矢島はオウガを釈放してからすぐ、重田の指摘した夫婦殺害事件の調査を始めていた。

 石崎夫婦が殺されたのは、今から五年前の冬だ。異臭がするとの通報を受けた警邏中の警察官により、妻の遺体は台所、夫のほうは居間で発見されている。部屋のテレビはつきっぱなしで、発見当時、凄惨な現場にそぐわないお笑い番組が映し出されていたという。
 凶器は鋭い刃物とみられるも、それがなんであるかは特定できていない。
 夫婦の家からは異様に小さな生き物のミイラ化した遺体も発見されている。当初猫か何かと思われたそのミイラは、のちに人間の子供であると判明。夫婦には子供はなかったとされているため、捜査は混乱した。
 しかし夫妻は近所づきあいもあまりなく、夫妻の暮らしの実情を知る者はほとんどいなかった。ただ、結婚してすぐに夫の会社が倒産したため金には困っていたようだ。
 妻のほうはもともと世間知らずのお嬢様だったらしく、暮らしに困窮しても自ら働くこともなく、夫のほうもうだつが上がらず、しがない日雇いで食いつなぐのみ。借金だけが嵩んで取り立ても毎日のようにやってきていたという。
 事件のとき発見された子供のミイラについては、夫妻が死んでしまっているので詳細は不明。おそらくは夫妻の子供であろうと考えられたが、事件とは直接関係ないので放置された。

「関係ないって? ふざけんな、ないわけないだろ」

 捜査資料を読み漁りながら悪態をついた。あまりのずさんさに吐き気がする。
 当時の捜査本部は何をしていたのだ、なにか他に大事な事件でもあったのか? それにしたっていい加減すぎる。
 子供はいたのだ。ミイラ化した子供と、もう一人。

 夫妻に子供はないとされていたが、調べ直してみると石崎夫妻は結婚してすぐに子供が出来たと上司に報告している。
 しかし生まれたという話は聞かれていない。そんなことから周りの者は流産したのではないかと憶測し、夫妻を気遣って以後、子供の話はしなくなった。
 だがもし、流産などではなく子供が生まれていたとしたら……何らかの事情で生まれたことを隠し、あるいは報告せず放置していたとすれば……。
 子供の出生を秘密にしなければならない事情など思い浮かばないが、もしそうなら哀れな話だ。
 いるはずのない子供となれば、幼稚園や学校などいけるはずもなく、病気になっても病院にすらいけない。暗い部屋の中で幼い兄妹二人、世間から隠され閉じこもり、おそらくは満足に食事も与えられないまま数年……やがて一人は死んだが、もう一人は生きた。
 半身の死を乗り越え、一人になってなお生きたその子は、両親の死後、どこへ消えた?

 事件当時、子供はどこに居て、今どこにいるのか、そもそも子供は両親が殺されるところを見ているのか、見ていたとしたら、犯人はなぜ子供を殺さなかったのかが問題だ。
 重田はそのときの子供がゼノで、ゼノがFOXだと主張している。だがどう計算してもその子は当時十二歳程度、小学生に両親殺害など出来ないだろう。犯人は別にいたはずだ。

 だがもし、本当にその子供がやったのだとしたら……。

 五年も前の行方不明者、それも無戸籍児を探すとなれば容易ではない。が、手掛かりはある。フォックス(新貝)だ。
 彼はFOX事件の話を聞かせる代わりにオウガを釈放させろと言ったらしい。ということは、新貝《フォックス》はオウガを知っているということになる。そしてたぶんゼノのことも、もう一人いるという赤い髪の少女のことも知ってるに違いない。そう結論した矢島は、捜査本部に新貝との面会を申し込んだ。

 三浦の一件から捜査を外された自分がその容疑者と易々と会えるはずはないと思ったが、なぜか意外にあっさりと承認された。捜査員の疲労や捜査の遅延、難解さを考慮に入れて、少しでも可能性があるなら突っ込みたいというのが本音らしい。
 二人きりでという注文にもOKが出た。裏事情はともかく今は助かる。

 *

「おや、矢島さんじゃないですか、お久しぶりですね」

 取調室の扉を開けると、新貝は予期していたかのようにそう言って微笑んだ。微動だにせず、目を細める顔はまるで狐面のようだ。
 剥き出しのコンクリートの壁が四方を囲む四畳半ほどの部屋の真ん中にお茶の一つも置いていないスチール製の机があり、その前に置いてある粗末なパイプ椅子に新貝は座っていた。裸電球が一つついているだけの窓もない地下室は暗く、湿気が充満している。
 そこに新貝は背筋をピンと伸ばし石造のように存在している。気も滅入るわけだと妙に納得した。

「いい椅子は見つかりましたか?」

 新貝は裏切者や邪魔者を消すとき鉄製のゴージャスな椅子に括り付け、川底に沈めると聞いている。つまりいい椅子を探すというフレーズは、彼にとっての警告だ。俺の邪魔をするなら殺すぞということだろう。
 だがイコールそれは、それだけ痛い所をついている証明でもある。
 自分は間違っていない。
 そう確信した矢島はまっすぐに切り込む。
「新貝、お前、移民なんだってな」
 効果覿面、木彫りの能面のように動かなかった新貝の表情が一変した。眉間に皺をよせ、不愉快そうに舌を鳴らす。
「どこでそんな話を……デマですよ、たしかに私は孤児だが日本人だ、普通に日本の施設で育ってる」
「ああそうだな、だが施設での記録はお前が十歳のころからだ、その前はどこにいた?」
「忘れましたね」
「嘘つけ、覚えてるだろ、そのころお前は小汚い町の穴倉にいた、ストリート……いや、マンホールチルドレンってやつだ」
「違います!」
 自力で調べた事実を元に半分憶測で決めつけると、新貝は初めて感情を露にし、違うと怒鳴った。たぶん思い出したくない記憶なのだろう、苛々と落ち着きのない表情で身を乗り出す。
 しゃんと背筋を伸ばしていたさっきまでとは違い、片肘を机の上に立てて掴みかからんばかりだった。
 墓穴を掘るとはこのことだ。自白したも同じ、この憶測は間違っていなかったらしいと確信した矢島は、飛び掛かって来そうな新貝の鼻先近くまで身を乗り出し、さらに攻めた。
 弱点を見つけたらとことんそこを突く。用心深く狡賢い狐を落とすにはそれしかない。
「お前の側近、何と言ったかな……そうだ、塚原だ、塚原悟志、あいつも移民だろ、お前と同じマン……」
「違うっ!」
 常に新貝の傍らにいて新貝を護りその命令を忠実に実行する男。誰も信じないと言い放つ新貝が(おそらく)唯一信頼し、心を開いている人間、塚原悟志。その存在は思ったとおり重いらしい。塚原を攻めようとすると今まで以上に過剰反応した。
「なにが、違う?」
 新貝と塚原は施設で知り合った。少なくとも記録上はそうなっている。
 だがもしかしたらそうではないかもしれない。新貝と塚原はその前から、遠い異国の穴倉で繋がっていた。そう考えたほうがわかりやすい。
「塚原は無口で通ってるよな、あれはお国訛りを誤魔化すためなんじゃないのか? 実は日本語が不自由なんだろ」
 もっと伐れろとばかりにわざと下品に追及すると、新貝はこちらの意図に気づいたのか、忌々し気に唇を結びながらも振り上げた拳を下ろして着席した。
「違います、証拠もなしに人を貶める発言をするのはやめていただきたい、名誉棄損で訴えますよ」
 その声は、しかし少し震えていた。祖国にいい思い出はないらしい。
 実際のところ新貝がどこの国出身なのかはわからない。そう思って見てみれば顔はやや異国風だが、何人なのかはさっぱりだ。もしかしたら混血なのかもしれない。
 塚原にしても日本人と言われればそうとも思えるが、それにしては濃い顔をしている。ロシア系か、東ヨーロッパ系とも見える。二人とも日本人にしては白い肌だしこの想像はあながちではないだろう。
「証拠はあるさ」
 考えを巡らせながらもそう答えると、新貝はあるわけがないという少しムッとした表情で、あるなら見せてください言ってきた。すかさず答える。
「いつも冷静なお前にしてはしゃべり過ぎだ、感情的過ぎる、図星だからだろ」
 切り返された新貝は微妙に顔を歪め、小さく舌打ちしてから浅い息を吐いた。
 どうやら観念したらしい。
「わかりましたよ、話します、なにが聞きたいんですか」

 *

「いい子だ、じゃあ率直に、お前、石崎錠二、早苗夫妻を知ってるな?」
「調べたんでしょう? 知ってますよ、うちの顧客でした」
「顧客ね、金貸してたんだろ、で、絞り取ってたわけだ」
「絞れるほど持っちゃいませんでしたよ、赤字商売でしたね」
「なぜだ?」
「なぜ?」
「ああ、なぜだ、なぜ、狡賢いお前が、回収できないとわかっている金を貸した?」
 なぜと問うと、新貝は間違いを指摘された子供のように口を結び押し黙った。彼がこれほど動揺するのは珍しい。石崎夫妻の子供とは浅からぬ縁があるという証拠だ。
 矢島は唇の端を噛んで片眉を上げた仏頂面の新貝に、もう一度なぜだと聞いた。その声に押されるように新貝は大きなため息をつく。
 そして語った。
「金を借りていたのは女のほうです、男のほうも別口で借りてたようですが、うちとはかかわりない」
「借りてたのは女房のほうか、で、なんで貸した?」
「女は生活能力がなかった、金が無くなれば飢え死ぬしかない、人道的配慮ってやつですよ」
「金貸しのお前が? 微々たる金を押し付けて高利でふんだくる、それがお前らのやり口だろ、人道的配慮? そりゃ誰に対してだ? 女か? それともガキのほうか?」
 おそらく新貝も突っ込まれると思っていたのだろう、苦虫を噛み潰すような忌々しげな表情でふんと鼻を鳴らした。
「喉が渇きましたね、お茶も出ないんですかここは」
 追い詰められ、行き場をなくした子供のように不貞腐れた表情で新貝はそっぽを向く。左手の人差し指でカリカリと机を齧りふんぞり返る姿は往生際が悪い不良少年のそれだ。このまま攻め続ければ必ずボロを出す。そう確信した矢島は逸る思いを抑え、ことさら冷静に抑揚のない声で話した。
「先に話しな、そしたら茶でもなんでも飲ましてやる」
 なんでも飲ませてやると話すと、新貝は思惑あり気な目をして顔を上げた。それまで俯いていた新貝を覗き込むように顔を近づけていたため、至近距離で目が合ってしまい一瞬怯む。その隙に付け込むように新貝は異様に恍惚とした表情で念を押した。
「何でもですか? 本当に?」
 思わず息を飲む。
「ああ、本当だ」
 ささやかで意味のない動揺は胸の内に隠し、何とか冷静に答えると、新貝は余裕の表情でニコリと笑った。それはそれまでの張り付いたようなゾッとする笑みではなく、若々しく初々しい少年のような顔だ。
「ではリモナーダをください、ノンスパークで」
「リモ……?」
「リモナーダ」
「ああ、りもなーだね、わかった、用意してやる、だから話せ」
 新貝の言う飲み物がどんなものなのか想像もつかなかったが、憧れにも似たその要求を聞き、矢島は必ずと請け負った。
「ありがとうございます」
 よほど欲しかったのだろう、新貝は矢島が用意できないとわかっているかのように小ばかにした目をしていたが、それでも少し嬉しそうに目を細めて答えた。
「礼はいい、それより答えろ、誰のために貸した?」
「あなたの考えているとおりですよ」
「いいから言え」
 口に出して言わせなければ証明にならない。お前の口ではっきりと答えろと迫ると、新貝はやれやれと肩を竦めた。普通ならふざけるなさっさと吐けと怒鳴るところだ。しかし今回ばかりはそうもいかない。多少機嫌をとり、間を図ってでも喋ってもらわなければならないからだ。
 矢島は努めて冷静に淡々と問い詰めて行った。
「なぜだ?」
「石崎夫婦には世間に隠した子供がいた、そこは調べたのでしょう? 夫は働かない、妻は働く知恵もない、金がなければガキともども飢え死にだ」
「ああそうだ、だがお前は子供を飢え死にさせたくなかった、だから女に金を渡したんだ、そうだろ」
「私がそんなお人よしだと本気で思うんですか?」
「そうじゃあないとでも?」
「違いますよ」
 そんなんじゃあありませんと新貝は首を振った。だがではなぜだと聞き返すと、また黙る。つまりは図星に違いない。それでもそうだと言わないのは、新貝自身、困惑しているからなのかもしれない。
「そうか、じゃあそれでもいい、聞かせてくれ、お前、その子供が今どこにいるか知ってるんだろ?」
「そうですね……」
 その子はどこだと踏み込んでいくと、新貝は酷く不愉快そうに顔を顰め、唇を結んだ。その顔は左右にきっちりと別れ、右半分は無表情、左半分は怒りに似た表情を浮かべている。
 表情が複雑なぶんだけ思いも複雑なのだろう。矢島も少し間を置き、根気よく訊ねた。
「石崎夫妻の子供は今、どこにいる?」
 それでも口を開かない新貝に、数十秒の間を置きながら何度も訊ねる。同じ問いを何度も何度も……繰り返すこと五回目にして新貝はようやく浅からぬ溜息をついた。そこを足掛かりにまた訊ねる。
「子供はどこだ?」
「羅梵《らぼん》川……」
 呟くように、今急に思い出したように、新貝は答える。矢島も身を乗り出した。
「羅梵川? 川のどこだ?」
 羅梵《らぼん》川というのは俗名だ。正式には慈雨《じう》川という。万物を潤し育てる恵みの雨。その雨粒が合わさり混ざり合い、大河となって流れる。そんな意味がある。
 だが新貝のような裏街道を歩く者たちはそうは呼ばない。彼らが呼ぶのは羅梵《らぼん》の名だ。菩薩でも救えない凡夫の集う場所という意味合いらしい。
「上流に大きな排水口があるでしょう、その近く、穴から十メートル、いや六メーターくらいか……そこに、います」