「おれの名前は、きらぼしとでも呼んでくれ。それがおれの、剣士としての通称なんだ。お姫さんは普通に呼んでいいのか?」

 気軽な口調で、狂戦士の根ざしものを持つ彼が言った途端、仮面の男がピクッと体をこわばらせた。

「お姫さん?」
「あ? 何だ、もちづき、気付かなかったのか? 彼女、噂のおてんば姫さんだよ。あさぎり国第一王女、ゆめさき姫」

 もちづきというらしい仮面の男は慌ててひざまずき、一つに結った長い黒髪を翻して面を伏せた。

「これは、ご無礼をいたしました。このような夜更けに、ゆめさき王女殿下とお会いすることになるとは露も思わず。武辺の国みつるぎの無骨者ゆえ、御国の事情には十分に通じておらず、浅薄なる振る舞いをいたしましたこと、何卒ご容赦ください」

 ゆめさきは、びっくりしてしまった。ここまでかしこまられることのほうが珍しい。ゆめさきは、もちづきの肩に手を触れた。もちづきが体を硬くするのがわかった。

「顔を上げて、立って。普通にしゃべってくれていいのよ。無礼な振る舞いなんて、一つもなかったわ。むしろ、あなたは礼儀正しくて紳士的だし、わたしを助けてくれたじゃないの。ありがとう」
「殿下、もったいないお言葉です」

「その殿下って呼び方も堅苦しくて、ちょっとね。もう正体がバレちゃってるし、ゆめさきって呼んでくれていいのよ。わたしの友達はみんなそうしてる」
「しかし……あの、ゆめさき、姫さまは、なぜ夜更けに下町へ? 危のうございますよ。宮廷までお送りします」
「それはダメ!」

 思わず大声が出てしまった。ゆめさきは口を押さえ、耳をそばだてる。路地は静まり返ったままだ。ゆめさきはホッとする。
 朝になればサンドウィッチの屋台が出る小さな空き地に、ゆめさきたちはいる。むらくも族の時計塔は、路地を二つ隔てた向こうだ。

 ゆめさきは背負い袋を下ろし、おとなしく収まっていた仔竜のあらしを抱き上げた。狂戦士のきらぼし、仮面のもちづきが、あっと驚きの声をあげる。あらしは少し怖がるように、ゆめさきの胸にしがみ付いた。

「あらし、この人たちは平気よ。わたしを助けてくれたところ、見てたでしょ?」

 キュ、と、あらしは喉を鳴らした。鱗に覆われているのでなければ、銀色の子犬かと見間違う人もあるかもしれない。馬のように生えたたてがみや長い尾は、金とも銀ともつかない光沢を帯びて、見事にふさふさしている。
 きらぼしが近付き、お辞儀をするように体をかがめて、あらしに顔を近付けた。あらしが大きな目で、きらぼしを見つめ返す。

「すっげえ。竜かよ。本物は初めてだ。ちびっこくて、かわいいもんだな。おまえ、お姫さんに飼われてんのか?」

 あらしは、キュワッと口を大きく開け、ちんまりとした牙をのぞかせた。ゆめさきはクスクスと笑った。

「飼われてるんじゃなくて友達だって言いたいんだと思うわ。この子、人間の言葉がわかるのよ」
「ふぅん、そっか。友達か。飼い犬扱いして悪かったな」

 あらしがツンと鼻をそらした。あらしの生意気な表情に、きらぼしは笑み崩れる。
 ゆめさきはドキリとした。きらぼしの艶やかな髪は、ほんのすぐそばにある。形よく薄い唇の微笑みが、ゆめさきの視線を惹き付けた。あの唇がわたしの初めてのキスを、と思い返すと、胸にくすぐったい熱が満ちていく。

 もちづきが立ち上がり、きらぼしをグイと引っ張った。
「無遠慮に姫に近付くな。困っておられる」
「え? ああ、悪ぃ。おれのまわり、普段は男ばっかで、女との距離の取り方がわからねえ。癇に障ったら、そう言ってくれ」
 きらぼしは神妙な顔をして、律儀に頭を下げた。涼しげな顔立ちに反してコロコロと変わる表情が、どこか子どもっぽい。

 みつるぎ国は尚武の国で、そこに住まう人々は、ひどく静かで超然とした態度こそを貴ぶ。そんなふうに、ゆめさきは聞いていた。暑かろうが寒かろうが痛かろうが悲しかろうが、顔色ひとつ変えないような者ばかりだ、と。
 きらぼしという男は、そうではないらしい。髪の色はあさぎり国の者と違っても、心のあり方はさほど違わないようだと思うと、ゆめさきは彼に親しみが湧いた。

「ちょっとくらい距離が近くても、わたしはかまわないわ。それより、あなたたちにお願いしたいことがあるの」
「お願い? どんなことだ?」
「わたしと会ったこと、誰にも言わないでもらえる? そして、今日このまま、わたしを見逃して。わたし、どうしても、やらなければいけないことがあるの」

 きらぼしが、もちづきと顔を見合わせた。仮面に表情を隠したままだが、もちづきは首をかしげ、怪訝そうな口ぶりで問うた。
「やらなければならないこと、とは?」
 ゆめさきは唇を湿し、微笑んで答えた。
「冒険の旅」