朝からおこなわれた婚礼の儀が昼前に終わり、民衆が集まる広場を城壁上から見晴らすお披露目の時間が取られ、謁見の間に引っ込んで貴族たちの祝辞を受け、最後に盛大な晩餐会があった。

 ゆめさきはクタクタになってしまったが、実は、時刻はまだそれほど遅くない。明日の午前中も予定が入っていないのは、婚礼の日における最後の務めとして、夫婦が仲睦まじい初夜を過ごすことが定められているからだ。

 侍女たちも今宵は下がらせてある。新郎新婦が寝室に引っ込んでも、宴は続いている。侍女たちには、近衛兵団とのダンスを楽しんできたらと、からかっておいた。ゆめさきに苦労を強いられる者同士、ゆめさき付きの侍女たちと近衛兵団は馬が合うらしい。

 寝室に戻るなり、ゆめさきは鏡台に向かった。塔のように高く結われた髪が鬱陶しくてならず、宝石細工の髪飾りを次々と引き抜く。その様子を眺めながら、一緒にゆめさきの寝室に入った花婿は、書机の椅子に、行儀悪く逆向きに座った。

「しかし、思い出すだけで笑えてくる。ふぶきも、きよみず姫も、ちしおも、いい顔して驚いてくれたよな。おれが皇子だってこと、まったく気付いてなかったんだな」

 きらぼしである。襟の詰まった上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンも外し、袖をまくって気楽な格好になる。
 ようやく髪をほどき終えて、ゆめさきは、重たい耳飾りや首飾りを外しに掛かった。鏡の中のきらぼしに笑いかける。

「だって、もちづきのほうがずっと皇子さまっぽいもの」
「あいつはおれの影武者なんだ。本物の皇子がおれだと知らない人間の前では、あんなふうに完璧な貴公子を演じる。旅の間は披露する機会がなかったけど、もちづきは、おれの口調や振る舞いを完璧に真似ることもできるんだぜ」

「背格好は似てるものね。仮面を付けてたら、きらぼしが皇子だと知ってる人でもだませるわけね」
「でも、ゆめさきは全然、驚かなかったな。いつからおれが皇子だと気付いてた?」
「最初からよ。正確に言えば、きらぼしにキスされた瞬間から。狂戦士の力を複写するつもりでいたら、二つの根ざしものが同時に飛び込んできたんだもの」

 王族は二つの根ざしものを持つ。王族の血を引いていても、一つの根ざしものしか持たない者もいるが、彼らは王族を名乗ることが許されない。もちづきがそれである。

 きらぼしの二つ目の根ざしものは、【人相見】だった。他人の根ざしものを見抜く力である。おかげで、人さらいたちとの戦いでは有利な展開に持ち込めた。初対面のすみれの根ざしものも、きらぼしは、さりげなく見抜いていた。

「何だよ。おれは上手に隠してるつもりでいたのに、最初っからバレてたとは」
「わたしは手強いのよ。わたし以外のみんなの目を欺けたんだから、十分でしょ」

 アクセサリーを外し終えたゆめさきは、ちょっと迷い、結局その場でドレスの背中のボタンを外し始めた。きらぼしが目を見張る。

「おい、いきなりかよ?」
「この鎧みたいなドレスを脱ぎたいの。コルセットとパニエとハイヒールも。重いしきついし、これだから正装は嫌いなのよ」
「だからって、急に、脱ぐとか」

「おあいにくさま。この鎧みたいな装備を外しても、旅の間に外で着てたくらいの服を、下着の上に身に付けてるわ。背中のボタンを外すの、手伝って」
「はいはい、仰せのままに」

 きらぼしは肩をすくめ、椅子から立って、ゆめさきの指示に従った。締め付けから解放されながら、ゆめさきは、鏡の中のきらぼしに尋ねた。

「唇の端のかさぶた、何?」
「何日か前、もちづきに殴られたんだよ」
「えっ、もちづきに? しかも、治癒してくれなかったの? きらぼし、一体何を言って怒らせたのよ?」

 きらぼしは頭を掻き、目を泳がせた。
「あのさ、何日か前、すげぇ不安な気分にならなかったか? 未熟な自分がこのまま本当に結婚していいんだろうかって」

「不安には……ちょっとは、なったけど。それがどうしたの?」
「ひよどり村で、ゆめさきに、どっちがいいか選べって言ったろ? もちづきだったら、おれと入れ替わることができる。あいつがおれの代わりに表舞台に立ったって不都合はないって」

「もしかして、もちづきにそれを言った?」
「言った。そしたら殴られた。皇子の代わりに激務をこなして尻拭いに奔走して、挙げ句に誘拐されてひどい目に遭って、その上、結婚までさせられたんじゃたまらない。恋愛くらい自由に楽しませろ。ゆめさきをガッカリさせるつもりか、って」

「もちづき、怒ってた?」
「ブチキレてた。めったにないけど、あいつが怒ると本気で怖いぞ」

 もちづきは、今日は黒衣ではなく、仮面も付けていなかった。知的で温厚で貴公子然とした黒髪の美男子は、女性たちの熱い視線を浴びていた。今も宴の席で、女性たちに囲まれているに違いない。

 きよみずもうっとりと、もちづきに見惚れていた。ちしおは複雑そうだった。きよみず付きの近衛兵として特別待遇を受ける彼は、旅の間の恩から、もちづきには懐いている。だから敵対視などしたくないのだが、きよみずの熱視線には待ったを掛けたいようだ。

 ここにあらしがいたら、と、ふとした瞬間に思ってしまう。そのたびに、ゆめさきはかぶりを振る。晩夏の今、あらしたち袋銀竜は、そろそろ竜の谷から旅立つころだろう。
 次にあらしに会えるとしたら、十二年後だ。そのときには、ゆめさきには子どもがいるかもしれない。あらしは体が大きくなって、つがいの雌を見付けているかもしれない。

 身軽な格好になったゆめさきを、急に、きらぼしが後ろから抱きしめた。背中に広がるぬくもりは、硬く引き締まっている。
「ゆめさき、言いそびれてたことがある」
「ん、何?」

「好きだ」
 ただ一言が、ゆめさきの胸を熱く高鳴らせる。

 きらぼしは不思議だ。他人ではないと誓い合ったのは今日なのに、生まれる前から知っていたように感じる。一緒にいると、どうしようもなくドキドキするのに、例えようもなくしっくりくる。

「わたしもあなたが好きよ、きらぼし。ねえ、今夜は、特別な思い出をあげる。わたしと一緒に来て」

 ゆめさきは、きらぼしの腕をそっと叩いて力を緩めさせ、するりと抱擁から抜け出した。熱い目をしたきらぼしの手を取り、寝室の奥へと導く。
 ベッドサイドには甘い香が焚かれ、どこか艶っぽい色味のランプがともされていた。かすれ声で、花婿が、愛しい花嫁の名を呼ぶ。花嫁は振り返り、ニッコリと微笑んだ。

 そして。
 花嫁は豪奢な天蓋のベッドのそばを素通りした。

「ちょっ、え。ゆめさき、特別な思い出って?」
 期待が空振りした花婿は、宙に浮いた情熱を持て余しながら、花嫁の手によってグイグイと、窓際へ引っ張られていく。

 ゆめさきはカーテンを開け、窓を開け放った。夏の湿った夜風が、ゆめさきの金色の髪を遊ばせる。
 ルビーの瞳をキラキラと輝かせて、ゆめさきは、きらぼしを振り返った。

「星空の散歩に連れていってあげる。城壁を越えたり建物に忍び込んだりするときに人を抱えて飛ぶことはあったけど、あらしを別とすれば、散歩は一度もないの。いつか特別な人ができたら、二人きりで抱きしめ合って空を飛びたいって、ずっと夢見てた」

 きらぼしは、まだ戸惑った顔をしている。じれったくなって、ゆめさきのほうからギュッと、きらぼしに抱き付いた。

「ほんとに飛ぶのか?」
「もちろん。怖い?」
「いや。信頼してる」

 きらぼしが、ゆめさきの体に腕を回す。ゆめさきは、きらぼしの頬に短いキスをして、星空を仰いだ。

「しっかりつかまっててね。思いっ切り、かっ飛ばすから!」
「待て待て、かっ飛ばすって!」
「待ったなし! 行くわよ、きらぼし!」

 ゆめさき姫は窓枠に足を掛けて、飛んだ。


【了】