銀《ぎん》の父、俊夫《としお》は、小さな畳店に勤務する畳職人だった。

 俊夫は当時、店で事務のアルバイトをしていた女性、瞳子《とうこ》に一目惚れし、積極的に求愛を繰り返した。それに押される形で瞳子も絆され、二人は同棲を始め、彼女が妊娠したのを機に結婚、銀が生まれる。

 始めは幸せだった。
 だが妻の瞳子は派手好きの遊び好き、二人の暮らしはすぐに行き詰まった。
 資産家の一人娘として生まれた瞳子は、事務の仕事を始めるまで一度も働いたことがなかったらしい。元々働くことが好きではなかったのだろう。銀を生んだあとは専業主婦に納まり、いっさい働かなくなった。美しいが世間知らずで浪費家な彼女は毎日毎日呆れるほど金を使い、暮らしは忽ち困窮した。
 このままではダメだ。俊夫は家計の管理を自分でやると決めた。そして改めて見た預金通帳の残高がゼロになっていることに驚く。
 毎日使っている金はどこから出ているのか、問い質すと、瞳子はカード払いだと答えた。
 ほどなく家にはカード会社からの督促状が毎日のように届き、元々困窮していた家計はますます圧迫される。
 どうにもやりくりができなくなった俊夫は疲れ果て、瞳子の親に資金の援助を申し入れた。瞳子の両親は、娘可愛さで援助を了承したが、それも二度、三度となると融通も効かなくなって来る。
 義父たちは、借金をすべて俊夫の稼ぎが悪いからだと決め付け、その度に責めた。
 冗談じゃない、あんたらの娘がこさえた借金だと怒鳴りたかったが、大金を出してもらう身としては、そんなことは言えない。鬱積は溜まり続け、借金は何とかなっても、神経が持たなくなってくる。俊夫は徐々に追い込まれていった。
 どうせ働いても雀の涙、瞳子の贅沢で雪だるま式に作られる借金も、本人の実家が清算してくれるのだ。なにもちまちま働く必要はないと自棄になった俊夫は、仕事も辞め、ふらふらと遊び呆けるようになる。
 しかしそれから半年後、堪忍袋の緒が切れたのか、瞳子の両親は娘夫婦に絶縁を言い渡した。
 一切の援助がなくなり、食料も尽きる。仕事はない、金もない。あるのは借金だけという生活になり、暮らしは荒れた。
 焦った俊夫は日雇いのバイトを始めたが、それでも瞳子の浪費は止まない。
 いくら言い聞かせても、自由にさせれば彼女はすぐ金を使う。まさか縛っておくわけにも行かず、どうにもならなくなった。

 二人の間に生まれた息子、銀は、そのころ十歳になろうとしていた。子供一人といえど、生きていれば食い扶ちだ。食べさせないわけにもいかないし、学費もかかる。瞳子一人養うので手一杯のこの家で、子供まで面倒見る余力はない。この子が死んでくれれば、その分、金が浮く。それだけでもだいぶ違う。そんな考えが頭を過ぎった。

 時は冬、部屋にはストーブがあり、灯油の入ったポリタンクがある。
 子供は悪戯好きだ。親のいない間に、好奇心にかられ、マッチ遊びを始めても、なんらおかしくはない。何度も火をつけては消し、皿の上に燃え滓になったマッチを並べる。そんなくだらない遊びだ。
 そして、何度目かのマッチを擦った時、手元が狂い、火のついたマッチが落ちる。忽ち火は燃え広がり、子供はめでたく焼死。
 子供を焼いた火は、燃え広がり、家も焼け落ちる。家が焼ければ、火災保険が下りる。厄介者が消え、金も手に入る。金が手に入れば、瞳子も戻ってくるかもしれない。
 浅はかに、非情に、なんの呵責《かしゃく》もなくそう結論した俊夫は、ポケットからハンカチを取り出した。それに僅か、灯油を垂らし、子供の懐に押し込む。そしてストーブの横から持ち出して来たマッチを擦った。
 ポッと小さな炎があがり、気分が高揚する。昂った気分のまま、押し込んだハンカチに火をつける……と同時に、部屋の戸が開き、瞳子が帰って来た。

「きゃあっ!」
 部屋に入るなり、目の前に燃え上がる炎を見つけ、瞳子は反射的に叫び声を上げた。俊夫も慌てて消火に回る。だが慌ててしまい、全てにもたつく。火が消えたのは数分後のことだった。。

 ***

 最初の計画が破綻したことで、俊夫も直接銀を殺すことは諦めた。だが、事態はずっと悪くなった。
 瞳子は、俊夫が銀を焼き殺そうとしたとヒステリックに喚き、そのうち私も殺す気でしょうと叫ぶ。あれは事故だと言い訳をしたが聞かず、殺人鬼のいる家なんかに居られないわと、家には殆ど戻らなくなった。
 自棄になった俊夫は、日雇いの仕事で得た金を、全部酒に変えて飲んだくれる。

 母親は出て行く、父親は飲んだくれ、その狭間で、一人取り残された銀は途方に暮れた。両親の無関心は幼い銀にとって死活問題だ。
 それまでも父親との仲はそう良くはなかったが、母親との関係は良好だった。
 母親は銀の可愛らしく整った顔と、ふっくらした柔らかそうな頬がお気に入りで、お前はいい子、可愛い子と、まるでペットのように抱きしめた。だがそれは自分に似合いのブランド物を愛でるのと同じ行為だ。お気に入りの顔に大きなケロイド痕が張り付いた途端、彼女は驚くほど無関心になった。
 両親に見捨てられた銀は、その日食べる物にも困るようになった。そこで銀の境遇に同情してくれた新聞屋の男に無理を言い、チラシ折込などの雑用をする代わりにと、僅かばかりの金を得て、それで食い繋ぐ。
 だが困るのは食事だけではない。銀の住む家は都内の高層マンションで、しかも賃貸だ。家賃も決して安くはない。その上都会のど真ん中、電気、ガス、水道と、光熱費だってバカにはならない。
 必要に迫られた銀は、中学に入学する頃には新聞配達や集金業務までやるようになり、家賃も光熱費も自分の食費も全てそれで賄うようになった。おかげで学校へは殆ど行かれない。当然友だちは一人もいなかった。
 友達がいない理由はそれだけではない。銀の顔半面には、醜く引き攣れ、青黒くなった火傷の痕があり、それを気味悪がって誰も近づいては来ないのだ。
 最初は、それを淋しいと思ったが、すぐに慣れた。
 友だちなどいらない。
 ただひたすらに金を稼ぎ、食い繋ぐ。
 そんな銀を、父、俊夫は、可愛げのない奴と罵り、銀の稼いだ金で暮らせているにもかかわらず、生意気だ、お前は親をバカにしてるんだろうと怒鳴りつけた。だが、そんなことにかまってはいられない。どうでもいい。僕を嫌いなら嫌いでいい、好かれようとは思ってない。そう自分に言い聞かせ、懸命に心を閉ざした。

 そんなある日のこと、収入を上げるため、自主的に新規開拓も行っていた銀は、いつもより少しだけ足を伸ばし、隣町まで歩いた。
 新聞にもいろいろあり、銀の店ではスポーツ新聞や、普通の新聞の他に、女性向けや子供新聞なども取り扱っていた。それぞれの読者層に合わせ、ファッションや芸能、子ども向けなら有名私立小学校や中学の入試問題、その対策なども掲載し、購買欲をそそっている。そこでその家に適した新聞を勧めるため、各家庭の収入、暮らしぶり、家族構成などを調べていた。そして行き当たったのがその貸家だ。
 その家には若夫婦が二人だけで住んでいるとのことだが、どうも夫婦だけでなく、子供もいるようなのだ。

 夫らしき男がいるときは感じないが、妻が一人で家にいるときや、妻の気配もないとき、そっと近づくと薄い壁越しに子供の泣き声が聞える。その声は、子供というよりは仔猫のような感じで、小さく弱々しかった。
 近所で聞いてみても、その家に子供はないと言うが、確かに聞える。
 どうせ他人事、気にしないで放りだしておいても良かったのだが、声の弱々しさが気になった。
 そこで、夫婦共に留守らしいと判断したある夏の夕方、その泣き声に話しかけてみた。
 貸家には、車が一台停められる程度の小さな前庭と、物干しなどをするためのスペースか、同じ位の広さの裏庭があった。裏庭の後ろは雑木林で、その境にはキッチリと茶の木が植わっている。安い賃貸にしてはいい感じだ。
 こんなところを誰かに見られたら泥棒扱いを受けそうだなとドキドキしながら、小さな物音と泣き声が聞える壁に張り付く。
「誰かいるの?」
 小声で話しかけてみた。その途端、物音と声はピタリと止む。どうも警戒しているようだ。
 銀は根気強く話しかけ、なにか困ったことがあるのかと聞いた。すると何度目かの問いに、家の中から遠慮がちな返事がかえって来た。
「なにか、食べるもの、持ってないですか?」
「え?」
「妹が、お腹を空かせてるんです、泣くなって言ってもぐずっちゃって……煩くしてごめんなさい」
 それは自身もまだ幼そうな子供の声だった。話を聞く限り、兄のほうは小さいに合わず、礼儀正しい。こんな幼い兄妹が、両親の留守に物乞いをする。それはよほどのことだ。
 自分より不幸な状況の子供がいる。その事実に衝撃を受けた銀は、その日もらったばかりの給料袋を開けた。
「ここ、開けて」
 寄りかかった部屋の小さな窓を叩き話すと、窓はほんの少し開いた。そこから中を覗きこむ。僅かな隙間から見える部屋は散らかり放題で、腐臭と熱気が漂っていた。
 これが人の住む家か?
 自分の家もあまり綺麗ではないが、この比ではない。あまりの酷さに心臓が押し潰されそうな衝撃を受けた銀は、胸が痛くなるような動悸を抑え、千円札を握り締めた。
「これ、あげるから、なんか買って食べな」
 だが、差し入れた金を、中の子供は受け取らなかった。自分たちは外に出られない。だから買い物にはいけないんだと答える。外に出られないとは、どういう状況なのだろうかと考えると、恐ろしさで背筋がゾッとした。
 自分もたいがい酷い暮らしをしていると思っていたが、それどころではない。自分は外に出られるし働ける。暮らしは大変だし、仕事も辛いが、家にはエアコンもあるし、食うにも困らない。自分はまだ幸せだったんだと気づき、なんの謂われなく罪悪感さえ覚えた。背中には脂汗が滲み、札を握った手も震える。辺りには真夏の熱風が吹き抜け、滲んだ汗は止まらない。
「ちょっと待ってて」
 風の音にはっと我に帰った銀は、子供にそういい残し、近くのコンビニへと走った。そこでおにぎりとペットボトルの飲み物を買い込み、急いで戻る。そして細く開けられた窓からそれを渡した。子供はありがとうとそれを受け取ったが、外の人に会っていると知られたら殴られるからごめんなさいとすぐに窓を閉じた。

 この子らの存在は世間に秘密なのだ。
 だがでは、誰がこの子らを心配し、面倒を見るのだろう? 放っておいたら死ぬんじゃないか?
 テレビのニュースでは、子供の虐待死や、家庭内事故死などがちょくちょく報じられている。この子らも、いつかそうなる。きっと、それほど遠くない未来に……。
 
「また来るよ、妹さんの面倒見るの、大変だろうけど、キミも、元気でね」
 自分で想像した結末にドキドキしながら、それだけを言い残し、銀は逃げるようにその場を離れた。

 帰宅すると、今度は、いつも不機嫌な父親に、帰りが遅いと殴られた。彼はその日が銀の給料日と知っていて、集ろうと考えていたらしい。殴り倒した銀から給料袋を取り上げる。
「なにするの! 返してよ!」
「うるせえな、子供は金なんか持つもんじゃねよ、はいどうぞと親に渡しとくもんだぜ」
「お父さん、渡したら全部使っちゃうじゃないか!」
「うるせえっつってんだろ! 金は使う為にあんだよ!」
「ダメだってば! 家賃とか電気代とかあるんだから、返して!」
「しつけえな、ちっと借りるだけだ、返すよ!」
 父親は、給料袋から札を数枚取り出し、これだけあれば足りるだろと残りを投げ返す。拾い上げた中味は、半分以下になっていた。これでは家賃は払えても、光熱費が出ない。足りないよと怒鳴り返し、少しは戻してもらったが、食費はいつもの半分になった。
「お父さん、最低だ……」
「あ? なんだって?」
「……なんでもない」
 言っても無駄だ。反抗すれば余計に怒らせるだけでいいことはない。咄嗟にそう思った銀は口を噤んだ。だがそれも気に喰わなかったのだろう。父親はそれが親を見る目か、化け物めと激昂し、殴りかかってきた。
 その頃すでに父を越すほど背が高くなっていた銀は、自分が本気で抵抗すれば父を負かすことも出来るとわかっていたがそれはしたくなかった。子供にやり返されて負けては父だって立場がないだろう。どんな人間でも子供にとっては親だ。親には立派であってほしい。尊敬できる人であって欲しかった。
 だが、子の心、親知らず、それからも父親は、銀の様子を監視し、給料日と見ればその金を毟り取る。自由になる金は殆ど手元に残らず、銀も自分が生きていくだけで精一杯になった。
 そしていつしか、心にかかっていた幼い兄妹のことを忘れた。

 金を稼いではその殆どを父親に取られるという生活は、銀の気力を剥ぎ取っていく。救いは、金を得た事で、余裕が出来たせいか、父親も少しは働くようになり、それに伴って母親も家に戻る日が多くなってきたことだ。
 学校に行けないことや、仕事が大変で身体がきついということを覗けば、一見平和な日々が続き、それは銀の心身を麻痺させた。

 自分さえ我慢していれば家は平和だ。父も働くし、母も家に戻る日が多くなる。だからこれで良いんだと、ただひたすらに働く。
 父も母も喜んでくれている。自分たちは上手くやっている。
 そう思い込もうとした。