四方をコンクリートの壁で囲まれた四畳半ほどの狭い部屋に、オウガはいた。
部屋の真ん中には小学校の教室にあるようなスチール製の机が二つ、向かい合うように置かれてあり、その片方にオウガが、もう片方には、さっきまで、矢島という中年刑事が座っていた。今は一人だ。
正確には、供述を記録する警察官もいるので、一人ではないが、彼はオウガに話しかけてこないし、見もしない、一人でいるようなものなので、周りを気にせず考え事が出来た。
──さよなら、オウガ。
最後に囁かれた言葉が甦る。
あのときのフィーンは、本当に晴々と、嬉しそうな顔をしていた。全ての柵《しがらみ》から解き放たれる喜びに満ちていた。
彼女は自由になったのだ。自分や、ゼノから離れ、自由に。
だが自由と孤独は裏表、彼女は自由を得、その代わりに一人になった。
一人でなにをするというのだろう。
自分らは三位一体、一人では何もできない。動くことさえ憚られる脆弱な存在だ。それはフィーンだってわかっているはずではないか。それなのになぜ、裏切った?
さよなら、オウガ。
それを最後に、彼女は消えた。そもそもそれがおかしい。彼女には生活能力がない。行く当てなどあるわけがない。離れ離れになって、一番困るのはフィーンではないか。
それなのに、出て行った……ということは、まさかとは思うが、行く当てを確保してある。ということか?
オウガがその可能性に気づいたとき、なんの前触れもなく、部屋の戸が開いた。
矢島が戻って来たのかと思ったオウガは、思考を中断して顔を上げる。だが、そこにいたのは、見知らぬ男だ。
年齢は四十前後、いかにもエリートといった風情で、仕立ての良さそうなスーツを着たその男は、オウガが絶句するほど、嬉々とした、異様な表情で立っていた。
「宮田刑事? え、どうしたんですか……?」
記録係の警官が驚いて立ち上がる。問われた宮田は、ああと片手を上げ、慌てるなと答えた。
「FOXの相手ばかりじゃ気が滅入るだろ、こっちの取り調べを手伝ってやるよ、なにちょっとした気晴らしだ」
「いや、でも……」
この事件の担当は矢島だ。今は席を外しているが、矢島に断りもなく、被疑者と話をさせるわけにはいかないと立ち合いの警官は口ごもる。だが宮田は矢島には話を通してあると答え、警官を立ち退かせた。
宮田は一応キャリアで、退けと言われては逆らえない。立ち合い警官も腑に落ちない表情で着席した。
「さて……」
警官が着席したのを確認した宮田は、湧き上がる興奮を抑えきれないといったように頬を紅潮させ、部屋の中央、オウガの目前へと歩いてきた。
「真夜中の殺人鬼くん、気分はどうだ?」
宮田はオウガの座る机の上にバンと手を突き、嬉しそうに訊ねた。なにを孕んでか、その目は爛々と光って見える。妙に固執的で落ち着けない。まるで何十年もの因縁ある相手と出会ったかのようだ。
オウガもどこかで会っていたろうかと思い巡らすが、なにも思いつかない。
「どうした? 返事くらいしろよ」
黙ったままのオウガに痺れを切らせたのか、宮田は急に険しい表情になった。それでも返事をしないでいると、瞳を血走らせ、掴みかかってくる。
「なんで返事をしない! 私を馬鹿にしてるのか!」
いきなりの恫喝に驚いた。こいつは何者なのだと首を捻るが、どう考えても覚えはない。
覚えはないが、何か似た空気を感じる。だがなにに似ているのか、考えようとしても、宮田がそれを許さない。ふざけるな、無視するんじゃないと叫んで拳を振り回した。その表情は真剣で、拳の雨も止むことがない。
あまりの猛攻にオウガがよろめき倒れる。見ていた警官も、最初呆気にとられ、竦んでいたが、さすがに不味いと慌てて止めに入った。宮田はそれをも跳ね除け怒鳴り散らす。
「邪魔すんじゃねえ! こいつが犯人なんだよ、殺人鬼さ!」
「宮田さん、やめてください! ダメです」
「うるせえ!」
背後から抱え込むようにして止めようとする警官を突き飛ばし宮田は叫んだ。突き飛ばされた警官は壁際まで飛ばされ、尻と背中を打ったようだ。低く呻いて項垂れる。それを気にもかけず、宮田はオウガを殴り続けた。
「あぁ? どうしたよ、やり返さないのか、殺人鬼! 自分はやってませんってか? 今更いい子ぶるんじゃねえよ、テメエも一緒なんだよ、ヒトゴロシ野郎が!」
早く吐けと喚きながら殴りかかってくる宮田を、オウガは不思議な面持ちで見返していた。なにかおかしい。自分はこの男に初めて会ったはずだ。だが胸の内側で、それは違うと声がする。
自分は、こいつに、会ったことがある。
根拠のない確信が、身体に満ちた。
「なんとか言ったらどうなんだ、それとも死にてえのか? 死ぬか?」
オウガが返事をしないので、宮田の興奮も収まらない。ますます激昂して喚き散らす。その瞳は、どこか病的で赤い。
血走り、白目の部分まで赤く染まって見える目が、どこか怯えている。
そう感じたとき、オウガはその奇妙な感覚に納得した。
この魂を、自分は知っている。
考えている間にも宮田の猛攻は止むことがなく、その拳は矢のようにオウガの身体に、顔面に突き刺さった。次第に意識も遠のいてくる。霞む瞳でただぼんやりと宮田を見ていた。
「なんだ? なに見てやがる」
逃げることも抵抗することもなく、オウガはただじっと宮田を見つめる。それに苛立ったのか、宮田はさらに怒り、オウガを突き飛ばした。
「見てんじゃねえ!」
突き飛ばされたオウガは、取調室の壁に頭をぶつけ、倒れこむ。だがまだ意識は失くせないと、首を振りながらも、ゆっくり顔を上げた。その執拗な視線に気圧されたのか、宮田は髪を振り乱し、怒鳴りながらも、なにかを恐れるように後ずさる。
「見てんじゃねえっつってんだろ!」
と、そのとき、足先が、さっき暴れたはずみで転がったパイプ椅子に当たった。怯えていた宮田は、無我夢中でそれを掴み、振り上げる。
「糞野郎!」
「宮田さん、やめてください!」
「うるせえ! 引っ込んでろ!」
刑事が取調室で被疑者に暴力。それだけでも不味いのに、パイプ椅子で殴るなど言語道断、これではリンチだ。警官も慌てて止めに入る。だが宮田は、それをも薙ぎ倒し、椅子を振り下ろした。オウガのひたいは切れ、飛び散った血で取調室は赤く染まる。
「やめて……くださぃ」
薙ぎ倒された警官が、弱弱しく叫ぶ。宮田はそんな声には耳もかさず、パイプ椅子を振るい続けた。
このままでは不味い。自分ではダメだ悟った付き添いの警官はよろよろと立ち上がり、ドア口へと向かう。そして、そのドアを開けようとした時だ、予期せずして、先にドアは開き、矢島が戻って来た。
「おっ……っ」
中へ入るなり飛び込んで来た異常な光景に、矢島も絶句する。
自分もよく知っている同僚刑事、宮田が、さっきまで自分が取り調べていた被疑者、オウガをパイプ椅子で殴りつけている。それも、ちょいと当てたなどというレベルではない。オウガは血まみれで蹲り、飛び散った血で室内は真っ赤だ。
「お前ッ、なにやってんだ、やめろ!」
いきなりの侵入者に、宮田の動きも止まる。矢島は、勢いの落ちた宮田を羽交い絞めにして、オウガから引き離した。
「離せ! 離せ、糞野郎! 離せ!」
押さえ付けられた宮田は、汚らしい言葉で喚き散らし、暴れる。だが、その力は、思いのほか、強くはない。矢島は、少し拍子抜けしたような気分で、それでも応援を呼んだ。
しばらくしてわらわらと到着した同僚、上司が、集団で宮田を拘束し、連れ去って行く。それを少し奇妙な思いで見送った。
宮田とはそう親しいわけではないが、それでもその人となりはそれなりにわかる。
彼は、こんな単純で愚かな暴力を振るうような人間ではなかったはずだ。虫も殺さぬとは言わないが、少なくとも、やたら人に手を上げるような奴ではない。どちらかといえば、上品ぶってエリート風が鼻につくくらいだった。
それがなぜ、こんなことをしたのかと考えたとき、ついさっき、重田に聞かされた話を思い出した。あまり眉唾なので、半信半疑、聞き流していた話だ。だが、今の光景を見た後となると、信じられそうな気になる。
首を捻りながら取調室へ戻った矢島は、床に座り込んだまま、部屋の壁に背を預けているオウガを見返した。オウガは、頭や口元から血を流しながらも、、意識はしゃんとしていそうだ。なにか思いつめたような真剣な瞳で、取調室のドアを見ていた。
「やれやれ、災難だったな、オウガ……大丈夫か?」
血塗れのオウガに声をかけた。大丈夫なはずはないとわかっていて言った言葉だ。
だがオウガは、真顔で大丈夫だと答えた。
「なにがあった?」
思うところあり気な表情が気になり、神妙に訊ねると、オウガはまただんまりを決め込んだ。
彼が黙るときは、なにかを隠しているか、迷っているときだ。もしくは、庇っている……誰をと考えれば、もうそれはフィーンかゼノのどちらかでしかあり得ない。
「答えられないか、じゃあ質問を変えてやるよ」
姿勢を低くした矢島は、思い切って確信をついた。
「お前は……誰だ?」
誰だと問われると、オウガは怪訝そうな顔をした。さっきも答えたではないかと言いたいらしい。だが聞きたいのはそんなことではない。
矢島はもう一度、さらに姿勢を低くし、俯くオウガの顔を覗き込むようにして訊ねた。
「もう一度聞く、お前は、何者だ?」
「オウガだ」
矢島の問いの意味が掴めないらしいオウガは、平坦な声で答える。矢島はそうじゃないだろと、首を振った。
「お前は石崎夫婦の子供だ、そうだろ?」
「え……?」
***
ゼノをFOXと決めつけ、待ち伏せた重田は、会うなり問い詰め、追いつめ、そして殺されかけた。だが、結局は殺されずに生きている。
なぜ殺されなかったのか、ずっと考えていた。そして、もしかしたら、殺せなかったのではないかと思い立った。
息苦しさが見せた幻かもしれないが、あのとき、自分に向かって来ようとしていたゼノは、形を変えようとしていた。
ぐにゃぐにゃと、ぞわぞわと、聳《そばだ》つように膨らむ影。
風もないのに舞い上がろうとする髪。
血走った赤い目……そして、気の遠くなるような圧縮された空気の中、誰かが叫んだのだ。
──やめろ!
それが誰の声なのか、そもそも本当に叫んだのか、記憶も曖昧で、自信がなかった。だが今ならわかる。あれはゼノの声だ。
叫んだのがゼノであるなら、あのときそこにいたのはゼノではない。では誰だ? それこそが、フィーンなのではないのか?
だとしたら、どれがホンモノなんだ?
重田の話を聞いた矢島は、息を飲んだ。背中に冷たいものが這い登る。
生意気な口を利く子供。
赤い髪の少女。
フードの男。
浮かんでは消える影がくるくると回り、頭の中であり得ない像を結ぶ。そこにいるのは阿修羅のごとく、三面に顔を持つ鬼だ。
脳天から氷の矢が差し込まれたような寒気に襲われ、髄液が凍った。いてもたってもいられなくなった矢島は、喫煙もそこそこに資料室へ走る。
そこで探したのは、重田の話した五年前の若夫婦殺害事件の捜査資料だ。
狭い室内の両壁設置してあるスチール製の棚の戸を荒々しく開き、中のファイルを繰り探す。びっしりと詰め込まれた過去数年分の捜査資料、調書、記録類、そのすべてに手を伸ばし、捲っては投げ捨てた。
一応年代順に区分けはされていたが、五年前となると、さすがにごちゃごちゃしてくる。お蔵入りする凶悪犯罪の多さに、整理しきれないというのが現状だろう。矢島は四苦八苦しながら両側にある棚を引っ掻き回し、ようやく見つけたそれらしきファイルを読み漁った。
―千代田区狐火殺人事件―
現場が千代田区の貸家で、事件発覚の数日前、付近で狐火(ひとだま?)らしきものを見たという証言があったため、この名称がつけられた。また「狐」かと、矢島は背筋を震わせる。
事件の被害者はまだ若い石崎夫妻、記録では子供はないとある。だが家にはわずかながら子供用の衣服や玩具などがあり、当時の捜査本部もその存在を疑ってはいたようだ。しかし事件には直接関係ないので、深く掘り下げて調べることはしなかったらしい。
気になる点はいくつかある。その中で一番奇妙なのは、夫婦の寝室の押し入れに小動物を飼っていたような跡があったことだ。
猫か犬、もしくはウサギなど、小さな生き物がそこにいた形跡があった。だが動物の毛のようなものは見つかっていない。夫婦にペットを飼っていた様子はなかったと付近の住人も証言している。
ペットでないなら、それはなんだ?
そこまで考えたとき、嘘寒さで、鳥肌がたった。そんな馬鹿なと心で否定しながら、矢島は取調室へと駆け戻る。
そこにいたのは、猫でもウサギでもない。猫と見紛《みまご》うほど、小さく痩せた子供だったのではないか?
その子はどうなった?
今、どこにいる?
それがゼノだとしたら、フィーンはどこにいる? オウガは? 彼は何者だ?
ゼノ、フィーン、オウガ、この三人は実在してるのか? 寒気とともに、襲ってきた疑問を胸に、矢島は取調室のドアを開けた。
「お……っ」
飛び込んだ取調室に、オウガの姿はなかった。いたのは、痩せた、小さな子供だ。
頬の肉は薄く、唇も渇き、目ばかり大きく見える子供が、部屋の隅で蹲っていた。頭や口元、身体のあちこちから血を流し、無表情に虚を見ている。
立ち合いの警官は腰でも抜けたのか、尻餅をついたままだ。矢島が入って来たことで、気を取り直したのだろう、慌てて立ち上がろうとしている。
子供は幼い顔つきのわりに、冷え切った眼が印象的で、背格好は小学生程度だが、実際いくつなのかは想像もつかなかった。
誰だ?
思わず口に出しかけたとき、子供はふっと目線をあげた。瞬間、部屋の空気が軋み、斜めに捻じれて千切れ飛ぶ。プツッと小さな音がして、あたりは黒く染まった。
そして再び明るくなった世界に、パイプ椅子でブチのめされているオウガと、凶行を振るう宮田がいた。あたりは無音で、誰も動かない。
小さな窓からは、傾きかけた昼の日差しが入り込み、オレンジの部屋に長く薄い影を作っている。
壁掛け時計の進む音はやけに煩く、カチカチと聞こえた。まだ日差しも高く、白々しいくらい現実的な部屋が、オウガの血で赤く染められていく。
ここはどこだ?
これはなんだ?
わけがわからず、瞬きを繰り返すと、いきなり時は動き出した。
急いで宮田を止め、外へと引きずり出して振り向けば、オウガは平然とした表情でこちらを見ていた。いや、見ていたのは外だ。外へ連れ出されていった宮田の背を、彼は見ていたのだ。
「お前は誰だ?」
再び訊ねると、オウガはなんでそんなことを聞くのだという表情で、オウム返しに答えた。
「オウガだ」
「違うだろ、本名を言ってみろ、忘れたか?」
「本名……」
「そうだ、生まれたとき、石崎夫妻がつけた、お前の名前だ、なんという?」
話が進まないことに少し苛立ち、矢島が問い詰めると、オウガはチラリと目線を上げ、すぐに下げた。そしてしばらく黙り込んだあと、決心したように静かに答える。
「沢村《さわむら》だ」
「え?」
「沢村銀《さわむらぎん》、それが俺の名だ」
「沢村……?」
その答えに、矢島は再び凍りついた。それは、三浦が最後に出向いた現場、旭ビルで、五年前におきたという殺人事件の被害者夫婦と同じ苗字だ。まさか、そうなのかと狼狽える。
沢村夫婦殺害事件も、狐火事件と同じく犯人は捕まっていない。だがそうだ。沢村夫婦のほうには、子供がいた。それはちゃんと記録されている。名前までは憶えていないが、たしか当時十五歳……だった?
「お前……なのか?」
「そうだ」
問われている意味がわかっているのかいないのか、オウガはまっすぐな目をしていた。だが、ことは重大だ。沢村夫妻が殺されたのは、狐火事件のおきたのと同じ年、前後しておきた二つの事件は繋がっていたということになるではないか。
オウガが沢村夫妻の子供だとしたら、ゼノは石崎夫妻の子供だろう。ではフィーンは?
重田はゼノという子供がFOXだと睨んでいた。オウガ、フィーンはその協力者、もしくは共犯だと……しかしおそらく、実行犯はゼノではない。オウガでもない。たぶん、フィーンだ。
彼女《フィーン》はどこだ?
「どうした? 問題があるのか?」
矢島が黙り込むと、オウガは不思議そうな顔つきで首をかしげる。火傷のせいで一見恐ろし気に見えるが、彼には意外に素直で幼い部分がある。自分がなにをしでかしているのか、その自覚さえないように思えた。
根拠はない。これは単なる個人的感想と勘だ。だがたぶん外れではない。
彼がFOXだ。それは間違いない。しかし新貝が無関係とも思えない。それに、フィーンとゼノはどこだ? それが知りたい。
「お前がFOXなのか?」
「フォックスは新貝さんだろ」
「新貝がFOXなのか?」
「そうだろ、違うのか?」
「あ、いやそういう意味じゃなく……というか、お前、新貝のことも知ってるんだな」
「ああ」
新貝の通り名がフォックスなのは誰もが知っている。オウガはFOXと聞いて、そのままフォックスととったらしい。矢島は、そういう意味ではない、こちらのいうFOXとは、連続猟奇殺人犯のことだと話した。するとオウガは妙に落ち着いた表情で、ああと頷く。
「そいつは俺だ」
「お前が? 本当に?」
「ああ、FOXと名乗った覚えはないが、俺だな」
オウガは、聞いた矢島が拍子抜けして脱力するほどあっさりと、自分がFOXだと認めた。だが、そう素直に認められると、逆に疑いたくなる。
まず、オウガがFOXなら、なぜ今更こんなドジを踏んで捕まったのかががわからない。それに、ウサ子の言うフードの男がオウガだとして、もう一人、赤い髪の女子高生はどうなるのだ。その女こそがフィーンのはずだ。
そのフィーンはオウガを裏切った。彼女は自分が裏切ってもオウガは喋らないと踏んで、彼を罠にかけたのだ。
狙い通り、オウガは喋らない。このまま彼がFOXは自分だと認めてしまえば事件はここで終わる。世間を騒がせたFOXは逮捕され、時間はかかるだろうが事件の謎も不自然でない程度に解明され、終わってしまう。
そうなれば彼女は自由だ。何十人も殺しておきながら、なんの罰も受けず、オウガの犠牲をなんとも思わず、易々と生き延びることが出来る。
いや、それだけではない。ほとぼりが冷めたころ、再び殺戮を開始するだろう。完全に彼女の思う壺ではないか。
「嘘だな、お前はやってない、少なくとも、FOXの手口はお前の仕業じゃあない」
「あなたがどう思うおうと、殺したのは俺だ」
「嘘つけ、あんな残虐なやり口、お前に出来るわけがない」
「なんでそう思う?」
「何年刑事やってんと思うんだ? 舐めんじゃねえぞ、そんなの顔見りゃわかる、お前には出来ない」
「それなら刑事なぞやめることだな、殺したのは俺だ」
「違う」
「違わない、あなた方の探してるFOXは俺だ」
何度否定しても、オウガは自分が犯人であるとの主張を譲らなかった。だが矢島も譲れない。もはや希望に近い想像ではあるが、やったのは彼じゃない。少なくとも、FOXと呼ばれ。捜査本部を恐れ慄かせている猟奇犯ではない。
犯人は別にいる。
その確信のもと、矢島はオウガに詰め寄った。
「FOXは複数犯だとのタレこみがある、それにな、数は少ないが、目撃者もいるんだ」
「バカな、そんなものいない」
目撃者などいるはずがない。オウガはその確信からくる傲慢さで、太々しく凄んだ。だがそれもすぐに不安に変わる。息を飲み、視線を下げて顔を逸らす様子は、万引きを見咎められ、引き立てられてきた不良少年のそれによく似ていた。
「現場では、赤い髪の女子高生を見たという者が多い、俺はそれがFOXだと思っている」
「あんな殺し、女子高生に出来ると思うのか?」
「普通は出来ないな」
「当たり前だ、出来ない、つまり、そんな奴はいないってことだよ」
「まあそう早まるな、普通はと言っただろ、彼女は普通じゃないんだ、そう思えば出来るかもしれない」
「屁理屈だ!」
オウガは椅子から立ち上がり、取り調べ室の机を叩いた。あり得ないだろと話す声は少し上擦っていて、落ち着きがない。
矢島はオウガの反応を観察しながら、目撃者がいるんだぞと指をさす。それに対するオウガの反論は理論的でなく、言い逃れの類だ。
バカバカしい、そいつが見間違ってるんだ、見ているはずがない、嘘だと喚き散らした。
「面白いな」
「え?」
彼が感情を露わにするのは初めてだった。矢島はさらなる一手をかける。
「お前たち……あえてお前たちと言わせてもらうが、お前たちのボスは誰だ? その女なんじゃないのか?」
「違う! そんな女いないと言ってるだろ、俺がFOXだ!」
「お前はその女に操られてるんだ、そいつはお前が裏切らないと知ってて陥れたんだぞ」
「違うと言ってるだろ! そんな女はいない!」
「女はいるんだよ、そしてお前らを操ってる」
「違う!」
声を荒げ、拳を振り上げるオウガを見つめ、矢島はため息をついた。ただ哀れだと思った。
もはや、矢島を動かすのは、正義感などではない。一人の男としての感情だ。義侠心と言ってもいい。
彼が本当に殺人者だとしても、まずはその女のほうを捕らえたい。どんな顔であんな残虐な遺体を作るのか、見てやりたいのだ。
「そいつに操られてるのはお前だけじゃないぞ」
「え……?」
「もう一人いるだろ……ゼノだ」
ゼノの名を出すと、オウガは見事に反応した。それまでの反抗的で興奮した様子は一変し、瞳を見開いて首を振る。ここが落としどころだと感じた矢島は、そこで最後のカードを開いて見せた。
「ゼノ、そしてフィーン、それがお前の仲間なんだろ? お前はフィーンに陥れられた、そうだな?」
「なぜ……?」
「お前、最初に、密告者は女かって聞いたよな? そいつがフィーンなんだろ?」
問いかけると、オウガは唇を固く結んで視線を下げた。
おそらく、オウガにとってフィーンの裏切りは予想外だったのだ。裏切られるとは思ってもいなかった。今も信じられない。だから庇う。
だが、心のどこかで、信じきれずにいる。だから迷う。その証拠に、オウガの視線は彷徨い続けている。
矢島は、俯くオウガと視線が近くなるように椅子に腰かけ、顔を近づけた。
覗き込んで見た彼の顔は、火傷の痕さえなければ、純真無垢な少年のようだ。本当に、まだずっと若いのかもしれない。
十五歳とは言わないが、それに近い幼さを感じ、矢島はやり方を変えた。被疑者の取り調べをするのではなく、保護された非行少年の事情を聞くように、穏やかに、じっくりと話しかける。
「フィーンは逃げたんだ、お前らは見限られたんだよ、庇いだてする義理はないぞ」
逮捕されて数時間、おそらくオウガ自身も、薄々と気づきはじめていたのだろう。心当たりのありそうな、複雑な表情になった。今なら話すかもしれない。
「彼女の目的はなんだ? ゼノはどこにいる? 教えてくれ、早くしないと、彼女はゼノのことも裏切るぞ」
そうなる前に助けたいんだと話すと、オウガは瞠目しながらも、矢島をの目を見返して来た。信じるべきか否か、彼の中にも迷いはあるのだろう。それは仕方がないと割り切り、矢島は根気強く訊ね続けた。それに釣られたのか、いや、たぶん、彼にも、フィーンの危険性が理解出来たのだ。オウガは少しずつ、話しはじめる。
「なぜ、あなたがゼノを知ってるんだ? 会ったことはないはずだ」
問い返すオウガの目は、もう彷徨うこともなく、冷静さを取り戻していた。ちょっと不味い傾向だと思いつつ、矢島も丁寧に答える。
「俺の知り合いが会ってるんだよ、彼は、ゼノ少年に殺されかけたと言ってる」
「まさか、重田か?」
「お、なんだ、お前も知ってるんだ? そうだ、重田、俺の……まあ、旧友だな」
旧友という言葉を、オウガは噛み締めるように反復した。そこには大きな戸惑いと、小さな憧憬が見える。
彼から見れば、矢島も重田も等しくただの中年男で、頭の固い、いけ好かない大人なのだろう。その「大人」に、友だちなどという存在がいるのが、意外に思えるのかもしれない。
多くの子供は誤解している。大人は子供とは違う別の生き物だと思っている。だが、実際は違う、大人は子供の延長線上にある存在だ。あんな大人にはならないと、大人たちを憎む子供らも、いつか、時が経てば、大人になる。精神はともかく、肉体的には成人し、そして老いていく。
誰だって、老いたいわけではない。いつまでも子供でいられるなら、それが一番幸せかもしれない。しかし人は変わるのだ。生きている限り、大人になることを拒否はできない。
出来ないが、子供のときの心を、思いを、失くさないでいることは、出来る。
歳をとり、素直に友を友と呼べなくなったとしても、胸の内では、やはり友だちだと思える。そういう存在が、大人にだっているのだ。
自分で導き出したその答えに、半ば驚きながら、矢島は戸惑うオウガに語りかけた。
俺たちは、お前たちの敵ではない。
「だがまあ結果的には殺されすに済んだ、お前がFOXだというなら、なぜ、あいつを殺さなかったのかな?」
「なぜ……」
「そう、なぜ、だ?」
矢島の問いに、オウガは長く沈黙した。それは、黙秘とか、拒否ではなく、迷いと戸惑いのためだ。彼は自分でも自分の思いを整理しきれていないのだ。
そう感じた矢島は、オウガが自分から話し出すのを辛抱強く待った。
オウガは、瞳を開いたまま、静かに、真剣に、自分自身の内面を探るように、じっとしていた。
その時間は、数十分にも及んだかもしれない。その間、矢島は、催促することも、話しかけることもせず、ただ黙って彼の口が開くのを待っていた。
その甲斐あってか、オウガはやがて、潔く顔を上げた。
「重田さんを殺さないと決めたのは、ゼノだ」
「ほう」
素直な反応に内心驚きつつ、表面では冷静な顔を作って相槌を打つ。オウガの話す気分を壊さぬように、細心の注意を払い、最小限の反応で、矢島は先を促した。
その誘いに乗り、オウガはゆるゆると話し続ける。
「俺たちは殺すべきだと話した、だがゼノは殺さないと言い張った、理由は聞いてない、だがたぶん、ゼノは、彼を好きだったんだと思う」
「好き? 重田をか?」
「ああ、気に入っていると言い換えてもいい、理屈としては、殺すべきだと話した、だが心がそれを拒否した、そういうところだと思う」
心が拒否した。
オウガの言葉に、矢島は半ば驚き、半ば頷いた。
ゼノという少年に会ったことはないが、重田の口ぶりでわかる。彼もオウガと同じ、純粋で未熟な子供なのだ。純粋だから傷つく、未熟だから考えが狭い。そしてその狭さゆえ、間違う。
「言い分はわかった、だがもう一つわからないことがある」
「なんだ?」
「重田を殺すことは躊躇ったのに、三浦を殺したのはなぜた? あれもお前らの仕業だろ?」
「三浦?」
問い詰める矢島に、オウガは邪気のない瞳を向け、首を傾げた。惚けているのかとも思ったが、そうではないようだ。たぶん本当に知らないのだ。標的とした男に、なんの興味もなかったというのが、正解のような気がした。
「お前たちが殺した若い刑事だよ」
「……三浦というのか」
「そうだ、知らなかったのか? まだ若い、前途ある若者だった」
「前途? では、死んだ子供には前途はないとでも?」
そこまでどちらかといえば、協力的な態度で話していたオウガは、そこでいきなり表情を変えた。なぜか三浦への評価にだけ厳しい。酷く冷たく、残忍なくらいに突き放した表情だった。
「今わかったよ、なぜゼノが重田を殺すなと言ったのか」
「なぜだ?」
「重田は執念深くて厄介な男だ、だが、ちゃんと見てたんだ」
「見て? なにを?」
「自分の目で見て、耳で聞いて、動いた、彼は、ラウじゃない」
「ラウ? なんだそれは……」
「あんたも、俺たちの仕事を捜査しているなら、見たはずだ、そこにはいつも、子供がいた」
「子供……」
子供なんてと言いかけて、ふと、FOXが最初に署名を残した事件、瀬乃夫婦殺害事件のことを思い出した。そこで初めて、FOXは署名を残している。
――Fiend Ogre Xeno~
通報者は隣人。小さな子供に泣きつかれ、隣の家へ様子を見に行ったと言っている。子供は瀬乃夫婦の子だと推察されたが、記録としては、夫婦に子供はないとされていた。
「重田はちゃんと見て、俺たちを追って来た、だがあんたの言う、前途ある若者は、なにも見なかった、なにもしなかった! 自分に害がないと思って知らんふりだ、そんなヤツ、なんの役に立つ!」
死んで当然だとオウガは怒鳴った。矢島も言葉に詰まる。
言いたいことはわかるが、納得は出来ない。それは逆恨みだ。死に値するほどの罪とは到底思えない。
しかし、反論する言葉が見つからなかった。
正論ならいくらでも吐ける。
人殺しはいけないことだ、なにがあってもやってはダメだ。殺された人のことも考えろ。被害者にだって人生がある。それを絶つ権利は誰にもないぞ。
全部綺麗ごとだ。少なくともオウガには響かない。
矢島は混乱を解きほぐそうと頭を振り、そしてさっき部屋から連れ出されて行った宮田の背を、思い出した。
なぜか……。
嫌な予感に鳥肌が立つ。
「オウガ、お前、さっきお前を殴った刑事が誰なのか知ってるんじゃないのか?」
自分が知る限り、宮田はやたらと暴力を振るう人間ではない。出世も遅いくせに、エリートぶって、キャリアを鼻にかける小心者だが、あんな理不尽な攻撃はしない。あれは宮田の顔をした別の誰かだとしか思えない。半信半疑で聞いた問いに、オウガは知っていると答えた。
「知ってる? 誰だ?」
「わかってるんじゃないのか?」
「いいから、言え」
まさか、そんなことあるはずがないと何度も思い。それでも拭えない疑惑とともに、矢島は訊ねた。するとオウガは、開き直ったように答える。
「アレは、フィーンだ」
「フィーン……」
さっき聞いた重田の話を思い出した。
絶体絶命、ここで自分は死ぬのだと重田が覚悟を決めたとき、ゼノがなにか叫んだという。そして彼は生き残った。
そのときゼノが叫んだ言葉は「やめろ」だったが、もしかしたらそのあとに、フィーンと続いていたのではないのか?
──やめろ、フィーン!
だとすれば納得がいく。
つまり、フィーンはゼノの中にいる、いや、あの時点ではいた。そして今は宮田の中にいる?
部屋の真ん中には小学校の教室にあるようなスチール製の机が二つ、向かい合うように置かれてあり、その片方にオウガが、もう片方には、さっきまで、矢島という中年刑事が座っていた。今は一人だ。
正確には、供述を記録する警察官もいるので、一人ではないが、彼はオウガに話しかけてこないし、見もしない、一人でいるようなものなので、周りを気にせず考え事が出来た。
──さよなら、オウガ。
最後に囁かれた言葉が甦る。
あのときのフィーンは、本当に晴々と、嬉しそうな顔をしていた。全ての柵《しがらみ》から解き放たれる喜びに満ちていた。
彼女は自由になったのだ。自分や、ゼノから離れ、自由に。
だが自由と孤独は裏表、彼女は自由を得、その代わりに一人になった。
一人でなにをするというのだろう。
自分らは三位一体、一人では何もできない。動くことさえ憚られる脆弱な存在だ。それはフィーンだってわかっているはずではないか。それなのになぜ、裏切った?
さよなら、オウガ。
それを最後に、彼女は消えた。そもそもそれがおかしい。彼女には生活能力がない。行く当てなどあるわけがない。離れ離れになって、一番困るのはフィーンではないか。
それなのに、出て行った……ということは、まさかとは思うが、行く当てを確保してある。ということか?
オウガがその可能性に気づいたとき、なんの前触れもなく、部屋の戸が開いた。
矢島が戻って来たのかと思ったオウガは、思考を中断して顔を上げる。だが、そこにいたのは、見知らぬ男だ。
年齢は四十前後、いかにもエリートといった風情で、仕立ての良さそうなスーツを着たその男は、オウガが絶句するほど、嬉々とした、異様な表情で立っていた。
「宮田刑事? え、どうしたんですか……?」
記録係の警官が驚いて立ち上がる。問われた宮田は、ああと片手を上げ、慌てるなと答えた。
「FOXの相手ばかりじゃ気が滅入るだろ、こっちの取り調べを手伝ってやるよ、なにちょっとした気晴らしだ」
「いや、でも……」
この事件の担当は矢島だ。今は席を外しているが、矢島に断りもなく、被疑者と話をさせるわけにはいかないと立ち合いの警官は口ごもる。だが宮田は矢島には話を通してあると答え、警官を立ち退かせた。
宮田は一応キャリアで、退けと言われては逆らえない。立ち合い警官も腑に落ちない表情で着席した。
「さて……」
警官が着席したのを確認した宮田は、湧き上がる興奮を抑えきれないといったように頬を紅潮させ、部屋の中央、オウガの目前へと歩いてきた。
「真夜中の殺人鬼くん、気分はどうだ?」
宮田はオウガの座る机の上にバンと手を突き、嬉しそうに訊ねた。なにを孕んでか、その目は爛々と光って見える。妙に固執的で落ち着けない。まるで何十年もの因縁ある相手と出会ったかのようだ。
オウガもどこかで会っていたろうかと思い巡らすが、なにも思いつかない。
「どうした? 返事くらいしろよ」
黙ったままのオウガに痺れを切らせたのか、宮田は急に険しい表情になった。それでも返事をしないでいると、瞳を血走らせ、掴みかかってくる。
「なんで返事をしない! 私を馬鹿にしてるのか!」
いきなりの恫喝に驚いた。こいつは何者なのだと首を捻るが、どう考えても覚えはない。
覚えはないが、何か似た空気を感じる。だがなにに似ているのか、考えようとしても、宮田がそれを許さない。ふざけるな、無視するんじゃないと叫んで拳を振り回した。その表情は真剣で、拳の雨も止むことがない。
あまりの猛攻にオウガがよろめき倒れる。見ていた警官も、最初呆気にとられ、竦んでいたが、さすがに不味いと慌てて止めに入った。宮田はそれをも跳ね除け怒鳴り散らす。
「邪魔すんじゃねえ! こいつが犯人なんだよ、殺人鬼さ!」
「宮田さん、やめてください! ダメです」
「うるせえ!」
背後から抱え込むようにして止めようとする警官を突き飛ばし宮田は叫んだ。突き飛ばされた警官は壁際まで飛ばされ、尻と背中を打ったようだ。低く呻いて項垂れる。それを気にもかけず、宮田はオウガを殴り続けた。
「あぁ? どうしたよ、やり返さないのか、殺人鬼! 自分はやってませんってか? 今更いい子ぶるんじゃねえよ、テメエも一緒なんだよ、ヒトゴロシ野郎が!」
早く吐けと喚きながら殴りかかってくる宮田を、オウガは不思議な面持ちで見返していた。なにかおかしい。自分はこの男に初めて会ったはずだ。だが胸の内側で、それは違うと声がする。
自分は、こいつに、会ったことがある。
根拠のない確信が、身体に満ちた。
「なんとか言ったらどうなんだ、それとも死にてえのか? 死ぬか?」
オウガが返事をしないので、宮田の興奮も収まらない。ますます激昂して喚き散らす。その瞳は、どこか病的で赤い。
血走り、白目の部分まで赤く染まって見える目が、どこか怯えている。
そう感じたとき、オウガはその奇妙な感覚に納得した。
この魂を、自分は知っている。
考えている間にも宮田の猛攻は止むことがなく、その拳は矢のようにオウガの身体に、顔面に突き刺さった。次第に意識も遠のいてくる。霞む瞳でただぼんやりと宮田を見ていた。
「なんだ? なに見てやがる」
逃げることも抵抗することもなく、オウガはただじっと宮田を見つめる。それに苛立ったのか、宮田はさらに怒り、オウガを突き飛ばした。
「見てんじゃねえ!」
突き飛ばされたオウガは、取調室の壁に頭をぶつけ、倒れこむ。だがまだ意識は失くせないと、首を振りながらも、ゆっくり顔を上げた。その執拗な視線に気圧されたのか、宮田は髪を振り乱し、怒鳴りながらも、なにかを恐れるように後ずさる。
「見てんじゃねえっつってんだろ!」
と、そのとき、足先が、さっき暴れたはずみで転がったパイプ椅子に当たった。怯えていた宮田は、無我夢中でそれを掴み、振り上げる。
「糞野郎!」
「宮田さん、やめてください!」
「うるせえ! 引っ込んでろ!」
刑事が取調室で被疑者に暴力。それだけでも不味いのに、パイプ椅子で殴るなど言語道断、これではリンチだ。警官も慌てて止めに入る。だが宮田は、それをも薙ぎ倒し、椅子を振り下ろした。オウガのひたいは切れ、飛び散った血で取調室は赤く染まる。
「やめて……くださぃ」
薙ぎ倒された警官が、弱弱しく叫ぶ。宮田はそんな声には耳もかさず、パイプ椅子を振るい続けた。
このままでは不味い。自分ではダメだ悟った付き添いの警官はよろよろと立ち上がり、ドア口へと向かう。そして、そのドアを開けようとした時だ、予期せずして、先にドアは開き、矢島が戻って来た。
「おっ……っ」
中へ入るなり飛び込んで来た異常な光景に、矢島も絶句する。
自分もよく知っている同僚刑事、宮田が、さっきまで自分が取り調べていた被疑者、オウガをパイプ椅子で殴りつけている。それも、ちょいと当てたなどというレベルではない。オウガは血まみれで蹲り、飛び散った血で室内は真っ赤だ。
「お前ッ、なにやってんだ、やめろ!」
いきなりの侵入者に、宮田の動きも止まる。矢島は、勢いの落ちた宮田を羽交い絞めにして、オウガから引き離した。
「離せ! 離せ、糞野郎! 離せ!」
押さえ付けられた宮田は、汚らしい言葉で喚き散らし、暴れる。だが、その力は、思いのほか、強くはない。矢島は、少し拍子抜けしたような気分で、それでも応援を呼んだ。
しばらくしてわらわらと到着した同僚、上司が、集団で宮田を拘束し、連れ去って行く。それを少し奇妙な思いで見送った。
宮田とはそう親しいわけではないが、それでもその人となりはそれなりにわかる。
彼は、こんな単純で愚かな暴力を振るうような人間ではなかったはずだ。虫も殺さぬとは言わないが、少なくとも、やたら人に手を上げるような奴ではない。どちらかといえば、上品ぶってエリート風が鼻につくくらいだった。
それがなぜ、こんなことをしたのかと考えたとき、ついさっき、重田に聞かされた話を思い出した。あまり眉唾なので、半信半疑、聞き流していた話だ。だが、今の光景を見た後となると、信じられそうな気になる。
首を捻りながら取調室へ戻った矢島は、床に座り込んだまま、部屋の壁に背を預けているオウガを見返した。オウガは、頭や口元から血を流しながらも、、意識はしゃんとしていそうだ。なにか思いつめたような真剣な瞳で、取調室のドアを見ていた。
「やれやれ、災難だったな、オウガ……大丈夫か?」
血塗れのオウガに声をかけた。大丈夫なはずはないとわかっていて言った言葉だ。
だがオウガは、真顔で大丈夫だと答えた。
「なにがあった?」
思うところあり気な表情が気になり、神妙に訊ねると、オウガはまただんまりを決め込んだ。
彼が黙るときは、なにかを隠しているか、迷っているときだ。もしくは、庇っている……誰をと考えれば、もうそれはフィーンかゼノのどちらかでしかあり得ない。
「答えられないか、じゃあ質問を変えてやるよ」
姿勢を低くした矢島は、思い切って確信をついた。
「お前は……誰だ?」
誰だと問われると、オウガは怪訝そうな顔をした。さっきも答えたではないかと言いたいらしい。だが聞きたいのはそんなことではない。
矢島はもう一度、さらに姿勢を低くし、俯くオウガの顔を覗き込むようにして訊ねた。
「もう一度聞く、お前は、何者だ?」
「オウガだ」
矢島の問いの意味が掴めないらしいオウガは、平坦な声で答える。矢島はそうじゃないだろと、首を振った。
「お前は石崎夫婦の子供だ、そうだろ?」
「え……?」
***
ゼノをFOXと決めつけ、待ち伏せた重田は、会うなり問い詰め、追いつめ、そして殺されかけた。だが、結局は殺されずに生きている。
なぜ殺されなかったのか、ずっと考えていた。そして、もしかしたら、殺せなかったのではないかと思い立った。
息苦しさが見せた幻かもしれないが、あのとき、自分に向かって来ようとしていたゼノは、形を変えようとしていた。
ぐにゃぐにゃと、ぞわぞわと、聳《そばだ》つように膨らむ影。
風もないのに舞い上がろうとする髪。
血走った赤い目……そして、気の遠くなるような圧縮された空気の中、誰かが叫んだのだ。
──やめろ!
それが誰の声なのか、そもそも本当に叫んだのか、記憶も曖昧で、自信がなかった。だが今ならわかる。あれはゼノの声だ。
叫んだのがゼノであるなら、あのときそこにいたのはゼノではない。では誰だ? それこそが、フィーンなのではないのか?
だとしたら、どれがホンモノなんだ?
重田の話を聞いた矢島は、息を飲んだ。背中に冷たいものが這い登る。
生意気な口を利く子供。
赤い髪の少女。
フードの男。
浮かんでは消える影がくるくると回り、頭の中であり得ない像を結ぶ。そこにいるのは阿修羅のごとく、三面に顔を持つ鬼だ。
脳天から氷の矢が差し込まれたような寒気に襲われ、髄液が凍った。いてもたってもいられなくなった矢島は、喫煙もそこそこに資料室へ走る。
そこで探したのは、重田の話した五年前の若夫婦殺害事件の捜査資料だ。
狭い室内の両壁設置してあるスチール製の棚の戸を荒々しく開き、中のファイルを繰り探す。びっしりと詰め込まれた過去数年分の捜査資料、調書、記録類、そのすべてに手を伸ばし、捲っては投げ捨てた。
一応年代順に区分けはされていたが、五年前となると、さすがにごちゃごちゃしてくる。お蔵入りする凶悪犯罪の多さに、整理しきれないというのが現状だろう。矢島は四苦八苦しながら両側にある棚を引っ掻き回し、ようやく見つけたそれらしきファイルを読み漁った。
―千代田区狐火殺人事件―
現場が千代田区の貸家で、事件発覚の数日前、付近で狐火(ひとだま?)らしきものを見たという証言があったため、この名称がつけられた。また「狐」かと、矢島は背筋を震わせる。
事件の被害者はまだ若い石崎夫妻、記録では子供はないとある。だが家にはわずかながら子供用の衣服や玩具などがあり、当時の捜査本部もその存在を疑ってはいたようだ。しかし事件には直接関係ないので、深く掘り下げて調べることはしなかったらしい。
気になる点はいくつかある。その中で一番奇妙なのは、夫婦の寝室の押し入れに小動物を飼っていたような跡があったことだ。
猫か犬、もしくはウサギなど、小さな生き物がそこにいた形跡があった。だが動物の毛のようなものは見つかっていない。夫婦にペットを飼っていた様子はなかったと付近の住人も証言している。
ペットでないなら、それはなんだ?
そこまで考えたとき、嘘寒さで、鳥肌がたった。そんな馬鹿なと心で否定しながら、矢島は取調室へと駆け戻る。
そこにいたのは、猫でもウサギでもない。猫と見紛《みまご》うほど、小さく痩せた子供だったのではないか?
その子はどうなった?
今、どこにいる?
それがゼノだとしたら、フィーンはどこにいる? オウガは? 彼は何者だ?
ゼノ、フィーン、オウガ、この三人は実在してるのか? 寒気とともに、襲ってきた疑問を胸に、矢島は取調室のドアを開けた。
「お……っ」
飛び込んだ取調室に、オウガの姿はなかった。いたのは、痩せた、小さな子供だ。
頬の肉は薄く、唇も渇き、目ばかり大きく見える子供が、部屋の隅で蹲っていた。頭や口元、身体のあちこちから血を流し、無表情に虚を見ている。
立ち合いの警官は腰でも抜けたのか、尻餅をついたままだ。矢島が入って来たことで、気を取り直したのだろう、慌てて立ち上がろうとしている。
子供は幼い顔つきのわりに、冷え切った眼が印象的で、背格好は小学生程度だが、実際いくつなのかは想像もつかなかった。
誰だ?
思わず口に出しかけたとき、子供はふっと目線をあげた。瞬間、部屋の空気が軋み、斜めに捻じれて千切れ飛ぶ。プツッと小さな音がして、あたりは黒く染まった。
そして再び明るくなった世界に、パイプ椅子でブチのめされているオウガと、凶行を振るう宮田がいた。あたりは無音で、誰も動かない。
小さな窓からは、傾きかけた昼の日差しが入り込み、オレンジの部屋に長く薄い影を作っている。
壁掛け時計の進む音はやけに煩く、カチカチと聞こえた。まだ日差しも高く、白々しいくらい現実的な部屋が、オウガの血で赤く染められていく。
ここはどこだ?
これはなんだ?
わけがわからず、瞬きを繰り返すと、いきなり時は動き出した。
急いで宮田を止め、外へと引きずり出して振り向けば、オウガは平然とした表情でこちらを見ていた。いや、見ていたのは外だ。外へ連れ出されていった宮田の背を、彼は見ていたのだ。
「お前は誰だ?」
再び訊ねると、オウガはなんでそんなことを聞くのだという表情で、オウム返しに答えた。
「オウガだ」
「違うだろ、本名を言ってみろ、忘れたか?」
「本名……」
「そうだ、生まれたとき、石崎夫妻がつけた、お前の名前だ、なんという?」
話が進まないことに少し苛立ち、矢島が問い詰めると、オウガはチラリと目線を上げ、すぐに下げた。そしてしばらく黙り込んだあと、決心したように静かに答える。
「沢村《さわむら》だ」
「え?」
「沢村銀《さわむらぎん》、それが俺の名だ」
「沢村……?」
その答えに、矢島は再び凍りついた。それは、三浦が最後に出向いた現場、旭ビルで、五年前におきたという殺人事件の被害者夫婦と同じ苗字だ。まさか、そうなのかと狼狽える。
沢村夫婦殺害事件も、狐火事件と同じく犯人は捕まっていない。だがそうだ。沢村夫婦のほうには、子供がいた。それはちゃんと記録されている。名前までは憶えていないが、たしか当時十五歳……だった?
「お前……なのか?」
「そうだ」
問われている意味がわかっているのかいないのか、オウガはまっすぐな目をしていた。だが、ことは重大だ。沢村夫妻が殺されたのは、狐火事件のおきたのと同じ年、前後しておきた二つの事件は繋がっていたということになるではないか。
オウガが沢村夫妻の子供だとしたら、ゼノは石崎夫妻の子供だろう。ではフィーンは?
重田はゼノという子供がFOXだと睨んでいた。オウガ、フィーンはその協力者、もしくは共犯だと……しかしおそらく、実行犯はゼノではない。オウガでもない。たぶん、フィーンだ。
彼女《フィーン》はどこだ?
「どうした? 問題があるのか?」
矢島が黙り込むと、オウガは不思議そうな顔つきで首をかしげる。火傷のせいで一見恐ろし気に見えるが、彼には意外に素直で幼い部分がある。自分がなにをしでかしているのか、その自覚さえないように思えた。
根拠はない。これは単なる個人的感想と勘だ。だがたぶん外れではない。
彼がFOXだ。それは間違いない。しかし新貝が無関係とも思えない。それに、フィーンとゼノはどこだ? それが知りたい。
「お前がFOXなのか?」
「フォックスは新貝さんだろ」
「新貝がFOXなのか?」
「そうだろ、違うのか?」
「あ、いやそういう意味じゃなく……というか、お前、新貝のことも知ってるんだな」
「ああ」
新貝の通り名がフォックスなのは誰もが知っている。オウガはFOXと聞いて、そのままフォックスととったらしい。矢島は、そういう意味ではない、こちらのいうFOXとは、連続猟奇殺人犯のことだと話した。するとオウガは妙に落ち着いた表情で、ああと頷く。
「そいつは俺だ」
「お前が? 本当に?」
「ああ、FOXと名乗った覚えはないが、俺だな」
オウガは、聞いた矢島が拍子抜けして脱力するほどあっさりと、自分がFOXだと認めた。だが、そう素直に認められると、逆に疑いたくなる。
まず、オウガがFOXなら、なぜ今更こんなドジを踏んで捕まったのかががわからない。それに、ウサ子の言うフードの男がオウガだとして、もう一人、赤い髪の女子高生はどうなるのだ。その女こそがフィーンのはずだ。
そのフィーンはオウガを裏切った。彼女は自分が裏切ってもオウガは喋らないと踏んで、彼を罠にかけたのだ。
狙い通り、オウガは喋らない。このまま彼がFOXは自分だと認めてしまえば事件はここで終わる。世間を騒がせたFOXは逮捕され、時間はかかるだろうが事件の謎も不自然でない程度に解明され、終わってしまう。
そうなれば彼女は自由だ。何十人も殺しておきながら、なんの罰も受けず、オウガの犠牲をなんとも思わず、易々と生き延びることが出来る。
いや、それだけではない。ほとぼりが冷めたころ、再び殺戮を開始するだろう。完全に彼女の思う壺ではないか。
「嘘だな、お前はやってない、少なくとも、FOXの手口はお前の仕業じゃあない」
「あなたがどう思うおうと、殺したのは俺だ」
「嘘つけ、あんな残虐なやり口、お前に出来るわけがない」
「なんでそう思う?」
「何年刑事やってんと思うんだ? 舐めんじゃねえぞ、そんなの顔見りゃわかる、お前には出来ない」
「それなら刑事なぞやめることだな、殺したのは俺だ」
「違う」
「違わない、あなた方の探してるFOXは俺だ」
何度否定しても、オウガは自分が犯人であるとの主張を譲らなかった。だが矢島も譲れない。もはや希望に近い想像ではあるが、やったのは彼じゃない。少なくとも、FOXと呼ばれ。捜査本部を恐れ慄かせている猟奇犯ではない。
犯人は別にいる。
その確信のもと、矢島はオウガに詰め寄った。
「FOXは複数犯だとのタレこみがある、それにな、数は少ないが、目撃者もいるんだ」
「バカな、そんなものいない」
目撃者などいるはずがない。オウガはその確信からくる傲慢さで、太々しく凄んだ。だがそれもすぐに不安に変わる。息を飲み、視線を下げて顔を逸らす様子は、万引きを見咎められ、引き立てられてきた不良少年のそれによく似ていた。
「現場では、赤い髪の女子高生を見たという者が多い、俺はそれがFOXだと思っている」
「あんな殺し、女子高生に出来ると思うのか?」
「普通は出来ないな」
「当たり前だ、出来ない、つまり、そんな奴はいないってことだよ」
「まあそう早まるな、普通はと言っただろ、彼女は普通じゃないんだ、そう思えば出来るかもしれない」
「屁理屈だ!」
オウガは椅子から立ち上がり、取り調べ室の机を叩いた。あり得ないだろと話す声は少し上擦っていて、落ち着きがない。
矢島はオウガの反応を観察しながら、目撃者がいるんだぞと指をさす。それに対するオウガの反論は理論的でなく、言い逃れの類だ。
バカバカしい、そいつが見間違ってるんだ、見ているはずがない、嘘だと喚き散らした。
「面白いな」
「え?」
彼が感情を露わにするのは初めてだった。矢島はさらなる一手をかける。
「お前たち……あえてお前たちと言わせてもらうが、お前たちのボスは誰だ? その女なんじゃないのか?」
「違う! そんな女いないと言ってるだろ、俺がFOXだ!」
「お前はその女に操られてるんだ、そいつはお前が裏切らないと知ってて陥れたんだぞ」
「違うと言ってるだろ! そんな女はいない!」
「女はいるんだよ、そしてお前らを操ってる」
「違う!」
声を荒げ、拳を振り上げるオウガを見つめ、矢島はため息をついた。ただ哀れだと思った。
もはや、矢島を動かすのは、正義感などではない。一人の男としての感情だ。義侠心と言ってもいい。
彼が本当に殺人者だとしても、まずはその女のほうを捕らえたい。どんな顔であんな残虐な遺体を作るのか、見てやりたいのだ。
「そいつに操られてるのはお前だけじゃないぞ」
「え……?」
「もう一人いるだろ……ゼノだ」
ゼノの名を出すと、オウガは見事に反応した。それまでの反抗的で興奮した様子は一変し、瞳を見開いて首を振る。ここが落としどころだと感じた矢島は、そこで最後のカードを開いて見せた。
「ゼノ、そしてフィーン、それがお前の仲間なんだろ? お前はフィーンに陥れられた、そうだな?」
「なぜ……?」
「お前、最初に、密告者は女かって聞いたよな? そいつがフィーンなんだろ?」
問いかけると、オウガは唇を固く結んで視線を下げた。
おそらく、オウガにとってフィーンの裏切りは予想外だったのだ。裏切られるとは思ってもいなかった。今も信じられない。だから庇う。
だが、心のどこかで、信じきれずにいる。だから迷う。その証拠に、オウガの視線は彷徨い続けている。
矢島は、俯くオウガと視線が近くなるように椅子に腰かけ、顔を近づけた。
覗き込んで見た彼の顔は、火傷の痕さえなければ、純真無垢な少年のようだ。本当に、まだずっと若いのかもしれない。
十五歳とは言わないが、それに近い幼さを感じ、矢島はやり方を変えた。被疑者の取り調べをするのではなく、保護された非行少年の事情を聞くように、穏やかに、じっくりと話しかける。
「フィーンは逃げたんだ、お前らは見限られたんだよ、庇いだてする義理はないぞ」
逮捕されて数時間、おそらくオウガ自身も、薄々と気づきはじめていたのだろう。心当たりのありそうな、複雑な表情になった。今なら話すかもしれない。
「彼女の目的はなんだ? ゼノはどこにいる? 教えてくれ、早くしないと、彼女はゼノのことも裏切るぞ」
そうなる前に助けたいんだと話すと、オウガは瞠目しながらも、矢島をの目を見返して来た。信じるべきか否か、彼の中にも迷いはあるのだろう。それは仕方がないと割り切り、矢島は根気強く訊ね続けた。それに釣られたのか、いや、たぶん、彼にも、フィーンの危険性が理解出来たのだ。オウガは少しずつ、話しはじめる。
「なぜ、あなたがゼノを知ってるんだ? 会ったことはないはずだ」
問い返すオウガの目は、もう彷徨うこともなく、冷静さを取り戻していた。ちょっと不味い傾向だと思いつつ、矢島も丁寧に答える。
「俺の知り合いが会ってるんだよ、彼は、ゼノ少年に殺されかけたと言ってる」
「まさか、重田か?」
「お、なんだ、お前も知ってるんだ? そうだ、重田、俺の……まあ、旧友だな」
旧友という言葉を、オウガは噛み締めるように反復した。そこには大きな戸惑いと、小さな憧憬が見える。
彼から見れば、矢島も重田も等しくただの中年男で、頭の固い、いけ好かない大人なのだろう。その「大人」に、友だちなどという存在がいるのが、意外に思えるのかもしれない。
多くの子供は誤解している。大人は子供とは違う別の生き物だと思っている。だが、実際は違う、大人は子供の延長線上にある存在だ。あんな大人にはならないと、大人たちを憎む子供らも、いつか、時が経てば、大人になる。精神はともかく、肉体的には成人し、そして老いていく。
誰だって、老いたいわけではない。いつまでも子供でいられるなら、それが一番幸せかもしれない。しかし人は変わるのだ。生きている限り、大人になることを拒否はできない。
出来ないが、子供のときの心を、思いを、失くさないでいることは、出来る。
歳をとり、素直に友を友と呼べなくなったとしても、胸の内では、やはり友だちだと思える。そういう存在が、大人にだっているのだ。
自分で導き出したその答えに、半ば驚きながら、矢島は戸惑うオウガに語りかけた。
俺たちは、お前たちの敵ではない。
「だがまあ結果的には殺されすに済んだ、お前がFOXだというなら、なぜ、あいつを殺さなかったのかな?」
「なぜ……」
「そう、なぜ、だ?」
矢島の問いに、オウガは長く沈黙した。それは、黙秘とか、拒否ではなく、迷いと戸惑いのためだ。彼は自分でも自分の思いを整理しきれていないのだ。
そう感じた矢島は、オウガが自分から話し出すのを辛抱強く待った。
オウガは、瞳を開いたまま、静かに、真剣に、自分自身の内面を探るように、じっとしていた。
その時間は、数十分にも及んだかもしれない。その間、矢島は、催促することも、話しかけることもせず、ただ黙って彼の口が開くのを待っていた。
その甲斐あってか、オウガはやがて、潔く顔を上げた。
「重田さんを殺さないと決めたのは、ゼノだ」
「ほう」
素直な反応に内心驚きつつ、表面では冷静な顔を作って相槌を打つ。オウガの話す気分を壊さぬように、細心の注意を払い、最小限の反応で、矢島は先を促した。
その誘いに乗り、オウガはゆるゆると話し続ける。
「俺たちは殺すべきだと話した、だがゼノは殺さないと言い張った、理由は聞いてない、だがたぶん、ゼノは、彼を好きだったんだと思う」
「好き? 重田をか?」
「ああ、気に入っていると言い換えてもいい、理屈としては、殺すべきだと話した、だが心がそれを拒否した、そういうところだと思う」
心が拒否した。
オウガの言葉に、矢島は半ば驚き、半ば頷いた。
ゼノという少年に会ったことはないが、重田の口ぶりでわかる。彼もオウガと同じ、純粋で未熟な子供なのだ。純粋だから傷つく、未熟だから考えが狭い。そしてその狭さゆえ、間違う。
「言い分はわかった、だがもう一つわからないことがある」
「なんだ?」
「重田を殺すことは躊躇ったのに、三浦を殺したのはなぜた? あれもお前らの仕業だろ?」
「三浦?」
問い詰める矢島に、オウガは邪気のない瞳を向け、首を傾げた。惚けているのかとも思ったが、そうではないようだ。たぶん本当に知らないのだ。標的とした男に、なんの興味もなかったというのが、正解のような気がした。
「お前たちが殺した若い刑事だよ」
「……三浦というのか」
「そうだ、知らなかったのか? まだ若い、前途ある若者だった」
「前途? では、死んだ子供には前途はないとでも?」
そこまでどちらかといえば、協力的な態度で話していたオウガは、そこでいきなり表情を変えた。なぜか三浦への評価にだけ厳しい。酷く冷たく、残忍なくらいに突き放した表情だった。
「今わかったよ、なぜゼノが重田を殺すなと言ったのか」
「なぜだ?」
「重田は執念深くて厄介な男だ、だが、ちゃんと見てたんだ」
「見て? なにを?」
「自分の目で見て、耳で聞いて、動いた、彼は、ラウじゃない」
「ラウ? なんだそれは……」
「あんたも、俺たちの仕事を捜査しているなら、見たはずだ、そこにはいつも、子供がいた」
「子供……」
子供なんてと言いかけて、ふと、FOXが最初に署名を残した事件、瀬乃夫婦殺害事件のことを思い出した。そこで初めて、FOXは署名を残している。
――Fiend Ogre Xeno~
通報者は隣人。小さな子供に泣きつかれ、隣の家へ様子を見に行ったと言っている。子供は瀬乃夫婦の子だと推察されたが、記録としては、夫婦に子供はないとされていた。
「重田はちゃんと見て、俺たちを追って来た、だがあんたの言う、前途ある若者は、なにも見なかった、なにもしなかった! 自分に害がないと思って知らんふりだ、そんなヤツ、なんの役に立つ!」
死んで当然だとオウガは怒鳴った。矢島も言葉に詰まる。
言いたいことはわかるが、納得は出来ない。それは逆恨みだ。死に値するほどの罪とは到底思えない。
しかし、反論する言葉が見つからなかった。
正論ならいくらでも吐ける。
人殺しはいけないことだ、なにがあってもやってはダメだ。殺された人のことも考えろ。被害者にだって人生がある。それを絶つ権利は誰にもないぞ。
全部綺麗ごとだ。少なくともオウガには響かない。
矢島は混乱を解きほぐそうと頭を振り、そしてさっき部屋から連れ出されて行った宮田の背を、思い出した。
なぜか……。
嫌な予感に鳥肌が立つ。
「オウガ、お前、さっきお前を殴った刑事が誰なのか知ってるんじゃないのか?」
自分が知る限り、宮田はやたらと暴力を振るう人間ではない。出世も遅いくせに、エリートぶって、キャリアを鼻にかける小心者だが、あんな理不尽な攻撃はしない。あれは宮田の顔をした別の誰かだとしか思えない。半信半疑で聞いた問いに、オウガは知っていると答えた。
「知ってる? 誰だ?」
「わかってるんじゃないのか?」
「いいから、言え」
まさか、そんなことあるはずがないと何度も思い。それでも拭えない疑惑とともに、矢島は訊ねた。するとオウガは、開き直ったように答える。
「アレは、フィーンだ」
「フィーン……」
さっき聞いた重田の話を思い出した。
絶体絶命、ここで自分は死ぬのだと重田が覚悟を決めたとき、ゼノがなにか叫んだという。そして彼は生き残った。
そのときゼノが叫んだ言葉は「やめろ」だったが、もしかしたらそのあとに、フィーンと続いていたのではないのか?
──やめろ、フィーン!
だとすれば納得がいく。
つまり、フィーンはゼノの中にいる、いや、あの時点ではいた。そして今は宮田の中にいる?