「楽しかった?」

 不意にかけられた言葉で、女は立ち止まる。
 ちょうど朝日が昇り始めてきた時刻、繁華街から住宅地へと続くその道はまだ薄暗かった。周囲にはこれといったランドマークもなく、車二台がようやくすれ違える程度の細い道だ。自宅までの近道なので足を向けたが、女も普段はあまり使わない。その日そこを通ったのも、ただの気まぐれ、ちょっと急いでいたというだけの偶然だった。だが今までそこで誰かとすれ違ったことはほとんどない。だから妙にドキリとした。

――楽しかった?

 なんのことについて聞かれたのわからない。
 今、誰かいたかしら?
 そんな表情で女はあたりを見回した。しかし誰も見えない。
 いや、いた。子供が一人。歳のころは十二かそこら、小学生か中学一年生くらいに見える。
 この子が声をかけたのかしら? でも知らない子だわ。それに、子供の声ではなかったような……?
 疑問を感じたのはほんの一瞬だった。突然、背中にどすんと衝撃が奔り、女は前のめりになる。
 誰かに突き飛ばされた? 誰に?
 ふと振り返りかけたとき、背中に鋭い痛みを感じた。足の力が抜ける。驚いて開いた口からは、なにか黒いものが落ちた。
 これはなに?
 女は地面に落ちた黒いシミをじっと見つめ、それが血であることに気づいた。
 なぜ血が?
 気持ちの悪い感覚に怯え、そっと胸を押さえる。すると掌に尖った金属が当たった。金属は背中から胸へと突き抜けている。

 え、なにこれ?
 包丁?
 ナイフ?
 嘘、なんで?

 気づいた途端に息がつまり、女は咳き込んだ。背中が焼けるように痛い。

 刺されたの?
 嘘よ、なんで?
 なんで?
 なんで?
 なんで……嫌よ!

 ひゅーひゅーと喉を鳴らし、女は懸命に空気を取り入れようとする。だがいくら吸おうとしても酸素が肺まで届かない。

 苦しい。
 苦しい。
 苦しい。

――ねえ、楽しかった?

 呼吸困難で倒れこむ女の横で再び声がした。世界は自分ひとりのためにだけあると信じているような、無邪気で残酷な少女の声だ。

「楽しかったかって、聞いてるでしょ!」
 叫びとともに金属の刃は引き抜かれ、あたりに鮮血が散る。
「きゃあっ……っ!」
 背中の痛みと衝撃で膝を折った女は、恐々と声の主の姿を探した。中学生くらいの少女だ。肌は透けるように白く、長く伸ばした髪は血のように赤い。そして、手に、大きく太い、サバイバルナイフを握っていた。
 ナイフにはベッタリと血がこびりついている。
「答えなさいよ!」
「あっ……っ」
 赤髪の少女は女の髪を鷲掴みにし、そのまま地面へと叩きつけた。女は顔面を殴打し鼻が潰れた。
「やめてっ、助けて……っ!」
 背中と胸と顔面から血を流して女が叫ぶ。赤髪の少女はふざけんじゃねえよと口汚く怒鳴り、掴んだ髪を離さないまま女を振り回した。
 少女の白く細い腕は信じられない怪力で女を引き回し、血が飛び散る。
「いや、離して、助けてっ!」
「うるせえよ! 糞女!」
「助けてっ!」
「虫のいいこと言ってんじゃねえ!」 
 少女は女が泣き叫ぶのも構わず振り回し続ける。女の髪はブチブチと嫌な音を立てて引っこ抜けた。勢いで女は地面に投げ飛ばされ、倒れた女に赤髪の少女が馬乗りになる。
「きゃあっ!」
 悲鳴を上げる女の胸に鈍く光るサバイバルナイフが突き刺さる。勢いよくそれが引き抜かれたとき、鮮血は噴水のように吹き上がった。

「あんたは楽しむだけ楽しんだ、自分のことしか考えなかった!」
 そろそろ終わりにしなきゃねと赤髪の少女は怒鳴り、女にナイフを突き立て続ける。そのたび肉を抉る湿った音が響き、あたりには紅い雨が降った。
 やがて女の体は暴かれた肉と血でぐちゃぐちゃになり動かなくなる。だが絶命するには足らなかったのか、女の瞳はまだ開いていた。
 なぜ私が死ななければいけないの?
 虚ろいかけた女の瞳から涙が滲む。涙は頬を伝い、路面へと落ちた。落ちた涙のシミが乾いたアスファルトを黒く染める。
「諦めろ、報いのときが来たんだ」
 力尽き瞼を閉じかけた女に誰かが話しかける。赤髪の少女ではない、今度は男の声だ。
「チャンスはたくさんあったはずだ、だがあんたはそれを棒に振り続けた」
 ヒステリックな少女と対照的に、男の声は静かで優しかった。
 残された力を振り絞り、女はそっと目を開ける。薄墨色の世界に、モスグリーンのフードを被った若い男が見えた。
 長い前髪と目深にされたフードで顔は良くわからない。左頬にある醜く引き攣れたケロイド痕だけがなぜかくっきりと見えた。
「今度生まれてくるときは、もっといい生き方をしろ」
 小さく囁く男の声で女は安心して目を閉じる。
 醜い傷を持つ薄汚い男の背に、煤けてぼろぼろになった天使の羽根が見えたような気がした。

 ***

「やり過ぎだフィーン、殺るときはひと思いに殺れ」
「冗談、目一杯優しかったわよ、あんたは甘過ぎ」
「殺すことが目的じゃない、変えられればそのほうがいいんだ」
「変えられないから私が出たんでしょ」
 あんただって納得したはずよと赤髪の少女、フィーンが睨む。ケロイドの男は思惑を隠すように目を伏せた。フィーンはますます勢いづき、ケロイド男の襟首を掴む。
「いまさら自分だけいい子になる気? ふざけないでよ、ヒトゴロシのくせに!」
「言い過ぎだ、フィーン、オウガはキミを心配してるんだ」
「頼んでないわ」
「フィーン……」
 止めに入ったのは十二歳くらいの少年だった。少年に止められ、フィーンは勢いを落とす。
 頬にケロイド痕のある男、オウガは、黙り込んだフィーンと、二人の争いを止めた少年、ゼノを一瞥し、ゆっくりと息を吐いた。
「いい子になる気はない、報いは必要だ」
「当たり前よ!」
「人間は馬鹿だ、いくら騒いでも、自分に降りかからない火の粉は払わない、見ても見ないふり、知ってても知らないふり、他人の涙より自分の快楽を追う浅ましい生き物だ」
「だから死んで当然なのよ!」
「ああ、そこに異論はない、だがやり過ぎはだめだ、騒ぎが大きくなると人が来る、誰かに見られたらこの先やり難くなる」
「そしたらそいつも殺せばいいでしょ、どうせそいつも人間よ」
「ダメだフィーン、関係ないモノは巻き込まない、最初にそう決めたはずだよ」
 自分より小さなゼノに諭され、フィーンも渋々と黙った。そこでようやく本題になる。ゼノは二人の気が静まったのを確認するように少し間をおいてから、一枚の紙切れを取り出した。

――瀬乃克彦《せのかつひこ》 塗装工  男 三十七歳。

 紙にはそう書かれてある。

「次の標的?」
「うん」
「早かったな」
「さっきの女の遊び仲間だからね」
「類は友を呼ぶってヤツね」
「あの女の知り合いか、関連性が疑われたら厄介だな、すぐは不味いだろ」
「疑われっこないわ、警察なんて馬鹿ばっかりじゃない、そんなに簡単に気づくなら、犠牲者は出てない」
「しかし……」
 慎重になるべきだとオウガは話し、必要ないとフィーンは突っぱねる。そこで背後から第四の声がした。

「なんだゼノ、迷ってるのか? そいつはラウだぞ」

 薄いべニアの戸を開けてやって来たのは、派手なスーツを着込んだ金髪の男だ。歳はようやく三十代に差し掛かったかというあたり、派手なスーツに同じく派手で目立つアクセサリーをジャラジャラとつけている。
「新貝《しんかい》さん……」
 新貝と呼ばれた男は、ゼノの動きを見極めるように上目遣いに話した。顔は動かさず、目だけで室内を見回す様子は、ずる賢い狐のイメージだ。他に誰もいないのを確かめてから、隅の椅子に座り込む。
「ネタは俺が直々に掴んでんだ、間違いない、そいつはラウだ」
 話しながら新貝は、分厚いクラッチバッグの口を開け、オレンジ色の小箱を取り出した。表に掌の形をした葉っぱの図柄のある外国煙草だ。じれったそうな手つきでパッケージを開け、中の一本を咥える。そして一緒に入っていた紙マッチで火を点けようとしたところで、ゼノがライターの火を差し出した。
「新貝さんともあろう人が、手ずですか?」
「おう、ここには誰も連れて来れないからな」
 ゼノの差し出した火を、新貝は躊躇いなく受け、深呼吸するように煙りを吸い込んだ。やがて吐き出された煙りは、死人から抜け出した魂のように、ゆっくりと昇天していく。
 その行方を見るともなしに見つめ、ゼノは小声で訊ねた。
「見たんですね?」
「ああ、見たね」
「わかりました」
 小さく頷くゼノをちらりと見て、新貝はニタリと目を細めた。全てが自分の思惑通りだとほくそ笑んでいるようだ。
 新貝に操られている。それはゼノも承知だった。
 それはそれで構わない。自分たちもただ囲われ、操られているわけではない。その分の見返りは情報と保護、それに金だ。
「さてと、俺はそんな話をしに来たんじゃないんだ」
「わかってますよ」
 ふいと顔を上げる新貝に、ゼノは分厚い札束を渡す。新貝はそれを丁寧に数え、中の数枚をゼノへ渡した。
「ごくろうさん」
「どうも……」
 渡された札をポケットにねじ込んで、ゼノは慇懃に頭を下げる。新貝は苦々しい表情でそれを見返した。
「お前、俺が嫌いだろ?」
「いえ新貝さん、そんなことないですよ」
「本当か?」
「本当です、むしろ、感謝しています」
「ふうん……」
 オウガはケロイド痕のせいでどこに行っても目立ってしまうし、フィーンなど放っておけば誰彼構わず殺しまわりそうだ。それは困る。だからなるべく不自由のない生活レベルを保っていたい。これは必要悪だとゼノも割り切っていた。
「じゃ次も頑張ってくれ、これはオマケだ」
 そこでいつも通り仕事の伝令書と封筒、それに一丁の拳銃が渡された。ぎょっとしたゼノは顔色を変える。
「これは……」
「いつか使うかもしれねえだろ、持っとけ」
「いりません」
「まあそう言うな、役に立つときもきっと来る、なんなら今そいつで俺を撃ってもいいんだぜ」
「本気ですか?」
「ああそうだな、お前にならやられてやってもいい、けど、狙うならきっちり心臓か頭だ、即死がいいや」
「……わかりました、ではそうします」
 暫くの沈黙のあと真面目な表情でゼノが答えると新貝は笑っていた。
「射撃の練習もしとけよ、じゃないといざってときに仕留め損ねる」
「はい、ありがとうございます」
「いいって、じゃ、また来週な」
「はい、来週、新貝さん」
「ふふ」
 機嫌よくニヤリと笑った新貝は大理石のテーブルを直接灰皿代わりにして、煙草を揉み消し立ち上がる。大事そうに抱えたクラッチバッグは大きく膨らみ重そうだ。
「あ、そうだ、ゼノ、俺が嫌いじゃないんなら、今度来る時までに灰皿買っとけよ」
「そうですね、考えときますよ」
「考えるだけかよ、わかりました新貝さんと言え」
「了解です」
「ふん、いちいち憎らしい言いようだな」
 新貝は名残を惜しむようにそれからも一言三言話し、五分後ようやく部屋から出て行った。

「灰皿買っとけ? ふざけんじゃないわよ、この腐れチ○コが、おととい来やがれっての!」
 薄いべニアの戸が閉まり、新貝の姿が見えなくなると、フィーンは忌々しそうに歯を剥いて右手の中指を立てた。それを見てオウガは眉を顰める。
「やめろフィーン、口が過ぎるぞ」
「なに、あんたもあの狐野郎に感謝してるとか言う気?」
「感謝ぐらいするさ、助かってるのは事実だ」
「やめてよね、あいつはアタシたちを利用してるだけだわ、所詮金目当てよ、外道だわ」
「俺たちだって奴を利用してる、あの男の情報がなければこう上手くはいってない」
「なにが? 情報なんていらないわよ、疑わしきは罰せよ、全部殺っちゃえばいいじゃない」
「それでは人間狩りだ、人類を絶滅させる気か?」
「すればいいじゃない、くだらない! 人間なんて生かしとく価値ないわ」
「俺たちだって人間だ」
「人間じゃないわ! 少なくともアタシは、ヒトじゃなかった!」
 言い争う二人の間で、ゼノは自分はヒトではないと叫ぶフィーンの怨念を思った。
 彼女の中には人間《ヒト》への憎しみだけが渦巻いている。同じくそれを感じているのだろうオウガも、眉間に皺をよせるばかりで次の言葉が出ない。

 彼女の憎しみは理解出来る。それは自分たちの中にあるモノと同一だからだ。それでも無差別には殺さない。それをしてしまえば自分たちは本当にヒトでなくなる。平和に普通に暮らしている人間には手を出さない。それだけがルールだ。

「もういいだろ、次の標的について話そう」
「ああ、そうだな」
 ゼノの声にオウガは即答した。二人の、フィーンと争いたくはない、彼女を護りたいとの思いは根深い。

「瀬乃克彦か……これは俺がやろう」
「何でよ、アタシがやるわ」
「ダメだ、資料を見なかったのか? こいつは学生時代ラグビー部だったとかでいい体をしてる、力もありそうだ、俺がやる」
「ふざけないでよ、あんたのほうこそ力負けしそうじゃない、アタシがやるわ」
「俺がやる、お前は休んでろ」
「ちょっと! アタシがやるって言ってんでしょ!」
「待ちなよフィーン、オウガの気持ちもわかってやろう」
「オウガの気持ち?」
「資料、見てないでしょ? 読んでみて、ほらここ、最後のとこ」

   ***

三年前、妻の連れ子が行方不明になったとき、瀬乃は事件への関与が疑われた。
しかし証拠不十分で検挙に至らず、おとがめなし。
二年前、夫妻の自宅から二キロほど離れた雑木林で、地中深くに埋められた子供の遺体が発見されるが遺体は腐敗しほとんど白骨化していて、犯人や動機に繋がるような物証は出なかった。
(野犬に食われたような傷が多数あったが、それが生前からの物か、死後の話かは不明)

   ***

「野犬にね……いいわ、じゃ今回は譲るわよ」
 資料を読み漁り、フィーンも納得した。そこでゼノも話を進める。
「手順を決めよう」
「女のほうはどうするの? こっちはやらせなさいよ」
「女は関係ないだろ、瀬乃だけでいい」
「そんなわけある? ラウと一緒だったのよ、こいつもラウだわ」
「そうとも限らない、資料にはない」
「でも!」
「まあまて、じゃあこうしよう、その場にいたら一緒にやる、いなかったら今回は見逃す」
「いいわ、じゃ、いたらアタシがやるからね」
「オーケー、任すよ」
「犬はどうする?」
「犬のことは気にしなくていい、先に始末しとく」
「わかった任せる」
「じゃ、決行は明後日、女が仕事に出てる夜中を狙う、侵入は僕が、あとはオウガに任せる、終わったら交代だ」
「ラジャー」

 話すだけ話すとオウガとフィーンはそれぞれの部屋に消えた。
 彼らは実行までほとんど動かずにそこで過ごす。下調べと準備はゼノの仕事だ。それは審判を始めたときからの決め事だった。
 恨みも憎しみもそれぞれにある。だがその方向は少し違う。それぞれに出来ることを、やらなければと思うことをする。

 この繋がりに名前はない。