今日も世界に赤錆色の雨が降る。

 旭ビル最寄りのバス停近くの歩道で、変わり果てた三浦の遺体が発見されたのは、その日の十八時ちょうどで、日も落ちきってはいなかった。
 発見当時、あたりはまだ明るく、少ないながら、人通りもあった。だが、発見される寸前まで、誰も三浦の存在に気づかなかったという。

「クソが!」
 足、肩、背中の数か所を刺された上、両眼を潰された遺体を前に、矢島は小さく罵りの声をあげた。誰にあてるでもない、それは自分と、犯人への罵倒だ。
 こんなことなら、彼を一人で行かせるのではなかった。そこに犯人がいると、なぜ気づかなかったのだと、自分に腹が立つ。

 殺される前、最後の連絡で、三浦は旭ビルで新貝に会ったと言っていた。彼に会い、追い出されるようにビルから出てきてしまったので、夕方、もう一度訪ねてみると話して、その矢先だ。FOX事件と関連があると思われるビルへ向かい、容疑者と目星をつけている新貝に会った。これはもう偶然ではないだろう。犯人は新貝だ。新貝本人がやったのではないとしても、彼が命令を出しているに違いない。

──うちは商社ですよ、そんな物騒なことしませんね。

 前回、事務所に訪ねたときの新貝の台詞と、すまし顔が目に浮かぶ。
「野郎、ふざけやがって」
 忌々しく唸り、矢島は現場を抜け出した。そのあとを同僚の刑事が追ってくる。
「矢島さん! どこ行く気ですか」
「新貝んとこだよ! 奴がかんでんのは間違いねえんだ、しょっ引いてやる!」
「ダメですよ、証拠がない!」
「んなもんいるか! 三浦は殺されたんだぞ!」
「ダメです!」
 それでも出かけようとする矢島を、同僚たちは必死で止めた。逮捕するには証拠がいる。任意同行するとしても、それなりの理由がなければ効力もない。昼間会ったというだけで拘束は無理だ。犯人はわかっているのに何もできないというのが忌々しい。矢島は苛々と足を踏み鳴らしながら、同僚の静止を振りきって歩き出す。
「ダメだ、戻れ矢島!」
 主任刑事にも呼び止められたが、そこで引き下がれない。話を聞くだけだと言い残し、サウス商会へと走った。

「おや、矢島さん、どうしました? 今度こそ、椅子を買いにいらしたとか?」
 サウス商会事務所に着くと、新貝は白々しい笑顔でにこやかに矢島を迎えた。
「三浦が殺された」 
「おや……それはそれは、お気の毒に」
 気が立っていたので、ずばりと切り込んだ。新貝は片眉を歪め、ピクリと反応したが、そのあとは知らぬ顔だ。まあお茶でもどうぞと応接椅子を示す。矢島は、お前が殺したんだろと言いたいのを堪え、正面の椅子に腰かけた。
「まだお若かったのに、可哀想な話だ……で、犯人は? 目星はついてるんですか?」
「おおかたな」
「ほう、さすがですね、参考までにお聞きしたい」
「言えるかバカ、企業秘密だよ」
「でしょうね」
 新貝はいかにもなにか知ってますと言いたげな目をして、矢島を見つめる。矢島も、新貝が糸を引いていると思いながらも口には出せず、睨み返した。そのまま暫くの間、二人は互いの腹を探り合うように無言で睨み合う。
「どうぞ」
 そこへ派手な黄色いシャツを着た華奢な優男が珈琲を持ってやって来きた。ホスト営業をしている社員の一人だろう、やたら二枚目だ。しかも、服装だけで充分派手なのに、髪まで派手だった。脱色して染め上げたのだろう、長い髪に赤のメッシュが入り、山姥のようにおっ立ててある。細身のネックレスと重そうなピアスが目立つことこの上ない。よくこんなのを雇ってるなと呆れた。
「で? 今日はなにしに?」
 従業員に見取れていると、新貝の少しイラついた声が聞こえてきた。早く帰れと言わんばかりの態度を見れば、彼が何か知っているのは明白だ。
 矢島はふんと鼻を鳴らし、机の上で腕を組む。
「昨日の夕方、五時から六時頃、どこにいた?」
「またですか? 私じゃないですよ」
「それはこっちが判断すんだよ、正直に話せ」
「はいはい」
 強引に訊ねても、新貝は慌てなかった。捜査令状もなし、相棒もなしで来ているのだ。非公式とわかっているだろうに、余裕の仕草で携帯端末を開く。
「ええっと、昨日は午後、二時ころ、中央区の旭ビルに行ってますね」
「それは知ってる、そこで三浦に会ったんだろ?」
「ええ、でもすぐ別れてますよ、彼は数分で帰った」
「それも知ってる、で、お前はそのあとどうした?」
「部屋数を数えたり、セキュリティ見たり、まあいろいろと下見をして、ビルを出たのが三時過ぎですね」
「三時ね、それから?」
「近くの茶店でティーブレイクして、適当に休んで、事務所に戻ったのが六時ってとこでしょう」
「つまり、五時から六時は移動中か茶店か?」
「んん、そのどちらかでしょう、よく覚えてないですよ」
 知り合いには会ってないし、これといって証拠に残るようなこともしていない。正確なアリバイはない、証人もいないと、新貝は答えた。いないのは当たり前だ、犯人はお前だろう? そこでそう言いかける矢島を遮り、先ほどの優男が割り込んで来る。
「新貝さん、やっぱサボりだったんですね、酷いですよ、俺、昨日事務所に一人だったんですよ」
「ぁ? うるせえな、留守番くらい一人で出来んだろ、ガキじゃあるまいし」
「ええぇ、でもぉ……」
 いつ筒井組からの殴り込みがくるかとハラハラしてたと優男は愚痴る。新貝はそんなの来ねえよと煩そうに片手を振った。
 たしかに、気の回し過ぎだ。いかに一触即発状態と言っても、昼日中、堅気の商社に突っ込んで来るほど、相手もバカではないだろう。そんなことをすれば警察が黙っていない。それとも、殴りこまれる心あたりがあるのか?
 優男の赤メッシュを見るともなしに見ながら思考を巡らせていた矢島は、その時、ハッと気づいた。
 赤い髪だ。
 犯人は二人以上、ひとりは赤い髪の女子高生……ウサ子はそう言っていた。目の前にいる優男も髪が長い、さらに髪色が赤だ。細身で綺麗な顔立ちだし、遠目で見れば、女に見えなくもない、かもしれない。
 まさか……。
「お前か?」
 思わず怒鳴ると、優男は怯んだ。何を言われているのかわからないが、疑われているらしいと気づき、おどおどと新貝に助けを求める。演技ではなさそうだ。
「違うのか?」
 矢島にも確信はなかった。だが、ウサ子の情報はいつも正しい。犯人は複数、ひとりは赤い髪の女、もしくは、女に見えるほど、華奢で髪の長い男だ。
「阿久津《あくつ》、お前、昨日の五時から六時、なにしてた?」
 目の前の男がそうか、そうでないか、矢島の考えを見越したのか、新貝がその優男、阿久津に、アリバイを訊ねた。阿久津は不安げな面持ちで、神妙になって答える。
「その時間はここにいました」
「一人か?」
「一人ですよ、さっきも言ったじゃないですか、なんですか? 俺、なんもしてませんよ?」
「ああ、それはわかってる、お前にそんな度胸はねえさ、だがそこの刑事さんがお疑いなのさ」
「疑うって、なにを……?」
「刑事殺しの連続殺人犯、そいつがお前じゃないかって、睨んでんだよ」
「ぇええええっ?」
 新貝の答えに、阿久津は大げさに驚き、ぶんぶんと手を振った。自分じゃないと言いたいらしい。
 その様子はいかにも小物で、とてもそんな大それたことが出来るように見えない。矢島も嘘は言ってなさそうだと判断した。
「ああ、もういい、お前じゃない、それはわかったよ」
「あ、どうも……」
 これ以上ここにいて、変に疑われては敵わないと思ったのか、阿久津はそそくさと奥の部屋へ戻った。新貝はそれを見送り、面白くなさそうに矢島を睨む。
「もういいでしょう? 私も忙しい、そろそろお帰り願えませんか? 令状はないんでしょう?」
「ああ、そうだな」
 痛いところを突かれ、矢島も勢いを落とす。新貝は、ではまたと席を立ち、さっさと帰れというように、エレベータを指差した。矢島も仕方なく立ち上がる。
 だが、まだ聞きたいことがあった。
「すまん、最後にもう一つ」
「なんです?」
「赤い髪の女子高生、お前、知らないか?」
 新貝が犯人ではないにしても、彼はなにか知っている。そう確信し、半分賭けで訊ねた。
 相手はヤクザ紛いの百戦錬磨、そう簡単に引っかかることはないだろうと、あまり期待はしていなかった。しかしそこで彼は、眉間に皺をよせ、嫌な表情で黙り込んだ。背中に寒気が奔る。
「知ってるのか……?」
 思わず聞き返す。新貝は表情を変えないまま、知りませんねとだけ答えた。

 ***

 矢島が出て行ったと同時に、新貝は携帯端末を取り出した。机の上に置いてある煙草を咥え、ダイヤが鏤めてあるジッポで火を点けながら、目的の相手を呼び出す。
「塚原か? 今どこだ?」
 連絡を入れたのは、ボディガード兼、秘書の塚原《つかはら》悟志《さとし》だ。どこにいると訊ねると、塚原は近くの工場で、セキュリティの契約を済ませ。帰るところだと答えた。
「飯田産業か? ちょうどいい、今事務所に矢島が来てな」
──あの刑事……また何をしに。
 塚原は自分らの周りをちょろちょろする矢島が気に入らないらしい。低い声で、何しにきたのだと訝しがった。
 新貝は、こちらはなにもしていないのだから、それ自体は気にしなくていいと答える。
 来るのはいい、帰らないのが困るのだ。
「これからちっと出かけてえんだがな、外に矢島が張ってる、ついて来られると鬱陶しいだろ、適当に追い払ってくれねえか」
「またですか? 幸人さん、お一人でどちらへ?」
 出かけると言うと、口煩い塚原は、どこへ行くのだと追求してくる。新貝も、それは予想していたので、女のところだとごまかした。しかしそれぐらいで塚原は引き下がらない。ボスを護るのが自分の役目、ついて行きますよと言い張った。冗談ではない。
「バカ、女だぞ、手下ぞろぞろ連れてけるかよ」
「そう言ってこの前も怪我をしてお戻りじゃなかったですか、幸人さんが無事でいれば私も文句は言いませんよ、しかし……」
 前回、一人で出かけ、筒井組の急襲にあったことを、彼はまだ根に持っているらしい。一人は危険だと食い下がる。たいしたことなかったのだから気にするなと話しても、まるで引き下がる気配を見せなかった。
「あれをたいしたことないと? 顔は腫れる、歯は折れる、あばらにもヒビが入ってた、しばらく動けませんでしたよね?」
「っせえな、いいんだよそんぐれえ」
「だめです、あくまでも一人で行くとおっしゃるなら、縛り付けますよ?」
「あ、のなァ!」
 ふざけんなと言い掛けた新貝は、忌々しく口を閉じた。
 塚原は真面目で誠実な男なのだ、彼にとっては、新貝幸人という人間が、全人類の命より重い。今度同じようなことがおきれば、単身で筒井組に殴りこみかねない。それも困る。新貝もそこは仕方なく、折れた。
「ち、わかったよ、連れてく、だがお前一人だけだ、他の奴らは留守番、いいな?」
 口出しはするなよと念を押すと、塚原はわかりましたと答え、ものの数分で事務所まで戻ってきた。
「早えな、矢島は?」
「田中と鈴木に言って、遠くへ追いやりました、暫く戻って来ませんよ」
「そうか、じゃ行くぞ」
「はい」
 新貝が、白の中折れ帽を被りながら歩き出すと、塚原はスーツの内ポケットを確かめながらついて来る。中身は拳銃だろう。
「そいつは使わねえ、仕舞っとけ」
「いえ、念のためです」
「仕舞っとけ、ポリに見つかったらトッ捕まるだろ」
 日本は法治国家なんだと話すと、塚原も渋々うなずいた。
 黒光りするような漆黒のスーツに黒ネクタイ。黒眼鏡と黒い靴に拳銃とは、一昔前の悪役のようだ。こんな大柄で怖そうな黒ずくめの男がお供では、目立ってしょうがない。せめて上着は置いていけと話しながらエレベータに乗り込んだ。しかし塚原は脱がない。
 エレベータの戸が閉まり、二人きりの狭い空間で、新貝はやれやれと息を吐いた。
「お前は黒の組織か? 暑っ苦しいんだよ、目立つだろ」
「幸人さんのほうが目立ってますよ、こそこそ行くには派手過ぎる」
「あ?」
 逆に指摘された新貝は、自身の服装を省みる。
 赤紫のブラウスシャツに白のジャケット、白いパンツに赤い靴。そこへ白の中折れ帽を被り、アクセサリーは太い金鎖のネックレスとドックタグつき金のバングルだ。
「普通だろ」
「どこがですか」
「普通だよ! お前のがおかしい、固過ぎんだよ」
「黒いスーツなんてそこらにいますよ」
「そんな真っ黒クロスケはいねえ!」
「私がクロスケならあなたはタマムシです」
「あんだと?」
「なんです?」

──まったく。

 同時にそう呟いた二人は、それから暫く無言で目的地へと歩いて行った。

 *

「ここですか?」

 やがてたどり着いたのは、小さな公園の裏手にある、崩れかけた建物だった。おそらく最初はこの公園の管理棟だったのだろう。それらしい看板が地面に落ちている。今は使われていないらしく、窓ガラスにはヒビが入り、寂れて人影もなさそうだ。
 こんなところに女を置いておく筈はない。女のところへ行くというのはやはり嘘だったかと塚原が横目で睨むと、新貝は開き直って横を向いた。
「お前はここで待ってろ」
 入り口で立ち止まった新貝は、中へはついてくるなと話した。しかし離れていてはボディガードの役を果たせない。塚原は邪魔はしないから一緒に行かせてくださいと申し出る。だがそれは却下された。
「危険はない、とにかく入って来んな、そこにいろ」
 有無を言わさぬ口調の新貝からは、いつものチンピラっぽさが消え、目の光りさえ失せていた。背中から禍々しい黒いオーラを放ち、相手を見据える顔は、冥府の王のように見える。
 彼がこんな顔をしたら制御はできない。ここからは不可侵の領域だ。
 自分がいては邪魔になるし、言いつけに逆らえば、相手が誰でも容赦なく殺すだろう。塚原には、わかりましたの他に、言える言葉はなくなった。
 新貝は畏《かしこ》まる塚原には目もくれず、一人、建物の中へと入っていく。

 入るとすぐに受付用のカウンターつき小部屋があり、細い廊下が続く。長い間放っておかれた床は、土ぼこりだらけで、割れたビンの欠片や細かいゴミが散らばっていた。
 硝子片を蹴飛ばしながら歩いて、突き当たりにある薄いベニヤでできた戸を開ける。中はがらんとして、打ち捨てられた木箱と粗末な丸椅子以外、何もない。その部屋の隅に、痩せた子供が膝を抱えるように蹲っていた。一年中、着たきりスズメのロングコートはいちだんと汚れ、気をつけて見なければ、ゴミの塊のようだ。

「どうしたゼノ、お仲間と喧嘩でもしたか?」
「新貝さん……」
 声をかけるとゼノは、今気づいたかのように顔をあげた。床にはいつも転がっているパンや弁当の食いかすもなく、ペットボトル一本おいてなかった。
「なんだ、食ってねえのか? 子供は食わねえと大きくなんねえぜ」
「大きくなんかならないからいいんですよ」
 からかうとゼノは不愉快そうに口を曲げて答えた。たしかに、彼は初めて会った五年前から、成長していないように見える。だが成長しない人間はいない。内面か外見か、とにかく顕著でないだけで、少しは育っているはずだ。
「そう拗ねるなよ、どれ、見せてみな」
 蹲るゼノの腕を引いて立ち上がらせ、正面へ立たせる。覗き込んだその顔は、酷く幼い。本当に小学生のようだ。
「ふん、デカくなってるじゃねえか、前はこんなだったぞ」
 新貝は、手のひらを翳し、五センチは伸びただろと話す。だがゼノは興味なさそうにするりと離れた。身長の話は嫌いらしい。
「今日はなんです? 上がりならまだですよ」
「そんなんじゃねえよ、ちょっと話したくてな」
「話?」
「ああ、刑事殺しについて、とかな」
 ニヤリと笑って切り込むと、ゼノはああと呟き、下を向いた。新貝は少し屈んで小さな肩に手をかける。
「殺ったのは、フィーンか?」
「彼女、最近おかしいんですよ」
 話しかけるとゼノは、待っていたかのように口を開いた。喧嘩していたというのはあながち外れでもないようだ。
「どうおかしい?」
「新貝さんもおわかりでしょう、だから来たんだ」
「そうだな、たしかに、彼女はやりすぎだ、こっちとしてもちょっと困ってる」
「すみませんね、僕らも止めてはいるんですが」
「彼女が聞かない?」
「ええ」
 本当に手を焼いているのだろう、いつもの生意気な口もなりを潜め、ゼノは素直に俯いた。その様子に新貝は、白の中折れ帽を外しながら、深刻だなと呟く。
 外した中折れ帽をひょいと投げると、帽子はくるくると回り、そのまま壁際のフックに収まった。巧く収まったことに気を良くし、新貝は機嫌よく口角をあげる。そしてちょいちょいと、人差し指でゼノを招いた。
「ゼノ、ちょっといいか?」
「なんです?」
「んん、フィーンと話したいんだが」
「えっ」
 出来るだけ、さり気なさを装って尋ねた。だがゼノは、そうとうに驚いたらしい、瞠目した顔を上げる。彼が戸惑うのも道理だ、一応の礼儀は通しているが、これは半ば強制、反論は許していない。
「驚くことねえだろ、話すだけだ」
「彼女は新貝さんを嫌ってる、話にはならないと思いますよ」
 ゼノの答えは歯切れが悪かった。もしかしたら、彼女が、というよりも、ゼノ自身が、フィーンを他人に会わせたくないのかもしれない。
「嫌ってる? どうして? 嫌われるような覚えはねえぞ」
 嫌われているらしいということは気づいていた。だがその理由が不明だ。新貝も、お前らには良くしてやってるだろと言い返す。
 もちろんそれはゼノも承知なのだろう。感謝はしてますよと慇懃《いんぎん》に答えた。それならもっと気を使えと言いたい。
「すみません、でも特に新貝さんを嫌ってるというわけではないんですよ、彼女は成人男性が嫌いなんです」
「成人ね、で、お前は免罪符ってわけか」
「まあ、でしょう」
 実年齢はともかく、ゼノの外見は子供だ。いくつなのか見当がつかないが、子供だということはわかる。男嫌いでも、このくらいの年齢なら角も立たない。しかし、オウガのほうはそうもいくまい。二人の仲はあまり良くないと聞くが、それも確かだろう。
「まあいい、とにかくフィーンを出しな、そこにいんだろ?」
「やめたほうがいい、殺されますよ?」
「俺が? は、面白えじゃねえか、殺れるもんなら殺ってみろ、舐めてんじゃねえぞガキが」
 次第に苛々としてきた新貝が凄む。ゼノはそれに屈したわけでもないだろうに、仕方ないですねと息を吐いた。空を見つめる瞳に霞がかかり、伸びすぎた髪も湿り気を帯びて見える。
 彼女を思うとき、艶を含むのは、思いがそれだけ深いことを示している。見かけは子供でも、中身までそうというわけではない。まして恋は、子供でも出来る。
 しかし、いくら思っても、外見が小学生では、どうにもしようがない。彼の中のジレンマは、彼自身さえ知らぬところで、思わぬ歪を作り上げていた。
「待っててください、言ってみます」
「おう、期待してるぞ」
 あまり気が進まないというように、冴えない表情のまま、ゼノは消えていく。そしてその数十秒後、赤く髪を逆立てたフィーンが現れた。

「死ねや! 糞が!」
 よほど男が気に入らないらしい。彼女は現れるなりナイフを振りかざし、襲い掛かって来た。
「おっ……と」
 新貝はそれを難なく避ける。小柄な女の手だ、間合いが小さい。刃が届くにも時間がかかる。わかっていれば、避けるのも難しくはなかった。
 勢いよく突っ込んできたフィーンは、新貝が避けたせいで、体勢を大きく崩した。慌てて振り返り、もう一度刺そうと突っ込んで来るが、それもさらに遅しだ。新貝は余裕の仕種で、フィーンの手首を蹴りつける。
「あっ」
 蹴られた勢いで、握っていたナイフは高く遠くへ飛ばされた。思わずその軌跡を追う目の端に、新貝の黒い目が映りこむ。
 一瞬、どちらに反応するべきか、フィーンは迷った。その迷いが命取りだ。新貝は、動きの止まったフィーンの手を握り、軽々と捻りあげた。
「チクショウッ、離せ! 離せ、糞野郎!」
「俺がクソヤロウならテメエはうんこ女だ」
 軽く捻られたフィーンは歯を剥いて喚き散らす。だが新貝も容赦がない。じたばたと暴れるフィーンの腕を折れるほど捻りながら、さらに体重をかけて床に押し倒した。腕を取られて受身が出来なかったフィーンは、胸から床に落ち、その痛みで低く呻く。
「なんか勘違いしてねえか? 今までテメエが勝って来たのはテメエの力じゃねえぞ、ゼノとオウガがいてこその勝ちだ、テメエ一人じゃ殺れねえんだよ」
「うるせえんだよ! 離せっ、ブッ殺してやる!」
「だから、殺《や》れねえっつってんだろ!」
 いい加減にわかれと新貝は諭す。しかし、フィーンには届かない。彼女は憎しみだけで人が殺せると信じているかのように、呪いの言葉を吐き、世界を罵倒し続けた。
 あまりに幼く儚い抵抗に、新貝はやるせなく息を吐いた。
 
 凶暴に残虐に人を傷つけ殺すフィーンは、その実、腕力がさほどない。それでも殺《や》れて来たのは、不意打ちだったからだ。
 誰しも、平凡な日常で、自分が殺されるとは考えていない。いつもと同じ朝、いつもと同じ昼、いつもと同じ夜を過ごし、明日も明後日も、今日と同じ日々が続くと信じている。
 彼らはその当たり前の世界に、入り込んだ魔だ。よく人が言う、「魔が差した」という台詞、その、「魔」なのだ。
 そこにいるとはまるで思っていない「魔」が、或る日あるとき、突然牙を剥く。
 なんの準備も予感もなく、不意を突かれた者たちは、最初の一撃で戦意を失くし、動けなくなる。あとは彼女の思うままだ。
 動けなくなる理由のひとつは、最初の一撃が、足や目、肺といった、人が活動するに必要不可欠な部分だというのもある。
 そういった、重要な部位を損傷し、動けなくなった獲物を、フィーンは甚振り切り刻んで来た。圧倒的優位の中で、彼女は人を殺す。
 オウガが護り、ゼノがセッティングするからこそ、彼女は目的を遂げられるのだ。それもわからないようでは、子供の遊びと同じ、そして、遊びにしては度が過ぎる。
「男二人に護られて大事にされて、それで男嫌いだって? 甘えてんじゃねえぞ」
「ふざけんな! あたしは甘えてなんかいない! あたしは……ッ」
「それが甘えなんだよ! 俺は今すぐテメエを殺れんぞ、お情けで生かされてんだ、違うってんなら今、俺を殺してみろ! 出来ねえだろ」
 新貝は怒鳴り、フィーンはわなわなと震える。そして、数秒後、ジュンッ……と、微かな音を立て、空気が沸騰した。
「お……?」
 空気の色が変わったのに気づき、新貝はあたりを見回す。元々赤かったフィーンの髪は、さらに赤く、燃え上がるように赤くなり、巻き起こった風に煽られながら逆立っていく。
「ゥ……う、ぁ、あ」
 歯噛みするようにフィーンは唸る。その背がパクリと割れ、そこから黒い翼が突き出て来たとしても、なんの不思議もない気がした。むしろ、それが当たり前でもあるかのように、憎しみの黒いオーラを全身から放ち、フィーンは吼える。
 まるで肉食獣の雄叫びだ、新貝もちょっと呆れた。
 その一瞬の気の緩みを捉え、彼女は新貝の手を跳ね除ける。逃げたフィーンは、足音も軽く、床を蹴り、数メートル先へと跳ねた。その足元には、さっき新貝に飛ばされたハンティングナイフが転がっている。
「殺してやる……」
 床に落ちているナイフを拾い上げ、フィーンは呟いた。彼女の目は、白目の部分まで赤く染まり、目の周りからこめかみへと興奮して膨張した血管が浮き出している。
「殺してやる」
 ぶつぶつと、呟きながら、フィーンは近づいてくる。彼女が一歩前に進むごとに、あたりの重力は増した。光も差さない深海のような、息をも詰まる圧縮された空気の中、新貝はひたいに薄っすらと汗を滲ませ、楽しそうに笑った。
「そうくるか、いいね、ゾクゾクするね」
「ころしてやる」
 フィーンは耳が聞こえなくなったのか、聞く耳を持たないのか、新貝の言葉に反応はしなかった。ただ狂気と憎しみだけを手に、ゆらゆらと歩いてくる。それを見据え、新貝はニタリと笑う。近づいてくるフィーンの狂気が霞むような、異常な陽気が空気を曲げた。
「殺してやる!」
 フィーンは大きな幅広のナイフを目一杯に振り回す。少しでも掠れば、ざっくり行くところだが、新貝にはあたらない。
 血が見られないことに怒り、フィーンはナイフを振り回し続ける。新貝は大縄跳びでもするように、軽いフットワークでそれを避け、ニヤニヤしながら彼女の腕を蹴り上げた。
「学習能力がねえな、テメエの力じゃ俺を殺れねえんだよ、バカが」
「コロシテヤル」
 手首を蹴られても、フィーンはナイフを離さなかった。赤く滲んだ目をして、ただ目の前の敵を切り刻むことだけに熱意を燃やし、立ち上がる。
 ゆらゆらと、じりじりと、執念深く、標的の死を夢見て動く姿は鬼気迫り、常人なら竦んで動けなくなるところだ。しかし新貝は動ける。それは彼が、フィーンと同じ性質をもっているからかもしれない。
「お前の力もそこそこ凄いさ、けどな、悪い、俺はもっと凄いんだ」
 見せてやろうかと口角をあげる新貝の黒い目が、あたりを漆黒に染める。怒りと憎しみに燃え盛る赤が、冷酷と憎悪の黒に押し負け、染め返される。
 ヒュンッと風が鳴り、空気が震えた刹那、新貝はフィーンの右手首を掴み、片手でブン投げた。
「ォウ……ッ!」
 床に叩き付けられたフィーンが呻く。しかし新貝の攻撃はそこで止まず、倒れたフィーンを容赦なく踏みつけた。
「オラオラ! 死ぬか? 死にてえか?」
 異様にテンションをあげ、新貝はフィーンを蹴りつけ、踏みにじる。しかし、蹴られながらも、フィーンはナイフを離さなかった。
 それを見た新貝は一瞬足を止め、次の瞬間、彼女の手首を思い切り踏みつけた。
「あうっ!」
 さすがに効いたのだろう、フィーンは叫び、ナイフを離す。新貝はそれを遠くへ蹴り飛ばし、のたうつ彼女に圧し掛かった。
「万事休す、もう打つ手がねえぞ、どうする? 死ぬか?」
「ぅう、ウァ、ああ!」
 押さえ込まれたフィーンは怒りに震え、ただ唸り声をあげた。新貝は、まるで人の言葉を忘れたかのように唸る彼女を静かに眺める。

「お前、もう死んでるよ……」

 悲しげな表情で小さく呟いた新貝は、唸り続ける彼女の耳元へ、唇を寄せる。フッと、息を吹きかけると、フィーンはビクリと震え、一瞬、力が抜けた。新貝はそこを的確に捉えた。
「いいか? これは親切心の忠告だ、よく聞いとけ? 今までのやり方じゃあダメだ、じき捕まる、それが嫌ならやり方を変えろ」
 男という人種を根本から嫌うフィーンは、新貝の言葉を、ほとんど聞いていなかった。ただ唸り、暴れる。彼女の抵抗を無視し、新貝は先を進めた。フィーンが聞かずとも、傍でゼノとオウガが聞いているだろう。
「署名は残すな、派手な殺しもするな、標的の処分に感情を挟むんじゃない、より多く、より確実にラウを消すには、自らが闇に徹することだ、忘れるな」
 でなきゃ破滅だぞと囁き、新貝はフィーンの首を絞めた。容赦のない力で締め上げられたフィーンは、苦悶の表情を浮かべ、のたうつ。
 通常、首を絞めてから死ぬまでには数分の時間を要する。
 首を絞めるというと、多くの者は、息が詰まり死ぬと考えがちだが、実際窒息で死ぬには五分以上は締め続けなければならない。息の長い者であれば、それ以上にもなる。つまり、窒息ではそうそう死なないのだ。
 では、なぜといえば、頸部圧迫により、血が止まることに起因がある。首の動脈が締め付けられ、血流が止まる。血流が止まるということは、脳に酸素がいかなくなるということであり、即ち、脳死だ。脳は酸素がいかなくなってから、早ければ三分、長くとも、五分で重篤な状態に陥ると言われている。
 新貝は、そのぎりぎりの時間と力で、彼女の首を絞めた。キリキリと、首をへし折る勢いで絞められたフィーンは、ものの数十秒で意識を失くす。

 パタリと、彼女の手が落ち、全身の力が抜ける。フィーンが動かなくなったのを確認し、新貝はそっと手を離した。

「ゼノ、オウガ……テメエらもよく聞いとけ、俺も慈善家じゃねえんだ、これ以上手を焼かすなら切る、いいな、よく考えろ」

 床に倒れる小さ身体を、新貝は溜息のように細められた瞳で見つめる。そして壁際のフックにかけてある中折れ帽を右手で取り、ゆっくり被りながら出て行った。


 崩れかけた入り口扉を蹴り開け、新貝が出てきた。不愉快そうに早足で歩いて来る。自慢の中折れ帽を目深に被っているのは、表情を読ませないためにだろう。
「ご無事で?」
「ご無事だよ、なんもねえ」
 なんともないと答える新貝の上着には、新しい皺がより、少し汚れていた。誰かと争ったあとなのか、身体にもほんのりと熱気が残っている。
 塚原は用心深く内ポケットの拳銃を撫で、背後の建物を覗く。新貝はそれを目敏《めざと》く見つけ、塚原の肩を引いた。
「(拳銃を)仕舞え、もう用は済んだ」
「しかし……」
 あの中に誰かがいる。いつも軽くおちゃらけて見せ、滅多に本性を現さない新貝が動くほど、手強い何者かがいる。それが塚原を緊張させた。だが新貝は気にするなと言い、確認させてくれない。それが余計に不安を煽った。
 理由はない。ただ感じる。あの中にいる者を消さなければならない。でなければ、いつか彼は死ぬ。あの中にいる誰かが手を下すのか、それとも別の誰かかはわからないが、いつか必ず……
「なにしてる、おいてくぞ」
 だがそれ以上思考を巡らすことはできなかった。当の新貝が先を急いだからだ。最近あちこちいろいろとキナ臭い。筒井組からも、何度も脅しめいた申し入れが来ているし先日の例もある。いつ、誰に狙われるかわからない。そう思えば離れることはできない。塚原は、用心深くあたりを探りながら、新貝の半歩前を歩いた。
 新貝が本気になれば、たいていの相手には負けない。だが相手が銃でも持っていたら、丸腰では勝てないだろう。もう少し、せめて事務所につくまではと付き従い、ようやく、あと数メートルで事務所のあるビルだというところまできたときだ。四方から、ばらばらと現れた男たちが、二人に銃を向ける。
 
「とまれ! 動けば撃つ」
 人相の悪い屈強な男たちが十数名で二人を取り囲む。一瞬、筒井組の急襲かと思った。だが中の一人がポケットから出した手帳で、彼らが刑事だと知れる。
「新貝幸人、警察官殺害容疑で逮捕する」
「逮捕状が出た、おとなしくしろ」
「動くなよ! 抵抗するなら撃つ」
 二人を取り囲む刑事たちは、青ざめ、緊張していた。三浦刑事を殺した犯人は、イコールうわさのFOXだと思っているからだ。数十名の命を残虐に切り刻んだ殺人鬼だ、油断すれば自分たちがやられる。その緊張だ。
 おそらく、やむを得ない場合は発砲しても良いと許可は出ているのだろう。誰もが本気に見えた。
 ここで抵抗しても意味はない。逃げることは出来ないし、無駄に撃たれるのも嫌だ。新貝は早々に抵抗を諦め、両手を挙げた。
「はは、怖いな、抵抗はしませんよ」
「幸人さん!」
「いいから、お前も動くな」
 新貝は心配する塚原に、動くなと嗜め、前へ出た。両手を挙げたまま歩く新貝を、刑事たちが取り囲む。
「そのままだ、動くな、動くなよ!」
「動きませんよ」
「じっとしてろ!」
「してます、だからそんな物騒なものは仕舞ってくださいな」
 にこやかに社交的笑顔で、新貝は銃を仕舞ってくれと話した。だが刑事たちは気を緩めようとはしない。すぐにも発砲できるように構えたまま、じりじりと包囲網を縮めていく。
 新貝は両手をあげ、動かない。それでも怖いのか、刑事たちの手は目に見えて震えていた。ほんの少し手元が狂っただけで、引鉄が引かれそうで、見ているほうが怖い。その緊張に耐え切れなくなったのは塚原のほうだ。両手を挙げる新貝の腕を引き、その盾になりながら、懐の銃を刑事たちに向けた。
「どけ! 道を開けろ!」
 ザワリ、と、刑事たちに最大の緊張が奔る。数十名の指が撃鉄を起こす。塚原も身構える。撃ち合い殺し合いは必至に見えた。
 だが、次の瞬間、クルリと姿勢を変えた新貝が、銃を構える塚原の腕を握り、力任せに引き倒していた。
 二メーター近い巨体が乾いた地面に倒れこむ。土埃が舞い、あたりは薄く煙った。
「バカかテメエは! 動くなっつったろうが!」
「幸人さん……」
「ったく、余計なことすんじゃねえよ」
 小さくぼやいた新貝は、やれやれと頭を掻いた。刑事たちが捕まえに来たのは自分だけだ。普通なら自分だけ連行されてそれで仕舞いのはずだった。だが連中に銃を向けた時点で、それもなし、塚原も銃刀法違反と公務執行妨害で逮捕だ。これではあとのことを任せる相手がいなくなる。忠義心からとはいえ、余計なことをしてくれたものだ。
「すみませんね、私の監督不行届きです、勘弁してやってください」
 改めて謝罪すると、緊張で固まっていた刑事たちはハッとしたように動き出し、新貝を取り囲む。なにが怖いのか、我先にと掴みかかる連中に身を任せ、新貝は引き倒されたまま起き上がらない塚原をちらりと見た。
「慌てなくても私は逃げませんよ、抵抗もしない、丁重に扱ってください」
 両手をあげたまま、一切の抵抗を見せない新貝の手に、手錠がかかる。自分の行動が主をいっそうの窮地に陥れた。塚原はその失態に気づき、呆然としていた。だがそれを思いやってやる時間は取れない。
「塚原、お前もだ、なに、ただの銃刀法違反だ、すぐ出てこれる」
「幸人さん……」
「俺のほうは心配しなくていい、刑事殺しは俺じゃない、調べりゃわかることだ、とりあえずおとなしくしとけ、いいな?」
「はい、すみませんでした」
「ほんとお前、真面目だねえ」
 項垂れる塚原と、無抵抗を貫く新貝は、その場で逮捕、連行された。

 午後三時四十七分。
 新貝幸人、三浦正也巡査殺害容疑で逮捕、同時刻、塚原悟志、公務執行妨害、および、銃刀法違反で現行犯逮捕。

 ***

「狐野郎! あのクソ! ブッ殺す!」
 新貝が出て行って数分後、目を覚ましたフィーンは綺麗な顔を歪ませて怒鳴り散らした。やり込められたのがよほど悔しいらしい。
「手を焼かすなら切る……か」
 オウガはそれを聞き流し、そろそろ手を引くかというニュアンスで呟いた。
 彼はいつも冷静だ。ラウに対する考え方も、殺し方も、穏やかで優しい。それは彼の行動が、憎しみからではなく、悲しみや哀れみから発動するものだからだろう。
 彼は、家族を、母を、愛していたのだ。怒り悲しみながらも、人の痛みに気づくことが出来ないラウたちにすら、同情する。だがそれこそが、フィーンをより苛立たせる。
「なにが切るよ、こっちから切ってやろうじゃないの!」
 あいつはあたしを踏みつけたのよ、許さない。と、フィーンは息巻く。彼女は受けた屈辱を忘れない。こうなったら、本当に新貝を殺すまで気は晴れないだろう。それを思えば、なぜもう少し手加減してくれなかったのだと、恨みたくもなるが、それも仕方がない。あれでも彼は充分手加減してくれたのだ。
 もしも彼が本気なら、フィーンの首はへし折れていた。当然、自分らも無事ではいられなかった。殺るか、殺られるか、彼との決着は、どちらかが死ぬまでつかなかっただろう。
 今はお互い、利用されつつ利用して、危うい均衡を保ってはいるが、いずれは破綻する。だが、それはどちらかの、もしくは両方の、死を意味している。
 出来るなら、彼と争いたくない。
 それがゼノの正直な気持ちだった。
「新貝《フォックス》の言うことをいちいち真に受ける必要はないんじゃないかな、彼は気まぐれだ、それに、僕たちを気に入ってる、本気で切りはしないと思う」
 彼は最初に会った夜から、こちらにシンパシーを感じているようだった。怪我をして動けない子供一人、殺して捨ててしまえば面倒もない。だが彼はゼノを殺さなかった。それどころかまだ幼かったゼノに犯罪の片棒を担がせ、生き残りたいなら強者になれと教えた。
 自分や、自分の部下にやらせたほうが早いだろう仕事をゼノに任せ、態度はきついが、食っていけるだけの金と、情報をくれる。
 ゼノにとって、新貝は恩人だ。だが、オウガやフィーンにとっては違う。そこが三者の主張を分けた。
「だからなに! いつあいつの気が変わるか、ビクビクしながら生きろって言うの? あたしは嫌よ!」
「まあまて、新貝《フォックス》もこちらを消したいわけではないだろう、その気ならとっくにやってる、彼は彼で俺たちを飼うメリットを感じてるんだ」
「メリットって、なによ!」
 仲介に入ろうとするオウガを、フィーンは睨む。彼女としては、とにかく早く新貝を殺したい。だがそれにはゼノとオウガの協力がいる。そこがさらに気に食わない点だ。二人を敵に回してはいけないと、理性ではわかるのに、我慢できない。自身をコントロールできない自分に、フィーンも、気づいてはいた。だがどうしても頷けない。
「ん、そうだな……」
 言い出したはいいが、オウガもその理由までは考え付かないらしい、首を傾げ、言い澱んだままになる。フィーンはさらに苛立った。
「ちょっと! 思いつかないなら言わないでよね! バカなの?」
「すまない、だがなにかあるはずだ」
「だから! なにかってなによ!」
「わからない」
「はぁ? なにそれ、ふざけてんの? 舐めてんの?」
 はっきりしない返事に焦れたのか、フィーンは立ち上がった。手にはいつものハンティングナイフが握られている。
「もういい、あんたいらないわ」
「フィーン……」
 彼女の殺意に反応し、オウガも懐に手を入れる。内ポケットには縁引き針が入れてある。それを確認しながらじりじりと下がった。
「やる気か? 仲間を殺すのか?」
「あんたなんか、仲間じゃないわ、最初から気に食わなかったのよ」
「それならなぜ受け入れた? 拒否だって出来たはずだ!」
「知らないわ、ゼノが気に入ってたからじゃない? でももういい、我慢出来ないのよ、あんたは邪魔よ!」
 思い切り我侭に、ヒステリックに叫んだフィーンは、赤い髪を逆立て、ナイフを握りなおす。オウガは身構え、間合いを計った。
「やめろ! フィーン!」
 今にも殺し合いを始めそうな二人の中で、それまでずっと静観していたゼノが怒鳴る。滅多に声を荒げないゼノの怒鳴り声に、さすがのフィーンも手を止めた。燃え上がりかけた髪も、黒く凪いでいく。
「なによ……」
 戸惑い、勢いをなくしたフィーンが聞き返すと、ゼノは争う二人の間に立ち、静かに話しだした。
「新貝《フォックス》は、たぶん、僕たちと同じだ」
「え?」
「同じ?」
「ああ、彼の言動からは、ラウへの憎しみと、虐げられたモノ特有の屈折が見える気がする……たぶん彼も、かつては僕たちと同じ、世界に見捨てられた子供だったんだ」
「新貝《フォックス》が?」
「ああ、そう見えないか?」
「……どうかな、俺にはわからんよ」
「嘘だね、わかってるクセに」
「ふん」
 ゼノの言葉に、思い当たらなくもないという顔で、オウガは頷き、たしかに、と言葉を続けた。
「普通あの人くらいになれば、ふんぞり返って命令するだけになりそうなのに、彼は自分で動く、俺たちに会いに来るにも、必ず一人だ、そこは評価してる」
「だろ? 今回だって、自分が可愛いなら、忠告なんかしないで、黙って切り捨てればすむことだ、でも彼は来た、それに、言ってることは正しい」
 まあなとオウガは頷く。理解は出来なくとも、納得は出来るようだ。だが、フィーンは納得も理解もしない。冗談じゃないわと地団駄を踏んだ。
「なにが評価よ、なにが正しいよ! 信じらんない、あんたたち正気なの? あいつは大人よ、弱い者の生血を吸うことしか能のない最低の男だわ!」
「それも否定はしないよ、でもそれは僕たちも同じだ」
 自分たちは、新貝の下請けをして、情報と収入を得ている。それはフィーンの言う、汚い大人の片棒を担ぐ行為だ。彼を否定するなら、自分らも否定されなければならない。
 それこそが、フィーンの嫌悪の原因だ。
「だから最初から言ってるでしょ、あんな奴の言いなりになる必要なんかないって!」
「何度も言ってるはずだ、フォックスとの関係を切れば、俺たちは動けない」
「なんでよ! あたしはやれるわよ!」
「無理だ、どうやってラウを炙り出す? 金はどうするんだ」
「お金なんか要らない!」
「金がなければどうやって食べ物を手に入れるんだ? 盗むのか? それは許されるのか?」
「そんなの、何とでもなるわよ!」
「ならない! よく考えろ、ゼノを死なす気か?」
 オウガは年長者として、ゼノとフィーンを護ることを第一と考える。だがフィーン感情だけで動く。理屈としてわかっても、決して納得はしない。二人の言い分はいつまで経っても平行線だ。
 こんなとき、最終決定権はいつでもゼノにあった。そこで二人は同時に振り返る。採決を求める二人の視線に、ゼノは小さく頷いた。
「仲間割れはよそう、フィーンの気持ちはわかったよ、でもここだけは堪えてくれないか? 新貝は殺せない、彼は善人じゃないが、少なくともラウじゃない、そして僕たちには必要な人間だ」
 わかって欲しい。ゼノは真剣に心をこめて話した。しかしフィーンには届かない。彼女にとって、それは自分を否定されたのと同じなのだ。
 ゼノだけは、なにがあっても自分の味方だと思っていた。必ず自分の言い分を聞いてくれると信じた。それがこの始末だ。フィーンはギリギリと歯軋りしながら、二人を睨んだ。小さな手がわなわなと震え、一度は凪いだ髪も再び赤く逆立っていく。
「よせ、フィーン! 落ち着け!」
 変貌していくフィーンに驚き、オウガが叫ぶ。ゼノも慌てて前へ出た。
「フィーン、僕たちは敵じゃない、キミの仲間だ、落ち着いて話そう」
 これ以上彼女を興奮させたらどうなるかわからない。ゼノは、それを察し、オウガに下がっててくれと話した。そしてゆっくり彼女に近づく。
 フィーンは、二人の言葉を、なんとか受け止めようとしている。時折見せる泣きそうな瞳が、助けてくれと訴えている。ここで抑えなければ彼女も自分たちも不幸だ。ゼノも必死だった。
 だが、彼女はゼノの説得にも耳を貸さず、爆発しそうな勢いで叫んだ。
「来ないで! 来たらあたしはあんたも殺す!」
「フィーン!」
「やっぱり無理よ、あたしには我慢出来ない」
 ハアハアと息を乱し、フィーンは世界を睨む。小さな手に握られたナイフは、いつしか両手持ちになり、近づこうとするゼノを威嚇した。
「フィーン、よそう」
「来ないで! 来たら殺す!」
 真っ赤に染まった瞳で、フィーンは叫ぶ。
 全身の血液が泡を吹いて沸騰し、頭蓋は赤く熱せられた鉄鍋のように脳髄を焼いた。自分を思いやり、心配して近づいてくるゼノの存在さえ、疎ましい。
 欲しいのは自由と殺戮。血と悲鳴。懺悔と死だけだ。
「もうあんたたちはいらない、あたしはあたしのやりたいようにやる!」
「フィーン!」
「来るな!」
 まさか出ていく気かとゼノは叫び、出て行けるわけがないと、オウガは高をくくる。
 フィーンは涙の滲む赤い瞳で二人を見つめていた。ゼノも、オウガも、相手を見返す。誰も目を逸らせない。そうして三人、長い時間睨み合い、やがてあたりを漂う気が凪いでくる。
 赤く逆立っていたフィーンの髪が色を変え、空気とともに、ゆるりと落ちた。
「フィーン」
 少しずつ、気を静めていくフィーンの思いを酌み、ゼノは彼女に駆け寄った。幾度も名を呼び、握りしめられているナイフを離させる。その様子を、オウガは少し離れた場所から、黙って見ていた。
「フィーン、ごめん、抑えてくれてありがとう、新貝は殺せないけど、ほかのことはキミの気が済むようにする、約束するよ」
「気の済むように?」
「ああ」
「本当ね?」
「ああ、約束する」
「オウガも、それでいいのね?」
 フィーンは、二人から離れて様子を見ていたオウガに訊ねる。突然ふられた話に、戸惑いながら、オウガも異存はないと答えた。一瞬、フィーンの目に光が宿り、口元が綻ぶ。その瞳に、オウガは妙な違和感を持った。顔を上げ、二人のほうへと歩み寄る。
 だが、彼がなにか言う前に、フィーンは口を開いた。
「それならいいわ、じゃあ、さっそくだけど、例の女、殺っちゃいましょうか」
「三ツ橋杏奈か? あの女はまだ裏が取れてないぞ」
「あんたたちが信頼する新貝がほぼ確定だって言ったじゃないの、それで充分だわ」
「しかし」
「殺るのよ、警察じゃあるまいし、証拠が出るまで待ってたら、手遅れになるわ、そのためにあたしたちがいるんじゃないの?」
「だがな、あとで間違いでしたでは済まないんだ、ここは慎重に……」
「殺るって言ってんでしょ!」
 あくまでも冷静に、慎重に行こうと主張するオウガを、フィーンは一喝した。これは復讐よと言い、逆らう気なら出て行くと睨む。
「もういいだろ、三ツ橋杏奈は新貝《フォックス》も、たぶん間違いないと言ってる、殺っていいんじゃないか」
「そのたぶんが、問題なんだろ、たぶんってのは、憶測交じりの感想だ、違うかもしれない」
 いつもなら、新貝の情報を受けたあと、三人のうち誰かが確認に行く。誰が行くかは相手と状況次第だが、たいていそれはゼノの仕事だった。しかし今回、重田に怪しまれ、草薙と揉めたことで、ゼノは居場所を失っている。そのため、情報は得ていたが、充分な下調べが出来ていなかった。
 住まいなど、どこでもいい、河原のテントでもいいし、ここのように、普段は使われていない廃屋でもいい。雨風が凌げれば、それで充分だ。今まではそうだった。
 だが、草薙と暮らしたことで、ゼノの中に、今までと違うなにかが生まれたのかもしれない。寂しいという感情も、たぶん、その一つだ。
「もちろん、確認を怠ったのは僕の責任だ、だが、これまでも、新貝《フォックス》の情報が間違ったことはなかった、確かめるまでもないじゃないか」
「なぜそんなにムキになる? 調べてからでも遅くはないはずだ」
「遅いかもしれないだろ!」
 これまでになく感情的に、ゼノは反論した。おそらく、フィーンがいなくなってしまうかもしれないという恐怖が、彼の判断を鈍らせているのだ。
「ゼノ……お前、変わったな」
「変わった? 僕が?」
「ああ、ガキっぽくなった、いや、これが年相応か」
 見かけは小学生だが、ゼノは今年十七になる。だが十七歳が大人かといえば、そうとも言えない。一般的には高校二年くらいの歳であり、一番始末に負えない年齢とも言える。
 大人並みの思考力を持ちながら、感情は子供の部分が多くを占める。大人ぶりながらも、大人の庇護を、どこかで望んでしまう。中途半端な年代だ。
 自分は間違ってないと信じ、自分の信じる正義を絶対と思いこむ。そして、少年は少女に、少女は少年に弱い。
 恋し、愛されることを求め、異性に甘くなる。今のゼノはまさにそのとおり、健全な十七歳の少年そのものだ。
 昔、抑圧され、外の世界との接触も絶たれたゼノは妹だけを生甲斐としてきた。その妹が消えた今、彼を支えるのはフィーンなのかもしれない。
 そう思えば反対もできないと、オウガは思った。
 
「今回だけだぞ」
「え……?」
「だから、お前たちの我儘を聞くのは今回だけだと言ってるんだ」
「我儘って」
「我儘だろ、違うのか?」
 確認もしないで行動を起こすというのは、ありえない。だからこれは我儘だとオウガは言った。
「……そうだ、な」
 冷静に指摘され、ゼノも我に返ったのだろう、その通りだと唇を噛み締めた。
 三人でラウを狩ると決めたとき、これから人でなくなる自分たちのために、最低限のルールを決めようと話した。それは、それを歯止めとし、自らも邪鬼になることを防ぐ狙いもあった。だからルールは絶対のハズだ。
 そして、一番大事なルールは、相手がラウであると確信出来ないときは、動かない。ラウか否かの判断は、ゼノが、ゼノに判断できないときに限り、他の二人が加わり、三人で協議して決めるというのがある。今回、それを違えることになる。
 それでもやるのかと目くばせするオウガに、ゼノは決行すると答えた。フィーンに約束したのだ、やめるとは言えないのだろう。二人のために……というより、ゼノのために、オウガも了承した。

「決まりね、じゃあさっそくだけど、オウガ、今回はあんたがやって」
「俺が?」
 やりたがっていたのはフィーンなのに、なぜと、オウガが顔を上げる。ゼノも不思議そうだ。
「やると言われても信用出来ないのよ、まずはあんたの覚悟を証明してもらうわ」
「わかった」
 フィーンは、敵愾心丸出しの、憎しみに満ちた目をしていた。嫌な予感が付き纏う。了承すべきではないと思いながら、オウガは頷いた。

 *

 決行はそれから二日後の夜となった。
 フィーンが珍しく積極的に下調べを行い、標的がその夜、一人で外出することを突き止めてきたからだ。
 標的はその日、職場の友人と飲み会だった。それ自体は珍しいことではなく、仕事絡みの飲み会は、毎週のように行われているらしい。
 だがその日の集まりには、いつもは顔を出さない内気なメンバーも来るということで、普段と違う店が会場になった。人ごみを避けるため、選ばれたその店は、駅や繁華街から少し離れた位置にあり、あたりには人影も街灯も少ない。それがその日を決行日に選んだ理由だ。

「来たわ、オウガ、ちゃんとやってよ」
「わかってる」
 標的の女、三ツ橋杏奈が店から出てくるのを確認し、フィーンが早くやれと指示を出す。だが標的の女は同僚らしい数名の男女と一緒だ。一人になるまで手は出せない。オウガは標的が一人になる隙を、辛抱強く待った。
 駅に向かい歩く途中、最初の一団が別方向へと別れる。じゃあまた来週と手を振りあい別れた片方は、おそらく二次会にでも向かうのだろう。賑やかに騒ぎ、その足取りも楽しそうだ。三ツ橋杏奈は、その一団のほうにいた。
 それでも一人になるチャンスはあるかとあとを追ったが、そのチャンスは訪れることなく、標的は仲間たちと次の店へ入ってしまった。
 そこは先ほどの店より繁華街に近いが、まだまだ人通りは少ない。しかし相手は店の中だ。これでは狙えない。物陰に身を潜めながら、オウガは苛立った。
 こうなったら出てくるまで待つしかないが、それもあてのある話ではない。また別の店へ行くかもしれないし、ずっと一人にならないかもしれない。それを待ち続けるのは時間の無駄だ。無理矢理決行すれば、足がつく。
 やはり下調べをフィーンにやらせたのは失敗だ。彼女の計画はずさん過ぎる。今日は取りやめるべきだと感じた。
「どうしたの、オウガ?」
「今夜はやめる」
「ちょっと! 何言ってんのよ、やるって決めたでしょ!」
「無理だ、この状況ではやれない」
「待てばいいでしょ!」
「待っても一人になるとは限らない、それに、やらないとは言ってない、計画を練り直そうと言ってるんだ」
「だめよ!」
 フィーンは怒鳴り、今すぐ行けとオウガに指示する。しかし今すぐは無理だ。出来ないと反論すると、彼女はじゃあ出来るようにしてやるわよと歩き出した。待てと止める暇もない。
 店の裏手へ回り込んだフィーンは、そっと裏口扉を開き、ブレーカーを落とす。たちまち建物全体が闇に包まれ、店内では客が騒ぎだす。その闇に乗じ、フィーンは中の一番手前にいた女を引っ張り出した。
「きゃっ……」
 いきなり外へ引き出された女が、俯せに転がる。彼女はその背中を踏みつけた。
「あら残念、人違いだわ」
「え、なに? 誰?」
 倒された女は、三ツ橋杏奈ではなかった。突然の襲撃に驚き怯えた女は、首を捻り、自分の背中を踏んでいる者を確認しようとする。だがフィーンはそれを許さず、振り向こうとした女の顔面を蹴った。グチャッと嫌な音がして、女の顔が裂ける。フィーンはそれを見て、高笑いをした。そして、手にしたナイフを女の背中に突き立てる。
 女は仰け反りながら手足をバタつかせた。薄暗い路地裏に女の悲鳴がこだまする。

「なに?」
「なんだ?」
 悲鳴が聞こえたぞと口々に騒ぎ、店の中から客たちが出てくる。血のついたナイフを手に、ニタリと笑ったフィーンは、驚き呆然としていたオウガの肩を引いた。
「え……?」
 力の抜けていたオウガは、よろよろと一歩を踏み出す。その手に、血まみれのナイフを乗せられ、オウガは一瞬、動きを止めて瞠目した。
「フィーン……?」
 信じられないという表情で、オウガは振り向き、心から晴れ晴れとした顔で、フィーンは微笑む。
「さよなら、オウガ」
 呆気にとられるオウガを残し、フィーンは暗闇に消えた。

「きゃああぁ!」
「人殺しっ」
「ぅわぁあっ!」
 路地に倒れている血まみれの女と、血のついたナイフを握るオウガを見つけた客たちが悲鳴を上げる。
「ちっ」
 きゃあきゃあと騒ぐ女、喚き散らす男、警察に通報している店員。それを見つめ、オウガはようやく、フィーンに嵌められたことを悟った。
「動くな! 警察だ」
「おとなしくしろ!」
 警察は、驚くほど早く現れた。まるで待ち伏せでもしていたように……?

 いや、ようにではなく、していたのだ。

 抵抗するなと喚きながら近づいてくる警官を眺め、オウガはゆっくり両手を上げた。頭の後ろで手を組めと言われ、その通りにすると、警官は勢いづいて集って来る。怯えているのか、必要以上に高圧的に怒鳴りながら、彼らは集団でオウガを抑え込む。
「傷害の現行犯で、逮捕する」
 鬼のように怖い顔をした中年の刑事は、そう言ってオウガの手に手錠をかけた。その言葉で、倒れている女を覗いてみると、女は僅かに呻きながら、起き上がろうとしていた。刑事がそれを支え、別の刑事が救急車を呼んでいる。出血は多く見えたが、傷はさほど深くないようだ。オウガもホッとした。
 こんなバカバカしいことで、なんの関係もない人を死なせずにすんでよかったと思った。

「ずいぶん、早かったな」
 パトカーへと引き立てられていく途中、腕を掴んでいる刑事に話しかけた。
「通報があったんだよ、今夜、このあたりで殺人事件が起きるってな」
 話しかけられた中年の刑事は、どこか腑に落ちないという顔で、静かに答えた。
「通報してきたのは、女だった?」
 そう訊ねると、刑事はなぜそれを知ってるのだというように、ギョッとした表情になる。これで確定だ。
 オウガは自然とこみ上げてくる自嘲を抑えきれず、俯きながら歩いた。

 フィーン、今、どこにいる?
 さぞや得意顔でいるんだろう?
 俺を嵌めて、自由になって、それで満足か? 嬉しいのか?
 だが喜んでいる余裕なぞないぞ。
 俺たちは三位一体、誰かひとり欠けてもやっていけない。
 なにもできない。
 早くそれに気づけ。
 手遅れになる前に……。

 俯き歩くオウガの頭上には、大きく赤い月が、低く輝いていた。



「いい加減、喋ったらどうなんだ、三浦を殺したのは、お前なんだろ新貝?」
「違います」
「惚けても無駄だぞ、現場付近でお前を見たという目撃証言もあるんだ」
「付近にはいましたよ、けれど、やったのは私じゃない、ちゃんと調べてください」
「ふざけるな、お前がやったんだよ、三浦になにか嗅ぎ付けられて、不味いと思って殺したんだろ」
「違います……だいたい証拠はあるんですか? ないなら不当逮捕ですよ」 
 おとなしく取調室の椅子に座った新貝は、ピンと背筋を伸ばし、真っすぐ前を見て話した。証拠など出るわけがない。それはそう確信している顔だ。
 新貝の取り調べは宮田《みやた》という中堅刑事が当たっていた。宮田は所謂準キャリア組で、叩き上げの矢島と違い、出世も易いはずの男だ。しかし元来の不愛想と不器用が災いし、三十六歳の今も警部補どまり、今回取り調べが宮田に任されたのも、そんな彼にどうにかして手柄を立てさせ、出世させようという上からの計らいでもあった。もちろん宮田自身もそれを充分わかっている。だから取り調べには容赦がなかった。
 新貝の逮捕状が出たのは、事件当日、三浦刑事の遺体が発見される数分前、新貝が現場付近に佇んでいたという目撃証言があったからだ。
 そのとき新貝は、何をするでもなく、ただ三浦の遺体があった、まさにその場所をじっと見ていたという。それはそこで三浦を待ち伏せしていたからだというのが、捜査本部の見解だ。
 もちろん理由はそれだけではない。
 三浦の遺体は数か所を刺されていて、出血量も多かった。歩道のアスファルトは血に塗れ、べとべとだ。だがそのおかげで、犯人と思しき人物の靴型がとれた。
 靴型は限定品の輸入物で、このあたりでは、新貝以外に所有者がいない。念のため、彼の留守中に事務所に入り込んだ矢島が、彼の所有するその靴を押収してきた結果、血液反応が出た。それが三浦のものかどうかは、まだ検査結果が出ていないのでわからないが、FOX事件に行き詰まりを感じていた本部は、それを物的証拠として提出、そして、事件を早期解決したい上層部の思惑と相まって、逮捕状が出た……というのが、ここまでのあらましだ。
 矢島も最初は新貝が怪しいと思っていた。だから再三足を運んだし、靴型も調べた。だがこれまでFOXは、署名以外の手がかりを一切残していない。三浦殺しの犯人と、FOXが同一だと仮定した場合、なぜ靴型を残すなどというへまを、今更したのかがわからない。 
 同一犯ではないと仮定するなら、新貝が犯人というのもあり得るのだろうが、彼の性格を考えれば、それも怪しい。
 新貝は、「怪しまれたから殺した」そんな単純な理由で殺しをするような間抜けではない。彼はもっと狡猾で冷静だ。よほどのことがなければ、馬脚を現すことはないだろう。
 それが矢島の新貝犯人説を疑問視する理由だったが、本部には理解されなかった。

「三浦が殺された時刻、お前はそこにいた、現場にはお前の靴型も残ってる、言い逃れはできないぞ!」
「靴型で証拠とはお笑いだ、私を逮捕するなら、せめて凶器くらいは出してくださいよ」
「それはこれからじっくりこれから吐かせるんだよ、屁理屈で逃げられると思うなよ?」
「どちらが屁理屈でしょう? これは不当逮捕ですよ、弁護士を呼んでください」
「調子に乗るな!」
 新貝の態度に馬鹿にされたと感じたのだろう、宮田が掴みかかる。そしてそのまま殴りつけるかと思われたその時、取調室のドアが開いた。
「なんだ?」
 殴るのをやめ、入って来た部下に訊ねると、部下の刑事は小声で宮田に耳打ちをした。そこで宮田は己の勝ちを確信したように、にやりと笑う。
「新貝、お前の靴から検出された血液が、三浦刑事のものと一致したそうだ」
「……そうですか」
「もう言い逃れは出来ないぞ、さあ、その理由をじっくり喋ってもらおうか」
 宮田は、得意になってにじり寄る。だがそれを見返す新貝の目は、あくまでも冷たかった。

 *

 新貝の靴を押収し、そこから血液反応が出たことで彼を逮捕することができた。だがその功労者である矢島は、FOX事件の捜査から外された。新貝逮捕の直接理由が、矢島の相棒、三浦正也殺害事件だったことだ。相棒を殺した男の取り調べとなれば、精神的にも辛いだろうというのが表向きの理由だ。
 そして、FOX事件から離れることを命じられた矢島は、夜の路上で女性を刺し、傷害の現行犯で逮捕された男の取り調べを担当することになった。それは配慮というより、実質、左遷だ。
 矢島は捜査本部にも知らせず、ほとんど独断で捜査をしていた。三浦刑事が殺されたのも、言い換えれば矢島のせいだ。本来なら懲罰ものだが、三浦殺しの容疑者、新貝逮捕のための証拠を揃えたのも矢島だ。その功労者を懲罰とすれば、新貝の逮捕にもケチがつく。そこで苦肉の策として。別件の取り調べをさせることにしたというのが真相だ。

 そんな成り行きから矢島が取り調べることになった傷害事件発覚の理由は、善意の第三者からの密告という胡散臭いものだった。その電話を受けたのは矢島ではないが、女の声で密告があったから、お前、数人連れて行って来いと上司から命じられ、仕方なく出向いたのだ。
 現場に急行してみて驚いた。血塗れのナイフを握った犯人の来ている服が、カーキ色のフード付きロングコートだったからだ。

──赤い髪の女子高生とフードの男。

 それはウサ子が言い残したFOX事件の犯人像と一致する。
 捜査本部としては、FOX事件の犯人は新貝ということで決まっているが、そうでない場合もあり得なくはない。
 矢島は興味深く、その男を見つめた。
「お前は佐藤順子さんを刺し、重傷を負わせた件で現行犯逮捕されている、現行犯の意味はわかるか? やったのはお前と確定してるってことだ、言い逃れることは出来ないぞ」
 そう告げると、フードの男は僅かに視線を上げた。男の顔、左半面には、変色し、引き攣れた火傷の痕があった。その目は灰色にくすみ、生気がない。
 歳はいくつなのだろう? 若くも見えるし、三十過ぎにも見える。想像もつかなかった。
「まず、名前を言いなさい」
 話しかけても男は答えようとしない。その濁った目はどこも見ていないように見える。
「黙秘権か? 名前くらいいいだろう? なんなら通り名でもいいぞ、名前がないと不自由じゃないか」
 なにも話さない男に、矢島は熱心に話しかけた。これが保身からくる黙秘なのだとすれば、むっとするところだが、男から、そういう雰囲気は感じられない。だがなにか隠してる。なにを隠しているのか、そもそも、善意の通報者とは何者だ? そいつが真犯人でないという保証はない。
 逮捕したとき、この男は、通報者は女かと聞いた。男には、その心当たりがあるのだ。もしかしたら、それが犯人なのではないのか? ウサ子の言った、赤い髪の女子高生、それがそいつなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、腕時計を見ると、昼を回っていた。その途端、腹が鳴り、空腹を思い出す。
「お前、なにが好きだ?」
「え?」
 なにを聞かれたのかわからず、男が目線を上げる。それは思いがけず子供っぽい表情だった。もしかしたら思ったよりずっと若いのかもしれないと考えながら、矢島はニコリと笑いかけた。
「昼飯だよ、俺がおごる、なんでも好きなもんを言ってみな」
 おごると言うと、男は目を丸くし、いいのかと聞いてきた。意外に礼儀正しそうだ。いいから好きなものを言えと話した。男はあなたと同じでいいと答える。そこで近くのファーストフード店から、牛丼の並盛をデリバリーして出した。

 取調室の中で、男と向かい合って牛丼を食べる。男は物珍しそうにスチロールの容器を眺め、おずおずと箸をとった。それでもなかなか蓋を開けようとしない。食べていいんだぞと話すと、男は顔をあげ、矢島の目を見た。そこで初めてちゃんと顔を合わせて思った。こいつは意外に若い、ことによると未成年かもしれない。
 薄汚い風体と、異様な火傷のせいで、恐ろし気に見えるが、よく見れば、まだ幼さを残している。
「美味いか?」
 食べながら尋ねると、男は素直に頷いた。いい感じだ。
「そうか、よかった」
 そのまま、ほとんど顔も上げずに牛丼を食べ、容器がからになったところで、事務方に言って、お茶も持ってこさせる。そしてそれを啜りながらもう一度訊ねた。
「名前は?」
「オウガ」
 今度は驚くほど素直に答えた。食い物で懐柔出来るとは、安い男だ、やはり若いのかと首を捻る。
「おうが? 字は?」
「好きに書いてくれ、考えたことはない」
「それじゃ困る」
「じゃあカタカナで」
「カタカナね……」
 それが本名でないことは明らかだが、たぶんよく使っている通り名なのだろう。調書には供述どおり、カタカナで記入した。
「年齢は? 職業は、あるのかな?」
 態度から、男がまだ若いと想像した矢島は、補導してきた学生に聞くように訊ねた。するとオウガは急に態度を軟化させ、淡々と答え始める。
「昔は、新聞配達をしていた、今は無職だ」
「歳は?」
「……十五」
「えっ?」
「ぁ? え、ああ、すまない、えっと……二十だ」
 さすがに十五には見えないぞと突っ込もうとすると、オウガは慌てて顔を上げ、忘れていたと訂正をした。自分の年齢を忘れるなどありえないだろうと思うが、嘘を言っているわけでもなさそうだ。その顔を見れば、わかる。彼は本当に、実年齢の実感がないのだ。
「あそこでなにをしてた?」
「彼女の、あとをつけてた」
「つけてた、そして刺した? なぜだ、佐藤さんに恨みでもあったのか?」
「恨みはない、あれは手違いだ」
「手違い?」
「ああ、つけていたのはあの女性ではない、あの店にいた別の女だ」
「なんだって? 誰だ?」
「三ツ橋、杏奈」
「三ツ橋杏奈……?」
 オウガの供述に、矢島は驚愕した。三ツ橋杏奈は、ウサ子が独自に調べ上げ、FOXが次に狙うかもしれない人間としてリストアップしていた者の一人だった。

 *

「そこに私がいたからでしょうね」

 三浦正也の遺体近くに新貝のものと同じ靴の靴跡があり、新貝の靴から三浦の血液痕が採取された。それはなぜだと訊ねると、新貝はまるで他人事のようにそう答えた。その余裕はどこからくるのだと宮田は不機嫌になる。
「じゃあなぜそこにいた? そこには三浦の死体があったはずだ、犯人じゃないなら通報するだろ、だがお前は逃げてる、それはお前が犯人だからだ、そうだろ」
「なぜ……そうですね、月が、見れるかと思ったんですよ」
「月?」
「ええ、赤い、大きな月がね、見られそうだと思ったんです、知ってます? 赤い月は不吉の象徴なんですよ、そこから悪魔が飛び出してくるなんて言われてます、まあ、迷信でしょうけどね」
「ふざけるな! お前は三浦を殺したんだ、だからそこにお前の靴型があった、そうだろうが!」
 のらくらと話す新貝の言い草にむっとした宮田は、机を叩いて身を乗り出す。それでも新貝は、椅子に座ったまま、真正面を見据え、微動だにしなかった。
「私はやってません、どうしても私を犯人にしたいなら、証拠を持って来てください、言っときますが、靴型だけでは弱いですよ、そんなもので起訴は出来ないはずだ」
 白々と話す新貝に挑発され、ついカッとした宮田がその胸倉を掴む。それでも新貝は、表情を変えなかった。
「殴りますか? 殴ったら暴力行為があったと訴えますよ」
「くっ……」
 平然と自分を見返す新貝の顔を睨み、宮田は歯軋りをした。だがさすがに手は出せない。ぶるぶると震えるほど力の入った手でシャツが破れるほど握りしめるのが限度だった。放り投げるように胸倉を離し、再び席に着く。
「犯人はお前だ、新貝《フォックス》」
「違います」
「そうやって惚けてれば逃げられると思うのか? そうはさせないからな、必ず吐かせてやる!」
「あなた、言葉遣いに気を付けたほうがいいですね、取り調べ中、刑事に脅迫を受けたと訴えられますよ?」
「なんだと!」
「ほらほら、また、ダメですね、もう少し落ち着きましょうよ」
「ふざけんな!」
 再三の挑発に堪えきれなくなった宮田は、発作的に立ち上がり、新貝の胸元を押した。勢いで新貝は椅子ごと倒れ、床に転がる。そして、頭でも打ったのか、そのまま動かなくなった。
「おい……」
 宮田もさすがに慌て、大丈夫かと声をかけようとした。と、新貝はパッと目を開ける。その目が異様に光って見えた。

「あんた、ウザイね……」
 小声で囁かれる言葉に、再びカッときた。どうしても許せない。見逃せない。宮田は感情の赴くまま、新貝を蹴りつけ、踏みつける。その嫌悪と憎悪は、ゴキブリを叩き潰すときに感じるそれに似ていた。

「なにやってるんですか! やめてください!」
 取り調べに立ち会っていた警察官が慌てて止めに入る。それでもやめようとしない宮田に必死に食い下がりながら、警官は内線でほかの刑事を呼んだ。
「なんだ、どうした?」
「おい、やめろ!」
 狭い取調室に、ばらばらと刑事たちが集まってくる。
「離せ! 離せっ」
「やめろ!」
 同僚たちに押さえつけられ、宮田はようやく我に返った。だが時すでに遅しだ。このままでは冷静な取り調べが出来ないと判断され、部屋から連れ出されてしまった。

「大丈夫か、新貝?」
 止めに来た刑事の一人が心配そうに手を差し伸べる。だが新貝は、その手を払い除け、激しく首を振った。
「邪魔するな!」
「え……?」
「おとなしくしとけ! 殺すゾ!」
 新貝は、口の中でなにかブツブツと唱えながら、時折声を荒げて怒鳴った。細身の体はビクビクと震え、大きく跳ねる。剥き出しになった腕やこめかみには、太く青黒い血管が浮き出し、人間の皮を被った怪物が、その皮をぶち破り、飛び出だそうとしているかのようだ。
 刑事たちは、これがFOXの本性か? まさか自分らはここで殺されるのかと、臆して後ずさる。新貝はまるで縫い留められてでもいるように、床に座り込んだまま、一人、喚き続けた。
「新貝! おい……どうした」
 やがて勇気ある一人が、俯いたまま怒鳴り散らす新貝に近づいていく。そしてその顔を覗き込もうとした瞬間だ、新貝はすっと立ち上がった。
「お……」
 いきなり動き出した新貝に恐れをなし、刑事たちは再び、蜘蛛の子を散らすように跳ね退く。すると新貝は、慄く刑事たちを一瞥し、何事もなかったかのように、椅子へ腰かけた。倒れた時に切れたのか、額と頬から血が滲んでいる。

「失礼、どうぞ、続きを」
「血が……」
 我に返った刑事が、思わず手を伸ばす。新貝はそれを断り、自分のハンカチで滲んでいた血を拭った。
「たいしたことないですよ、それより取り調べを続けましょう」
「え、いやしかし」
「かまいませんよ、掠り傷だ、続きをどうぞ」
 ニコリと笑う新貝に、刑事は言葉を失う。異様に捻じ曲がった空気が漂い、部屋の中が薄暗くなったような気さえした。

 *

「なぜ、三ツ橋杏奈さんをつけてたんだ? 殺すつもりだったのか?」
 そこまで素直に答えていたので、矢島もつい油断して、ストレートに訊ねた。しかしことが核心に触れてくると、オウガも喋らなくなった。口を固く結び、俯くだけだ。もう少し遠回しに聞けば話したかもしれないなと考えながら、少しだけ話を逸らす。
「あのナイフは、お前のか?」
「あのないふ……」
 ナイフの話をすると、オウガは再び顔を上げた。しかし、そうだとも、違うとも言わない。もしかしたら違うのかもしれないと感じ、矢島はカマをかけてみることにした。
「お前が持ってたやつだ、あれはお前のか?」
「いや……違う」
「では誰のだ?」
 凶器はあのナイフでいい、被害者の傷と形状が一致している。凶器からオウガの指紋もでた。しかしその位置がおかしい。指紋のついている箇所通りに持ったとすると、刃先は本人のほうに向いており、彼は人を刺すことができない。厳密には、そういう持ち方で人を刺すことも不可能ではないが、やり難い。それにもう一つ、角度と深さが合わない。
 佐藤順子はかなりの至近距離から刺されているが、そのわりに傷は浅い。専門家に言わせれば犯人は小柄で非力な女性……というのが監察医からの報告だ。
 それに、被害者、佐藤順子は刺されるとき、犯人の声を聞いている。

──あら残念、人違いだわ。

 それは完全に、女の声だったという。そのあとも、傷つき苦しむ自分を嘲笑う女の笑い声を聞いている。それが犯人だとすると、オウガは冤罪、その女に陥れられたとみるのが正解だろう。
 しかし、オウガは凶器を持っていたし、指紋も出ている。そこがわからない点だ。

 指紋とは、一人ひとり違うものだ。同じ指紋を持つモノはいない。だから犯罪捜査での決定的証拠となるわけだが、科学的、医学的に言って、絶対に同一の指紋がない、とは言い切れないというのが、実は定説だった。
 確率的に言えば、世界人口より分母が大きくなるので、あり得ないとされてはいるが、それは数字の上だけの話であり、実際、百万分の一であろうと、千億分の一であろうと、ゼロではない。そのありえないほど小さな確率で、ぶち当たることだってあるかもしれない。
 それに、科学捜査に関してだけ言えば、別人の指紋が同一と判断される確率は十万分の一だそうだ。
 日本の人口は一億二千万、単純に考えれば、千二百人に一人の確率で、誤判定が出る計算になる。そうなると、だいぶ違ってくる。あり得ない話ではないと思えてくる。
 それに、やはりどう考えても、監察医の見解と犯人像が合わない。佐藤順子を刺した犯人の背丈は、百四十センチからせいぜい百五十と言われた。しかしオウガの身長は、百七十五ほどもある。体力測定をしたわけではないので、正確とは言えないが、オウガは成人男性だ、それほど非力でもないだろう。この体格であの傷をつけるには、そうとう力を抜き、加減していたことになる。そうなると、殺意があったとは認定し難い。
 オウガは犯人ではない。
 では誰だ?
 そう考えるとき、パッと頭に浮かぶのは、やはりウサ子の言い残したあの言葉だ。
 
──赤い髪の女子高生。

 つまり、やったのは赤い髪の女。そして女はオウガに罪を被せ、自分だけ逃げた。そういうことだ。
 たぶんオウガは彼女に義理でもあるか、もしくは惚れているのかもしれない。それで庇っているのだ。
 矢島はそう判断した。

「お前は佐藤順子を刺してない、そうだな?」
 思い切ってそう切り出すと、オウガは暫し瞠目し、やがて静かに頷いた。
「やったのは、俺じゃない」

 *

「三浦刑事の死はたいへん痛ましい出来事だと思います、まだお若いのに可哀想だ、しかしやったのは私ではない、彼の無念を晴らす意味でも、こんな無意味な取り調べはすぐやめて、真犯人を探すべきだと思いますよ」
 涼しい顔で、何の感情も込めず、新貝はそう言った。
 数時間に及ぶ取り調べでも、新貝は髪の毛ひとすじ乱さない。最初にこの取調室に入って来た時と同じく、姿勢よく、礼儀正しく、椅子に腰かけたまま、真正面を見据えて話した。どういう精神構造をもってすれば、そんなことが可能なのか、見当もつかない。
「犯人はお前だ、新貝」 
「いいえ、違います」
「お前だ!」
「違います」
 表情線が麻痺したような動かない面は、見ているほうが不安になってくる。じっとりと水気を含んだ空気に息苦しさを覚えた刑事は、薄黒い塊が胸を塞いでいくのを意識しながら聞き返した。
「じゃあ聞くが、お前はあそこでなにをしてたんだ?」
「さっきも言いましたよ、月を見ていたんです」
「殺人現場でか? 足元で人が死んでいるってのに、お前はそこで月を見てたと言う気か?」
「さあ、どうでしょう、月に見惚れてて、そこに死体があるのに気づかなかったのかもしれませんね」
「ふざけるな!」
 怒鳴ったら負けだと思いながらも、つい声が大きくなる。無性に苛々して、新貝の顔が歪んで見えた。
「いい加減にしろよ? 素直に話せないなら、話せるようにしてやってもいいんだからな!」
 相手は残虐非道の殺人鬼だ。多少手荒にしても許されるはずだ。殴れ、少し痛い目にあわせてやれば素直になるに決まっている。頭の中でそう囁く声がする。その声を聞くまいと、首を振りながら、刑事は捜査資料を広げた。
「一連の事件現場には、Fiend Ogre Xeno-と署名が残されている、頭文字をとると、F、O、X、フォックスだ、 お前の通り名もフォックスだったよな? 新貝」
「そうですね」
「そしてだ、最近の被害者のほとんどが、サウス商会の顧客か関係者だということが判明してる、これはなぜだ?」
「さあ、私にはわかりませんね」
「惚けるな! お前がやってるからに決まってるだろ!」
「被害者がうちの顧客だからですか? そんな短絡的な、それでは自分がやったと言いふらしているようなものだ」
「言いふらしたかったんじゃないのか? やったのは俺だぞと、世間に認められたかったんだ、そうだろ?」
「バカバカしい、それほど子供ではないですよ」
「子供?」
「ええ……小さな子供がよくやるじゃないですか、昆虫の羽や足を毟って、地面に並べてみたり、動けなくなった昆虫がジタバタもがくのを眺めながらその上に水を垂らしたり、最後は踏みつぶしたりね、そんな残酷な遊びです、似てませんか? あなた方の追うFOXとやらと」
 犯人は意外に子供っぽい奴かもしれませんよと新貝は笑う。まさかと思いながらも、刑事はその言葉を反復した。
 犯人がもし、子供か、子供っぽい人物だとすると、矢島の仕入れてきたネタである犯人像とダブってくる。
 
──犯人は二人、女子高生とフードの男。

 フードの男と言っても、服装だけでは、年齢まで特定できない。もしも本当に犯人が二人いて、その片方が女子高生だとしたら、もう片方のフードの男も、意外に若い、学生かもしれない。
 そこまで考えて、刑事はふと気づいた。
 昨夜、新貝とは別に傷害罪で逮捕した男。今、矢島に調べさせているが、たしかその男、フード付きコートを着ていなかったか?
 まさか、そいつがフードの男……? 

 *

「宮田、お前、根を詰め過ぎなんだよ、あんなとこでFOXと居続けじゃ神経もどうかしちまうさ」
 取調室から宮田を連れ出した刑事は、人の好さそうな顔で、疲れてたんだよ、少し休めと話した。宮田はそうだなと小さく呟き、俯いていた。

 新貝の取り調べは、警察内部でも極秘扱いの地下室で行われていた。そこはもはや取り調べ室ではなく、独房と同じだ。
 なぜそんな場所で取り調べが行われたのかといえば、それがそれだけ大事件だったからだ。
 目玉を切り裂き、あるいは刳り貫き、全身滅多刺しにして殺す。時には内臓まで引きずり出し、それを踏み躙る行為に及んでいる。そんな残虐な犯行を数十件も行い、今も平然と生きている殺人鬼、FOX。そんな化け物を取り調べるのに、普通の施設では無理だ。何かあったとき、部下たちを護れない。それが上層部の見解だった。
 だがその取り調べは、被疑者新貝より、取り調べる刑事ほうの、体力と精神力を奪った。
 陰気でカビ臭い地下室での取り調べ、しかも相手は得体の知れない猟奇殺人犯だ。神経だって磨り減る。

「ヤツ《フォックス》を殴ったのはちょっと不味かったが、今回は仕方がないさ、上もきっとわかってくれる、とにかく今はここから離れて、休んどけよ」
「……ああ、すまない、そうするよ」
 同僚に励まされた宮田は、どうでも良さそうな生返事のあと、ふと思い出したように足を止め、振り返った。

「昨日、夜中に逮捕された若い男、今、どこにいるんだったかな?」
「どこって……渋谷署だろ」
 なんでそんなことを聞くんだというニュアンスで、答える同僚に視線も送らず、宮田は歩き出した。俯いた横顔の口角がわずかに歪み、上がる。
「……そうだったな」

 *

「お前じゃない……じゃあ誰だ?」
 改めて訊ねると、オウガはまた黙り込んだ。だがその顔は、黙秘しているというよりは、迷っているように見える。あと一押し、なにか切っ掛けさえあれば、口を割るかもしれないと思えた。
 どんな餌を吊るせば、話したくなるのか、思案しながら、矢島は席を立つ。
「少し、休もうか」
「え……?」
 オウガが不思議そうに顔を上げる。そんな表情を見ていると、彼が最初に言った、十五歳というのも、あながち嘘ではないような気がしてくる。どこか物慣れない、子供のような顔だと思った。
「一服してくる、そこで待っててくれ」
 矢島は立ち合いの警察官に、見張っててくれと言い残し、部屋から出た。
 真夜中の逮捕劇から一夜明け、取り調べを始めてから数時間、オウガはずいぶん喋るようになった。まだ肝心の話は聞けていないが、惚けているわけでも、言い逃れようとしているわけでもなさそうだ。たぶん、自分でもどうしていいのかわからないのだろう。彼も、自分のしていることが正しいと思えなくなってきたのかもしれない。
 あと一押し、なにか切っ掛けさえあれば、彼は落ちる。なにか、彼を動かす鍵が必要だ。
 思い巡らせながら喫煙室へ入り、まずは一服と、煙草に火を点ける。だが、それをゆっくり味わう前に、ポケットの中で携帯が鳴った。

 誰だ?
 反射的に視線を落とすと、液晶には昔なじみの名が浮かんでいた。
 
「俺だ、どうした? 久しぶりじゃないか、重田……」

──ああ、悪い、ちょっとお前に聞きたいことがあってな。

「聞きたいこと?」

 重田は、矢島の元相棒だった男だ。数年前、後輩警官が殺されたとき、再三の警告も無視して違法捜査を繰り返し、ほとんどクビ同然で辞職したのだが、いまだその件を諦めていないらしく、時々こうして情報を求めてくる。矢島も多少思うところがあったので、教えられる範囲のことは教えてやっていた。

「以前話してくれた、FOXの署名、Fiend Ogre Xeno-の意味だが、わかったか? 」
「……いや、まだ」
 ちょうど昨夜、FOX事件の最有力容疑者新貝が逮捕され、別室で取り調べを受けているというこの時に、その質問は驚くべきタイムリーな話だなと内心驚きながら、矢島はまだだと答えた。すると重田は、これは俺の推察だがと前置きをし、話し出す。
「俺は人の名前なんじゃないかと思う」
「名前……」
「俺の知り合いに物書きがいるんだが、そいつが書いてる小説の悪役にな、羅刹という鬼が出てくる、で、そいつが作中では鬼と書いてオウガと仮名を振ってあるんだそうだ」
「オウガだと?」
 重田の注釈に、矢島は火の点いた煙草を取り落としそうになるほど驚いた。それはまさに、今、自分が取り調べている男の名ではないか。
 矢島の驚きを知らず、重田は熱心に持論を話し続けた。
「ああ、O、G、R、Eと書いてオウガ、人食いの鬼という意味だそうだ、でな、実は最近、その知り合いのところに、ゼノってガキが転がり込んでて、そいつが怪しいんだよ、見かけは子供だが、絶対裏がある、しかも、ゼノだぞ、署名の最後の単語、X、E、N、Oのゼノだ、お前、これをどう思う? 偶然か? そうじゃねえだろ、そう思わねえか?」
 重田の言葉に、矢島はそうかと頷いた。ようやく合点がいった。そのとおり、これは偶然じゃない、オウガはFOXだ。もしくは、FOXの仲間だ。彼が庇っているのが捜査本部が躍起になって追っているFOXに違いない。
 新貝じゃない。彼らこそがFOXなんだ。
 そう結論した矢島は、重田に、今、オウガを取り調べてると話した。今度は重田が驚く番だ。
「取り調べてる? 捕まえたのか? どんな奴だった? 子供か?」
「いや、本人は二十だと言ってる、見た目も、まあ、一応成人だな」
「そうか……」
「ゼノってのは、女か?」
「いや、まだほんのガキだが、男だ」
「じゃあもう一人いるわけだ」
「ああ、そうなる、そいつがフィーンドだ、F、I、E、N、D、悪魔とか、悪鬼とかそういう意味らしいぞ」
「悪魔、か……」
 おそらく、そのフィーンというのが赤い髪の女子高生だろう。もう一人のゼノというのが子供だというなら、殺人の実行犯はオウガと考えるのが普通だ。だが、このケースの場合はたぶん違う。
 実行犯はフィーンで、オウガはその補佐役かなにかだ。で、今回、なにか不味いことがあって、フィーンは仲間であるオウガを陥れた。彼を逮捕させ、自分だけ悠々と逃げ果せる気でいるに違いない。
 彼女は、自分が裏切って逃げても、オウガは真相を喋らないと確信してるのだ。実際、彼は口を噤んでいる。
 どうにか喋らせる手立てはないのか……? 矢島は悩んだ。
「おい、聞いてるのか?」
 真剣に考えすぎて、重田がなにか言っているのを聞き逃したらしい。矢島も慌てて問い返す。
「すまん、聞いてなかった、なんだって?」
「しょうがねえな、五年前の捜査資料だよ、あの時の夫婦に、子供は本当にいなかったのか、その痕跡はなかったか、調べて欲しい」
「なんで今頃そんなこと……」
「ただの勘だ、だが間違っちゃないと思うぜ、あの時の夫婦には子供がいたんだ、そして、そいつがこの件に咬んでる」
「この件……」
「ああ、FOX事件、そいつが咬んでる、間違いない」
 そんな馬鹿な話、とは言い返せなかった。それは重田があまりに熱心だから、というのもあるが、それだけではない。自分は今、オウガを取り調べてる。重田はゼノの尻尾を掴んだ。これが偶然であるはずがない。
 だがさすがに、警察関係者でもない者に、捜査資料は見せられない。だいいち、あれは未解決のまま、迷宮入りとされた事件だ。今更ほじくり返すとなれば、それなりの理由がいる。
 矢島が迷っていることを察したのだろう、そこで重田は声を落とした。
「部外者には教えられないというならそれでもいい、お前が調べろ、絶対損はしない」
「なにかネタがあるのか?」
「ある」
「なら話せ」
 調べるかどうかは、お前の話を聞いてからだと答えると、重田は一拍おいてから、重い口を開いた。
「俺自身が証人だ、俺はお前らの探してるFOXに殺されかけた、だからわかるんだよ、あいつは人間じゃないぞ」
「人間じゃなかったらなんだ? まさか本当に鬼だとでも言う気か? そんな与太話で俺が動くと思うのか?」
「そうじゃない、だがそうとしか言いようがない、いいか、よく聞け、あいつはな……」



 四方をコンクリートの壁で囲まれた四畳半ほどの狭い部屋に、オウガはいた。
 部屋の真ん中には小学校の教室にあるようなスチール製の机が二つ、向かい合うように置かれてあり、その片方にオウガが、もう片方には、さっきまで、矢島という中年刑事が座っていた。今は一人だ。
 正確には、供述を記録する警察官もいるので、一人ではないが、彼はオウガに話しかけてこないし、見もしない、一人でいるようなものなので、周りを気にせず考え事が出来た。

──さよなら、オウガ。

 最後に囁かれた言葉が甦る。
 あのときのフィーンは、本当に晴々と、嬉しそうな顔をしていた。全ての柵《しがらみ》から解き放たれる喜びに満ちていた。
 彼女は自由になったのだ。自分や、ゼノから離れ、自由に。
 だが自由と孤独は裏表、彼女は自由を得、その代わりに一人になった。
 一人でなにをするというのだろう。
 自分らは三位一体、一人では何もできない。動くことさえ憚られる脆弱な存在だ。それはフィーンだってわかっているはずではないか。それなのになぜ、裏切った?
 さよなら、オウガ。
 それを最後に、彼女は消えた。そもそもそれがおかしい。彼女には生活能力がない。行く当てなどあるわけがない。離れ離れになって、一番困るのはフィーンではないか。
 それなのに、出て行った……ということは、まさかとは思うが、行く当てを確保してある。ということか?

 オウガがその可能性に気づいたとき、なんの前触れもなく、部屋の戸が開いた。
 矢島が戻って来たのかと思ったオウガは、思考を中断して顔を上げる。だが、そこにいたのは、見知らぬ男だ。
 年齢は四十前後、いかにもエリートといった風情で、仕立ての良さそうなスーツを着たその男は、オウガが絶句するほど、嬉々とした、異様な表情で立っていた。
「宮田刑事? え、どうしたんですか……?」
 記録係の警官が驚いて立ち上がる。問われた宮田は、ああと片手を上げ、慌てるなと答えた。
「FOXの相手ばかりじゃ気が滅入るだろ、こっちの取り調べを手伝ってやるよ、なにちょっとした気晴らしだ」
「いや、でも……」
 この事件の担当は矢島だ。今は席を外しているが、矢島に断りもなく、被疑者と話をさせるわけにはいかないと立ち合いの警官は口ごもる。だが宮田は矢島には話を通してあると答え、警官を立ち退かせた。
 宮田は一応キャリアで、退けと言われては逆らえない。立ち合い警官も腑に落ちない表情で着席した。  
「さて……」
 警官が着席したのを確認した宮田は、湧き上がる興奮を抑えきれないといったように頬を紅潮させ、部屋の中央、オウガの目前へと歩いてきた。
「真夜中の殺人鬼くん、気分はどうだ?」
 宮田はオウガの座る机の上にバンと手を突き、嬉しそうに訊ねた。なにを孕んでか、その目は爛々と光って見える。妙に固執的で落ち着けない。まるで何十年もの因縁ある相手と出会ったかのようだ。
 オウガもどこかで会っていたろうかと思い巡らすが、なにも思いつかない。
「どうした? 返事くらいしろよ」
 黙ったままのオウガに痺れを切らせたのか、宮田は急に険しい表情になった。それでも返事をしないでいると、瞳を血走らせ、掴みかかってくる。
「なんで返事をしない! 私を馬鹿にしてるのか!」
 いきなりの恫喝に驚いた。こいつは何者なのだと首を捻るが、どう考えても覚えはない。
 覚えはないが、何か似た空気を感じる。だがなにに似ているのか、考えようとしても、宮田がそれを許さない。ふざけるな、無視するんじゃないと叫んで拳を振り回した。その表情は真剣で、拳の雨も止むことがない。
 あまりの猛攻にオウガがよろめき倒れる。見ていた警官も、最初呆気にとられ、竦んでいたが、さすがに不味いと慌てて止めに入った。宮田はそれをも跳ね除け怒鳴り散らす。
「邪魔すんじゃねえ! こいつが犯人なんだよ、殺人鬼さ!」
「宮田さん、やめてください! ダメです」
「うるせえ!」
 背後から抱え込むようにして止めようとする警官を突き飛ばし宮田は叫んだ。突き飛ばされた警官は壁際まで飛ばされ、尻と背中を打ったようだ。低く呻いて項垂れる。それを気にもかけず、宮田はオウガを殴り続けた。
「あぁ? どうしたよ、やり返さないのか、殺人鬼! 自分はやってませんってか? 今更いい子ぶるんじゃねえよ、テメエも一緒なんだよ、ヒトゴロシ野郎が!」
 早く吐けと喚きながら殴りかかってくる宮田を、オウガは不思議な面持ちで見返していた。なにかおかしい。自分はこの男に初めて会ったはずだ。だが胸の内側で、それは違うと声がする。
 自分は、こいつに、会ったことがある。
 根拠のない確信が、身体に満ちた。

「なんとか言ったらどうなんだ、それとも死にてえのか? 死ぬか?」
 オウガが返事をしないので、宮田の興奮も収まらない。ますます激昂して喚き散らす。その瞳は、どこか病的で赤い。
 血走り、白目の部分まで赤く染まって見える目が、どこか怯えている。
 そう感じたとき、オウガはその奇妙な感覚に納得した。
 この魂を、自分は知っている。
 考えている間にも宮田の猛攻は止むことがなく、その拳は矢のようにオウガの身体に、顔面に突き刺さった。次第に意識も遠のいてくる。霞む瞳でただぼんやりと宮田を見ていた。
「なんだ? なに見てやがる」
 逃げることも抵抗することもなく、オウガはただじっと宮田を見つめる。それに苛立ったのか、宮田はさらに怒り、オウガを突き飛ばした。
「見てんじゃねえ!」
 突き飛ばされたオウガは、取調室の壁に頭をぶつけ、倒れこむ。だがまだ意識は失くせないと、首を振りながらも、ゆっくり顔を上げた。その執拗な視線に気圧されたのか、宮田は髪を振り乱し、怒鳴りながらも、なにかを恐れるように後ずさる。
「見てんじゃねえっつってんだろ!」
 と、そのとき、足先が、さっき暴れたはずみで転がったパイプ椅子に当たった。怯えていた宮田は、無我夢中でそれを掴み、振り上げる。
「糞野郎!」
「宮田さん、やめてください!」
「うるせえ! 引っ込んでろ!」
 刑事が取調室で被疑者に暴力。それだけでも不味いのに、パイプ椅子で殴るなど言語道断、これではリンチだ。警官も慌てて止めに入る。だが宮田は、それをも薙ぎ倒し、椅子を振り下ろした。オウガのひたいは切れ、飛び散った血で取調室は赤く染まる。
「やめて……くださぃ」
 薙ぎ倒された警官が、弱弱しく叫ぶ。宮田はそんな声には耳もかさず、パイプ椅子を振るい続けた。
 このままでは不味い。自分ではダメだ悟った付き添いの警官はよろよろと立ち上がり、ドア口へと向かう。そして、そのドアを開けようとした時だ、予期せずして、先にドアは開き、矢島が戻って来た。

「おっ……っ」
 中へ入るなり飛び込んで来た異常な光景に、矢島も絶句する。
 自分もよく知っている同僚刑事、宮田が、さっきまで自分が取り調べていた被疑者、オウガをパイプ椅子で殴りつけている。それも、ちょいと当てたなどというレベルではない。オウガは血まみれで蹲り、飛び散った血で室内は真っ赤だ。
「お前ッ、なにやってんだ、やめろ!」
 いきなりの侵入者に、宮田の動きも止まる。矢島は、勢いの落ちた宮田を羽交い絞めにして、オウガから引き離した。
「離せ! 離せ、糞野郎! 離せ!」
 押さえ付けられた宮田は、汚らしい言葉で喚き散らし、暴れる。だが、その力は、思いのほか、強くはない。矢島は、少し拍子抜けしたような気分で、それでも応援を呼んだ。
 しばらくしてわらわらと到着した同僚、上司が、集団で宮田を拘束し、連れ去って行く。それを少し奇妙な思いで見送った。
 宮田とはそう親しいわけではないが、それでもその人となりはそれなりにわかる。
 彼は、こんな単純で愚かな暴力を振るうような人間ではなかったはずだ。虫も殺さぬとは言わないが、少なくとも、やたら人に手を上げるような奴ではない。どちらかといえば、上品ぶってエリート風が鼻につくくらいだった。
 それがなぜ、こんなことをしたのかと考えたとき、ついさっき、重田に聞かされた話を思い出した。あまり眉唾なので、半信半疑、聞き流していた話だ。だが、今の光景を見た後となると、信じられそうな気になる。

 首を捻りながら取調室へ戻った矢島は、床に座り込んだまま、部屋の壁に背を預けているオウガを見返した。オウガは、頭や口元から血を流しながらも、、意識はしゃんとしていそうだ。なにか思いつめたような真剣な瞳で、取調室のドアを見ていた。
「やれやれ、災難だったな、オウガ……大丈夫か?」
 血塗れのオウガに声をかけた。大丈夫なはずはないとわかっていて言った言葉だ。
 だがオウガは、真顔で大丈夫だと答えた。
「なにがあった?」
 思うところあり気な表情が気になり、神妙に訊ねると、オウガはまただんまりを決め込んだ。
 彼が黙るときは、なにかを隠しているか、迷っているときだ。もしくは、庇っている……誰をと考えれば、もうそれはフィーンかゼノのどちらかでしかあり得ない。
「答えられないか、じゃあ質問を変えてやるよ」
 姿勢を低くした矢島は、思い切って確信をついた。
「お前は……誰だ?」
 誰だと問われると、オウガは怪訝そうな顔をした。さっきも答えたではないかと言いたいらしい。だが聞きたいのはそんなことではない。
 矢島はもう一度、さらに姿勢を低くし、俯くオウガの顔を覗き込むようにして訊ねた。
「もう一度聞く、お前は、何者だ?」
「オウガだ」
 矢島の問いの意味が掴めないらしいオウガは、平坦な声で答える。矢島はそうじゃないだろと、首を振った。
「お前は石崎夫婦の子供だ、そうだろ?」
「え……?」

 ***

 ゼノをFOXと決めつけ、待ち伏せた重田は、会うなり問い詰め、追いつめ、そして殺されかけた。だが、結局は殺されずに生きている。
 なぜ殺されなかったのか、ずっと考えていた。そして、もしかしたら、殺せなかったのではないかと思い立った。
 息苦しさが見せた幻かもしれないが、あのとき、自分に向かって来ようとしていたゼノは、形を変えようとしていた。
 ぐにゃぐにゃと、ぞわぞわと、聳《そばだ》つように膨らむ影。
 風もないのに舞い上がろうとする髪。
 血走った赤い目……そして、気の遠くなるような圧縮された空気の中、誰かが叫んだのだ。

──やめろ!

 それが誰の声なのか、そもそも本当に叫んだのか、記憶も曖昧で、自信がなかった。だが今ならわかる。あれはゼノの声だ。
 叫んだのがゼノであるなら、あのときそこにいたのはゼノではない。では誰だ? それこそが、フィーンなのではないのか?
 だとしたら、どれがホンモノなんだ?

 重田の話を聞いた矢島は、息を飲んだ。背中に冷たいものが這い登る。

 生意気な口を利く子供。
 赤い髪の少女。
 フードの男。

 浮かんでは消える影がくるくると回り、頭の中であり得ない像を結ぶ。そこにいるのは阿修羅のごとく、三面に顔を持つ鬼だ。
 脳天から氷の矢が差し込まれたような寒気に襲われ、髄液が凍った。いてもたってもいられなくなった矢島は、喫煙もそこそこに資料室へ走る。
 そこで探したのは、重田の話した五年前の若夫婦殺害事件の捜査資料だ。
 狭い室内の両壁設置してあるスチール製の棚の戸を荒々しく開き、中のファイルを繰り探す。びっしりと詰め込まれた過去数年分の捜査資料、調書、記録類、そのすべてに手を伸ばし、捲っては投げ捨てた。
 一応年代順に区分けはされていたが、五年前となると、さすがにごちゃごちゃしてくる。お蔵入りする凶悪犯罪の多さに、整理しきれないというのが現状だろう。矢島は四苦八苦しながら両側にある棚を引っ掻き回し、ようやく見つけたそれらしきファイルを読み漁った。

―千代田区狐火殺人事件―

 現場が千代田区の貸家で、事件発覚の数日前、付近で狐火(ひとだま?)らしきものを見たという証言があったため、この名称がつけられた。また「狐」かと、矢島は背筋を震わせる。
 事件の被害者はまだ若い石崎夫妻、記録では子供はないとある。だが家にはわずかながら子供用の衣服や玩具などがあり、当時の捜査本部もその存在を疑ってはいたようだ。しかし事件には直接関係ないので、深く掘り下げて調べることはしなかったらしい。
 気になる点はいくつかある。その中で一番奇妙なのは、夫婦の寝室の押し入れに小動物を飼っていたような跡があったことだ。
 猫か犬、もしくはウサギなど、小さな生き物がそこにいた形跡があった。だが動物の毛のようなものは見つかっていない。夫婦にペットを飼っていた様子はなかったと付近の住人も証言している。
 ペットでないなら、それはなんだ?
 そこまで考えたとき、嘘寒さで、鳥肌がたった。そんな馬鹿なと心で否定しながら、矢島は取調室へと駆け戻る。

 そこにいたのは、猫でもウサギでもない。猫と見紛《みまご》うほど、小さく痩せた子供だったのではないか?
 その子はどうなった?
 今、どこにいる?
 それがゼノだとしたら、フィーンはどこにいる? オウガは? 彼は何者だ?
 ゼノ、フィーン、オウガ、この三人は実在してるのか? 寒気とともに、襲ってきた疑問を胸に、矢島は取調室のドアを開けた。

「お……っ」

 飛び込んだ取調室に、オウガの姿はなかった。いたのは、痩せた、小さな子供だ。
 頬の肉は薄く、唇も渇き、目ばかり大きく見える子供が、部屋の隅で蹲っていた。頭や口元、身体のあちこちから血を流し、無表情に虚を見ている。
 立ち合いの警官は腰でも抜けたのか、尻餅をついたままだ。矢島が入って来たことで、気を取り直したのだろう、慌てて立ち上がろうとしている。
 子供は幼い顔つきのわりに、冷え切った眼が印象的で、背格好は小学生程度だが、実際いくつなのかは想像もつかなかった。
 誰だ?
 思わず口に出しかけたとき、子供はふっと目線をあげた。瞬間、部屋の空気が軋み、斜めに捻じれて千切れ飛ぶ。プツッと小さな音がして、あたりは黒く染まった。
 そして再び明るくなった世界に、パイプ椅子でブチのめされているオウガと、凶行を振るう宮田がいた。あたりは無音で、誰も動かない。
 小さな窓からは、傾きかけた昼の日差しが入り込み、オレンジの部屋に長く薄い影を作っている。
 壁掛け時計の進む音はやけに煩く、カチカチと聞こえた。まだ日差しも高く、白々しいくらい現実的な部屋が、オウガの血で赤く染められていく。
 ここはどこだ?
 これはなんだ?
 わけがわからず、瞬きを繰り返すと、いきなり時は動き出した。
 急いで宮田を止め、外へと引きずり出して振り向けば、オウガは平然とした表情でこちらを見ていた。いや、見ていたのは外だ。外へ連れ出されていった宮田の背を、彼は見ていたのだ。

「お前は誰だ?」
 再び訊ねると、オウガはなんでそんなことを聞くのだという表情で、オウム返しに答えた。
「オウガだ」
「違うだろ、本名を言ってみろ、忘れたか?」
「本名……」
「そうだ、生まれたとき、石崎夫妻がつけた、お前の名前だ、なんという?」
 話が進まないことに少し苛立ち、矢島が問い詰めると、オウガはチラリと目線を上げ、すぐに下げた。そしてしばらく黙り込んだあと、決心したように静かに答える。
「沢村《さわむら》だ」
「え?」
「沢村銀《さわむらぎん》、それが俺の名だ」
「沢村……?」
 その答えに、矢島は再び凍りついた。それは、三浦が最後に出向いた現場、旭ビルで、五年前におきたという殺人事件の被害者夫婦と同じ苗字だ。まさか、そうなのかと狼狽える。
 沢村夫婦殺害事件も、狐火事件と同じく犯人は捕まっていない。だがそうだ。沢村夫婦のほうには、子供がいた。それはちゃんと記録されている。名前までは憶えていないが、たしか当時十五歳……だった?

「お前……なのか?」
「そうだ」

 問われている意味がわかっているのかいないのか、オウガはまっすぐな目をしていた。だが、ことは重大だ。沢村夫妻が殺されたのは、狐火事件のおきたのと同じ年、前後しておきた二つの事件は繋がっていたということになるではないか。
 オウガが沢村夫妻の子供だとしたら、ゼノは石崎夫妻の子供だろう。ではフィーンは?
 重田はゼノという子供がFOXだと睨んでいた。オウガ、フィーンはその協力者、もしくは共犯だと……しかしおそらく、実行犯はゼノではない。オウガでもない。たぶん、フィーンだ。
 彼女《フィーン》はどこだ?

「どうした? 問題があるのか?」
 矢島が黙り込むと、オウガは不思議そうな顔つきで首をかしげる。火傷のせいで一見恐ろし気に見えるが、彼には意外に素直で幼い部分がある。自分がなにをしでかしているのか、その自覚さえないように思えた。
 根拠はない。これは単なる個人的感想と勘だ。だがたぶん外れではない。
 彼がFOXだ。それは間違いない。しかし新貝が無関係とも思えない。それに、フィーンとゼノはどこだ? それが知りたい。
「お前がFOXなのか?」
「フォックスは新貝さんだろ」
「新貝がFOXなのか?」
「そうだろ、違うのか?」
「あ、いやそういう意味じゃなく……というか、お前、新貝のことも知ってるんだな」
「ああ」
 新貝の通り名がフォックスなのは誰もが知っている。オウガはFOXと聞いて、そのままフォックスととったらしい。矢島は、そういう意味ではない、こちらのいうFOXとは、連続猟奇殺人犯のことだと話した。するとオウガは妙に落ち着いた表情で、ああと頷く。
「そいつは俺だ」
「お前が? 本当に?」
「ああ、FOXと名乗った覚えはないが、俺だな」
 オウガは、聞いた矢島が拍子抜けして脱力するほどあっさりと、自分がFOXだと認めた。だが、そう素直に認められると、逆に疑いたくなる。
 まず、オウガがFOXなら、なぜ今更こんなドジを踏んで捕まったのかががわからない。それに、ウサ子の言うフードの男がオウガだとして、もう一人、赤い髪の女子高生はどうなるのだ。その女こそがフィーンのはずだ。
 そのフィーンはオウガを裏切った。彼女は自分が裏切ってもオウガは喋らないと踏んで、彼を罠にかけたのだ。
 狙い通り、オウガは喋らない。このまま彼がFOXは自分だと認めてしまえば事件はここで終わる。世間を騒がせたFOXは逮捕され、時間はかかるだろうが事件の謎も不自然でない程度に解明され、終わってしまう。
 そうなれば彼女は自由だ。何十人も殺しておきながら、なんの罰も受けず、オウガの犠牲をなんとも思わず、易々と生き延びることが出来る。
 いや、それだけではない。ほとぼりが冷めたころ、再び殺戮を開始するだろう。完全に彼女の思う壺ではないか。
「嘘だな、お前はやってない、少なくとも、FOXの手口はお前の仕業じゃあない」
「あなたがどう思うおうと、殺したのは俺だ」
「嘘つけ、あんな残虐なやり口、お前に出来るわけがない」
「なんでそう思う?」
「何年刑事やってんと思うんだ? 舐めんじゃねえぞ、そんなの顔見りゃわかる、お前には出来ない」
「それなら刑事なぞやめることだな、殺したのは俺だ」
「違う」
「違わない、あなた方の探してるFOXは俺だ」
 何度否定しても、オウガは自分が犯人であるとの主張を譲らなかった。だが矢島も譲れない。もはや希望に近い想像ではあるが、やったのは彼じゃない。少なくとも、FOXと呼ばれ。捜査本部を恐れ慄かせている猟奇犯ではない。
 犯人は別にいる。
 その確信のもと、矢島はオウガに詰め寄った。
「FOXは複数犯だとのタレこみがある、それにな、数は少ないが、目撃者もいるんだ」
「バカな、そんなものいない」
 目撃者などいるはずがない。オウガはその確信からくる傲慢さで、太々しく凄んだ。だがそれもすぐに不安に変わる。息を飲み、視線を下げて顔を逸らす様子は、万引きを見咎められ、引き立てられてきた不良少年のそれによく似ていた。
「現場では、赤い髪の女子高生を見たという者が多い、俺はそれがFOXだと思っている」
「あんな殺し、女子高生に出来ると思うのか?」
「普通は出来ないな」
「当たり前だ、出来ない、つまり、そんな奴はいないってことだよ」
「まあそう早まるな、普通はと言っただろ、彼女は普通じゃないんだ、そう思えば出来るかもしれない」
「屁理屈だ!」
 オウガは椅子から立ち上がり、取り調べ室の机を叩いた。あり得ないだろと話す声は少し上擦っていて、落ち着きがない。
 矢島はオウガの反応を観察しながら、目撃者がいるんだぞと指をさす。それに対するオウガの反論は理論的でなく、言い逃れの類だ。
 バカバカしい、そいつが見間違ってるんだ、見ているはずがない、嘘だと喚き散らした。
「面白いな」
「え?」
 彼が感情を露わにするのは初めてだった。矢島はさらなる一手をかける。

「お前たち……あえてお前たちと言わせてもらうが、お前たちのボスは誰だ? その女なんじゃないのか?」
「違う! そんな女いないと言ってるだろ、俺がFOXだ!」
「お前はその女に操られてるんだ、そいつはお前が裏切らないと知ってて陥れたんだぞ」
「違うと言ってるだろ! そんな女はいない!」
「女はいるんだよ、そしてお前らを操ってる」
「違う!」
 声を荒げ、拳を振り上げるオウガを見つめ、矢島はため息をついた。ただ哀れだと思った。

 もはや、矢島を動かすのは、正義感などではない。一人の男としての感情だ。義侠心と言ってもいい。
 彼が本当に殺人者だとしても、まずはその女のほうを捕らえたい。どんな顔であんな残虐な遺体を作るのか、見てやりたいのだ。
「そいつに操られてるのはお前だけじゃないぞ」
「え……?」
「もう一人いるだろ……ゼノだ」
 ゼノの名を出すと、オウガは見事に反応した。それまでの反抗的で興奮した様子は一変し、瞳を見開いて首を振る。ここが落としどころだと感じた矢島は、そこで最後のカードを開いて見せた。
「ゼノ、そしてフィーン、それがお前の仲間なんだろ? お前はフィーンに陥れられた、そうだな?」
「なぜ……?」
「お前、最初に、密告者は女かって聞いたよな? そいつがフィーンなんだろ?」
 問いかけると、オウガは唇を固く結んで視線を下げた。
 おそらく、オウガにとってフィーンの裏切りは予想外だったのだ。裏切られるとは思ってもいなかった。今も信じられない。だから庇う。
 だが、心のどこかで、信じきれずにいる。だから迷う。その証拠に、オウガの視線は彷徨い続けている。
 矢島は、俯くオウガと視線が近くなるように椅子に腰かけ、顔を近づけた。
 覗き込んで見た彼の顔は、火傷の痕さえなければ、純真無垢な少年のようだ。本当に、まだずっと若いのかもしれない。
 十五歳とは言わないが、それに近い幼さを感じ、矢島はやり方を変えた。被疑者の取り調べをするのではなく、保護された非行少年の事情を聞くように、穏やかに、じっくりと話しかける。
「フィーンは逃げたんだ、お前らは見限られたんだよ、庇いだてする義理はないぞ」
 逮捕されて数時間、おそらくオウガ自身も、薄々と気づきはじめていたのだろう。心当たりのありそうな、複雑な表情になった。今なら話すかもしれない。
「彼女の目的はなんだ? ゼノはどこにいる? 教えてくれ、早くしないと、彼女はゼノのことも裏切るぞ」
 そうなる前に助けたいんだと話すと、オウガは瞠目しながらも、矢島をの目を見返して来た。信じるべきか否か、彼の中にも迷いはあるのだろう。それは仕方がないと割り切り、矢島は根気強く訊ね続けた。それに釣られたのか、いや、たぶん、彼にも、フィーンの危険性が理解出来たのだ。オウガは少しずつ、話しはじめる。

「なぜ、あなたがゼノを知ってるんだ? 会ったことはないはずだ」
 問い返すオウガの目は、もう彷徨うこともなく、冷静さを取り戻していた。ちょっと不味い傾向だと思いつつ、矢島も丁寧に答える。
「俺の知り合いが会ってるんだよ、彼は、ゼノ少年に殺されかけたと言ってる」
「まさか、重田か?」
「お、なんだ、お前も知ってるんだ? そうだ、重田、俺の……まあ、旧友だな」
 旧友という言葉を、オウガは噛み締めるように反復した。そこには大きな戸惑いと、小さな憧憬が見える。
 彼から見れば、矢島も重田も等しくただの中年男で、頭の固い、いけ好かない大人なのだろう。その「大人」に、友だちなどという存在がいるのが、意外に思えるのかもしれない。

 多くの子供は誤解している。大人は子供とは違う別の生き物だと思っている。だが、実際は違う、大人は子供の延長線上にある存在だ。あんな大人にはならないと、大人たちを憎む子供らも、いつか、時が経てば、大人になる。精神はともかく、肉体的には成人し、そして老いていく。
 誰だって、老いたいわけではない。いつまでも子供でいられるなら、それが一番幸せかもしれない。しかし人は変わるのだ。生きている限り、大人になることを拒否はできない。
 出来ないが、子供のときの心を、思いを、失くさないでいることは、出来る。
 歳をとり、素直に友を友と呼べなくなったとしても、胸の内では、やはり友だちだと思える。そういう存在が、大人にだっているのだ。
 自分で導き出したその答えに、半ば驚きながら、矢島は戸惑うオウガに語りかけた。
 俺たちは、お前たちの敵ではない。
「だがまあ結果的には殺されすに済んだ、お前がFOXだというなら、なぜ、あいつを殺さなかったのかな?」
「なぜ……」
「そう、なぜ、だ?」
 矢島の問いに、オウガは長く沈黙した。それは、黙秘とか、拒否ではなく、迷いと戸惑いのためだ。彼は自分でも自分の思いを整理しきれていないのだ。
 そう感じた矢島は、オウガが自分から話し出すのを辛抱強く待った。
 オウガは、瞳を開いたまま、静かに、真剣に、自分自身の内面を探るように、じっとしていた。
 その時間は、数十分にも及んだかもしれない。その間、矢島は、催促することも、話しかけることもせず、ただ黙って彼の口が開くのを待っていた。
 その甲斐あってか、オウガはやがて、潔く顔を上げた。

「重田さんを殺さないと決めたのは、ゼノだ」
「ほう」

 素直な反応に内心驚きつつ、表面では冷静な顔を作って相槌を打つ。オウガの話す気分を壊さぬように、細心の注意を払い、最小限の反応で、矢島は先を促した。
 その誘いに乗り、オウガはゆるゆると話し続ける。
「俺たちは殺すべきだと話した、だがゼノは殺さないと言い張った、理由は聞いてない、だがたぶん、ゼノは、彼を好きだったんだと思う」
「好き? 重田をか?」
「ああ、気に入っていると言い換えてもいい、理屈としては、殺すべきだと話した、だが心がそれを拒否した、そういうところだと思う」
 心が拒否した。
 オウガの言葉に、矢島は半ば驚き、半ば頷いた。
 ゼノという少年に会ったことはないが、重田の口ぶりでわかる。彼もオウガと同じ、純粋で未熟な子供なのだ。純粋だから傷つく、未熟だから考えが狭い。そしてその狭さゆえ、間違う。
「言い分はわかった、だがもう一つわからないことがある」
「なんだ?」
「重田を殺すことは躊躇ったのに、三浦を殺したのはなぜた? あれもお前らの仕業だろ?」
「三浦?」
 問い詰める矢島に、オウガは邪気のない瞳を向け、首を傾げた。惚けているのかとも思ったが、そうではないようだ。たぶん本当に知らないのだ。標的とした男に、なんの興味もなかったというのが、正解のような気がした。
「お前たちが殺した若い刑事だよ」
「……三浦というのか」
「そうだ、知らなかったのか? まだ若い、前途ある若者だった」
「前途? では、死んだ子供には前途はないとでも?」
 そこまでどちらかといえば、協力的な態度で話していたオウガは、そこでいきなり表情を変えた。なぜか三浦への評価にだけ厳しい。酷く冷たく、残忍なくらいに突き放した表情だった。
「今わかったよ、なぜゼノが重田を殺すなと言ったのか」
「なぜだ?」
「重田は執念深くて厄介な男だ、だが、ちゃんと見てたんだ」
「見て? なにを?」
「自分の目で見て、耳で聞いて、動いた、彼は、ラウじゃない」
「ラウ? なんだそれは……」
「あんたも、俺たちの仕事を捜査しているなら、見たはずだ、そこにはいつも、子供がいた」
「子供……」
 子供なんてと言いかけて、ふと、FOXが最初に署名を残した事件、瀬乃夫婦殺害事件のことを思い出した。そこで初めて、FOXは署名を残している。
――Fiend Ogre Xeno~
 通報者は隣人。小さな子供に泣きつかれ、隣の家へ様子を見に行ったと言っている。子供は瀬乃夫婦の子だと推察されたが、記録としては、夫婦に子供はないとされていた。
「重田はちゃんと見て、俺たちを追って来た、だがあんたの言う、前途ある若者は、なにも見なかった、なにもしなかった! 自分に害がないと思って知らんふりだ、そんなヤツ、なんの役に立つ!」
 死んで当然だとオウガは怒鳴った。矢島も言葉に詰まる。
 言いたいことはわかるが、納得は出来ない。それは逆恨みだ。死に値するほどの罪とは到底思えない。
 しかし、反論する言葉が見つからなかった。
 正論ならいくらでも吐ける。
 人殺しはいけないことだ、なにがあってもやってはダメだ。殺された人のことも考えろ。被害者にだって人生がある。それを絶つ権利は誰にもないぞ。
 全部綺麗ごとだ。少なくともオウガには響かない。
 矢島は混乱を解きほぐそうと頭を振り、そしてさっき部屋から連れ出されて行った宮田の背を、思い出した。
 なぜか……。
 嫌な予感に鳥肌が立つ。
 
「オウガ、お前、さっきお前を殴った刑事が誰なのか知ってるんじゃないのか?」
 自分が知る限り、宮田はやたらと暴力を振るう人間ではない。出世も遅いくせに、エリートぶって、キャリアを鼻にかける小心者だが、あんな理不尽な攻撃はしない。あれは宮田の顔をした別の誰かだとしか思えない。半信半疑で聞いた問いに、オウガは知っていると答えた。
「知ってる? 誰だ?」
「わかってるんじゃないのか?」
「いいから、言え」
 まさか、そんなことあるはずがないと何度も思い。それでも拭えない疑惑とともに、矢島は訊ねた。するとオウガは、開き直ったように答える。

「アレは、フィーンだ」

「フィーン……」
 さっき聞いた重田の話を思い出した。
 絶体絶命、ここで自分は死ぬのだと重田が覚悟を決めたとき、ゼノがなにか叫んだという。そして彼は生き残った。
 そのときゼノが叫んだ言葉は「やめろ」だったが、もしかしたらそのあとに、フィーンと続いていたのではないのか?
──やめろ、フィーン!
 だとすれば納得がいく。
 つまり、フィーンはゼノの中にいる、いや、あの時点ではいた。そして今は宮田の中にいる?


 自由に他人に成り代わることが出来る人間などいるはずがない。というより、もしいるとしたら、そいつを捕まえることはきわめて困難だ。
 仮に捕まえらえれたとしても、取り調べをするころ、そいつはもうそこにいない。そこにいるのは、そいつに姿を借りられていただけの、なにも知らない人間ということになってしまう……。
「まさか……」
「なんだ?」
 ふと思い当たった可能性に矢島が黙り込むと、オウガは顔をあげた。それを船に聞き返す。
「昨夜、逮捕されたとき、フィーンはお前の中にいたのか?」
「ああ」
 半分以上眉唾だと思いながら聞いた問いに、オウガはそうだと頷いた。一段と背筋が寒くなる。これではオカルトだ。そんな話はあり得ない。
 矢島は自分の中にある一般常識と、今聞いた事実を照らし合わせ、可能性だけを探した。しかし、どう考えても、あり得ないものはあり得ない。
 犯人には、捕まえられる手と足があり、現実世界に存在しているはずだ。幽霊が犯人では、警察など意味がなくなってしまう。
 何度も、あり得ないぞと頭で繰り返しながら、矢島はさらに聞いた。
「彼女はナニモノだ? 実態はないのか? まさか本当に鬼か悪魔とでも言うんじゃないだろうな?」
「鬼か魔か……そうだな、もしかしたらそうなのかもしれないな」
「そうなのか?」
 驚いて聞き返すと、オウガは憐れむような視線を向け、口先だけで、少し笑った。
「俺がフィーンに初めて会ったのは五年前だ、そのとき彼女はゼノと共にいた、ゼノのことは少し前から知ってたんだが、フィーンには会ったことがなかった、だから彼女がナニモノなのかは、俺も知らない」
「なんだそれは」
 誤魔化す気かと問い詰めてみたが、どうもそうではないらしい。オウガは本当に、フィーンの正体を知らないようだ。
 わかるならとっくにどうにかしていると話した。
「彼女がナニモノなのか、ゼノならわかるのかもしれないが……」
「ゼノ……」
 重田の話では、ゼノは小学生くらいの子供ということだった。だとすれば、もしかしたらゼノが石崎夫妻の子供なのかもしれない。
 石崎夫妻は、押し入れに小さな生き物を飼っていた。それが子供だったとする。と、その子は五年後、何歳だ?
 事件当時、そこ(押し入れ)にいた。そして、事件後、そこから消えた。
 消えたということは、自力で立ち去れるだけの体力と知恵があったはずだ。少なくとも、赤子ではない。小さく見積もっても五歳か六歳。その五年後なら十歳か、いってても十二歳。小学生くらいという重田の証言とも合う。そう考えれば、ゼノが石崎夫妻の子である可能性は高い。 
「ゼノくんは、今、どこに?」
 訊ねると、オウガはちょっと困ったというように、首を傾げた。居場所はわかるが、会えないだろうと話す。
「なぜ会えない?」
「ゼノは今、心を閉ざしている、話ができる状態じゃない」
「なぜだ、そういうことはよくあるのか?」
「いや……ゼノはアレで結構社交的なんだ、俺たちの中じゃ一番外向きだ」
「それが今は自閉症……フィーンのせいか?」
「だろうな、ゼノはフィーンを信じてた、いや、崇拝とでも言うか、彼女の意に反することはしなかった、今回だって、最大限許せる範囲で、フィーンの言うとおりにしたはずなんだ、それなのに、彼女は俺たちを裏切った……俺だけじゃない、ゼノも裏切られたんだ、だから……」
「自閉した?」
「ああ」
「ガキだな」
「ガキだよ、ゼノも、フィーンも……俺もな」
 一度話し始めたオウガはそれからも素直に取り調べに応じた。矢島の質問にも、答えられる範囲で答える。だが、肝心な部分にくると、わからないを連発した。
 それが保身からくる言い逃れや誤魔化しであれば、やり様はある。叩けば埃も出るだろう。しかしそうでない場合、いくら聞いても核心は掴めない。取り調べはいっこうに進まなかった。
 そして……。
 何日経っても、初日以上の話は聞けず、このままでは、なにもわからないままオウガの勾留期限が切れてしまうと、矢島が焦り始めるころ、本部からの横やりが入った。
 証拠不十分で、不起訴、オウガを釈放しろとのお達しだ。

「釈放だぁ? ふざけんな!」
 たしかに証拠は不十分かもしれないが、仮にも現行犯逮捕だ。オウガは傷害事件の現場で、血のついたナイフを手に立っているところを逮捕されている。その傍には、オウガの持つナイフで切り付けられたと見える被害者女性が倒れていた。監察医の判断でも、凶器はオウガの持つナイフで間違いないとされている。だからこその現行犯逮捕だ。
 そして、現行犯ということは、その罪状は疑うべくもない……はずだ。矢島はそう主張した。
 しかし聞き入れられなかった。被害者女性が、犯人は女だと証言したからだ。
 犯人は女性で、体格は小柄。髪はかなり長く、血のような赤い色だった。
 病院で意識を取り戻した被害者女性、佐藤順子が、そうはっきりと証言したらしい。そうなると、オウガは犯人足り得ない。あまりに目撃証言と違い過ぎる。誤認逮捕だ。早々に釈放しろと言われた。

「くそっ、なんだってんだ」
 これまでの話を総合して、犯人はオウガではないかもしれないと考えてはいた。だが、無関係でもないはずだ。
 仮にやったのがフィーンだとして、オウガはその裏を知っている。今は会えないとしても、ゼノとの繋がりもある。オウガとフィーンとゼノの関係、その謎を解き明かすためにも、オウガへの尋問は続けたい。それが矢島の考えだったが、本部はそれをNOと言う。
「お前は凶器のナイフを持っていた」
「ああ」
「本来ならそれで決まりなんだ、だが今回は……」
「なにか問題があるのか? 俺は認めてる、犯人は俺でいいじゃないか」
「そうもいかねえんだよ」
「いかない? なんで?」
 なんで……。
 それこそ、何故……だ。いかに被害者の証言があったとしても、物的証拠は揃っている。本人も自分がやったと認めている。たとえ、実行犯ではないといても、血の付いた凶器を持って現場にいたのだ、犯人と繋がりがないわけがない。それを釈放などあり得ない。
 だが上層部はオウガの釈放を決めた。
 なぜだ?

 ***

「警部、大変です!」
「なんだ、騒がしい」
 暗い取調室の中で、新貝を取り知らべていた年配の刑事は、飛び込んで来た部下の言葉に、少しほっとした面持ちで振り向いた。

 なにを聞いても暖簾に腕押し、のらりくらりと話を逸らす新貝の相手をしていると、頭がおかしくなる。それもへらへら笑いながら話してくれればまだ感情も乗るのに、まるで無表情の能面、姿勢すらほとんど変えない。
 背筋をピンと伸ばし、正面を向いたまま淡々と話されると気持ち悪くなってくる。
 事実、これまで取り調べにあたっていた捜査員は一日と持たなかった。ほぼ全員が、精神不安と体調不良を訴え、戦線離脱。そこでお鉢が回って来た年配の警部も、地下室の空気のせいか、新貝の態度のせいか、気が滅入り、胃のあたりがじくじくと疼きだす始末。いったんここから出ないと吐きそうだと思っていたところだったので、部下が飛び込んできてくれたのは渡りに船だ。自分がここから出なければならなくなるような、大きな事件の話でも持ってきてくれればなお嬉しいとさえ思いながら振り向いた。
 少し不謹慎だが、得体の知れない殺人鬼と向き合い続けるよりマシだと、詳細を訊ねると、飛び込んで来た若い刑事は、酷く慌てた早口で答えた。
「宮田刑事が、人を刺したって!」
「なんだと?」
 大きな事件とは思ったが、大き過ぎだ。現役刑事の殺傷事件など一番あってはならない。なんでそんなことになったと聞き返すと若い刑事も、わけがわからないんですと口ごもる。
「被害者は宮田さんとは面識がないって、宮田さんも、自分は知らないって言い張ってて」
「どういうことだ?」
「わかりませんよ、でも現行犯なんです、目撃者もいて……」
 若い刑事も狼狽えていたが、それを聞いた年配の警部も混乱した。そんな馬鹿な話あるものかと何度もつぶやき、首を振る。そして何気なく背後の新貝に振り返ってゾッとした。新貝は、口の両端を大きく上げ、不気味なほど笑っていた。その顔は派手なメイクを塗り重ね、素顔を隠したクレイジーピエロのようだ。
 背筋が凍り、警部は大きく身震いする。
「なんだ、なに、笑ってやがる?」
 思わず詰め寄ると、新貝はいえ別にと口を閉ざした。だが張りついたような笑みはきえない。ますます薄気味悪くなり、胸倉を掴む。
「なにがおかしい? お前、なんか知ってるのか!」
「なにか……そうですね、少し」
 年配の警部は、新貝の持つ不気味な空気に毒され、震えながら身を乗り出す。
 逮捕されてから数日間、新貝はこの地下室を出てない。宮田刑事とも、取り調べのときに初めて会い、以来は会っていない。なにを知り様もないはずだ。だがそのときはなぜか信じられた。
 こいつは何かを知っている。
「少し、なんだ?」
「言ってもいいんですが、きっと信じませんよ、あなた方は」
「いいから言え!」
「そうですか、では……」
 新貝はもともと吊り上がった細い目をさらに細め、本当にいいんですねと芝居がかった前置きをして話し始めた。

「犯人は宮田刑事ではありません、しかし目撃者がいる、お気の毒ですが、それは証明できないでしょう」
「なぜだ、いや、お前は真犯人を知ってるのか?」
「知ってますよ」
「誰だっ?」
「あなた方がお探しの殺人鬼、FOXです」
「はァ?」
 意外な答えに警部も思わず首を捻る。その間抜けを見つめる新貝は、これまでとは打って変わり、リラックスした表情で足を組んだ。机の上に片手を置き、右手で口元を覆っているが、その陰で笑っているのがわかる。真剣になる刑事たちをバカにするような、憐れむような、嫌な笑い方だ。
「フォックスはお前だろ、新貝」
 ムッとした警部が、睨み返す。だが新貝も動じなかった。
「いかにも、私の通り名はフォックスですが、それはただの仇名だ、あなた方の言うFOXではない、そんな野蛮じゃないですよ」
「バカ言え! お前が自分の邪魔になる人間を幾人も殺ってるのは知ってるんだぞ!」
「それは憶測でしょう? 証拠でもあるんですか?」
「貴様!」
 やれやれと、大げさに肩を竦めて見せる仕草が、気に障り、さすがに頭にきた。だが、人をバカにするのもいい加減にしろと怒鳴りかけたところで、新貝が再び口を挟む。
「あなたは私がお嫌いだ、それはよくわかってます、だが今はそんな話をしているときではない、そうでしょう?」
 細い目をさらに細め、口元で手を組んだ新貝は、相手の出方を誘うように、エレガントに首を傾げて話した。百戦錬磨の警部も気圧されて口を閉じる。
 たしかに、宮田刑事が犯人ではないという話も、真犯人はFOXだという話も、信ぴょう性はともかく気にはなる。本当に宮田が犯人でないなら、警察としても助かる話だ。聞かないわけにはいかなかった。警部は忌々しさを押さえて先を続けろと促す。
 すると新貝は満足したように、狐顔でニコリと笑った。
「では続けます……」

 警察はFOXを一人の人間と思っている、そもそもそこが間違いだ。FOXは一人でもなければ、人間でもない。FOXに実体などないのだ。
 ではなにか? その正体は知れないが、おそらくは後催眠のようなものだと思われる。
 目と目を合わすことで、または、特定のキーワードを与えることで、暗示が発動する。操られた本人は、自分でもなぜなのかわからぬうちに凶器を手に入れ、標的を探し出し、殺す。それも、出来得る限り残酷に、手酷い方法で……だが所詮は暗示、本人の意思ではない。だから今回のように、正義感の強い相手だと、失敗する。
 宮田の正義感が、FOXの邪悪な念に勝ったのだ。だから被害者は死なず、事件は明るみに出た。
 たぶん、宮田は自分がやったと自覚している。理由はわからなくても、やったということだけは覚えている。だから動機以外は素直に自供してくれるだろうし、それで事件は解決するだろう。
 だが、真犯人、FOXを捉えない限り、同じような事件はまたすぐ起きる。トカゲのしっぽなど、いくら捕まえても本体が捕まえられなければ、なんの足しにもならないですよと新貝は言った。それが事実だとすれば、たしかにその通りだ。
「宮田刑事はそうとう強い心の持ち主だったのでしょうね、だから、FOXも操り切れなかった、素晴らしい正義感です、称賛されていい」
 新貝は取り調べのときと同じく、真正面を見据え、宮田を称えた。だがその様子はそれまでと大きく違う。背もたれによりかかり、足を組んで、笑みさえ浮かべている。己の優位を確信した尊大な態度だ。取り調べに当たった警部も、内心ムカムカいながら、聞き返した。
 宮田の無実を晴らせるのは、この男だけなのだ。
「そこまで知っているなら、FOXの居場所も知ってるんじゃないのか? そいつはどこにいる?」
「まさか、私はこの地下室にもう二週間も閉じ込められてるんですよ、それで居場所まで知ってたら神様だ」
「嘘つけ! ……いや、居場所じゃなくてもいい、なにか、そいつを捕まえるヒントはないのか? それぐらいあるんだろ!」
「そうですね、では大ヒントだ、宮田刑事は、ここを出てからどこに行きました?」
「ここを出てから?」
「ええ」
 取り調べ中に錯乱して新貝に暴力を振るった宮田は、いったんFOX事件から離された。だがもともとエリートで、将来を期待されていた彼は、本来なら戒告処分となるところ、暫く休めとの通達だけにとどめられた。所謂、自宅謹慎だ。
 しかし彼はおとなしく自宅には向かわなかった。
 何を思ったのか、正規取調室へ向かい、そこで殺人の容疑で取り調べ中だった男に暴行し、つまみ出されている。そのときも、常軌を逸していたらしい。
 そう話すと新貝は、暴行された被疑者の名を聞いた。
「名前? たしか、オウガ……だったかな、ふざけた名だ、おそらく本名じゃないだろ」
 聞かれた警部も首を傾げながら答える。
 そのときもおかしいとは思ったのだ。宮田はやたらと暴力をふるうタイプではない。出世欲も強かったし、常に自分が他人からどう見られているかを気にしていた。ましてや自分が関係していない事件にわざわざ首を突っ込み、その容疑者を暴行など、するわけがない。
 あのときは、新貝《フォックス》の取り調べに疲れ、どうかしていたのだろうと軽く考えていたが、もしかしたら違うのか? ふと思い立ち、顔を上げると、新貝は正解ですと微笑んだ。
「その男、犯人じゃないですよ」
「現行犯だぞ」
「宮田刑事も現行犯でしょう?」
「え……」
 その返事に背中が凍り付く。嫌な予感が這い登る。思わず俯くと、頭上から新貝の明解なアンサーが聞こえてきた。
「その事件も同じです、犯人はその男じゃない」
「まさか……」
「FOXですよ」
「そっ……っ」
 そんな馬鹿な、とは言えなかった。言えないだけの説得力と、迫真性が、その声にはある。
 それに……。
 もしも一連の事件の犯人がFOXであるなら、宮田を救えるかもしれない。新貝はFOXを知っている。それを証明できさえすれば、FOXは捕まえられる。警部はそう読んだ。
「それが本当だという証拠は?」
「証拠ですか、そうですね、そう例えば、目撃者の証言などどうでしょう?」
「目撃者なんか……」
「いますよ、一番身近でその事件を見てた目撃者が」
「なんだと? 誰だ?」
「事件の被害者ですよ、彼女、生きてるんでしょう? 意識が戻ったら聞いてみればいい、面白い証言が聞けるはずです」
 それはまさに鶴の一声だった。
 警部はそれまで半信半疑だったのが嘘のように、新貝の言葉を鵜呑みにし、慌てて取調室を出る。そして意識の戻った被害者、佐藤順子から、逮捕された男とはまるで違う犯人像を聞かされ、愕然とした。

 佐藤順子の件は、冤罪の可能性が高い。
 その冤罪はFOXが仕掛けたモノらしい。
 それを、新貝は知っていた。
 新貝を叩けば必ず埃が出る。だが彼もあの若さで暴力団と対等以上に渡り歩いてきた男だ。ただでは話さないだろう。新貝の機嫌を損ねず、美味く話させるようにするには、どうすればいいのか、警部も真剣に考えた。その挙句、本人に聞いたのだ。
「お前はもっと話を知ってる、そうだろ?」
「おや、私を信じるんですか? こんな何の根拠もなさそうな与太話を? あなた方(警察)は何事も証拠でしょう? 証拠がなければ動けないし動く気もないんだ、そうじゃないんですか?」
「遠回しはいい、俺はその話を聞きたいんだ、どうしたら話す気になる?」
「そうですねえ……」
 そして新貝は、本気で自分の話を聞き、動く気があるというなら、それを目に見える形で示せと言った。目に見える形とはなんだ? それは自分たち(警察)が、新貝の言葉どおりに動いて見せることだ。多少大げさでもいい、こちらが本気だというパフォーマンスが必要なのだ。
「どうすればいい?」
「では、佐藤順子の件で逮捕された若い男の釈放を」
「なんだと?」
「別に問題ないでしょう? 彼は犯人じゃない、あなた方も、私の話を信じるというならわかるはずです、これは冤罪だ、即時釈放を要求します」

 ***

 オウガの不起訴が決まり、釈放が迫ったその日、矢島はこれを最後にと、再び尋問した。せめて三浦殺しの件だけでも、裏が欲しい。
 だが、一時素直に話し始めていたオウガは、なぜか口が重くなった。椅子の背に深く腰を預け、どこか虚ろな瞳で宙を見つめるだけだ。

「佐藤順子さんの件は不起訴だが、三浦の件はまた別だ、あれはお前がやった、そうだな?」
 狭い取調室で向かい合い、霞がかかったように濁った目をしたオウガの顔を覗き込む。至近距離で瞳を合わせると、濁りはいっそう深く見えた。返事は返ってこない。
 なにを考えているのだろう? 一抹の薄ら寒さを感じながら、矢島はさらに訊ねた。
「お前が自分で言ったんだぞ、三浦を殺したんだろ」
 返事をしないオウガの態度に焦れた矢島は、少しきつい言い回しで突っ込む。すると、今の今までだんまりだったオウガも顔を上げた。瞳はまだ濁ったままだ。
「さあ、覚えてないな」
「なにが! いまさら惚けるつもりか? お前は自分が三浦を殺したと認めたはずだ」
「そんなこと言ったか? 俺はただ、殺されて当然だと言っただけじゃなかったか?」
「それは……だが!」
 やはりオウガはすっ呆ける。たしかに、話の流れや言い回しから、自供したも同然だが、直接、殺したとは言わなかった。否定されると苦しい。
 矢島はそこで、ではどこを攻めるべきかと考えた。 曖昧な言い回しやニュアンスではダメだ。確実に、彼が言った言葉で攻めなければ効かないだろう。なにかないかとよくよく考えて、ようやく思い出した。
 FOXだ。
「お前はFOXだ、それは認めるな?」
「そう名乗った覚えはない、俺はオウガ、それ以外のナニモノでもない」
「たしかにそうだ、だが警察内部で騒がれている殺人鬼、FOXの話をしたとき、お前はそれは自分のことだと認めただろ」
「そうだったかな……」
「そうだ、自分がFOXで、本名は沢村銀、そう言った」
「沢村銀……」
「そうだ」
 沢村の名をだすと、オウガは少しだけ表情を変えた。俯き加減に視線だけ上げる様子は、追い詰められたときの不良少年のそれと似ている。
 やはり彼には、迷いがある。自分のしていることが本当に正しいのかわからなくなってきているのだ。矢島はそう確信したが、当のオウガは、当然という顔で首を振った。
「その名は捨てた」
「だが戸籍上は沢村だろ」
「戸籍なんて意味はないぞ、親が届けなければ登録もされないんだ、この世に無戸籍児が何人いると思う?」
 オウガはまるで、自分がそうだとでも言いたげに世間へと毒を吐いた。その言い草が引っかかる。
 彼には立派な戸籍があり、休みがちだったとはいえ、学校にも通っていた。両親が殺された事件のあと、行方不明になってはいるが、それまでは普通に生活できていたはずだ。その憎しみがどこから来るのかが今一つピンとこない。
「なに、けっこう役に立つ、名前と戸籍がわかればお前がそれまでどう生きてきたのかが大まかでもわかる、それがわかれば、なぜ罪を犯したのか、その心理が見えてくる」
 少し説教じみた言いまわしでそう話すと、オウガはじゃあ当ててみろと言った。
「俺が今日までどう生きてきたか、あんた、わかるのか?」
「いや、それは……だが五年前までのことなら多少はわかるぞ、お前は沢村夫妻の一人息子で、中央区のマンションに両親と三人で住んでた、事件当時は新聞配達のバイトで暮らしを支えてた、なかなか感心な子供だ」
「やはりわかってないな」
「なにが? どこか違うか?」
「違わないさ」
 違わないと言いながら、オウガは不愉快そうに矢島を睨んだ。憎まれる理由がわからない。ただその憎悪だけは針のように皮膚に突き刺さった。
 なにが違うのか、なにが気に障ったのか、なにを見落としているのか、それがわからないまま、矢島も黙り込む。

 それからオウガは一言もしゃべらず、時間だけが過ぎた。そしてとうとう時間切れ、釈放のときとなる。
 オウガの持ち物……と言っても、凶器のナイフは返せないので、着ていた服と靴、カーキ色のフード付きコートだけが返却される。オウガは何の感動もなさそうな濁った瞳でそれらを受け取り、立ち上がった。枯れ果てたその姿を、矢島は割り切れない思いで見つめる
 取調室を出て、警察署の廊下を通り、表玄関へと歩く短い道のりを、オウガは本当にゆっくりと歩いた。出て行きたくないのかと聞きたくなるくらい、その足取りは重い。
 外には、絶望だけが待っている。
 彼の背は、そう言いたげに見えた。
 なにか言いたいのに言葉が浮かばない。深酒のあとの胸焼けのような、嫌な感覚を引き摺りながら、矢島もそのあとに続いた。
 警察署の分厚いガラス戸がすうっと開き、オウガが外へと出て行く。真昼の太陽は頭上高く輝き、外は呆れるくらいの晴天だ。眩しい太陽の光に目を細めながら、離れていくオウガを見つめた。
 一瞬……ほんの一瞬、明る過ぎる日の光に、オウガの姿が溶け込むように消えていく幻が見えた。
「おい!」
 慌てて声をかけると、オウガはピタリと足を止め、無表情に振り向いた。その無心な表情に、胸が締め付けられる。
 助けてくれと、言われている気がした。
 だが、どうすれば彼を救えるのか、思い浮かばない。妙に喉が渇き、自分の心臓の音がくっきりと聞こえる。
 なにか、言わなければならない。
「オウガ、最後にもう一度だけ、聞かせてくれ」
「なんだ?」
 相変わらず無感動にオウガは聞き返す。
 おかしい、どうかしている……まさか、あり得ないぞと繰り返しながら、矢島は口を開いた。
「お前はFOXだな?」
「ああ、そうだ」
 取調室ではすっ呆けていたというのに、オウガは呆れるくらいあっさりそうだと頷いた。今なら、答えるのかもしれない。
 期待で掌に熱い汗が滲み出る。指先は震え、喉はカラカラだ。張り付きそうなくらい乾ききった唇をこじ開け、矢島は核心を訊ねた。
「フィーンは今、どこにいる?」
「たぶん……」
「たぶん?」
「いや、今はわからない、だが、おそらく、すぐ戻ってくる」
「戻る? どこへ?」
「ここへ」
 ここ、と言って、オウガは自分の胸を指差した。静かな瞳に青白い炎が宿る。それを見つめる矢島の背には、冷たい汗が流れた。オウガの灯す青く冷たい炎に焼かれ、心臓が凍りつきそうだ。
「お前はナニモンだ?」
「俺はオウガだ」
 オウガは表情を変えない。その分だけ、矢島は動揺した。そこにいる青年、オウガの姿が、日の光に透けて見える。これではまるで……。
 這い登る嫌な予感を振り払うように、矢島は叫んだ。
「お前は本当にそこにいるのか?」
「いるだろ、見えないのか?」
「見えない! いや、見える……が、見えない」
「どっちなんだ?」
「見えてるが見えない、いや、お前……」
「お前? なんだ?」
 自分でも、理不尽で不合理なことを言っているとわかっていたが、抑えきれず矢島は叫んだ。背中に這い登る虫唾が、理性を飛ばす。
「お前! 本当は誰なんだ!」
「はっ」
 矢島の叫びに、オウガは虚を突かれたように目を丸くし、息を吐いた。
 そして、たっぷりと間を空けてから、静かに答える。

「……FOXだよ」

 オウガは、壮絶な瞳でニヤリと笑った。なぜか胸騒ぎがして、矢島も思わず怒鳴り返す。
「そうじゃない! 俺が聞きたいのはお前の……っ!」
 お前の正体が知りたいのではない。追い詰め、捉えたいのではない。ただ、真実が知りたいだけだ。知らなければならないと思っただけだ。そう叫びかけた。
 だが、オウガは足を止めることなく立ち去り、言いかけた言葉は、虚しく宙に消えた。


 なにもかもが気に食わない。全てが上手くいかない。行き詰まり、追い詰められたフィーンは、忌々しく地面を蹴り、天空を見上げた。
 嵐にでもなれば、気分も乗るのに生憎の晴天、雲一つない青空で、余計にムカムカする。

 オウガが消えれば、全て上手くいくと思っていた。ゼノは自分の言うことに反対はしない。邪魔するのはオウガだけだ。だからオウガを消そうと思った。
 だが、その結果、消えたのは、オウガではなく、ゼノだった。

 ゼノの消失はフィーンに大きな打撃を与えた。絶対に裏切らない、いなくならないと思い込んでいた存在が消えたのだ。心の平安は崩れ去り、精神は昂るばかりだ。
 誰の血でもいい、とにかく血が見たい。誰かを殴りたい。
 追い詰められ、切羽詰まったフィーンは、宮田刑事を使い、その欲求を晴らそうとした。だが出来なかったのだ。宮田が言うことを聞かなかった。襲撃は失敗し、宮田は逮捕された。
 このままでは自由を失う。仕方なくフィーンは宮田から離れた。

「クソッ!」
 霧のように淡く儚く、霧散していこうとする掌を見つめ、忌々しく唸る。一番嫌な手だが、それしかないらしい。
 覚悟を決めたフィーンは、幹線道路脇で彼を待った。早く来い、早く来いと待つ時間は長い。じりじりと消えてゆく掌に焦りを覚えながらただひたすらに待つ。そして小指が消えかける頃、彼は現れた。銀杏並木が続く道を無表情に歩いて来る。
 自分の勝ちを確信し、フィーンはニタリと笑いを噛み殺す。だが、彼に声をかけようとした瞬間、他方向から別の人間の声がした。

「ゼノ!」

 話しかけられた少年は不思議そうに口を開き、呆然とした瞳を向ける。そして、自分に話しかける相手が誰なのか、思考を巡らすように暫く見つめ、だいぶ経ってから、ようやく答えた。
「草薙、さん……?」

 驚いたように呟くゼノに、草薙は泣きそうな目をして駆け寄った。ゼノがいなくなったのは、僅か三週間前だが、それが悠久の過去に思える。
 もう会えないと思っていた。だから尚更、この偶然の再会が嬉しい。
「よかった、もう会えないと思ってたんだ」
「俺が、ゼノに見えるのか」
「なんだよ、まだ怒ってるのか? 悪かった、謝るよ」
「別に、怒ってやしない」
「じゃあなんで出て行ったんだ、気に障ったからじゃないのか?」
 ゼノの表情は、怒っていないというわりに固く、冷たかった。
「(ゼノが)なぜ出て行ったのか、教えてやろうか?」
 芝居がかった仕草でゼノは聞き返す。草薙は教えてくれと即答した。いつでも真剣で大真面目、それがこの若者の短所でもあり、長所でもある。
 真面目に突っ込まれれば、突っ込まれたほうも真面目に答えなければいけない気分になる。知らず知らずに本音が出る。思わず言ってはならない真実を口にしてしまいそうで、醜い自身を晒してしまいそうで怖くなるのだ。それはゼノも例外ではない。
「あんたに、見られたくないからさ」
「え……?」
 見られたくないから逃げた。
 憶測だが、たぶんそれは正解だ。大人は信じないといいながら、ゼノは草薙を信じた。だからこそ彼の言い分を聞き、同居の提案に応じた。その彼に背かれる、それが怖いのだ。
 自分もそうだが、ゼノは特にそうかもしれない。侵入を許し、心を開いた相手に嫌われ、恐怖されるのが怖い。信じて愛して、挙句捨てられるのが怖いのだ。だから逃げた。それが正解だ。
「全てを知ったあんたに、見放されるのが怖かったんだよ」
「え、あの……なんで」
 それまでとは全然違うゼノの態度、物言いに、草薙も戸惑う。見放されたと思ったのは、自分のほうだ。
 無理強いはしない。言いたくないだろうとわかっていることはしつこく探らない。嫌がることはしない。それが最初からの約束だった。それを破ったのは自分のほうだ。信じられないと見限られても仕方ないと思っていた。
 全面的に自分が悪い。だが心配だ。
 だからせめて、謝りたい。もしまた会えるのなら、きちんと謝り、また一緒に暮らしてくれないかと頼むつもりでいた。
「本当に心配したんだ、俺が悪かった、もうキミが嫌がることはしないから、帰ってきてくれないか?」
「どうして……」
「心配だから……乗りかかった船だし、というか、ほんとに」
「なんの得にもならないぞ」
「得をしようなんて思ってないよ」
「だろうな」
「え?」
「いや、何でもない」
 草薙の真剣さと実直に、心が揺れる。全て話してしまいたくなる。
 だがその結果、何がどう転ぶかは、予想もつかない。
 ただ一つ言えることは、このまま彼を突き放しても、ゼノは戻って来ないということだ。
 ゼノの消失は自分らの消失にもつながる。そうさせないためには、彼を救うためには、どうずればいいのか、そこを考えたとき、草薙は必要なパーツだと思えた。
 だがことは重大だ。そう簡単には信じられない。
「あんたはゼノが好きなのか?」
 思わず訊ねた質問に、草薙は少し戸惑った表情で頷いた。
「は? や、まあ、そりゃ当然……いや、別に変な意味じゃないぞ」
「わかってる」
「……なら、いいんだけど」
「帰ってきて、くれるかい?」
「そうだな……とりあえず、あんたの家に行こうか、詳しい話はそのあとだ」
「詳しい?」
「ああ、いろいろとな、あんたには話しとかなきゃならないと思う」
「いろいろって、なにを……?」
「それはあとで、ゆっくりと話そう」

 大人びた表情のゼノは、顔を動かさず、視線だけであたりを覗いながら話した。時折小さな肩がピクリと震え、なにかを警戒しているように見える。
「なに、なんかあるのか?」
 最初会ったときも、彼はやくざ者らしき男たちとトラブルを起こしていたようだった。結局あのときの理由も聞かせてもらっていないが、家に保護していたときも傷を負ってくることが多かった。
 もしかしたらあれは終わっていなかったのではないか? あのときの連中は全部死んでいるが、他に仲間がいないとも限らない。
 もしゼノが何らかのトラブルに巻き込まれ、やくざ者に追われているとしたら、家になかなか帰って来なかったのも、自分を巻き込むまいとしてのことだったのかも……。
 思い描いた想像が正解のような気がして、草薙は息を飲んだ。今も何者かがこの子を狙っているのかもしれないと思えば背筋も寒くなる。
「追われてるとか?」
 思わず訊ねると、ゼノは仔細ありげな目をしてそっけなく、別にと答えた。だがさらに突っ込むと、今度は目を伏せ、少し低くなった声で、あとで話すと答え、先に立って歩き出す。それが正解なのだと判断した草薙も後を追った。今度は彼も話してくれるだろう。
 全ては、家に帰ってからだ。

 そこから草薙の家までは電車を乗り継ぎ、駅からも少し歩く。その間ゼノはずっと黙っていたが、電車を降り際、草薙の存在を無視するかのように、前方を見つめたまま、急に口をきいた。
「あんた、なぜあそこにいた?」
「え?」
 さっきゼノを見かけ、声をかけたのは、同じ都内ではあるが、草薙のアパートとはかなり離れている。バイト先からも遠い。それなのになぜと言うのだろう。静かながらも、有無を言わせない威圧感のある問いに、ドキリとした。
 ここで返事を間違えてはいけない。間違えれば彼はまた自分から離れてしまうだろう。離れたら最後、今度こそ見つけられなくなる。
 そう考えた草薙は、全てを正直に話すことにした。相手の誠意を得たいなら、こちらがまず誠意を尽くさなければならない。
「実はね、重田さんから聞いたんだ」
「重田? 奴がなんと?」
「うん、僕がキミを探してるって話したら、あのへんにいるかもしれないって」
 東京都渋谷区、渋谷駅を挟んで、ハチ公広場と点対称になるあたり、有態に言えば渋谷警察署付近だ。重田は、その日、そのあたりにゼノがいるかもしれないと草薙に話した。
 彼がなぜそんなことを知っているのかわからないが、それを頼りに捜し歩き、偶然出会えた。そう話すと、ゼノはさっきより少し視線を落とし、ポケットに両手を突っ込んだまま、早足で歩いた。
「どうしたんだ、なにか引っかかる?」
「やはり殺しておくべきだったな」
「え?」
 物騒なセリフにドキリといて、思わず前を行くゼノの腕を引く。すると彼は静かに振り返り、子供とも思えない力で草薙の手を外した。その目は憎しみと軽蔑に満ち、気のせいか青く光って見えた。
「あの刑事に俺たちの情報を流したのは重田ってことさ、いや、最初からつるんでたのかもな」
「なに、情報? なんの話なんだ」
「……なんでもない」
 それきりゼノはなにも言わなくなった。黙ったまま、先へ先へと急ぐ。また失敗したかなと不安になる。
 だが彼は話してくれると言った。だから信じようと思い、草薙は後を追った。

 ***

 家につくと、ゼノは一変して所在なげな顔であたりをきょろきょろと見回した。どこに居ればいいのかわからない。そんな感じだ。
「どうした? 座っていいんだぞ」
 彼がいつも座っていた長椅子を指して話すと、ゼノは今気が付いたというように小さく頷き、恐る恐ると腰かける。まるで借りてきた猫だ。
 彼は、こんなに他人行儀だったろうか?
 横柄な態度でも、冷たい対応をしていたとしても、これまでのゼノには、こちらに対する親しみというか、一種甘えに似た身内感があった。憎まれ口もそっけない態度も、気を許しているからこそのもののように見えた。だが、今の彼にはそれがない。初めて会った他人のようだ。いや、もともと他人だが、それにしても……。
 なんとなく妙だなと思った。
 思ったとたん、本当に彼が別人に見えてきた。
 浅黒い肌。
 薄く灰色っぽく見える髪。
 緑がかった色の薄い瞳。
 筋肉の発達した腕。
 どんより曇った生気のない表情。
 全身から感じられる異常なまでの警戒心。
 そのすべてがそれまでのゼノのイメージからかけ離れている。もはや別人。逆に、よくこれで彼をゼノだと確信できたものだと思いたくなる。
 それほど、今、目の前にいる彼は他人だ。
「キミは……誰だ?」
 思わず口に出た。
 普通なら、これまでのゼノなら、なに言ってんですかと半分呆れたように肩を竦めて答えたはずだ。だが今ここにいる彼は、真顔のまま、黙って見返すだけだ。背中に冷たいムズ痒さが奔る。
「ゼノ……じゃ、ない、のか?」
 絞り出すように訊ねた。すると彼は、真正面から草薙を見つめ、答える。
「ようやく気づいたか」
「気づいたって……なにに?」
 静かな瞳で自分を見返し、熱のない言葉で淡々と答える目の前の子供に、草薙は戦慄した。姿かたちはたしかにゼノなのに、違う。どこが違うと聞かれれば上手くは答えられないが、違う。醸し出す空気は完全に別人だ。だがまさかそうとも言えない。在り得ない。
 自分で導き出した答えが信じられず、問い返した。するとゼノは、自分の生死にさえ興味なさそうな冷たく乾いた声で答えた。
「今、自分で言っただろ」
「自分で? え、や、ゼノ……」
「ゼノじゃない」
「え……」
「俺はゼノじゃない」
 ゼノの顔をした見知らぬ子供は、静かに、だがはっきりと、自分はゼノではないと言った。その答えに草薙が動揺する。しかし彼はさほど表情を変えず、真顔のまま淡々と話を続けた。
「ゼノはあんたを気に入っていた、いや、懐いていたと言ってもいい」
「え、や、そんな」
 懐かれていた覚えはない。
 草薙はそう思ったが、目の前の子供はそうだと頷く。
「暗黙の了解で、俺たちの中で意見が割れたとき、最終判断はゼノに任せるというのがあった」
「うん?」
「ゼノはあんたを信頼していた、俺もあんたを信じる、だからあんたも、ちゃんと聞かなきゃいけない」
「よくわからないけど、わかったよ、ちゃんと聞く、話してくれ」 
 俺たちとは誰と誰のことだろうと思いつつ、相槌を打った。なにがどうなっているのかはわからないが、これは聞かなければならない話だと思ったからだ。それをある種の覚悟と受け取ったのか、子供はゆっくり話し始める。

「俺たちの出会いは五年前、季節は夏だった」


 お腹、空いたな……。
 目を覚ますと真っ先に考える。というより、腹の痛みで目が覚めると言ったほうが正しいかもしれない。
 胃の中になにも入っていないので、腹が空き過ぎて痛むのだ。
 家にはいつも食べるものがない。たまにはなにか食事にありつけることもあるが、たいていの場合、母か父が全部食べてしまう。夕べも、鳥の唐揚げを頬張る父親に、お腹が空いたと訴えたが、意地汚い奴だと罵られ、殴られただけだった。
 仕方なく幼い妹と二人、腹を空かせたまま眠り込んだ。そして次の朝、埃だらけで薄汚れた床の上に、珈琲の染みがあるのを見つけた。
 おそらく夕べのうちに、父か母が零したのだろう。腹が減っていた晴《はる》は、床に這い蹲ってその染みを舐めた。
 甘い。
 珈琲に含まれた僅かな砂糖の甘さが、乾いた舌にチリチリと甘味を伝えた。
 僅かな甘味を得ると、今度は喉の渇きに気づく。いつも不機嫌な父は、些細なことで怒り狂い、晴を殴る。昨日もなにが気に障ったのか、機嫌が悪く、お腹が空いたと言ったら殴られた。平謝りでその場を逃れたが、父の機嫌は悪いままだった。
 姿を見られたらまた殴られる。危険を感じた晴は、小さな妹、ヒナを連れ、押入れの中に隠れた。それから朝までずっと押入れの中だ。空腹も限界だった。
「ヒナ、ヒナ、来てごらん」
 妹のヒナは、五歳、普通なら幼稚園に通っている歳で、言葉も達者になる頃だ。だがヒナは未だ片言しか喋れない。声も小さい。こちらの言っていることはわかるので、知能が遅れているというわけではないだろう。おそらく、いつも母親に、声を出すな、静かにしていろと言われているせいだ。喋る機会がないから喋れない。
「おいで、いいものがあるよ」
「んまんま?」
 拙い足取りで、ほんの数歩歩いたヒナは、すぐ床に尻をついた。
 彼女は足の力が弱く、長い時間歩けない。両手を床につき、座り込んだ姿勢のまま、ずりずりと躄《いざ》る。そのほうが早い。殆ど歩けないヒナは、躄《いざ》ることでしか移動出来ない。ようやく近くへ来た彼女に、晴は茶色い染みを示した。
「そう、まんまだよ、甘いよ、舐めてみて」
「ん、ん、ん……んまんま」
 ゴミも泥も一緒くたにして、ヒナはその染みを舐めた。
 零れてから半日経った珈琲の染みだ、味などわかるはずがない。そも、それはただの汚れだ。だが彼女の干乾びた舌は、その甘味を感じ取ったのだろう。夢中でそれを舐め続ける。
「美味しい? ヒナ、甘い?」
「んまんま、ま」
 晴は妹が床を舐めるのを、傍に屈んでジッと見ていた。鳩尾のあたりが、きりきりと痛む。痛みと吐き気で胸が焼けつきそうだ。なにか口に入れたい。お腹に入れたい。せめて味だけでも感じたい。だが僅かな珈琲の染みは、全部ヒナが舐めてしまった。
「にいに、んまんま」
「美味しかった? 良かったね」
 味がしなくなった床から離れ、ヒナが顔を上げる。晴は小さな妹の痩せこけた頬を、そっと撫でた。
 彼女はまだ物足りないのだろう、もっと甘味をくれと晴の袖を掴む。その手はかさかさで、栄養が足らず生えそろうことができなかった髪は薄い。だが瞳は大きくて、可愛らしかった。小さな顔に、目だけがあるような、アンバランスな顔だが、晴は可愛いと思った。母親を別にすれば、世界で一番可愛い。と言っても、実際は世界なんて知らないし、あまり外には出たことがないので、世界がどんなものなのかもわからない。だがきっとそうに違いないと思っていた。

「んま、ま、にいに、ま、ま」
 小さなヒナが空腹を訴える。しかし目に付く場所に食べ物はない。どこかに砂糖があったハズだと思ったが、置き場がわからない。
 せめて水が欲しい。
 水分を求め、晴は流し台に向かった。食卓の椅子を引っ張ってきてそれに乗り、手を伸ばすと、ようやく蛇口まで手が届く。キュッと捻ると、勢いよく水が流れ出した。
 晴は身を乗り出し、それを夢中で飲んだ。いくら飲んでも水は水。腹の足しにはならないが、渇きは癒せる。鳩尾の痛みを癒すやため、たらふく飲んだ。そうして自分の腹が膨れるころ、椅子の傍で掴まり立ちしているヒナを思い出す。
「ごめん、ヒナ」
 ヒナにも水を飲ませてやらなければと考えた晴は、食器棚から硝子のコップ取り出し、それに水を満たした。そして床で待つ妹の傍にしゃがみこむ。
「ほら水だよ、ヒナ」
 両手でしっかりとコップを握り、妹の小さな口元に宛がう。彼女はほぼ一日ぶりの水を、ぺちゃぺちゃと舐め、啜った。ごくごくと喉を鳴らして飲むには、留飲する力が足らないのだ。
 栄養不良で標準よりずっと小さなヒナは、目もよく見えていないし、手の力も弱い。水の入ったコップを持たせると、落としてしまう。そうなると、水は飲めなくなるし、床を濡らすことになる。そんなところを父親に見つかったら一大事だ。大きな手で、気絶するまで殴られる。
 自分はまだいい。だが、小さなヒナが蹴り回されるのだけは見たくない。だから慎重に慎重にと気を使い、万が一にもコップを落とさないように気を張った。
 しかし、そういうときに限って、悪いことは起きるものだ。奥の部屋で眠っていた父親が起きたのだろう、寝室のドアが開く音がした。
 父親が来る。また殴られる。
 ギクリとした晴は、思わず手の力を緩める。その途端、水を求めるヒナの勢いに押され、コップを取り落とした。重力に負け、コップは床に落ちる。割れることはなかったが、床は水浸しになった。
「あー、ああー」
 水が零れ、飲めなくなったことで、ヒナが泣く。その声と、コップの落ちる音を聞きつけ、父親がなにか怒鳴り散らしながら台所へやってくる。晴は歩けない妹の手をギュッと握った。
「ヒナ、おいで!」
 床に零れた水や、落ちたコップを、父親が来る前に片付けるのは無理だ。責められるのは、避けられない。それならせめて、ヒナだけでも助けたい。咄嗟にそう考えた晴は、嫌がる妹の手を握り、半ば引き摺るようにして台所の収納戸棚を開けた。そして鍋やまな板が収められている収納庫の小さな隙間に、妹の身体を押し込む。
「鬼が来る、ヒナはいい子でそこにいな」
 見つかったらぶたれるから出てきちゃダメだ、声も出すなと念を押し、急いで収納庫の戸を閉めた。それとほぼ同時に、台所のドアが開き、父親が現れる。
「晴か? お前、そこで何してる!」
 水浸しの床と、転がるコップ。それに怯えた晴を睨み、父親が怒鳴る。背後にいるヒナに、気づかれちゃダメだ。晴は、ドキドキしながら首を振った。
「なにも……なにもしてないよ、お父さん」
 小さなヒナがぶたれるのを見るのは嫌だ。だが自分もぶたれたくない。晴は必死でなんでもないと言い張った。だが床は水浸しだ。父親はそれに気づき、目を吊り上げた。
「これはお前の仕業か? そうだろ? 誤魔化しやがって、この極潰しが!」
「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい!」
 怒鳴り声を上げた父親が殴りかる。晴は咄嗟に頭を抱え、身体を丸めて蹲った。小さく丸まった晴を、父親はムキになって殴りつける。なかなか打撃を与えられないので、意地になり、今度は蹴りつけてきた。大きな足で横腹を蹴られ、晴は床に転がった。ひっくり返った晴を、父親は容赦なく蹴りつけてくる。晴は命の危険に怯えながらも、必死に謝った。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうしません、ごめんなさい!」

――喉が渇いてたんだ、だから水を飲んだ、それのどこが悪い!
――子供を罵ることしか出来ないのか、能無しめ!

 頭の隅で、高圧的な声がする。
 父の暴力が止まなかったとき、腹が空き過ぎたとき、詰られた時、ナニモノかの声が、そんな奴、殺してしまえと囁いた。そのたび晴は、その声を振り切ろうと、心の中で叫び返す。
 お父さんが怒るのは、僕が悪い子だからだ。お父さんが悪いんじゃない、お父さんが悪いんじゃない!
「ごめんなさい! ごめんなさい、許してください、もうしません、ごめんなさい!」
「うるせえ! 本当に悪いと思うならさっさと死ねよ!」
 何度謝っても、父親の怒りは治まらなかった。彼の耳には晴の口から出る言葉が全て、自分への非難、嘲りに聞えるのだろう。謝れば謝るほど、何か言えば言うほど、怒り狂った。
「お前なんか生まれて来なきゃよかったんだよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
 身体を丸め、蹲り、晴はただ、父親の気が治まるのを待った。逆らえば長引く、ジッとしていればわりと早く終わる。少しの間、耐えていればいいんだと目を閉じ続ける。
 閉じられた瞼の裏に、己の死と、ヒナの顔が浮かんだ。

 殴られるのが嫌なら、逃げればいい。外へ出て、助けを求めればいい。だが、それは出来なかった。
 別に監禁されているわけではない、出ようと思えばいつでも出られる。しかし、出られない。
 それは晴が幽霊だからだ。

 晴が生まれたとき、家は今よりさらに貧乏で、晴の母は誰にも内緒で晴を生み落とした。出生届も出されていない。家には子供などいないことになっている。
 いないはずの子供にちょろちょろされると迷惑だ。だから勝手に外に出るなと、日頃から煩く言いつけられていた。それを破ることは出来ない。
「お前が悪いんだ、全部お前が悪いんだ、悪魔め! ふざけんじゃねえぞ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 止むことのない激しい暴行に、晴は蹲る。自分はこのまま死ぬのかもしれないと思った。
 死にたくないなら家を出るしかない。頭ではわかっていたが、それも出来ない。自分が逃げれば妹は一人になってしまう。
 彼女は満足に歩けない。口も回らない。目もほとんど見えていない。とても外には出られない。ヒナをおいては行けない。
 彼女を護るために、自分は生きなければならない。それが晴の枷だった。
 
「死ねよ! さっさと死ね! 死んじまえ!」
 罵りとしても低俗な言葉を吐き散らしながら、父親は晴を殴り、蹴り回し続ける。身体を丸め、蹲った晴は、ただ父親の気が治まるのを待ち続け、やがて気を失った。


 銀《ぎん》の父、俊夫《としお》は、小さな畳店に勤務する畳職人だった。

 俊夫は当時、店で事務のアルバイトをしていた女性、瞳子《とうこ》に一目惚れし、積極的に求愛を繰り返した。それに押される形で瞳子も絆され、二人は同棲を始め、彼女が妊娠したのを機に結婚、銀が生まれる。

 始めは幸せだった。
 だが妻の瞳子は派手好きの遊び好き、二人の暮らしはすぐに行き詰まった。
 資産家の一人娘として生まれた瞳子は、事務の仕事を始めるまで一度も働いたことがなかったらしい。元々働くことが好きではなかったのだろう。銀を生んだあとは専業主婦に納まり、いっさい働かなくなった。美しいが世間知らずで浪費家な彼女は毎日毎日呆れるほど金を使い、暮らしは忽ち困窮した。
 このままではダメだ。俊夫は家計の管理を自分でやると決めた。そして改めて見た預金通帳の残高がゼロになっていることに驚く。
 毎日使っている金はどこから出ているのか、問い質すと、瞳子はカード払いだと答えた。
 ほどなく家にはカード会社からの督促状が毎日のように届き、元々困窮していた家計はますます圧迫される。
 どうにもやりくりができなくなった俊夫は疲れ果て、瞳子の親に資金の援助を申し入れた。瞳子の両親は、娘可愛さで援助を了承したが、それも二度、三度となると融通も効かなくなって来る。
 義父たちは、借金をすべて俊夫の稼ぎが悪いからだと決め付け、その度に責めた。
 冗談じゃない、あんたらの娘がこさえた借金だと怒鳴りたかったが、大金を出してもらう身としては、そんなことは言えない。鬱積は溜まり続け、借金は何とかなっても、神経が持たなくなってくる。俊夫は徐々に追い込まれていった。
 どうせ働いても雀の涙、瞳子の贅沢で雪だるま式に作られる借金も、本人の実家が清算してくれるのだ。なにもちまちま働く必要はないと自棄になった俊夫は、仕事も辞め、ふらふらと遊び呆けるようになる。
 しかしそれから半年後、堪忍袋の緒が切れたのか、瞳子の両親は娘夫婦に絶縁を言い渡した。
 一切の援助がなくなり、食料も尽きる。仕事はない、金もない。あるのは借金だけという生活になり、暮らしは荒れた。
 焦った俊夫は日雇いのバイトを始めたが、それでも瞳子の浪費は止まない。
 いくら言い聞かせても、自由にさせれば彼女はすぐ金を使う。まさか縛っておくわけにも行かず、どうにもならなくなった。

 二人の間に生まれた息子、銀は、そのころ十歳になろうとしていた。子供一人といえど、生きていれば食い扶ちだ。食べさせないわけにもいかないし、学費もかかる。瞳子一人養うので手一杯のこの家で、子供まで面倒見る余力はない。この子が死んでくれれば、その分、金が浮く。それだけでもだいぶ違う。そんな考えが頭を過ぎった。

 時は冬、部屋にはストーブがあり、灯油の入ったポリタンクがある。
 子供は悪戯好きだ。親のいない間に、好奇心にかられ、マッチ遊びを始めても、なんらおかしくはない。何度も火をつけては消し、皿の上に燃え滓になったマッチを並べる。そんなくだらない遊びだ。
 そして、何度目かのマッチを擦った時、手元が狂い、火のついたマッチが落ちる。忽ち火は燃え広がり、子供はめでたく焼死。
 子供を焼いた火は、燃え広がり、家も焼け落ちる。家が焼ければ、火災保険が下りる。厄介者が消え、金も手に入る。金が手に入れば、瞳子も戻ってくるかもしれない。
 浅はかに、非情に、なんの呵責《かしゃく》もなくそう結論した俊夫は、ポケットからハンカチを取り出した。それに僅か、灯油を垂らし、子供の懐に押し込む。そしてストーブの横から持ち出して来たマッチを擦った。
 ポッと小さな炎があがり、気分が高揚する。昂った気分のまま、押し込んだハンカチに火をつける……と同時に、部屋の戸が開き、瞳子が帰って来た。

「きゃあっ!」
 部屋に入るなり、目の前に燃え上がる炎を見つけ、瞳子は反射的に叫び声を上げた。俊夫も慌てて消火に回る。だが慌ててしまい、全てにもたつく。火が消えたのは数分後のことだった。。

 ***

 最初の計画が破綻したことで、俊夫も直接銀を殺すことは諦めた。だが、事態はずっと悪くなった。
 瞳子は、俊夫が銀を焼き殺そうとしたとヒステリックに喚き、そのうち私も殺す気でしょうと叫ぶ。あれは事故だと言い訳をしたが聞かず、殺人鬼のいる家なんかに居られないわと、家には殆ど戻らなくなった。
 自棄になった俊夫は、日雇いの仕事で得た金を、全部酒に変えて飲んだくれる。

 母親は出て行く、父親は飲んだくれ、その狭間で、一人取り残された銀は途方に暮れた。両親の無関心は幼い銀にとって死活問題だ。
 それまでも父親との仲はそう良くはなかったが、母親との関係は良好だった。
 母親は銀の可愛らしく整った顔と、ふっくらした柔らかそうな頬がお気に入りで、お前はいい子、可愛い子と、まるでペットのように抱きしめた。だがそれは自分に似合いのブランド物を愛でるのと同じ行為だ。お気に入りの顔に大きなケロイド痕が張り付いた途端、彼女は驚くほど無関心になった。
 両親に見捨てられた銀は、その日食べる物にも困るようになった。そこで銀の境遇に同情してくれた新聞屋の男に無理を言い、チラシ折込などの雑用をする代わりにと、僅かばかりの金を得て、それで食い繋ぐ。
 だが困るのは食事だけではない。銀の住む家は都内の高層マンションで、しかも賃貸だ。家賃も決して安くはない。その上都会のど真ん中、電気、ガス、水道と、光熱費だってバカにはならない。
 必要に迫られた銀は、中学に入学する頃には新聞配達や集金業務までやるようになり、家賃も光熱費も自分の食費も全てそれで賄うようになった。おかげで学校へは殆ど行かれない。当然友だちは一人もいなかった。
 友達がいない理由はそれだけではない。銀の顔半面には、醜く引き攣れ、青黒くなった火傷の痕があり、それを気味悪がって誰も近づいては来ないのだ。
 最初は、それを淋しいと思ったが、すぐに慣れた。
 友だちなどいらない。
 ただひたすらに金を稼ぎ、食い繋ぐ。
 そんな銀を、父、俊夫は、可愛げのない奴と罵り、銀の稼いだ金で暮らせているにもかかわらず、生意気だ、お前は親をバカにしてるんだろうと怒鳴りつけた。だが、そんなことにかまってはいられない。どうでもいい。僕を嫌いなら嫌いでいい、好かれようとは思ってない。そう自分に言い聞かせ、懸命に心を閉ざした。

 そんなある日のこと、収入を上げるため、自主的に新規開拓も行っていた銀は、いつもより少しだけ足を伸ばし、隣町まで歩いた。
 新聞にもいろいろあり、銀の店ではスポーツ新聞や、普通の新聞の他に、女性向けや子供新聞なども取り扱っていた。それぞれの読者層に合わせ、ファッションや芸能、子ども向けなら有名私立小学校や中学の入試問題、その対策なども掲載し、購買欲をそそっている。そこでその家に適した新聞を勧めるため、各家庭の収入、暮らしぶり、家族構成などを調べていた。そして行き当たったのがその貸家だ。
 その家には若夫婦が二人だけで住んでいるとのことだが、どうも夫婦だけでなく、子供もいるようなのだ。

 夫らしき男がいるときは感じないが、妻が一人で家にいるときや、妻の気配もないとき、そっと近づくと薄い壁越しに子供の泣き声が聞える。その声は、子供というよりは仔猫のような感じで、小さく弱々しかった。
 近所で聞いてみても、その家に子供はないと言うが、確かに聞える。
 どうせ他人事、気にしないで放りだしておいても良かったのだが、声の弱々しさが気になった。
 そこで、夫婦共に留守らしいと判断したある夏の夕方、その泣き声に話しかけてみた。
 貸家には、車が一台停められる程度の小さな前庭と、物干しなどをするためのスペースか、同じ位の広さの裏庭があった。裏庭の後ろは雑木林で、その境にはキッチリと茶の木が植わっている。安い賃貸にしてはいい感じだ。
 こんなところを誰かに見られたら泥棒扱いを受けそうだなとドキドキしながら、小さな物音と泣き声が聞える壁に張り付く。
「誰かいるの?」
 小声で話しかけてみた。その途端、物音と声はピタリと止む。どうも警戒しているようだ。
 銀は根気強く話しかけ、なにか困ったことがあるのかと聞いた。すると何度目かの問いに、家の中から遠慮がちな返事がかえって来た。
「なにか、食べるもの、持ってないですか?」
「え?」
「妹が、お腹を空かせてるんです、泣くなって言ってもぐずっちゃって……煩くしてごめんなさい」
 それは自身もまだ幼そうな子供の声だった。話を聞く限り、兄のほうは小さいに合わず、礼儀正しい。こんな幼い兄妹が、両親の留守に物乞いをする。それはよほどのことだ。
 自分より不幸な状況の子供がいる。その事実に衝撃を受けた銀は、その日もらったばかりの給料袋を開けた。
「ここ、開けて」
 寄りかかった部屋の小さな窓を叩き話すと、窓はほんの少し開いた。そこから中を覗きこむ。僅かな隙間から見える部屋は散らかり放題で、腐臭と熱気が漂っていた。
 これが人の住む家か?
 自分の家もあまり綺麗ではないが、この比ではない。あまりの酷さに心臓が押し潰されそうな衝撃を受けた銀は、胸が痛くなるような動悸を抑え、千円札を握り締めた。
「これ、あげるから、なんか買って食べな」
 だが、差し入れた金を、中の子供は受け取らなかった。自分たちは外に出られない。だから買い物にはいけないんだと答える。外に出られないとは、どういう状況なのだろうかと考えると、恐ろしさで背筋がゾッとした。
 自分もたいがい酷い暮らしをしていると思っていたが、それどころではない。自分は外に出られるし働ける。暮らしは大変だし、仕事も辛いが、家にはエアコンもあるし、食うにも困らない。自分はまだ幸せだったんだと気づき、なんの謂われなく罪悪感さえ覚えた。背中には脂汗が滲み、札を握った手も震える。辺りには真夏の熱風が吹き抜け、滲んだ汗は止まらない。
「ちょっと待ってて」
 風の音にはっと我に帰った銀は、子供にそういい残し、近くのコンビニへと走った。そこでおにぎりとペットボトルの飲み物を買い込み、急いで戻る。そして細く開けられた窓からそれを渡した。子供はありがとうとそれを受け取ったが、外の人に会っていると知られたら殴られるからごめんなさいとすぐに窓を閉じた。

 この子らの存在は世間に秘密なのだ。
 だがでは、誰がこの子らを心配し、面倒を見るのだろう? 放っておいたら死ぬんじゃないか?
 テレビのニュースでは、子供の虐待死や、家庭内事故死などがちょくちょく報じられている。この子らも、いつかそうなる。きっと、それほど遠くない未来に……。
 
「また来るよ、妹さんの面倒見るの、大変だろうけど、キミも、元気でね」
 自分で想像した結末にドキドキしながら、それだけを言い残し、銀は逃げるようにその場を離れた。

 帰宅すると、今度は、いつも不機嫌な父親に、帰りが遅いと殴られた。彼はその日が銀の給料日と知っていて、集ろうと考えていたらしい。殴り倒した銀から給料袋を取り上げる。
「なにするの! 返してよ!」
「うるせえな、子供は金なんか持つもんじゃねよ、はいどうぞと親に渡しとくもんだぜ」
「お父さん、渡したら全部使っちゃうじゃないか!」
「うるせえっつってんだろ! 金は使う為にあんだよ!」
「ダメだってば! 家賃とか電気代とかあるんだから、返して!」
「しつけえな、ちっと借りるだけだ、返すよ!」
 父親は、給料袋から札を数枚取り出し、これだけあれば足りるだろと残りを投げ返す。拾い上げた中味は、半分以下になっていた。これでは家賃は払えても、光熱費が出ない。足りないよと怒鳴り返し、少しは戻してもらったが、食費はいつもの半分になった。
「お父さん、最低だ……」
「あ? なんだって?」
「……なんでもない」
 言っても無駄だ。反抗すれば余計に怒らせるだけでいいことはない。咄嗟にそう思った銀は口を噤んだ。だがそれも気に喰わなかったのだろう。父親はそれが親を見る目か、化け物めと激昂し、殴りかかってきた。
 その頃すでに父を越すほど背が高くなっていた銀は、自分が本気で抵抗すれば父を負かすことも出来るとわかっていたがそれはしたくなかった。子供にやり返されて負けては父だって立場がないだろう。どんな人間でも子供にとっては親だ。親には立派であってほしい。尊敬できる人であって欲しかった。
 だが、子の心、親知らず、それからも父親は、銀の様子を監視し、給料日と見ればその金を毟り取る。自由になる金は殆ど手元に残らず、銀も自分が生きていくだけで精一杯になった。
 そしていつしか、心にかかっていた幼い兄妹のことを忘れた。

 金を稼いではその殆どを父親に取られるという生活は、銀の気力を剥ぎ取っていく。救いは、金を得た事で、余裕が出来たせいか、父親も少しは働くようになり、それに伴って母親も家に戻る日が多くなってきたことだ。
 学校に行けないことや、仕事が大変で身体がきついということを覗けば、一見平和な日々が続き、それは銀の心身を麻痺させた。

 自分さえ我慢していれば家は平和だ。父も働くし、母も家に戻る日が多くなる。だからこれで良いんだと、ただひたすらに働く。
 父も母も喜んでくれている。自分たちは上手くやっている。
 そう思い込もうとした。


――おにいちゃん。

 夢の中で、自分を呼ぶヒナの声がした。そっと目を開け、声のするほうを見ると、そこには妹の可愛らしい顔があった。
 髪もきちんと生え揃い、おかっぱ頭にピンク色の小さなリボンをしている。服もリボンとお揃いのベビーピンクで、手には小さなぬいぐるみを持っていた。いつだか部屋に放り出してあった雑誌に載っていた、小振りのテディベアだ。ぬいぐるみのくせに、ヒナと同じデザインの服をつけている。
「ヒナ……どうしたの? 可愛いね」
 問いかけてもヒナは答えず、ただニコニコと笑っていた。酷く身体がだるかったが、ヒナが幸せそうに笑うので、晴も嬉しくなった。
 無理して起き上がろうとすると、彼女はそれを制し、小さなポシェットからパステルカラーに輝く飴玉《あめだま》を取り出す。
「はい」
「どうしたの、これ、くれるの?」
「うん、あげる」
 飴玉なんて、ずいぶん久しぶりに見た。うちにお菓子があるなんて、いったいどこから見つけてきたのだろう。もしかしたらお母さんがくれたのかな? でも、そんなことあるかな? 不思議に思いながらも、晴は差し出された飴玉をヒナの手元に押し返した。
「僕はいいよ、ヒナ食べな?」
「いい、ヒナたくさんもってるから、おにいちゃんたべて」
「でも……」
「おにいちゃん、いつもヒナをまもってくれて、ありがとうね」
「当たり前だよ、僕はお兄ちゃんなんだから」
「ヒナ、おにいちゃんのいもうとでよかった、おにいちゃん、だいすき」
 だからあげると、ヒナは飴玉を差し出す。不思議な虹色をした小さな飴は、硝子細工のビー玉のように、きらきら光って見えた。恐る恐る、その珠を手に取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 晴に飴玉を手渡したヒナは、大人びた口調でおしゃまに答え、とても幸せそうに微笑んだ。その微笑が眩しくて、晴は目を細める。小さいはずの妹が、とても大きく、美しく見えた。
 手の中の飴玉が熱い。
「ごめんヒナ、お兄ちゃん、ちょっと眠い……」
「うん、ねていいよ、ヒナここにいるから」
「ごめんねヒナ」
「へいき、おやすみ、おにいちゃん」
「うん、おやすみ、ヒナ」
 妹から飴玉を貰い、晴はそれを握り締めて目を閉じた。
 きっと、お父さんが改心してくれたんだ。ヒナやお母さんを可哀想に思って、うんと働いてくれたんだ。
 もう、お腹が空いて泣くこともない。お母さんも、ヒナも、みんな幸せになれるんだ。
 良かった。
 安らかな気持ちで目を閉じた晴は、それからまたずいぶんと長く、眠り続けた。そして、引き攣るような胃の痛みと、頭痛で目を覚ます。

 目の前が暗い。ここはどこだと首を捻る。
 そっと手を伸ばすと、木で出来た梁と、和紙に触れた。いつもの押入れだ。ではあれは夢か……?
 そういえば、ヒナはあんなにすらすらと喋れない。満足に歩くこともできない。髪も、ばさばさで薄い。あれは、こうであって欲しいと願う、自分の願望が見せた夢だったのだ。
 でも、幸せな夢だったなと口を硬く結び、晴は半身を起こした。そして反射的に伸ばした手の先に、ヒナがいないと気づく。
「ヒナ?」
 慌てて起き上がり、晴は傍らを手探りで探した。だが隅から隅まで探しても、ヒナの小さな身体にはつき当たらない。
「ヒナ、ヒナ、どこ? ヒナ、返事して!」
 妹を探し、声を上げる。するとその声を聞きつけたのか、押入れの襖が僅かに開いた。
「ダメよ晴、お父さん、今寝てるの、静かにして」
「お母さん……?」
 顔を出したのは母親だった。細い手をした母親は、押入れの中の晴にそっと触れ、怯えた声で、大丈夫かと聞いた。開けられた襖の隙間から入る光で、晴は自分の惨状に気づく。手足は内出血で変色し、ところどころ腫れ上がって、まるで怪物のようだ。着ている服は、傷から染み出た血で汚れ、ごわごわと固まっていた。
「お母さんが、助けてくれたの?」
 その惨状を見て、晴はようやく思い出した。自分はあの時、怒り狂った父親に殴られ、気を失ったのだ。あのあと、どうなったのだろう? 父親は、動かなくなった自分を見て、それ以上殴るのをやめ、放り捨てていったに違いない。そして母がそれを見つけ、匿ってくれた……だが、では、ヒナは?
 突然その疑問に突き当たった晴は、怯えた目をして、ただおろおろと座り込んでいる母親に叫んだ。
「お母さん、ヒナは? ヒナはどこ?」
「ヒナ? え、知らないわ」
「知らないって、そんな、ヒナだよ、お母さん、見てないの?」
「やめて! 怒鳴らないでよ、お前までお母さんを責めるの?」
「お母さん……」
 食事も満足に取れず、いつも夫に責められ詰られ続けた母親は、精神を病んでいた。大きな物音に怯え、子供の泣き声に怯え、何かあれば自分の殻に閉じこもる。
 今も、彼女は晴の叫びを聞いてはいない。耳を塞ぎ、目を固く閉じている。
「知らない、知らない……知りません」
 ブツブツと何かを繰り返し、耳をふさいで蹲る母親を、晴は悲しく見つめた。
 これ以上、お母さんになにかを聞いてはいけない。聞けば彼女は壊れてしまう。
 蹲る母親の横をすり抜け、晴は押入れの外に這い出た。

「ヒナ、ヒナ、どこ? 返事して」
 父親に気づかれれば、また殴られる。気づかれちゃダメだ。晴は小さな声で妹を呼び、家中探し回った。だが、彼女の姿はどこにもない。
 どこへ消えた? どこに消えた? ヒナの不在に焦りを覚えた晴は、寝ているはずの父親の部屋に駆け込んだ。
「お父さん、起きて、ヒナがいないんだ、ヒナはどこ?」
 真夜中、就寝中をいきなり起こされた父親は煩いと怒り、大きな手を振り回す。晴はそれもかまわず、父親にヒナの不在を訴えた。母親は当てに出来ない。となれば、父に聞くしかない。
「お願い、ヒナを探して、ヒナが見つからないんだ」
「ヒナァ? いねえなら丁度いいじゃねえか、そのまま消えちまえっての」
「そんなのダメだよ、ねえ、お父さんはヒナが可愛くないの!」
「可愛いわけねえだろ、あんな出来損ないのクソチビ、いないなら放っとけ」
「お父さん!」
 自分が殴られるのも顧みず、妹を探してくれと縋る晴に根負けしたのか、父は珍しく腰を上げ、晴を連れて家の中を歩き回った。部屋の隅やテーブルの下、押入れの中、あちこち探し回ったが見つからない。
 早々に探し飽きた父は、喉が渇いたと台所に歩き、水道の蛇口を捻る。
 そして……。
「まさか、こんなとこにいねえよな?」
 なにか予感めいたものを感じたのか、首を捻りながら身を屈め、水道下の小さな戸棚を開けた。
「うわっ……わっ!」
 戸を開けたとたん、彼は情けない悲鳴を上げて尻餅をついた。驚いた拍子に腰でも抜けたのか、あわあわと、言葉にならない声をあげながら、戸棚の中を指差す。
「あれ……あれ」
 それにつられ、晴もその中を見た。
 薄暗い部屋の、さらに暗い流し台下、その戸棚の奥。ジメジメとした空気に混じり、胸が悪くなりそうな臭気が漂う。下水管にこびり付くヘドロの臭いだ。
 気持ち悪くて、目も口も開けていられない。晴は顔を顰め、目を細めて中を覗いた。

 なにかある。
 なにかいる。

 排水溝に寄りかかるように、小さく黒い、ぶよぶよした塊がある。
 これは、なんだ……? 嫌な予感に動機が早まる。まさかという思いでドキドキしながら、晴はその塊を見つめた。そして、その塊がなんなのかに気づき、大声で泣いた。
「わああぁあっ!」
 青黒く変色し、すでに腐りかけているそれは、晴が必死で護り、捜し求めた、ヒナだった。

「ヒナ、ヒナ……ヒナ、ごめん」
 小さな妹の乾き、痛み、苦しさを思い、晴は泣いた。ごめんなさい、ごめんさないと、頭の中で繰り返し、ただ泣いた。
 と、そのとき、背後に佇む父、父親が、晴の肩を突く。
「晴、いますぐ北側の茶の木んとこ、掘って来い、こいつを埋めるぞ」
「え……?」
「これ以上腐ったら始末に負えねえ、とにかくさっさと埋めちまおう、まったく、なんでこんなとこで死んでんだ、猫だって死ぬときは家から消えるっていうぜ、こいつは猫以下だな」
 父親は、やれやれという口調で、蔑むように話す。その顔は、笑ってさえいた。
 この父は、娘の死に嘆き哀しむどころか笑うのか。自分の娘が死んだのに笑うのか。こみ上げる怒りで、身体が震えた。
「どうした? 早く行け」
 動かない晴に、父親が行けと命令する。だが晴は聞かなかった。
 許せない。
 こんなところで一人寂しく、惨めに死んだ彼女に、もっと言うことがあるはずだ。憤り、昂り、父親を睨む。その目に気づき、父親も眉間に皺を寄せた。
「なに睨んでんだ、さっさと行け!」
「嫌だ!」
「……なに?」
 晴の拒絶の声に、父は首を捻り、間抜けに口を開いた。彼の中には、晴が口答えをするという展開はないのだろう。聞き慣れない異国の言葉を聞くように、首を傾げ、その言葉の意味を反復していた。
「なんだ? なんと言った?」
 その問いかけに、晴は首を振る。ヒナが死んだのに、父はなぜ、こんなに平然としていられるのだ。あの小さな子はもういない。いつかお金持ちになって、お腹一杯ご飯が食べられる日が来たとしても、彼女はそれを食べることも出来ない。
 可愛らしい服も、ささやかな玩具も、揺ぎ無い愛情も、何一つ得られないまま、腹を空かせ、乾き、死んだ。
 この先なにがあっても、彼女は笑わない。

 哀れとは思わないのか?
 悲しみはないのか?
 彼女はなんのために生まれたのだ?

 半身とも言える妹を失った悲しみは、怒りに変わり、晴は己を顧みず、叫んだ。
「ヒナは妹だよ、お父さんの子供じゃないか! なんでお父さんは笑ってるの? 酷いよ、ヒナが可哀想だ!」
「は? なにが可哀想だ? 可哀想なのは俺のほうだぜ、この忙しいのになんで死体の始末までしなきゃなんねえんだ、最低じゃねえか」
「なにが忙しいの? お父さん寝てたじゃないか! お父さんがお金をくれないから、お母さんだって、いつも困ってるのに、少しはみんなのことも考えてよ!」
「ふざけんな! てめえ、親に意見する気か!」
 それまでいっさい自分たちに逆らわなかった晴の思わぬ反抗にカッときた父親は、大きな手で胸座を掴んだ。それでも晴は怯まない。
「ヒナに謝ってよ! ごめんなさいって言ってよ!」
「なに調子こいてんだ? 自分がお情けで生かされてるってわかってんのか? いっぺん死ぬか?」
「怒鳴ったって怖くないからね! お父さんなんて、ヒナやお母さんみたいに弱い人を苛めることしか出来ない、弱虫じゃないか!」
「なんだと?」
 感情に任せ叫んだ晴を、父親は睨んだ。困惑は怒りに、怒りは憎しみに変わる。
「ちっと優しくしてやりゃあ、いい気になりやがって、無駄飯食うしか能がねえくせに! 人に文句言えた立場かよ!」
「ご飯なんか、食べさせてもらったことないよ!」
 部屋の隅でいじけて縮こまった母親は、ほんの少しの食料を全部食べてしまう。だから自分はいつだってお腹が空いていた。家中這い回り、ようやく見つけた食べ物も、横で泣く妹に全部あげた。
 自分の腹に入って来るのは最後の最後、ひもじさをやり過ごすため、野菜屑でも弁当の食べ滓でも、見つけられれば何でも食べた。それでも、渇きと飢えは癒せない。お腹が空いて、苦しくて、意識も遠のく毎日で、何度も死ぬことを考えた。
 それを思いとどまらせ、生きる気力を与えてくれたのはヒナだ。
 あの子の微笑みが、あの子の温もりが、生きる力をくれた。

「ヒナを返して! ヒナを返してよ!」
「ふざけやがってガキが偉そうに! 誰のお陰で生きてると思ってんだ!」

 理不尽に身勝手に憤った父親は、ほとんど無意識に拳を握り締め、思い切り振り下ろした。拳は晴の頭に、頭蓋を砕く勢いでぶち当たり、晴はその場に崩れ落ちる。

――おにいちゃん!

 遠くで、ヒナの叫ぶ声がした。

 ***

――おにいちゃん。

 どこかで、自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、晴はそっと瞼を開く。だがあたりに人の気配はなく、物音一つしなかった。

 ここはどこだ?
 自分のいる場所を確認しようとして身体を捻ると、全身がギシギシと痛んだ。父親に殴られて、気を失ったらしいということはわかったが、今がどういう状態なのかわからない。ここは押入れの中か? 確かめようと手を伸ばし、指先が地面に当たってようやく思い出した。
 殴られ蹴られ、追い詰められたあのとき、ヒナの声が聞えたのだ。

「おにいちゃん、がんばって、ここから、にげて」
――でもヒナ、お兄ちゃん、もう動けないんだ。

 絶望と諦めだけが身体を支配し、晴が自ら目を閉じようとしたときだった。すぐ近くで、ヒナとは違う、また別の声がした。どこかで聞いたことのあるような、独特のイントネーションを持った男の声だ。

――お前、本当にそれでいいのか?
「誰?」

――立てよ、奴らに、思い知らせてやるんだ。
「思い知らせる? 誰に?」

――奴らだ。
「奴ら? 奴らって誰?」

 聞き返す晴に、その声は返事をしなかった。代わりに聞こえてきたのはヒナの声だ。

「おにいちゃんにげて、おとうさんなんかやっつけてにげて」
――ヒナ……。

「にげて」
――無理だよ。

 ヒナは死んだのだ、彼女の声が聞こえるはずはない。押入れの隅にも、納戸にも、流し台の下にも、母親のベッドの下にも、どこにもいない。これは幻聴だ。だがわかっていても胸が締め付けられる。
「ヒナ、ヒナ、泣かないで? ヒナが泣くと辛いよ」
「じゃあにげてよ、ヒナのためににげてよ」
「ヒナ……」
「おとうさんなんかやっつけてよ」
「……わかった」
 これは、死に際の夢かもしれない。心のどこかで思ったが、そうだとしてもヒナが望むなら、叶えてやりたい。
 それまでずっと、父親の暴力に耐え続けてきた晴は、その時初めて、自らの拳を握り締めた。

 それから自分がなにをどうしたのかはよく憶えていない。気づいた時にはもうここにいた。腫れた瞼の間から見える空は薄暗く、手には土の感触がする。

 逃げられたのか?
 お父さんはどうしただろう?
 ヒナは?

 晴は暗闇に妹の姿を探そうとした。だがどこにも見えない。さっきまで聞こえていたはずの声も聞えなかった。
 あたりを覗ってみても、暗い空が見えるばかりだ。ではアレは夢、幻だったのか?
 晴は失望し、小さな息をつく。
 そして再び目を閉じたとき、チリッとこめかみが痛み、世界に亀裂の入る音がした。