わざわざ待ち合わせの時間にか?」
「まあ、少しアレですけど、あり得ないとも言えないと思いますけど」
軽く考える三浦に、矢島はあり得ねえよと呟き、ウサ子の痕跡を探した。だがなにも見当たらない。店内を漁るのをやめ、矢島は店の奥へ歩く。そこにはウサ子の寝起きする小さな居住空間へと繋がる扉があった。
「入るぞ」
馴染みの情報屋とはいえ、他人の家なので、一応の声をかけ、矢島はその戸を押した。
「うっ」
入るなり鼻をつく鉄の臭いに、二人は顔を顰めた。散らかり放題の室内は、雑然としていて一見しただけではただのゴミ屋敷だ。漂う生臭さと鉄の臭いだけが異変を伝えている。
そこに、なにかがある。
誰かがいる。
言葉に出来ない感覚に操られ、突き進んだ。
室内には、今は使用禁止になっている黒いゴミ袋、カラになったスナック菓子やコンビニ弁当の食べかす、丸めたティッシュや紙袋が散乱していた。酒と煮溢《にこぼ》したうどん汁が床を濡らし、足をべとつかせる。
湿ってくる靴下を気にしながら矢島について歩いた三浦は、なにかに躓いて転びかける。慌てて畳に手をつくと、ヌチャッと嫌な音がして、掌に柔らかい粘液質の何かが触れた。
「うわっ」
驚いて立ち上がり、掌を覗き込む。右手は赤黒かった。血だ。
「うわっ、わっ、矢島さん! これ!」
ぶんぶんと手を振りながら叫ぶと、矢島は顔色を変えて走りよってきた。
「矢島さん!」
縋りつこうとする三浦を振り切り、矢島はその足元を探る。すると、大きなゴミ袋と、転がる段ボールの下に、血塗れのウサ子がいた。
「ウサ子! おい、どうした!」
慌てて取りすがると、ウサ子の体はまだ温かかった。揺さぶられたことで意識を戻したのだろう、ウサ子は血だらけの顔で唇を震わせる。
「そのこえ、ヤッシー(矢島の仇名)ね、よかった……間に合っ……て」
呟くウサ子の顔面は、目の上で真一文字に切り裂かれていた。眼球はもちろん、瞼も剥がれ、頬の肉までがそぎ落とされている。あまりの酷さに三浦は顔を背け、矢島はただ憤った。
「何があった? 誰にやられたんだ!」
するとウサ子は血塗れの顔でニコリと笑い、こんなに優しく抱いてもらえるなら、刺されて良かったかも、得しちゃったわと呟いた。途切れ途切れの声に情けなく切なくなる。矢島は、余計なことを言わなくていいから、握っている情報を渡せと迫った。
すると彼女は息を乱しながらも、気丈に答えた。
「だいじなことよ、よく聞いて」
「ああ、聞いてやる、誰にやられたんだ?」
「FOXは、ひとりじゃないわ、少なくとも二人いる」
「なんだって?」
矢島は驚いて聞き返したが、ウサ子はそこまで話すのが精一杯なのだろう。浅い呼吸を繰り返すばかりで次の言葉が出てこない。切り裂かれた顔面の血は噴き出すように流れ、よく見れば胸も腹も血塗れだ。それはもう、生きているほうがおかしいくらいだった。
「どういうことだ、ウサ子、二人とは? お前、知ってるのか、言ってくれ」
「赤い髪の女子高生……それと、フードの男、目撃証言もあるはずよ」
女子高生とフードの男、それは警察の捜査でも、時々目撃証言としてあげられている情報ではあった。だがそれだけでは同一人物とは断定できないし、容疑者リストには載せていない。
というより、それだけの情報では、人物を特定できないのだ。女子高生などどこにでもいるし、フードを被った男もそこいらじゅうにいる。とても絞り切れない。
しかし、赤い髪というのは初めて聞いた。そこは重要だ。女子高生というのは言い過ぎとしても、女であることに間違いはないだろう。
「犯人は赤い髪の女か? フードの男とどっちが主犯だ? お前、そいつを見たんだろ?」
なんとか言えと、矢島はウサ子を揺さぶる。だが傷が深すぎた。彼女はもう答えられない。血塗れの手で矢島の頬を撫で、静かにこと切れた。
ウサ子は最後に、「中央区、旭ビル」と言った。そこに行けというのか、そこになにかあるというのか、矢島は忌々しそうに拳を握り、ウサ子の遺体を床に寝かせた。
本部にウサ子殺害の件を連絡した矢島は、その足でウサ子の遺言になった中央区へ向かおうとした。だが本部に、なぜそんなことになったのか、ウサ子と矢島の関係はなんだ、どうして発見できたのだと追及され、足止めを食らう。
矢島は焦っていた。ウサ子の言い残した話はなんの根拠もない戯言で、話しても証拠採用はされないだろう。だがぐずぐずしていたら犯人は逃げてしまうかもしれない。彼女が命がけで教えてくれた情報なのだ、無駄にはしたくない。
仕方なく、三浦に現場へ行けと指示した。
今、自分は事情聴取で動けない。だから代わりに現場を見て来てほしい。まさかとは思うがそこがFOXのアジトである可能性もあるので、くれぐれも慎重にと念を押し、行けと伝えた。
三浦は若く、経験も浅い。物事の表面しか見ない癖があるが、バカではない。信じるしかないと思った。
***
「旭ビル……ここか」
中央区、旭ビルとしかわからないので、三浦はそのあたりにある同名の建物を全て回った。朝から足を棒にして、これで四件目だ。
どのビルもごく普通の商業ビルで、あまり聞いたことのない中小企業が名を連ねていた。情報が漠然とし過ぎているので、どこを見ればいいのかわからないが、総じて怪しい雰囲気はない。
だがここも外れかなとぼやきながら入り口のドアを押した三浦は、そこがそれまで見てきた旭ビルとは違うことに気づいた。
入ってすぐの壁に各戸の郵便受けが設置されているのだが、その表札がほとんど個人名になっている。ということは、ビルと名がついてはいるが、この建物の実態はマンションに近いのかもしれない。
念のため、表札の名前を一つ一つ確認したが、これといって引っかかるような名前はなかった。だがここだけがほかの旭ビルと違っているのだ、なにかあるに違いない。
建物自体はありふれた雑居ビルのようなつくりで、入り口も素っ気ない。しかし裏側に回ってみると、なるほど人が住んでいるらしく、小さなベランダがあり、洗濯物や布団が干してある。華やかな色合いが、どこか嘘臭いくらい、明るく見えた。
普通なら、こんな明るい世界に殺人鬼がいるなどと思わない、似つかわしくない。だが不思議としっくりきた。
刑事の勘と、矢島はよく言うが、これまでは正直、それがどんなものなのかはピンとこなかった。もしかしたらこれがそうなのかもしれない。