旭ビル最寄りのバス停近くの歩道で、変わり果てた三浦の遺体が発見されたのは、その日の十八時ちょうどで、日も落ちきってはいなかった。
 発見当時、あたりはまだ明るく、少ないながら、人通りもあった。だが、発見される寸前まで、誰も三浦の存在に気づかなかったという。

「クソが!」
 足、肩、背中の数か所を刺された上、両眼を潰された遺体を前に、矢島は小さく罵りの声をあげた。誰にあてるでもない、それは自分と、犯人への罵倒だ。
 こんなことなら、彼を一人で行かせるのではなかった。そこに犯人がいると、なぜ気づかなかったのだと、自分に腹が立つ。

 殺される前、最後の連絡で、三浦は旭ビルで新貝に会ったと言っていた。彼に会い、追い出されるようにビルから出てきてしまったので、夕方、もう一度訪ねてみると話して、その矢先だ。FOX事件と関連があると思われるビルへ向かい、容疑者と目星をつけている新貝に会った。これはもう偶然ではないだろう。犯人は新貝だ。新貝本人がやったのではないとしても、彼が命令を出しているに違いない。

──うちは商社ですよ、そんな物騒なことしませんね。

 前回、事務所に訪ねたときの新貝の台詞と、すまし顔が目に浮かぶ。
「野郎、ふざけやがって」
 忌々しく唸り、矢島は現場を抜け出した。そのあとを同僚の刑事が追ってくる。
「矢島さん! どこ行く気ですか」
「新貝んとこだよ! 奴がかんでんのは間違いねえんだ、しょっ引いてやる!」
「ダメですよ、証拠がない!」
「んなもんいるか! 三浦は殺されたんだぞ!」
「ダメです!」
 それでも出かけようとする矢島を、同僚たちは必死で止めた。逮捕するには証拠がいる。任意同行するとしても、それなりの理由がなければ効力もない。昼間会ったというだけで拘束は無理だ。犯人はわかっているのに何もできないというのが忌々しい。矢島は苛々と足を踏み鳴らしながら、同僚の静止を振りきって歩き出す。
「ダメだ、戻れ矢島!」
 主任刑事にも呼び止められたが、そこで引き下がれない。話を聞くだけだと言い残し、サウス商会へと走った。

「おや、矢島さん、どうしました? 今度こそ、椅子を買いにいらしたとか?」
 サウス商会事務所に着くと、新貝は白々しい笑顔でにこやかに矢島を迎えた。
「三浦が殺された」 
「おや……それはそれは、お気の毒に」
 気が立っていたので、ずばりと切り込んだ。新貝は片眉を歪め、ピクリと反応したが、そのあとは知らぬ顔だ。まあお茶でもどうぞと応接椅子を示す。矢島は、お前が殺したんだろと言いたいのを堪え、正面の椅子に腰かけた。
「まだお若かったのに、可哀想な話だ……で、犯人は? 目星はついてるんですか?」
「おおかたな」
「ほう、さすがですね、参考までにお聞きしたい」
「言えるかバカ、企業秘密だよ」
「でしょうね」
 新貝はいかにもなにか知ってますと言いたげな目をして、矢島を見つめる。矢島も、新貝が糸を引いていると思いながらも口には出せず、睨み返した。そのまま暫くの間、二人は互いの腹を探り合うように無言で睨み合う。
「どうぞ」
 そこへ派手な黄色いシャツを着た華奢な優男が珈琲を持ってやって来きた。ホスト営業をしている社員の一人だろう、やたら二枚目だ。しかも、服装だけで充分派手なのに、髪まで派手だった。脱色して染め上げたのだろう、長い髪に赤のメッシュが入り、山姥のようにおっ立ててある。細身のネックレスと重そうなピアスが目立つことこの上ない。よくこんなのを雇ってるなと呆れた。
「で? 今日はなにしに?」
 従業員に見取れていると、新貝の少しイラついた声が聞こえてきた。早く帰れと言わんばかりの態度を見れば、彼が何か知っているのは明白だ。
 矢島はふんと鼻を鳴らし、机の上で腕を組む。
「昨日の夕方、五時から六時頃、どこにいた?」
「またですか? 私じゃないですよ」
「それはこっちが判断すんだよ、正直に話せ」
「はいはい」
 強引に訊ねても、新貝は慌てなかった。捜査令状もなし、相棒もなしで来ているのだ。非公式とわかっているだろうに、余裕の仕草で携帯端末を開く。
「ええっと、昨日は午後、二時ころ、中央区の旭ビルに行ってますね」
「それは知ってる、そこで三浦に会ったんだろ?」
「ええ、でもすぐ別れてますよ、彼は数分で帰った」
「それも知ってる、で、お前はそのあとどうした?」
「部屋数を数えたり、セキュリティ見たり、まあいろいろと下見をして、ビルを出たのが三時過ぎですね」
「三時ね、それから?」
「近くの茶店でティーブレイクして、適当に休んで、事務所に戻ったのが六時ってとこでしょう」
「つまり、五時から六時は移動中か茶店か?」
「んん、そのどちらかでしょう、よく覚えてないですよ」
 知り合いには会ってないし、これといって証拠に残るようなこともしていない。正確なアリバイはない、証人もいないと、新貝は答えた。いないのは当たり前だ、犯人はお前だろう? そこでそう言いかける矢島を遮り、先ほどの優男が割り込んで来る。
「新貝さん、やっぱサボりだったんですね、酷いですよ、俺、昨日事務所に一人だったんですよ」
「ぁ? うるせえな、留守番くらい一人で出来んだろ、ガキじゃあるまいし」
「ええぇ、でもぉ……」
 いつ筒井組からの殴り込みがくるかとハラハラしてたと優男は愚痴る。新貝はそんなの来ねえよと煩そうに片手を振った。
 たしかに、気の回し過ぎだ。いかに一触即発状態と言っても、昼日中、堅気の商社に突っ込んで来るほど、相手もバカではないだろう。そんなことをすれば警察が黙っていない。それとも、殴りこまれる心あたりがあるのか?
 優男の赤メッシュを見るともなしに見ながら思考を巡らせていた矢島は、その時、ハッと気づいた。
 赤い髪だ。
 犯人は二人以上、ひとりは赤い髪の女子高生……ウサ子はそう言っていた。目の前にいる優男も髪が長い、さらに髪色が赤だ。細身で綺麗な顔立ちだし、遠目で見れば、女に見えなくもない、かもしれない。
 まさか……。
「お前か?」
 思わず怒鳴ると、優男は怯んだ。何を言われているのかわからないが、疑われているらしいと気づき、おどおどと新貝に助けを求める。演技ではなさそうだ。
「違うのか?」
 矢島にも確信はなかった。だが、ウサ子の情報はいつも正しい。犯人は複数、ひとりは赤い髪の女、もしくは、女に見えるほど、華奢で髪の長い男だ。
「阿久津《あくつ》、お前、昨日の五時から六時、なにしてた?」
 目の前の男がそうか、そうでないか、矢島の考えを見越したのか、新貝がその優男、阿久津に、アリバイを訊ねた。阿久津は不安げな面持ちで、神妙になって答える。
「その時間はここにいました」
「一人か?」
「一人ですよ、さっきも言ったじゃないですか、なんですか? 俺、なんもしてませんよ?」
「ああ、それはわかってる、お前にそんな度胸はねえさ、だがそこの刑事さんがお疑いなのさ」
「疑うって、なにを……?」
「刑事殺しの連続殺人犯、そいつがお前じゃないかって、睨んでんだよ」
「ぇええええっ?」
 新貝の答えに、阿久津は大げさに驚き、ぶんぶんと手を振った。自分じゃないと言いたいらしい。
 その様子はいかにも小物で、とてもそんな大それたことが出来るように見えない。矢島も嘘は言ってなさそうだと判断した。
「ああ、もういい、お前じゃない、それはわかったよ」
「あ、どうも……」
 これ以上ここにいて、変に疑われては敵わないと思ったのか、阿久津はそそくさと奥の部屋へ戻った。新貝はそれを見送り、面白くなさそうに矢島を睨む。
「もういいでしょう? 私も忙しい、そろそろお帰り願えませんか? 令状はないんでしょう?」
「ああ、そうだな」
 痛いところを突かれ、矢島も勢いを落とす。新貝は、ではまたと席を立ち、さっさと帰れというように、エレベータを指差した。矢島も仕方なく立ち上がる。
 だが、まだ聞きたいことがあった。
「すまん、最後にもう一つ」
「なんです?」
「赤い髪の女子高生、お前、知らないか?」
 新貝が犯人ではないにしても、彼はなにか知っている。そう確信し、半分賭けで訊ねた。
 相手はヤクザ紛いの百戦錬磨、そう簡単に引っかかることはないだろうと、あまり期待はしていなかった。しかしそこで彼は、眉間に皺をよせ、嫌な表情で黙り込んだ。背中に寒気が奔る。
「知ってるのか……?」
 思わず聞き返す。新貝は表情を変えないまま、知りませんねとだけ答えた。

 ***

 矢島が出て行ったと同時に、新貝は携帯端末を取り出した。机の上に置いてある煙草を咥え、ダイヤが鏤めてあるジッポで火を点けながら、目的の相手を呼び出す。
「塚原か? 今どこだ?」
 連絡を入れたのは、ボディガード兼、秘書の塚原《つかはら》悟志《さとし》だ。どこにいると訊ねると、塚原は近くの工場で、セキュリティの契約を済ませ。帰るところだと答えた。
「飯田産業か? ちょうどいい、今事務所に矢島が来てな」
──あの刑事……また何をしに。
 塚原は自分らの周りをちょろちょろする矢島が気に入らないらしい。低い声で、何しにきたのだと訝しがった。
 新貝は、こちらはなにもしていないのだから、それ自体は気にしなくていいと答える。
 来るのはいい、帰らないのが困るのだ。
「これからちっと出かけてえんだがな、外に矢島が張ってる、ついて来られると鬱陶しいだろ、適当に追い払ってくれねえか」
「またですか? 幸人さん、お一人でどちらへ?」
 出かけると言うと、口煩い塚原は、どこへ行くのだと追求してくる。新貝も、それは予想していたので、女のところだとごまかした。しかしそれぐらいで塚原は引き下がらない。ボスを護るのが自分の役目、ついて行きますよと言い張った。冗談ではない。
「バカ、女だぞ、手下ぞろぞろ連れてけるかよ」
「そう言ってこの前も怪我をしてお戻りじゃなかったですか、幸人さんが無事でいれば私も文句は言いませんよ、しかし……」
 前回、一人で出かけ、筒井組の急襲にあったことを、彼はまだ根に持っているらしい。一人は危険だと食い下がる。たいしたことなかったのだから気にするなと話しても、まるで引き下がる気配を見せなかった。
「あれをたいしたことないと? 顔は腫れる、歯は折れる、あばらにもヒビが入ってた、しばらく動けませんでしたよね?」
「っせえな、いいんだよそんぐれえ」
「だめです、あくまでも一人で行くとおっしゃるなら、縛り付けますよ?」
「あ、のなァ!」
 ふざけんなと言い掛けた新貝は、忌々しく口を閉じた。
 塚原は真面目で誠実な男なのだ、彼にとっては、新貝幸人という人間が、全人類の命より重い。今度同じようなことがおきれば、単身で筒井組に殴りこみかねない。それも困る。新貝もそこは仕方なく、折れた。
「ち、わかったよ、連れてく、だがお前一人だけだ、他の奴らは留守番、いいな?」
 口出しはするなよと念を押すと、塚原はわかりましたと答え、ものの数分で事務所まで戻ってきた。
「早えな、矢島は?」
「田中と鈴木に言って、遠くへ追いやりました、暫く戻って来ませんよ」
「そうか、じゃ行くぞ」
「はい」
 新貝が、白の中折れ帽を被りながら歩き出すと、塚原はスーツの内ポケットを確かめながらついて来る。中身は拳銃だろう。
「そいつは使わねえ、仕舞っとけ」
「いえ、念のためです」
「仕舞っとけ、ポリに見つかったらトッ捕まるだろ」
 日本は法治国家なんだと話すと、塚原も渋々うなずいた。
 黒光りするような漆黒のスーツに黒ネクタイ。黒眼鏡と黒い靴に拳銃とは、一昔前の悪役のようだ。こんな大柄で怖そうな黒ずくめの男がお供では、目立ってしょうがない。せめて上着は置いていけと話しながらエレベータに乗り込んだ。しかし塚原は脱がない。
 エレベータの戸が閉まり、二人きりの狭い空間で、新貝はやれやれと息を吐いた。
「お前は黒の組織か? 暑っ苦しいんだよ、目立つだろ」
「幸人さんのほうが目立ってますよ、こそこそ行くには派手過ぎる」
「あ?」
 逆に指摘された新貝は、自身の服装を省みる。
 赤紫のブラウスシャツに白のジャケット、白いパンツに赤い靴。そこへ白の中折れ帽を被り、アクセサリーは太い金鎖のネックレスとドックタグつき金のバングルだ。
「普通だろ」
「どこがですか」
「普通だよ! お前のがおかしい、固過ぎんだよ」
「黒いスーツなんてそこらにいますよ」
「そんな真っ黒クロスケはいねえ!」
「私がクロスケならあなたはタマムシです」
「あんだと?」
「なんです?」

──まったく。

 同時にそう呟いた二人は、それから暫く無言で目的地へと歩いて行った。

 *

「ここですか?」

 やがてたどり着いたのは、小さな公園の裏手にある、崩れかけた建物だった。おそらく最初はこの公園の管理棟だったのだろう。それらしい看板が地面に落ちている。今は使われていないらしく、窓ガラスにはヒビが入り、寂れて人影もなさそうだ。
 こんなところに女を置いておく筈はない。女のところへ行くというのはやはり嘘だったかと塚原が横目で睨むと、新貝は開き直って横を向いた。
「お前はここで待ってろ」
 入り口で立ち止まった新貝は、中へはついてくるなと話した。しかし離れていてはボディガードの役を果たせない。塚原は邪魔はしないから一緒に行かせてくださいと申し出る。だがそれは却下された。
「危険はない、とにかく入って来んな、そこにいろ」
 有無を言わさぬ口調の新貝からは、いつものチンピラっぽさが消え、目の光りさえ失せていた。背中から禍々しい黒いオーラを放ち、相手を見据える顔は、冥府の王のように見える。
 彼がこんな顔をしたら制御はできない。ここからは不可侵の領域だ。
 自分がいては邪魔になるし、言いつけに逆らえば、相手が誰でも容赦なく殺すだろう。塚原には、わかりましたの他に、言える言葉はなくなった。
 新貝は畏《かしこ》まる塚原には目もくれず、一人、建物の中へと入っていく。

 入るとすぐに受付用のカウンターつき小部屋があり、細い廊下が続く。長い間放っておかれた床は、土ぼこりだらけで、割れたビンの欠片や細かいゴミが散らばっていた。
 硝子片を蹴飛ばしながら歩いて、突き当たりにある薄いベニヤでできた戸を開ける。中はがらんとして、打ち捨てられた木箱と粗末な丸椅子以外、何もない。その部屋の隅に、痩せた子供が膝を抱えるように蹲っていた。一年中、着たきりスズメのロングコートはいちだんと汚れ、気をつけて見なければ、ゴミの塊のようだ。

「どうしたゼノ、お仲間と喧嘩でもしたか?」
「新貝さん……」
 声をかけるとゼノは、今気づいたかのように顔をあげた。床にはいつも転がっているパンや弁当の食いかすもなく、ペットボトル一本おいてなかった。
「なんだ、食ってねえのか? 子供は食わねえと大きくなんねえぜ」
「大きくなんかならないからいいんですよ」
 からかうとゼノは不愉快そうに口を曲げて答えた。たしかに、彼は初めて会った五年前から、成長していないように見える。だが成長しない人間はいない。内面か外見か、とにかく顕著でないだけで、少しは育っているはずだ。
「そう拗ねるなよ、どれ、見せてみな」
 蹲るゼノの腕を引いて立ち上がらせ、正面へ立たせる。覗き込んだその顔は、酷く幼い。本当に小学生のようだ。
「ふん、デカくなってるじゃねえか、前はこんなだったぞ」
 新貝は、手のひらを翳し、五センチは伸びただろと話す。だがゼノは興味なさそうにするりと離れた。身長の話は嫌いらしい。
「今日はなんです? 上がりならまだですよ」
「そんなんじゃねえよ、ちょっと話したくてな」
「話?」
「ああ、刑事殺しについて、とかな」
 ニヤリと笑って切り込むと、ゼノはああと呟き、下を向いた。新貝は少し屈んで小さな肩に手をかける。
「殺ったのは、フィーンか?」
「彼女、最近おかしいんですよ」
 話しかけるとゼノは、待っていたかのように口を開いた。喧嘩していたというのはあながち外れでもないようだ。
「どうおかしい?」
「新貝さんもおわかりでしょう、だから来たんだ」
「そうだな、たしかに、彼女はやりすぎだ、こっちとしてもちょっと困ってる」
「すみませんね、僕らも止めてはいるんですが」
「彼女が聞かない?」
「ええ」
 本当に手を焼いているのだろう、いつもの生意気な口もなりを潜め、ゼノは素直に俯いた。その様子に新貝は、白の中折れ帽を外しながら、深刻だなと呟く。
 外した中折れ帽をひょいと投げると、帽子はくるくると回り、そのまま壁際のフックに収まった。巧く収まったことに気を良くし、新貝は機嫌よく口角をあげる。そしてちょいちょいと、人差し指でゼノを招いた。
「ゼノ、ちょっといいか?」
「なんです?」
「んん、フィーンと話したいんだが」
「えっ」
 出来るだけ、さり気なさを装って尋ねた。だがゼノは、そうとうに驚いたらしい、瞠目した顔を上げる。彼が戸惑うのも道理だ、一応の礼儀は通しているが、これは半ば強制、反論は許していない。
「驚くことねえだろ、話すだけだ」
「彼女は新貝さんを嫌ってる、話にはならないと思いますよ」
 ゼノの答えは歯切れが悪かった。もしかしたら、彼女が、というよりも、ゼノ自身が、フィーンを他人に会わせたくないのかもしれない。
「嫌ってる? どうして? 嫌われるような覚えはねえぞ」
 嫌われているらしいということは気づいていた。だがその理由が不明だ。新貝も、お前らには良くしてやってるだろと言い返す。
 もちろんそれはゼノも承知なのだろう。感謝はしてますよと慇懃《いんぎん》に答えた。それならもっと気を使えと言いたい。
「すみません、でも特に新貝さんを嫌ってるというわけではないんですよ、彼女は成人男性が嫌いなんです」
「成人ね、で、お前は免罪符ってわけか」
「まあ、でしょう」
 実年齢はともかく、ゼノの外見は子供だ。いくつなのか見当がつかないが、子供だということはわかる。男嫌いでも、このくらいの年齢なら角も立たない。しかし、オウガのほうはそうもいくまい。二人の仲はあまり良くないと聞くが、それも確かだろう。
「まあいい、とにかくフィーンを出しな、そこにいんだろ?」
「やめたほうがいい、殺されますよ?」
「俺が? は、面白えじゃねえか、殺れるもんなら殺ってみろ、舐めてんじゃねえぞガキが」
 次第に苛々としてきた新貝が凄む。ゼノはそれに屈したわけでもないだろうに、仕方ないですねと息を吐いた。空を見つめる瞳に霞がかかり、伸びすぎた髪も湿り気を帯びて見える。
 彼女を思うとき、艶を含むのは、思いがそれだけ深いことを示している。見かけは子供でも、中身までそうというわけではない。まして恋は、子供でも出来る。
 しかし、いくら思っても、外見が小学生では、どうにもしようがない。彼の中のジレンマは、彼自身さえ知らぬところで、思わぬ歪を作り上げていた。
「待っててください、言ってみます」
「おう、期待してるぞ」
 あまり気が進まないというように、冴えない表情のまま、ゼノは消えていく。そしてその数十秒後、赤く髪を逆立てたフィーンが現れた。

「死ねや! 糞が!」
 よほど男が気に入らないらしい。彼女は現れるなりナイフを振りかざし、襲い掛かって来た。
「おっ……と」
 新貝はそれを難なく避ける。小柄な女の手だ、間合いが小さい。刃が届くにも時間がかかる。わかっていれば、避けるのも難しくはなかった。
 勢いよく突っ込んできたフィーンは、新貝が避けたせいで、体勢を大きく崩した。慌てて振り返り、もう一度刺そうと突っ込んで来るが、それもさらに遅しだ。新貝は余裕の仕種で、フィーンの手首を蹴りつける。
「あっ」
 蹴られた勢いで、握っていたナイフは高く遠くへ飛ばされた。思わずその軌跡を追う目の端に、新貝の黒い目が映りこむ。
 一瞬、どちらに反応するべきか、フィーンは迷った。その迷いが命取りだ。新貝は、動きの止まったフィーンの手を握り、軽々と捻りあげた。
「チクショウッ、離せ! 離せ、糞野郎!」
「俺がクソヤロウならテメエはうんこ女だ」
 軽く捻られたフィーンは歯を剥いて喚き散らす。だが新貝も容赦がない。じたばたと暴れるフィーンの腕を折れるほど捻りながら、さらに体重をかけて床に押し倒した。腕を取られて受身が出来なかったフィーンは、胸から床に落ち、その痛みで低く呻く。
「なんか勘違いしてねえか? 今までテメエが勝って来たのはテメエの力じゃねえぞ、ゼノとオウガがいてこその勝ちだ、テメエ一人じゃ殺れねえんだよ」
「うるせえんだよ! 離せっ、ブッ殺してやる!」
「だから、殺《や》れねえっつってんだろ!」
 いい加減にわかれと新貝は諭す。しかし、フィーンには届かない。彼女は憎しみだけで人が殺せると信じているかのように、呪いの言葉を吐き、世界を罵倒し続けた。
 あまりに幼く儚い抵抗に、新貝はやるせなく息を吐いた。
 
 凶暴に残虐に人を傷つけ殺すフィーンは、その実、腕力がさほどない。それでも殺《や》れて来たのは、不意打ちだったからだ。
 誰しも、平凡な日常で、自分が殺されるとは考えていない。いつもと同じ朝、いつもと同じ昼、いつもと同じ夜を過ごし、明日も明後日も、今日と同じ日々が続くと信じている。
 彼らはその当たり前の世界に、入り込んだ魔だ。よく人が言う、「魔が差した」という台詞、その、「魔」なのだ。
 そこにいるとはまるで思っていない「魔」が、或る日あるとき、突然牙を剥く。
 なんの準備も予感もなく、不意を突かれた者たちは、最初の一撃で戦意を失くし、動けなくなる。あとは彼女の思うままだ。
 動けなくなる理由のひとつは、最初の一撃が、足や目、肺といった、人が活動するに必要不可欠な部分だというのもある。
 そういった、重要な部位を損傷し、動けなくなった獲物を、フィーンは甚振り切り刻んで来た。圧倒的優位の中で、彼女は人を殺す。
 オウガが護り、ゼノがセッティングするからこそ、彼女は目的を遂げられるのだ。それもわからないようでは、子供の遊びと同じ、そして、遊びにしては度が過ぎる。
「男二人に護られて大事にされて、それで男嫌いだって? 甘えてんじゃねえぞ」
「ふざけんな! あたしは甘えてなんかいない! あたしは……ッ」
「それが甘えなんだよ! 俺は今すぐテメエを殺れんぞ、お情けで生かされてんだ、違うってんなら今、俺を殺してみろ! 出来ねえだろ」
 新貝は怒鳴り、フィーンはわなわなと震える。そして、数秒後、ジュンッ……と、微かな音を立て、空気が沸騰した。
「お……?」
 空気の色が変わったのに気づき、新貝はあたりを見回す。元々赤かったフィーンの髪は、さらに赤く、燃え上がるように赤くなり、巻き起こった風に煽られながら逆立っていく。
「ゥ……う、ぁ、あ」
 歯噛みするようにフィーンは唸る。その背がパクリと割れ、そこから黒い翼が突き出て来たとしても、なんの不思議もない気がした。むしろ、それが当たり前でもあるかのように、憎しみの黒いオーラを全身から放ち、フィーンは吼える。
 まるで肉食獣の雄叫びだ、新貝もちょっと呆れた。
 その一瞬の気の緩みを捉え、彼女は新貝の手を跳ね除ける。逃げたフィーンは、足音も軽く、床を蹴り、数メートル先へと跳ねた。その足元には、さっき新貝に飛ばされたハンティングナイフが転がっている。
「殺してやる……」
 床に落ちているナイフを拾い上げ、フィーンは呟いた。彼女の目は、白目の部分まで赤く染まり、目の周りからこめかみへと興奮して膨張した血管が浮き出している。
「殺してやる」
 ぶつぶつと、呟きながら、フィーンは近づいてくる。彼女が一歩前に進むごとに、あたりの重力は増した。光も差さない深海のような、息をも詰まる圧縮された空気の中、新貝はひたいに薄っすらと汗を滲ませ、楽しそうに笑った。
「そうくるか、いいね、ゾクゾクするね」
「ころしてやる」
 フィーンは耳が聞こえなくなったのか、聞く耳を持たないのか、新貝の言葉に反応はしなかった。ただ狂気と憎しみだけを手に、ゆらゆらと歩いてくる。それを見据え、新貝はニタリと笑う。近づいてくるフィーンの狂気が霞むような、異常な陽気が空気を曲げた。
「殺してやる!」
 フィーンは大きな幅広のナイフを目一杯に振り回す。少しでも掠れば、ざっくり行くところだが、新貝にはあたらない。
 血が見られないことに怒り、フィーンはナイフを振り回し続ける。新貝は大縄跳びでもするように、軽いフットワークでそれを避け、ニヤニヤしながら彼女の腕を蹴り上げた。
「学習能力がねえな、テメエの力じゃ俺を殺れねえんだよ、バカが」
「コロシテヤル」
 手首を蹴られても、フィーンはナイフを離さなかった。赤く滲んだ目をして、ただ目の前の敵を切り刻むことだけに熱意を燃やし、立ち上がる。
 ゆらゆらと、じりじりと、執念深く、標的の死を夢見て動く姿は鬼気迫り、常人なら竦んで動けなくなるところだ。しかし新貝は動ける。それは彼が、フィーンと同じ性質をもっているからかもしれない。
「お前の力もそこそこ凄いさ、けどな、悪い、俺はもっと凄いんだ」
 見せてやろうかと口角をあげる新貝の黒い目が、あたりを漆黒に染める。怒りと憎しみに燃え盛る赤が、冷酷と憎悪の黒に押し負け、染め返される。
 ヒュンッと風が鳴り、空気が震えた刹那、新貝はフィーンの右手首を掴み、片手でブン投げた。
「ォウ……ッ!」
 床に叩き付けられたフィーンが呻く。しかし新貝の攻撃はそこで止まず、倒れたフィーンを容赦なく踏みつけた。
「オラオラ! 死ぬか? 死にてえか?」
 異様にテンションをあげ、新貝はフィーンを蹴りつけ、踏みにじる。しかし、蹴られながらも、フィーンはナイフを離さなかった。
 それを見た新貝は一瞬足を止め、次の瞬間、彼女の手首を思い切り踏みつけた。
「あうっ!」
 さすがに効いたのだろう、フィーンは叫び、ナイフを離す。新貝はそれを遠くへ蹴り飛ばし、のたうつ彼女に圧し掛かった。
「万事休す、もう打つ手がねえぞ、どうする? 死ぬか?」
「ぅう、ウァ、ああ!」
 押さえ込まれたフィーンは怒りに震え、ただ唸り声をあげた。新貝は、まるで人の言葉を忘れたかのように唸る彼女を静かに眺める。

「お前、もう死んでるよ……」

 悲しげな表情で小さく呟いた新貝は、唸り続ける彼女の耳元へ、唇を寄せる。フッと、息を吹きかけると、フィーンはビクリと震え、一瞬、力が抜けた。新貝はそこを的確に捉えた。
「いいか? これは親切心の忠告だ、よく聞いとけ? 今までのやり方じゃあダメだ、じき捕まる、それが嫌ならやり方を変えろ」
 男という人種を根本から嫌うフィーンは、新貝の言葉を、ほとんど聞いていなかった。ただ唸り、暴れる。彼女の抵抗を無視し、新貝は先を進めた。フィーンが聞かずとも、傍でゼノとオウガが聞いているだろう。
「署名は残すな、派手な殺しもするな、標的の処分に感情を挟むんじゃない、より多く、より確実にラウを消すには、自らが闇に徹することだ、忘れるな」
 でなきゃ破滅だぞと囁き、新貝はフィーンの首を絞めた。容赦のない力で締め上げられたフィーンは、苦悶の表情を浮かべ、のたうつ。
 通常、首を絞めてから死ぬまでには数分の時間を要する。
 首を絞めるというと、多くの者は、息が詰まり死ぬと考えがちだが、実際窒息で死ぬには五分以上は締め続けなければならない。息の長い者であれば、それ以上にもなる。つまり、窒息ではそうそう死なないのだ。
 では、なぜといえば、頸部圧迫により、血が止まることに起因がある。首の動脈が締め付けられ、血流が止まる。血流が止まるということは、脳に酸素がいかなくなるということであり、即ち、脳死だ。脳は酸素がいかなくなってから、早ければ三分、長くとも、五分で重篤な状態に陥ると言われている。
 新貝は、そのぎりぎりの時間と力で、彼女の首を絞めた。キリキリと、首をへし折る勢いで絞められたフィーンは、ものの数十秒で意識を失くす。

 パタリと、彼女の手が落ち、全身の力が抜ける。フィーンが動かなくなったのを確認し、新貝はそっと手を離した。

「ゼノ、オウガ……テメエらもよく聞いとけ、俺も慈善家じゃねえんだ、これ以上手を焼かすなら切る、いいな、よく考えろ」

 床に倒れる小さ身体を、新貝は溜息のように細められた瞳で見つめる。そして壁際のフックにかけてある中折れ帽を右手で取り、ゆっくり被りながら出て行った。