「起きてください、姫! 姫、早く!」
 ユルタの外で、ふぶきが声を張り上げている。さっきからうるさくてかなわない。
 ゆめさきは、しぶしぶ体を起こした。明け方まで寝付けなかったから、眠りの足りない頭がボーッとしている。

「何よ、ふぶき?」
「寝ぼけてないで、さっさと起き出してください! あらしの脱皮が始まったんです!」

 その瞬間、ゆめさきの意識は完全に覚醒した。隣で丸くなって眠っていたはずのあらしがいない。慌てて服を着て髪を結い、ゆめさきは外に飛び出した。
 いきなり、きらぼしと目が合って、ちょっとうろたえる。昨晩と同じ格好のきらぼしは、まぶしそうな目をして笑った。ゆめさきは曖昧な笑い方で応じ、ふぶきに尋ねた。

「あらしはどこ?」
「泉のそばの、梔子の木の下です。頭から尾まで、たてがみに沿ってまっすぐな亀裂が入ったところで、いったん休憩してます」

 脱皮の開始にいち早く気付いたのは、もちづきだった。
 もちづきが日の出のころに起きて沐浴し、水から上がったとき、あらしがユルタから出てきた。もちづきに挨拶するあらしの目元に、違和感があった。目の輝きが半透明の膜の向こうにあるように見えたのだ。

「蛇の脱皮を目撃したことがあります。竜の脱皮はまた異なるのでしょうが、脱皮直前に目の保護膜が眼球の表面から浮き、白くくすんで見える点は共通しているようです。注意深く観察すると、あらしが体を揺するたびに少しずつ亀裂が広がるのがわかりました」

 早朝の木漏れ日を浴びながら、あらしは梔子の木の幹を前肢でつかみ、白い花を見上げる格好で動きを止めている。完全な静止ではない。たてがみを見れば、細かく震えているのがわかる。
 ふぶきが、ほとんど音も立てずに木箱を組み立てながら、チラチラと、あらしの様子に目を向けている。

「竜の脱皮は、傷付いた皮を脱ぎ捨てるための蛇の脱皮とは違って、姿ごと生まれ変わる蝉の脱皮に近いんですよ。鳥のひなが自力で卵の殻を蹴破って出てくるときとも同じく、ずいぶん体力を使うみたいですね」

 むらくも族の唄にそう歌われていると、ゆめさきも、ふぶきの祖父から教わったことがある。ゆめさきは、ふぶきの言葉にうなずきつつ、その手が組み立てる木箱をつついた。

「この箱、どうするの?」
「きよみず姫さまに持って帰って差し上げるんでしょう? 木馬の保管用に持ってきた箱なんですけど、詰め物をすれば、あらしのために使えそうです。あの姿のまま壊さずに運べますよ」

「さすが、ふぶきね。そういえば、ちしおは?」
「また熱が上がったようで、起きられずにいます。今日はユルタもこのままにして、寝かせておきましょう」

 きらぼしが、ゆめさきの肩を軽く叩いて注意を引いた。
「見ろ、出てくる」

 それが何か、最初はピンとこなかった。あらしの背中の、首の付け根あたりから、長い棒のようなものがせり出してきた。棒は木漏れ日を反射してきらめいている。しっとりと濡れているらしい。
 棒ではないとわかったのは、それが膜を広げながら、ゆっくりと開いたからだ。

「翼だわ」
 あらしの小さな体に不釣り合いなほど、大きな翼である。あらしは、広げた翼を上下に動かした。羽ばたきが空気を打ち、泉の水面に風紋ができる。

 翼に次いでたてがみが、濡れてぺたりとした状態で現れた。頭が、なかなか大仕事のようだ。後頭部がのぞいているのに、何かが引っ掛かって、うまく出てくることができない。
 ゆめさきは手を貸したくなった。うずうずしていたら、もちづきにたしなめられた。

「見守りましょう。人が手出しをしては、あらしの竜としてのあり方を歪めてしまうやもしれませぬ」
「わかってるんだけど」

「脱皮前の小さな殻の中には、あの翼からわかるように、大きく新しい体が押し込まれております。おそらく、新しい体は羊水の中の胎児のように柔らかく、外の空気に触れて初めて本来の大きさと硬さを得る。であればこそ、他者が触れては危険です」

「自然に出てくるのを待たずにさわったら、新しい体が曲がってしまうということ?」
「おそらくは」

 あっ、と、きらぼしが声を上げ、あらしを指差した。
「角だ。角が引っ掛かってたせいで、頭が出てこなかったんだ」

 伝説に聞く袋銀竜には角が生えているが、あらしの頭はつるりとしていた。脱皮によって、飛翔が可能な翼と同時に角も、初めて体に備わるらしい。幼体は雌の袋の中で育つため、角があっては危険なのだろう。
 角の生えたあらしの頭が全部、古い殻の中から飛び出した。ゆめさきは、ホッと胸を撫で下ろした。
「これで大人の仲間入りができるのね」

 あらしの前肢がスポンと出てきた。先端まで亀裂の入った尾は、一振りしただけで綺麗に脱皮する。後肢は片方ずつ、妙に人間臭い動きで、よっこいしょと引き抜かれた。
 じゃーん、と、あらしは翼と前肢を広げてみせた。体はまだ濡れてキラキラしている。あらしは、日の当たる岩場を見付けると、疲れ切った足並みで歩いていって、うつぶせに倒れ込んで目を閉じた。

 ふぶきが、とっくに組み立て終わった木箱を置いて、ホッと息をついた。
「あらしが動き出すまでは、ぼくたちも足止めですね。まずは腹ごしらえしましょうか」

 言われた途端、ゆめさきのおなかが小さく鳴った。夜更かししたぶん、空腹だったのだ。
 隣に立つきらぼしには、ゆめさきのおなかの音がバッチリ聞こえたらしい。ニヤニヤした目で見下ろされ、ゆめさきは恥ずかしくなって、きらぼしの背中を叩いた。