自由に他人に成り代わることが出来る人間などいるはずがない。というより、もしいるとしたら、そいつを捕まえることはきわめて困難だ。
仮に捕まえらえれたとしても、取り調べをするころ、そいつはもうそこにいない。そこにいるのは、そいつに姿を借りられていただけの、なにも知らない人間ということになってしまう……。
「まさか……」
「なんだ?」
ふと思い当たった可能性に矢島が黙り込むと、オウガは顔をあげた。それを船に聞き返す。
「昨夜、逮捕されたとき、フィーンはお前の中にいたのか?」
「ああ」
半分以上眉唾だと思いながら聞いた問いに、オウガはそうだと頷いた。一段と背筋が寒くなる。これではオカルトだ。そんな話はあり得ない。
矢島は自分の中にある一般常識と、今聞いた事実を照らし合わせ、可能性だけを探した。しかし、どう考えても、あり得ないものはあり得ない。
犯人には、捕まえられる手と足があり、現実世界に存在しているはずだ。幽霊が犯人では、警察など意味がなくなってしまう。
何度も、あり得ないぞと頭で繰り返しながら、矢島はさらに聞いた。
「彼女はナニモノだ? 実態はないのか? まさか本当に鬼か悪魔とでも言うんじゃないだろうな?」
「鬼か魔か……そうだな、もしかしたらそうなのかもしれないな」
「そうなのか?」
驚いて聞き返すと、オウガは憐れむような視線を向け、口先だけで、少し笑った。
「俺がフィーンに初めて会ったのは五年前だ、そのとき彼女はゼノと共にいた、ゼノのことは少し前から知ってたんだが、フィーンには会ったことがなかった、だから彼女がナニモノなのかは、俺も知らない」
「なんだそれは」
誤魔化す気かと問い詰めてみたが、どうもそうではないらしい。オウガは本当に、フィーンの正体を知らないようだ。
わかるならとっくにどうにかしていると話した。
「彼女がナニモノなのか、ゼノならわかるのかもしれないが……」
「ゼノ……」
重田の話では、ゼノは小学生くらいの子供ということだった。だとすれば、もしかしたらゼノが石崎夫妻の子供なのかもしれない。
石崎夫妻は、押し入れに小さな生き物を飼っていた。それが子供だったとする。と、その子は五年後、何歳だ?
事件当時、そこ(押し入れ)にいた。そして、事件後、そこから消えた。
消えたということは、自力で立ち去れるだけの体力と知恵があったはずだ。少なくとも、赤子ではない。小さく見積もっても五歳か六歳。その五年後なら十歳か、いってても十二歳。小学生くらいという重田の証言とも合う。そう考えれば、ゼノが石崎夫妻の子である可能性は高い。
「ゼノくんは、今、どこに?」
訊ねると、オウガはちょっと困ったというように、首を傾げた。居場所はわかるが、会えないだろうと話す。
「なぜ会えない?」
「ゼノは今、心を閉ざしている、話ができる状態じゃない」
「なぜだ、そういうことはよくあるのか?」
「いや……ゼノはアレで結構社交的なんだ、俺たちの中じゃ一番外向きだ」
「それが今は自閉症……フィーンのせいか?」
「だろうな、ゼノはフィーンを信じてた、いや、崇拝とでも言うか、彼女の意に反することはしなかった、今回だって、最大限許せる範囲で、フィーンの言うとおりにしたはずなんだ、それなのに、彼女は俺たちを裏切った……俺だけじゃない、ゼノも裏切られたんだ、だから……」
「自閉した?」
「ああ」
「ガキだな」
「ガキだよ、ゼノも、フィーンも……俺もな」
一度話し始めたオウガはそれからも素直に取り調べに応じた。矢島の質問にも、答えられる範囲で答える。だが、肝心な部分にくると、わからないを連発した。
それが保身からくる言い逃れや誤魔化しであれば、やり様はある。叩けば埃も出るだろう。しかしそうでない場合、いくら聞いても核心は掴めない。取り調べはいっこうに進まなかった。
そして……。
何日経っても、初日以上の話は聞けず、このままでは、なにもわからないままオウガの勾留期限が切れてしまうと、矢島が焦り始めるころ、本部からの横やりが入った。
証拠不十分で、不起訴、オウガを釈放しろとのお達しだ。
「釈放だぁ? ふざけんな!」
たしかに証拠は不十分かもしれないが、仮にも現行犯逮捕だ。オウガは傷害事件の現場で、血のついたナイフを手に立っているところを逮捕されている。その傍には、オウガの持つナイフで切り付けられたと見える被害者女性が倒れていた。監察医の判断でも、凶器はオウガの持つナイフで間違いないとされている。だからこその現行犯逮捕だ。
そして、現行犯ということは、その罪状は疑うべくもない……はずだ。矢島はそう主張した。
しかし聞き入れられなかった。被害者女性が、犯人は女だと証言したからだ。
犯人は女性で、体格は小柄。髪はかなり長く、血のような赤い色だった。
病院で意識を取り戻した被害者女性、佐藤順子が、そうはっきりと証言したらしい。そうなると、オウガは犯人足り得ない。あまりに目撃証言と違い過ぎる。誤認逮捕だ。早々に釈放しろと言われた。
「くそっ、なんだってんだ」
これまでの話を総合して、犯人はオウガではないかもしれないと考えてはいた。だが、無関係でもないはずだ。
仮にやったのがフィーンだとして、オウガはその裏を知っている。今は会えないとしても、ゼノとの繋がりもある。オウガとフィーンとゼノの関係、その謎を解き明かすためにも、オウガへの尋問は続けたい。それが矢島の考えだったが、本部はそれをNOと言う。
「お前は凶器のナイフを持っていた」
「ああ」
「本来ならそれで決まりなんだ、だが今回は……」
「なにか問題があるのか? 俺は認めてる、犯人は俺でいいじゃないか」
「そうもいかねえんだよ」
「いかない? なんで?」
なんで……。
それこそ、何故……だ。いかに被害者の証言があったとしても、物的証拠は揃っている。本人も自分がやったと認めている。たとえ、実行犯ではないといても、血の付いた凶器を持って現場にいたのだ、犯人と繋がりがないわけがない。それを釈放などあり得ない。
だが上層部はオウガの釈放を決めた。
なぜだ?
***
「警部、大変です!」
「なんだ、騒がしい」
暗い取調室の中で、新貝を取り知らべていた年配の刑事は、飛び込んで来た部下の言葉に、少しほっとした面持ちで振り向いた。
なにを聞いても暖簾に腕押し、のらりくらりと話を逸らす新貝の相手をしていると、頭がおかしくなる。それもへらへら笑いながら話してくれればまだ感情も乗るのに、まるで無表情の能面、姿勢すらほとんど変えない。
背筋をピンと伸ばし、正面を向いたまま淡々と話されると気持ち悪くなってくる。
事実、これまで取り調べにあたっていた捜査員は一日と持たなかった。ほぼ全員が、精神不安と体調不良を訴え、戦線離脱。そこでお鉢が回って来た年配の警部も、地下室の空気のせいか、新貝の態度のせいか、気が滅入り、胃のあたりがじくじくと疼きだす始末。いったんここから出ないと吐きそうだと思っていたところだったので、部下が飛び込んできてくれたのは渡りに船だ。自分がここから出なければならなくなるような、大きな事件の話でも持ってきてくれればなお嬉しいとさえ思いながら振り向いた。
少し不謹慎だが、得体の知れない殺人鬼と向き合い続けるよりマシだと、詳細を訊ねると、飛び込んで来た若い刑事は、酷く慌てた早口で答えた。
「宮田刑事が、人を刺したって!」
「なんだと?」
大きな事件とは思ったが、大き過ぎだ。現役刑事の殺傷事件など一番あってはならない。なんでそんなことになったと聞き返すと若い刑事も、わけがわからないんですと口ごもる。
「被害者は宮田さんとは面識がないって、宮田さんも、自分は知らないって言い張ってて」
「どういうことだ?」
「わかりませんよ、でも現行犯なんです、目撃者もいて……」
若い刑事も狼狽えていたが、それを聞いた年配の警部も混乱した。そんな馬鹿な話あるものかと何度もつぶやき、首を振る。そして何気なく背後の新貝に振り返ってゾッとした。新貝は、口の両端を大きく上げ、不気味なほど笑っていた。その顔は派手なメイクを塗り重ね、素顔を隠したクレイジーピエロのようだ。
背筋が凍り、警部は大きく身震いする。
「なんだ、なに、笑ってやがる?」
思わず詰め寄ると、新貝はいえ別にと口を閉ざした。だが張りついたような笑みはきえない。ますます薄気味悪くなり、胸倉を掴む。
「なにがおかしい? お前、なんか知ってるのか!」
「なにか……そうですね、少し」
年配の警部は、新貝の持つ不気味な空気に毒され、震えながら身を乗り出す。
逮捕されてから数日間、新貝はこの地下室を出てない。宮田刑事とも、取り調べのときに初めて会い、以来は会っていない。なにを知り様もないはずだ。だがそのときはなぜか信じられた。
こいつは何かを知っている。
「少し、なんだ?」
「言ってもいいんですが、きっと信じませんよ、あなた方は」
「いいから言え!」
「そうですか、では……」
新貝はもともと吊り上がった細い目をさらに細め、本当にいいんですねと芝居がかった前置きをして話し始めた。
「犯人は宮田刑事ではありません、しかし目撃者がいる、お気の毒ですが、それは証明できないでしょう」
「なぜだ、いや、お前は真犯人を知ってるのか?」
「知ってますよ」
「誰だっ?」
「あなた方がお探しの殺人鬼、FOXです」
「はァ?」
意外な答えに警部も思わず首を捻る。その間抜けを見つめる新貝は、これまでとは打って変わり、リラックスした表情で足を組んだ。机の上に片手を置き、右手で口元を覆っているが、その陰で笑っているのがわかる。真剣になる刑事たちをバカにするような、憐れむような、嫌な笑い方だ。
「フォックスはお前だろ、新貝」
ムッとした警部が、睨み返す。だが新貝も動じなかった。
「いかにも、私の通り名はフォックスですが、それはただの仇名だ、あなた方の言うFOXではない、そんな野蛮じゃないですよ」
「バカ言え! お前が自分の邪魔になる人間を幾人も殺ってるのは知ってるんだぞ!」
「それは憶測でしょう? 証拠でもあるんですか?」
「貴様!」
やれやれと、大げさに肩を竦めて見せる仕草が、気に障り、さすがに頭にきた。だが、人をバカにするのもいい加減にしろと怒鳴りかけたところで、新貝が再び口を挟む。
「あなたは私がお嫌いだ、それはよくわかってます、だが今はそんな話をしているときではない、そうでしょう?」
細い目をさらに細め、口元で手を組んだ新貝は、相手の出方を誘うように、エレガントに首を傾げて話した。百戦錬磨の警部も気圧されて口を閉じる。
たしかに、宮田刑事が犯人ではないという話も、真犯人はFOXだという話も、信ぴょう性はともかく気にはなる。本当に宮田が犯人でないなら、警察としても助かる話だ。聞かないわけにはいかなかった。警部は忌々しさを押さえて先を続けろと促す。
すると新貝は満足したように、狐顔でニコリと笑った。
「では続けます……」
警察はFOXを一人の人間と思っている、そもそもそこが間違いだ。FOXは一人でもなければ、人間でもない。FOXに実体などないのだ。
ではなにか? その正体は知れないが、おそらくは後催眠のようなものだと思われる。
目と目を合わすことで、または、特定のキーワードを与えることで、暗示が発動する。操られた本人は、自分でもなぜなのかわからぬうちに凶器を手に入れ、標的を探し出し、殺す。それも、出来得る限り残酷に、手酷い方法で……だが所詮は暗示、本人の意思ではない。だから今回のように、正義感の強い相手だと、失敗する。
宮田の正義感が、FOXの邪悪な念に勝ったのだ。だから被害者は死なず、事件は明るみに出た。
たぶん、宮田は自分がやったと自覚している。理由はわからなくても、やったということだけは覚えている。だから動機以外は素直に自供してくれるだろうし、それで事件は解決するだろう。
だが、真犯人、FOXを捉えない限り、同じような事件はまたすぐ起きる。トカゲのしっぽなど、いくら捕まえても本体が捕まえられなければ、なんの足しにもならないですよと新貝は言った。それが事実だとすれば、たしかにその通りだ。
「宮田刑事はそうとう強い心の持ち主だったのでしょうね、だから、FOXも操り切れなかった、素晴らしい正義感です、称賛されていい」
新貝は取り調べのときと同じく、真正面を見据え、宮田を称えた。だがその様子はそれまでと大きく違う。背もたれによりかかり、足を組んで、笑みさえ浮かべている。己の優位を確信した尊大な態度だ。取り調べに当たった警部も、内心ムカムカいながら、聞き返した。
宮田の無実を晴らせるのは、この男だけなのだ。
「そこまで知っているなら、FOXの居場所も知ってるんじゃないのか? そいつはどこにいる?」
「まさか、私はこの地下室にもう二週間も閉じ込められてるんですよ、それで居場所まで知ってたら神様だ」
「嘘つけ! ……いや、居場所じゃなくてもいい、なにか、そいつを捕まえるヒントはないのか? それぐらいあるんだろ!」
「そうですね、では大ヒントだ、宮田刑事は、ここを出てからどこに行きました?」
「ここを出てから?」
「ええ」
取り調べ中に錯乱して新貝に暴力を振るった宮田は、いったんFOX事件から離された。だがもともとエリートで、将来を期待されていた彼は、本来なら戒告処分となるところ、暫く休めとの通達だけにとどめられた。所謂、自宅謹慎だ。
しかし彼はおとなしく自宅には向かわなかった。
何を思ったのか、正規取調室へ向かい、そこで殺人の容疑で取り調べ中だった男に暴行し、つまみ出されている。そのときも、常軌を逸していたらしい。
そう話すと新貝は、暴行された被疑者の名を聞いた。
「名前? たしか、オウガ……だったかな、ふざけた名だ、おそらく本名じゃないだろ」
聞かれた警部も首を傾げながら答える。
そのときもおかしいとは思ったのだ。宮田はやたらと暴力をふるうタイプではない。出世欲も強かったし、常に自分が他人からどう見られているかを気にしていた。ましてや自分が関係していない事件にわざわざ首を突っ込み、その容疑者を暴行など、するわけがない。
あのときは、新貝《フォックス》の取り調べに疲れ、どうかしていたのだろうと軽く考えていたが、もしかしたら違うのか? ふと思い立ち、顔を上げると、新貝は正解ですと微笑んだ。
「その男、犯人じゃないですよ」
「現行犯だぞ」
「宮田刑事も現行犯でしょう?」
「え……」
その返事に背中が凍り付く。嫌な予感が這い登る。思わず俯くと、頭上から新貝の明解なアンサーが聞こえてきた。
「その事件も同じです、犯人はその男じゃない」
「まさか……」
「FOXですよ」
「そっ……っ」
そんな馬鹿な、とは言えなかった。言えないだけの説得力と、迫真性が、その声にはある。
それに……。
もしも一連の事件の犯人がFOXであるなら、宮田を救えるかもしれない。新貝はFOXを知っている。それを証明できさえすれば、FOXは捕まえられる。警部はそう読んだ。
「それが本当だという証拠は?」
「証拠ですか、そうですね、そう例えば、目撃者の証言などどうでしょう?」
「目撃者なんか……」
「いますよ、一番身近でその事件を見てた目撃者が」
「なんだと? 誰だ?」
「事件の被害者ですよ、彼女、生きてるんでしょう? 意識が戻ったら聞いてみればいい、面白い証言が聞けるはずです」
それはまさに鶴の一声だった。
警部はそれまで半信半疑だったのが嘘のように、新貝の言葉を鵜呑みにし、慌てて取調室を出る。そして意識の戻った被害者、佐藤順子から、逮捕された男とはまるで違う犯人像を聞かされ、愕然とした。
佐藤順子の件は、冤罪の可能性が高い。
その冤罪はFOXが仕掛けたモノらしい。
それを、新貝は知っていた。
新貝を叩けば必ず埃が出る。だが彼もあの若さで暴力団と対等以上に渡り歩いてきた男だ。ただでは話さないだろう。新貝の機嫌を損ねず、美味く話させるようにするには、どうすればいいのか、警部も真剣に考えた。その挙句、本人に聞いたのだ。
「お前はもっと話を知ってる、そうだろ?」
「おや、私を信じるんですか? こんな何の根拠もなさそうな与太話を? あなた方(警察)は何事も証拠でしょう? 証拠がなければ動けないし動く気もないんだ、そうじゃないんですか?」
「遠回しはいい、俺はその話を聞きたいんだ、どうしたら話す気になる?」
「そうですねえ……」
そして新貝は、本気で自分の話を聞き、動く気があるというなら、それを目に見える形で示せと言った。目に見える形とはなんだ? それは自分たち(警察)が、新貝の言葉どおりに動いて見せることだ。多少大げさでもいい、こちらが本気だというパフォーマンスが必要なのだ。
「どうすればいい?」
「では、佐藤順子の件で逮捕された若い男の釈放を」
「なんだと?」
「別に問題ないでしょう? 彼は犯人じゃない、あなた方も、私の話を信じるというならわかるはずです、これは冤罪だ、即時釈放を要求します」
***
オウガの不起訴が決まり、釈放が迫ったその日、矢島はこれを最後にと、再び尋問した。せめて三浦殺しの件だけでも、裏が欲しい。
だが、一時素直に話し始めていたオウガは、なぜか口が重くなった。椅子の背に深く腰を預け、どこか虚ろな瞳で宙を見つめるだけだ。
「佐藤順子さんの件は不起訴だが、三浦の件はまた別だ、あれはお前がやった、そうだな?」
狭い取調室で向かい合い、霞がかかったように濁った目をしたオウガの顔を覗き込む。至近距離で瞳を合わせると、濁りはいっそう深く見えた。返事は返ってこない。
なにを考えているのだろう? 一抹の薄ら寒さを感じながら、矢島はさらに訊ねた。
「お前が自分で言ったんだぞ、三浦を殺したんだろ」
返事をしないオウガの態度に焦れた矢島は、少しきつい言い回しで突っ込む。すると、今の今までだんまりだったオウガも顔を上げた。瞳はまだ濁ったままだ。
「さあ、覚えてないな」
「なにが! いまさら惚けるつもりか? お前は自分が三浦を殺したと認めたはずだ」
「そんなこと言ったか? 俺はただ、殺されて当然だと言っただけじゃなかったか?」
「それは……だが!」
やはりオウガはすっ呆ける。たしかに、話の流れや言い回しから、自供したも同然だが、直接、殺したとは言わなかった。否定されると苦しい。
矢島はそこで、ではどこを攻めるべきかと考えた。 曖昧な言い回しやニュアンスではダメだ。確実に、彼が言った言葉で攻めなければ効かないだろう。なにかないかとよくよく考えて、ようやく思い出した。
FOXだ。
「お前はFOXだ、それは認めるな?」
「そう名乗った覚えはない、俺はオウガ、それ以外のナニモノでもない」
「たしかにそうだ、だが警察内部で騒がれている殺人鬼、FOXの話をしたとき、お前はそれは自分のことだと認めただろ」
「そうだったかな……」
「そうだ、自分がFOXで、本名は沢村銀、そう言った」
「沢村銀……」
「そうだ」
沢村の名をだすと、オウガは少しだけ表情を変えた。俯き加減に視線だけ上げる様子は、追い詰められたときの不良少年のそれと似ている。
やはり彼には、迷いがある。自分のしていることが本当に正しいのかわからなくなってきているのだ。矢島はそう確信したが、当のオウガは、当然という顔で首を振った。
「その名は捨てた」
「だが戸籍上は沢村だろ」
「戸籍なんて意味はないぞ、親が届けなければ登録もされないんだ、この世に無戸籍児が何人いると思う?」
オウガはまるで、自分がそうだとでも言いたげに世間へと毒を吐いた。その言い草が引っかかる。
彼には立派な戸籍があり、休みがちだったとはいえ、学校にも通っていた。両親が殺された事件のあと、行方不明になってはいるが、それまでは普通に生活できていたはずだ。その憎しみがどこから来るのかが今一つピンとこない。
「なに、けっこう役に立つ、名前と戸籍がわかればお前がそれまでどう生きてきたのかが大まかでもわかる、それがわかれば、なぜ罪を犯したのか、その心理が見えてくる」
少し説教じみた言いまわしでそう話すと、オウガはじゃあ当ててみろと言った。
「俺が今日までどう生きてきたか、あんた、わかるのか?」
「いや、それは……だが五年前までのことなら多少はわかるぞ、お前は沢村夫妻の一人息子で、中央区のマンションに両親と三人で住んでた、事件当時は新聞配達のバイトで暮らしを支えてた、なかなか感心な子供だ」
「やはりわかってないな」
「なにが? どこか違うか?」
「違わないさ」
違わないと言いながら、オウガは不愉快そうに矢島を睨んだ。憎まれる理由がわからない。ただその憎悪だけは針のように皮膚に突き刺さった。
なにが違うのか、なにが気に障ったのか、なにを見落としているのか、それがわからないまま、矢島も黙り込む。
それからオウガは一言もしゃべらず、時間だけが過ぎた。そしてとうとう時間切れ、釈放のときとなる。
オウガの持ち物……と言っても、凶器のナイフは返せないので、着ていた服と靴、カーキ色のフード付きコートだけが返却される。オウガは何の感動もなさそうな濁った瞳でそれらを受け取り、立ち上がった。枯れ果てたその姿を、矢島は割り切れない思いで見つめる
取調室を出て、警察署の廊下を通り、表玄関へと歩く短い道のりを、オウガは本当にゆっくりと歩いた。出て行きたくないのかと聞きたくなるくらい、その足取りは重い。
外には、絶望だけが待っている。
彼の背は、そう言いたげに見えた。
なにか言いたいのに言葉が浮かばない。深酒のあとの胸焼けのような、嫌な感覚を引き摺りながら、矢島もそのあとに続いた。
警察署の分厚いガラス戸がすうっと開き、オウガが外へと出て行く。真昼の太陽は頭上高く輝き、外は呆れるくらいの晴天だ。眩しい太陽の光に目を細めながら、離れていくオウガを見つめた。
一瞬……ほんの一瞬、明る過ぎる日の光に、オウガの姿が溶け込むように消えていく幻が見えた。
「おい!」
慌てて声をかけると、オウガはピタリと足を止め、無表情に振り向いた。その無心な表情に、胸が締め付けられる。
助けてくれと、言われている気がした。
だが、どうすれば彼を救えるのか、思い浮かばない。妙に喉が渇き、自分の心臓の音がくっきりと聞こえる。
なにか、言わなければならない。
「オウガ、最後にもう一度だけ、聞かせてくれ」
「なんだ?」
相変わらず無感動にオウガは聞き返す。
おかしい、どうかしている……まさか、あり得ないぞと繰り返しながら、矢島は口を開いた。
「お前はFOXだな?」
「ああ、そうだ」
取調室ではすっ呆けていたというのに、オウガは呆れるくらいあっさりそうだと頷いた。今なら、答えるのかもしれない。
期待で掌に熱い汗が滲み出る。指先は震え、喉はカラカラだ。張り付きそうなくらい乾ききった唇をこじ開け、矢島は核心を訊ねた。
「フィーンは今、どこにいる?」
「たぶん……」
「たぶん?」
「いや、今はわからない、だが、おそらく、すぐ戻ってくる」
「戻る? どこへ?」
「ここへ」
ここ、と言って、オウガは自分の胸を指差した。静かな瞳に青白い炎が宿る。それを見つめる矢島の背には、冷たい汗が流れた。オウガの灯す青く冷たい炎に焼かれ、心臓が凍りつきそうだ。
「お前はナニモンだ?」
「俺はオウガだ」
オウガは表情を変えない。その分だけ、矢島は動揺した。そこにいる青年、オウガの姿が、日の光に透けて見える。これではまるで……。
這い登る嫌な予感を振り払うように、矢島は叫んだ。
「お前は本当にそこにいるのか?」
「いるだろ、見えないのか?」
「見えない! いや、見える……が、見えない」
「どっちなんだ?」
「見えてるが見えない、いや、お前……」
「お前? なんだ?」
自分でも、理不尽で不合理なことを言っているとわかっていたが、抑えきれず矢島は叫んだ。背中に這い登る虫唾が、理性を飛ばす。
「お前! 本当は誰なんだ!」
「はっ」
矢島の叫びに、オウガは虚を突かれたように目を丸くし、息を吐いた。
そして、たっぷりと間を空けてから、静かに答える。
「……FOXだよ」
オウガは、壮絶な瞳でニヤリと笑った。なぜか胸騒ぎがして、矢島も思わず怒鳴り返す。
「そうじゃない! 俺が聞きたいのはお前の……っ!」
お前の正体が知りたいのではない。追い詰め、捉えたいのではない。ただ、真実が知りたいだけだ。知らなければならないと思っただけだ。そう叫びかけた。
だが、オウガは足を止めることなく立ち去り、言いかけた言葉は、虚しく宙に消えた。
仮に捕まえらえれたとしても、取り調べをするころ、そいつはもうそこにいない。そこにいるのは、そいつに姿を借りられていただけの、なにも知らない人間ということになってしまう……。
「まさか……」
「なんだ?」
ふと思い当たった可能性に矢島が黙り込むと、オウガは顔をあげた。それを船に聞き返す。
「昨夜、逮捕されたとき、フィーンはお前の中にいたのか?」
「ああ」
半分以上眉唾だと思いながら聞いた問いに、オウガはそうだと頷いた。一段と背筋が寒くなる。これではオカルトだ。そんな話はあり得ない。
矢島は自分の中にある一般常識と、今聞いた事実を照らし合わせ、可能性だけを探した。しかし、どう考えても、あり得ないものはあり得ない。
犯人には、捕まえられる手と足があり、現実世界に存在しているはずだ。幽霊が犯人では、警察など意味がなくなってしまう。
何度も、あり得ないぞと頭で繰り返しながら、矢島はさらに聞いた。
「彼女はナニモノだ? 実態はないのか? まさか本当に鬼か悪魔とでも言うんじゃないだろうな?」
「鬼か魔か……そうだな、もしかしたらそうなのかもしれないな」
「そうなのか?」
驚いて聞き返すと、オウガは憐れむような視線を向け、口先だけで、少し笑った。
「俺がフィーンに初めて会ったのは五年前だ、そのとき彼女はゼノと共にいた、ゼノのことは少し前から知ってたんだが、フィーンには会ったことがなかった、だから彼女がナニモノなのかは、俺も知らない」
「なんだそれは」
誤魔化す気かと問い詰めてみたが、どうもそうではないらしい。オウガは本当に、フィーンの正体を知らないようだ。
わかるならとっくにどうにかしていると話した。
「彼女がナニモノなのか、ゼノならわかるのかもしれないが……」
「ゼノ……」
重田の話では、ゼノは小学生くらいの子供ということだった。だとすれば、もしかしたらゼノが石崎夫妻の子供なのかもしれない。
石崎夫妻は、押し入れに小さな生き物を飼っていた。それが子供だったとする。と、その子は五年後、何歳だ?
事件当時、そこ(押し入れ)にいた。そして、事件後、そこから消えた。
消えたということは、自力で立ち去れるだけの体力と知恵があったはずだ。少なくとも、赤子ではない。小さく見積もっても五歳か六歳。その五年後なら十歳か、いってても十二歳。小学生くらいという重田の証言とも合う。そう考えれば、ゼノが石崎夫妻の子である可能性は高い。
「ゼノくんは、今、どこに?」
訊ねると、オウガはちょっと困ったというように、首を傾げた。居場所はわかるが、会えないだろうと話す。
「なぜ会えない?」
「ゼノは今、心を閉ざしている、話ができる状態じゃない」
「なぜだ、そういうことはよくあるのか?」
「いや……ゼノはアレで結構社交的なんだ、俺たちの中じゃ一番外向きだ」
「それが今は自閉症……フィーンのせいか?」
「だろうな、ゼノはフィーンを信じてた、いや、崇拝とでも言うか、彼女の意に反することはしなかった、今回だって、最大限許せる範囲で、フィーンの言うとおりにしたはずなんだ、それなのに、彼女は俺たちを裏切った……俺だけじゃない、ゼノも裏切られたんだ、だから……」
「自閉した?」
「ああ」
「ガキだな」
「ガキだよ、ゼノも、フィーンも……俺もな」
一度話し始めたオウガはそれからも素直に取り調べに応じた。矢島の質問にも、答えられる範囲で答える。だが、肝心な部分にくると、わからないを連発した。
それが保身からくる言い逃れや誤魔化しであれば、やり様はある。叩けば埃も出るだろう。しかしそうでない場合、いくら聞いても核心は掴めない。取り調べはいっこうに進まなかった。
そして……。
何日経っても、初日以上の話は聞けず、このままでは、なにもわからないままオウガの勾留期限が切れてしまうと、矢島が焦り始めるころ、本部からの横やりが入った。
証拠不十分で、不起訴、オウガを釈放しろとのお達しだ。
「釈放だぁ? ふざけんな!」
たしかに証拠は不十分かもしれないが、仮にも現行犯逮捕だ。オウガは傷害事件の現場で、血のついたナイフを手に立っているところを逮捕されている。その傍には、オウガの持つナイフで切り付けられたと見える被害者女性が倒れていた。監察医の判断でも、凶器はオウガの持つナイフで間違いないとされている。だからこその現行犯逮捕だ。
そして、現行犯ということは、その罪状は疑うべくもない……はずだ。矢島はそう主張した。
しかし聞き入れられなかった。被害者女性が、犯人は女だと証言したからだ。
犯人は女性で、体格は小柄。髪はかなり長く、血のような赤い色だった。
病院で意識を取り戻した被害者女性、佐藤順子が、そうはっきりと証言したらしい。そうなると、オウガは犯人足り得ない。あまりに目撃証言と違い過ぎる。誤認逮捕だ。早々に釈放しろと言われた。
「くそっ、なんだってんだ」
これまでの話を総合して、犯人はオウガではないかもしれないと考えてはいた。だが、無関係でもないはずだ。
仮にやったのがフィーンだとして、オウガはその裏を知っている。今は会えないとしても、ゼノとの繋がりもある。オウガとフィーンとゼノの関係、その謎を解き明かすためにも、オウガへの尋問は続けたい。それが矢島の考えだったが、本部はそれをNOと言う。
「お前は凶器のナイフを持っていた」
「ああ」
「本来ならそれで決まりなんだ、だが今回は……」
「なにか問題があるのか? 俺は認めてる、犯人は俺でいいじゃないか」
「そうもいかねえんだよ」
「いかない? なんで?」
なんで……。
それこそ、何故……だ。いかに被害者の証言があったとしても、物的証拠は揃っている。本人も自分がやったと認めている。たとえ、実行犯ではないといても、血の付いた凶器を持って現場にいたのだ、犯人と繋がりがないわけがない。それを釈放などあり得ない。
だが上層部はオウガの釈放を決めた。
なぜだ?
***
「警部、大変です!」
「なんだ、騒がしい」
暗い取調室の中で、新貝を取り知らべていた年配の刑事は、飛び込んで来た部下の言葉に、少しほっとした面持ちで振り向いた。
なにを聞いても暖簾に腕押し、のらりくらりと話を逸らす新貝の相手をしていると、頭がおかしくなる。それもへらへら笑いながら話してくれればまだ感情も乗るのに、まるで無表情の能面、姿勢すらほとんど変えない。
背筋をピンと伸ばし、正面を向いたまま淡々と話されると気持ち悪くなってくる。
事実、これまで取り調べにあたっていた捜査員は一日と持たなかった。ほぼ全員が、精神不安と体調不良を訴え、戦線離脱。そこでお鉢が回って来た年配の警部も、地下室の空気のせいか、新貝の態度のせいか、気が滅入り、胃のあたりがじくじくと疼きだす始末。いったんここから出ないと吐きそうだと思っていたところだったので、部下が飛び込んできてくれたのは渡りに船だ。自分がここから出なければならなくなるような、大きな事件の話でも持ってきてくれればなお嬉しいとさえ思いながら振り向いた。
少し不謹慎だが、得体の知れない殺人鬼と向き合い続けるよりマシだと、詳細を訊ねると、飛び込んで来た若い刑事は、酷く慌てた早口で答えた。
「宮田刑事が、人を刺したって!」
「なんだと?」
大きな事件とは思ったが、大き過ぎだ。現役刑事の殺傷事件など一番あってはならない。なんでそんなことになったと聞き返すと若い刑事も、わけがわからないんですと口ごもる。
「被害者は宮田さんとは面識がないって、宮田さんも、自分は知らないって言い張ってて」
「どういうことだ?」
「わかりませんよ、でも現行犯なんです、目撃者もいて……」
若い刑事も狼狽えていたが、それを聞いた年配の警部も混乱した。そんな馬鹿な話あるものかと何度もつぶやき、首を振る。そして何気なく背後の新貝に振り返ってゾッとした。新貝は、口の両端を大きく上げ、不気味なほど笑っていた。その顔は派手なメイクを塗り重ね、素顔を隠したクレイジーピエロのようだ。
背筋が凍り、警部は大きく身震いする。
「なんだ、なに、笑ってやがる?」
思わず詰め寄ると、新貝はいえ別にと口を閉ざした。だが張りついたような笑みはきえない。ますます薄気味悪くなり、胸倉を掴む。
「なにがおかしい? お前、なんか知ってるのか!」
「なにか……そうですね、少し」
年配の警部は、新貝の持つ不気味な空気に毒され、震えながら身を乗り出す。
逮捕されてから数日間、新貝はこの地下室を出てない。宮田刑事とも、取り調べのときに初めて会い、以来は会っていない。なにを知り様もないはずだ。だがそのときはなぜか信じられた。
こいつは何かを知っている。
「少し、なんだ?」
「言ってもいいんですが、きっと信じませんよ、あなた方は」
「いいから言え!」
「そうですか、では……」
新貝はもともと吊り上がった細い目をさらに細め、本当にいいんですねと芝居がかった前置きをして話し始めた。
「犯人は宮田刑事ではありません、しかし目撃者がいる、お気の毒ですが、それは証明できないでしょう」
「なぜだ、いや、お前は真犯人を知ってるのか?」
「知ってますよ」
「誰だっ?」
「あなた方がお探しの殺人鬼、FOXです」
「はァ?」
意外な答えに警部も思わず首を捻る。その間抜けを見つめる新貝は、これまでとは打って変わり、リラックスした表情で足を組んだ。机の上に片手を置き、右手で口元を覆っているが、その陰で笑っているのがわかる。真剣になる刑事たちをバカにするような、憐れむような、嫌な笑い方だ。
「フォックスはお前だろ、新貝」
ムッとした警部が、睨み返す。だが新貝も動じなかった。
「いかにも、私の通り名はフォックスですが、それはただの仇名だ、あなた方の言うFOXではない、そんな野蛮じゃないですよ」
「バカ言え! お前が自分の邪魔になる人間を幾人も殺ってるのは知ってるんだぞ!」
「それは憶測でしょう? 証拠でもあるんですか?」
「貴様!」
やれやれと、大げさに肩を竦めて見せる仕草が、気に障り、さすがに頭にきた。だが、人をバカにするのもいい加減にしろと怒鳴りかけたところで、新貝が再び口を挟む。
「あなたは私がお嫌いだ、それはよくわかってます、だが今はそんな話をしているときではない、そうでしょう?」
細い目をさらに細め、口元で手を組んだ新貝は、相手の出方を誘うように、エレガントに首を傾げて話した。百戦錬磨の警部も気圧されて口を閉じる。
たしかに、宮田刑事が犯人ではないという話も、真犯人はFOXだという話も、信ぴょう性はともかく気にはなる。本当に宮田が犯人でないなら、警察としても助かる話だ。聞かないわけにはいかなかった。警部は忌々しさを押さえて先を続けろと促す。
すると新貝は満足したように、狐顔でニコリと笑った。
「では続けます……」
警察はFOXを一人の人間と思っている、そもそもそこが間違いだ。FOXは一人でもなければ、人間でもない。FOXに実体などないのだ。
ではなにか? その正体は知れないが、おそらくは後催眠のようなものだと思われる。
目と目を合わすことで、または、特定のキーワードを与えることで、暗示が発動する。操られた本人は、自分でもなぜなのかわからぬうちに凶器を手に入れ、標的を探し出し、殺す。それも、出来得る限り残酷に、手酷い方法で……だが所詮は暗示、本人の意思ではない。だから今回のように、正義感の強い相手だと、失敗する。
宮田の正義感が、FOXの邪悪な念に勝ったのだ。だから被害者は死なず、事件は明るみに出た。
たぶん、宮田は自分がやったと自覚している。理由はわからなくても、やったということだけは覚えている。だから動機以外は素直に自供してくれるだろうし、それで事件は解決するだろう。
だが、真犯人、FOXを捉えない限り、同じような事件はまたすぐ起きる。トカゲのしっぽなど、いくら捕まえても本体が捕まえられなければ、なんの足しにもならないですよと新貝は言った。それが事実だとすれば、たしかにその通りだ。
「宮田刑事はそうとう強い心の持ち主だったのでしょうね、だから、FOXも操り切れなかった、素晴らしい正義感です、称賛されていい」
新貝は取り調べのときと同じく、真正面を見据え、宮田を称えた。だがその様子はそれまでと大きく違う。背もたれによりかかり、足を組んで、笑みさえ浮かべている。己の優位を確信した尊大な態度だ。取り調べに当たった警部も、内心ムカムカいながら、聞き返した。
宮田の無実を晴らせるのは、この男だけなのだ。
「そこまで知っているなら、FOXの居場所も知ってるんじゃないのか? そいつはどこにいる?」
「まさか、私はこの地下室にもう二週間も閉じ込められてるんですよ、それで居場所まで知ってたら神様だ」
「嘘つけ! ……いや、居場所じゃなくてもいい、なにか、そいつを捕まえるヒントはないのか? それぐらいあるんだろ!」
「そうですね、では大ヒントだ、宮田刑事は、ここを出てからどこに行きました?」
「ここを出てから?」
「ええ」
取り調べ中に錯乱して新貝に暴力を振るった宮田は、いったんFOX事件から離された。だがもともとエリートで、将来を期待されていた彼は、本来なら戒告処分となるところ、暫く休めとの通達だけにとどめられた。所謂、自宅謹慎だ。
しかし彼はおとなしく自宅には向かわなかった。
何を思ったのか、正規取調室へ向かい、そこで殺人の容疑で取り調べ中だった男に暴行し、つまみ出されている。そのときも、常軌を逸していたらしい。
そう話すと新貝は、暴行された被疑者の名を聞いた。
「名前? たしか、オウガ……だったかな、ふざけた名だ、おそらく本名じゃないだろ」
聞かれた警部も首を傾げながら答える。
そのときもおかしいとは思ったのだ。宮田はやたらと暴力をふるうタイプではない。出世欲も強かったし、常に自分が他人からどう見られているかを気にしていた。ましてや自分が関係していない事件にわざわざ首を突っ込み、その容疑者を暴行など、するわけがない。
あのときは、新貝《フォックス》の取り調べに疲れ、どうかしていたのだろうと軽く考えていたが、もしかしたら違うのか? ふと思い立ち、顔を上げると、新貝は正解ですと微笑んだ。
「その男、犯人じゃないですよ」
「現行犯だぞ」
「宮田刑事も現行犯でしょう?」
「え……」
その返事に背中が凍り付く。嫌な予感が這い登る。思わず俯くと、頭上から新貝の明解なアンサーが聞こえてきた。
「その事件も同じです、犯人はその男じゃない」
「まさか……」
「FOXですよ」
「そっ……っ」
そんな馬鹿な、とは言えなかった。言えないだけの説得力と、迫真性が、その声にはある。
それに……。
もしも一連の事件の犯人がFOXであるなら、宮田を救えるかもしれない。新貝はFOXを知っている。それを証明できさえすれば、FOXは捕まえられる。警部はそう読んだ。
「それが本当だという証拠は?」
「証拠ですか、そうですね、そう例えば、目撃者の証言などどうでしょう?」
「目撃者なんか……」
「いますよ、一番身近でその事件を見てた目撃者が」
「なんだと? 誰だ?」
「事件の被害者ですよ、彼女、生きてるんでしょう? 意識が戻ったら聞いてみればいい、面白い証言が聞けるはずです」
それはまさに鶴の一声だった。
警部はそれまで半信半疑だったのが嘘のように、新貝の言葉を鵜呑みにし、慌てて取調室を出る。そして意識の戻った被害者、佐藤順子から、逮捕された男とはまるで違う犯人像を聞かされ、愕然とした。
佐藤順子の件は、冤罪の可能性が高い。
その冤罪はFOXが仕掛けたモノらしい。
それを、新貝は知っていた。
新貝を叩けば必ず埃が出る。だが彼もあの若さで暴力団と対等以上に渡り歩いてきた男だ。ただでは話さないだろう。新貝の機嫌を損ねず、美味く話させるようにするには、どうすればいいのか、警部も真剣に考えた。その挙句、本人に聞いたのだ。
「お前はもっと話を知ってる、そうだろ?」
「おや、私を信じるんですか? こんな何の根拠もなさそうな与太話を? あなた方(警察)は何事も証拠でしょう? 証拠がなければ動けないし動く気もないんだ、そうじゃないんですか?」
「遠回しはいい、俺はその話を聞きたいんだ、どうしたら話す気になる?」
「そうですねえ……」
そして新貝は、本気で自分の話を聞き、動く気があるというなら、それを目に見える形で示せと言った。目に見える形とはなんだ? それは自分たち(警察)が、新貝の言葉どおりに動いて見せることだ。多少大げさでもいい、こちらが本気だというパフォーマンスが必要なのだ。
「どうすればいい?」
「では、佐藤順子の件で逮捕された若い男の釈放を」
「なんだと?」
「別に問題ないでしょう? 彼は犯人じゃない、あなた方も、私の話を信じるというならわかるはずです、これは冤罪だ、即時釈放を要求します」
***
オウガの不起訴が決まり、釈放が迫ったその日、矢島はこれを最後にと、再び尋問した。せめて三浦殺しの件だけでも、裏が欲しい。
だが、一時素直に話し始めていたオウガは、なぜか口が重くなった。椅子の背に深く腰を預け、どこか虚ろな瞳で宙を見つめるだけだ。
「佐藤順子さんの件は不起訴だが、三浦の件はまた別だ、あれはお前がやった、そうだな?」
狭い取調室で向かい合い、霞がかかったように濁った目をしたオウガの顔を覗き込む。至近距離で瞳を合わせると、濁りはいっそう深く見えた。返事は返ってこない。
なにを考えているのだろう? 一抹の薄ら寒さを感じながら、矢島はさらに訊ねた。
「お前が自分で言ったんだぞ、三浦を殺したんだろ」
返事をしないオウガの態度に焦れた矢島は、少しきつい言い回しで突っ込む。すると、今の今までだんまりだったオウガも顔を上げた。瞳はまだ濁ったままだ。
「さあ、覚えてないな」
「なにが! いまさら惚けるつもりか? お前は自分が三浦を殺したと認めたはずだ」
「そんなこと言ったか? 俺はただ、殺されて当然だと言っただけじゃなかったか?」
「それは……だが!」
やはりオウガはすっ呆ける。たしかに、話の流れや言い回しから、自供したも同然だが、直接、殺したとは言わなかった。否定されると苦しい。
矢島はそこで、ではどこを攻めるべきかと考えた。 曖昧な言い回しやニュアンスではダメだ。確実に、彼が言った言葉で攻めなければ効かないだろう。なにかないかとよくよく考えて、ようやく思い出した。
FOXだ。
「お前はFOXだ、それは認めるな?」
「そう名乗った覚えはない、俺はオウガ、それ以外のナニモノでもない」
「たしかにそうだ、だが警察内部で騒がれている殺人鬼、FOXの話をしたとき、お前はそれは自分のことだと認めただろ」
「そうだったかな……」
「そうだ、自分がFOXで、本名は沢村銀、そう言った」
「沢村銀……」
「そうだ」
沢村の名をだすと、オウガは少しだけ表情を変えた。俯き加減に視線だけ上げる様子は、追い詰められたときの不良少年のそれと似ている。
やはり彼には、迷いがある。自分のしていることが本当に正しいのかわからなくなってきているのだ。矢島はそう確信したが、当のオウガは、当然という顔で首を振った。
「その名は捨てた」
「だが戸籍上は沢村だろ」
「戸籍なんて意味はないぞ、親が届けなければ登録もされないんだ、この世に無戸籍児が何人いると思う?」
オウガはまるで、自分がそうだとでも言いたげに世間へと毒を吐いた。その言い草が引っかかる。
彼には立派な戸籍があり、休みがちだったとはいえ、学校にも通っていた。両親が殺された事件のあと、行方不明になってはいるが、それまでは普通に生活できていたはずだ。その憎しみがどこから来るのかが今一つピンとこない。
「なに、けっこう役に立つ、名前と戸籍がわかればお前がそれまでどう生きてきたのかが大まかでもわかる、それがわかれば、なぜ罪を犯したのか、その心理が見えてくる」
少し説教じみた言いまわしでそう話すと、オウガはじゃあ当ててみろと言った。
「俺が今日までどう生きてきたか、あんた、わかるのか?」
「いや、それは……だが五年前までのことなら多少はわかるぞ、お前は沢村夫妻の一人息子で、中央区のマンションに両親と三人で住んでた、事件当時は新聞配達のバイトで暮らしを支えてた、なかなか感心な子供だ」
「やはりわかってないな」
「なにが? どこか違うか?」
「違わないさ」
違わないと言いながら、オウガは不愉快そうに矢島を睨んだ。憎まれる理由がわからない。ただその憎悪だけは針のように皮膚に突き刺さった。
なにが違うのか、なにが気に障ったのか、なにを見落としているのか、それがわからないまま、矢島も黙り込む。
それからオウガは一言もしゃべらず、時間だけが過ぎた。そしてとうとう時間切れ、釈放のときとなる。
オウガの持ち物……と言っても、凶器のナイフは返せないので、着ていた服と靴、カーキ色のフード付きコートだけが返却される。オウガは何の感動もなさそうな濁った瞳でそれらを受け取り、立ち上がった。枯れ果てたその姿を、矢島は割り切れない思いで見つめる
取調室を出て、警察署の廊下を通り、表玄関へと歩く短い道のりを、オウガは本当にゆっくりと歩いた。出て行きたくないのかと聞きたくなるくらい、その足取りは重い。
外には、絶望だけが待っている。
彼の背は、そう言いたげに見えた。
なにか言いたいのに言葉が浮かばない。深酒のあとの胸焼けのような、嫌な感覚を引き摺りながら、矢島もそのあとに続いた。
警察署の分厚いガラス戸がすうっと開き、オウガが外へと出て行く。真昼の太陽は頭上高く輝き、外は呆れるくらいの晴天だ。眩しい太陽の光に目を細めながら、離れていくオウガを見つめた。
一瞬……ほんの一瞬、明る過ぎる日の光に、オウガの姿が溶け込むように消えていく幻が見えた。
「おい!」
慌てて声をかけると、オウガはピタリと足を止め、無表情に振り向いた。その無心な表情に、胸が締め付けられる。
助けてくれと、言われている気がした。
だが、どうすれば彼を救えるのか、思い浮かばない。妙に喉が渇き、自分の心臓の音がくっきりと聞こえる。
なにか、言わなければならない。
「オウガ、最後にもう一度だけ、聞かせてくれ」
「なんだ?」
相変わらず無感動にオウガは聞き返す。
おかしい、どうかしている……まさか、あり得ないぞと繰り返しながら、矢島は口を開いた。
「お前はFOXだな?」
「ああ、そうだ」
取調室ではすっ呆けていたというのに、オウガは呆れるくらいあっさりそうだと頷いた。今なら、答えるのかもしれない。
期待で掌に熱い汗が滲み出る。指先は震え、喉はカラカラだ。張り付きそうなくらい乾ききった唇をこじ開け、矢島は核心を訊ねた。
「フィーンは今、どこにいる?」
「たぶん……」
「たぶん?」
「いや、今はわからない、だが、おそらく、すぐ戻ってくる」
「戻る? どこへ?」
「ここへ」
ここ、と言って、オウガは自分の胸を指差した。静かな瞳に青白い炎が宿る。それを見つめる矢島の背には、冷たい汗が流れた。オウガの灯す青く冷たい炎に焼かれ、心臓が凍りつきそうだ。
「お前はナニモンだ?」
「俺はオウガだ」
オウガは表情を変えない。その分だけ、矢島は動揺した。そこにいる青年、オウガの姿が、日の光に透けて見える。これではまるで……。
這い登る嫌な予感を振り払うように、矢島は叫んだ。
「お前は本当にそこにいるのか?」
「いるだろ、見えないのか?」
「見えない! いや、見える……が、見えない」
「どっちなんだ?」
「見えてるが見えない、いや、お前……」
「お前? なんだ?」
自分でも、理不尽で不合理なことを言っているとわかっていたが、抑えきれず矢島は叫んだ。背中に這い登る虫唾が、理性を飛ばす。
「お前! 本当は誰なんだ!」
「はっ」
矢島の叫びに、オウガは虚を突かれたように目を丸くし、息を吐いた。
そして、たっぷりと間を空けてから、静かに答える。
「……FOXだよ」
オウガは、壮絶な瞳でニヤリと笑った。なぜか胸騒ぎがして、矢島も思わず怒鳴り返す。
「そうじゃない! 俺が聞きたいのはお前の……っ!」
お前の正体が知りたいのではない。追い詰め、捉えたいのではない。ただ、真実が知りたいだけだ。知らなければならないと思っただけだ。そう叫びかけた。
だが、オウガは足を止めることなく立ち去り、言いかけた言葉は、虚しく宙に消えた。