沈黙が落ちる。静寂ではない。虫の音、水の音、鳥の声、風の声、木々のざわめきと、きらぼしの呼吸の静かで確かな気配。
 ゆめさきは、きらぼしを見つめてしまいそうになっては、ハッとして目を伏せる。鼓動の高鳴りを聞かれているのではないかと不安になる。

 きらぼしは水面のほうを向いている。その横顔の研ぎ澄まされた美しさは、ゆめさきの脳裏に焼き付いている。見つめなくても、見つめているのと同じくらいハッキリと。

 不意に、沈黙が破られた。
「あらしは寝てんのか?」
「うん」

「早く隣に戻ってやれよ。最後の晩なんだ」
「そうね。最後なのよね。それを意識したら、眠れなくなったの。あらしは気にもせずにすやすや寝てるのに」

「十二年後にまた会えるからだろ。竜にとっての十二年なんて、あっという間らしいな」
「人間にとっては、すごく長いのにね。やっぱり寂しい。それに、お城に戻ったらすぐに婚礼の日が来て、あらしがいない上に花婿と一緒に過ごす新しい生活が始まることになってて、わたしはきっと何もかも変わっていくんだわ」

 喉がギュッと熱く痛んで、ゆめさきは言葉を続けられなくなった。変化を恐れている自分に気が付いた。あらしと別れることも、夫を迎えることも、不安で怖い。
 きらぼしが動いた。ゆめさきの頭を、大きな手のひらでポンと軽く叩く。手のひらは離れていかない。ゆめさきの頭に優しいリズムで触れながら、きらぼしはささやいた。

「ゆめさきは、一人じゃないんだ。不安な思いを抱えているのも、あんたひとりじゃない。相手だって同じ。だから、大丈夫だよ。何とかなるさ」

 助けてほしいとき、きらぼしはいつもそこにいる。助けを求めるとき、ゆめさきは彼に手を伸ばす。そう気付いた。
 ストンと落ちるように、とても自然に、ゆめさきは一つの事実を理解した。

「わたし、恋をしているの」
 あらしと同じくらい好きで、あらしと違う意味で好きな、この感情の正体は何か。
「出会って間もないのに、ううん、出会った次の瞬間くらいに、好きになったんだと思う」
 顔を上げる。きらぼしが手を引っ込める。黒い目に真剣な光がある。

「きらぼし、あなたが好き」

 切なげに眉をひそめて、きらぼしは、どうしてとつぶやいた。ゆめさきは、震える唇で微笑んでみせた。

「どうしてかしら? 乱暴で危なっかしくて言葉が少し汚くて勉強嫌いで、いい加減なところもあるし、めちゃくちゃなことをするし」
「おい」
「でも、勇気がある。義理堅い。とても優しい。そして、居心地がいい。もちづきとどっちが好きか選べって、きらぼしは言ったけど、選ぶまでもなくわたしが好きになったのは、きらぼしよ」

 きらぼしが、ふわりと微笑んだ。その笑顔が近付いてきて、ゆめさきは目を閉じた。
 唇が重なった。めまいがしそうに甘美な、ほんの数秒間。
 短いくちづけをほどいて、きらぼしは、ゆめさきの額に自分の額をくっ付けた。

「後悔するなよ?」
「わたし、間違ってないはずよ」

 ゆめさきは確信を込めて、きらぼしを見つめた。きらぼしの頬に触れ、艶やかな髪を梳く。きらぼしが、そっと笑いながら目をそらした。

「そんな格好して誘ってくるのは、大いに間違ってるぞ。さっさと寝床に戻れよ」
「どういうこと?」
「止まらなくなりそうで怖い。あんたの根ざしものとは別の意味で、おれの体が、天にも昇る心地になりたがってる。夜は危険だ。離れてくれ」

 ゆめさきの手から、するりと、きらぼしが逃げ出した。きらぼしの体温の代わりに、涼やかな夜風がゆめさきの頬と髪を撫でる。きらぼしは、さっさと自分のユルタに向かっていった。

「きらぼし」
 後ろ姿のきらぼしは、ユルタの入口に掛けた羊毛氈に触れながら、横顔だけで振り返った。少し遠くて、表情はよく見えない。

「付け加えとく。夜のおれが危険なのは、あんたの前だけだ。愛しい感情もやましい感情も一人ぶんしか持ち合わせてねぇから、分散せずに集中するぶん、本気で激しく奪いに行くぞ。いずれ必ずな」

 告げられた言葉の意味をゆめさきが理解するまでに、きらぼしはユルタの中に姿を消していた。ゆめさきは、熱くなった頬に手を当てた。心臓が喉元まで膨れ上がっているかのように、うるさいほどにドキドキしている。

「本当に眠れなくなるわよ、もう」
 怒りたいのに、頬が緩んでしまう。

 好きな人に、好きだと言った。キスをした。遠回しではあるけれど、唯一の女だと口説かれた。
 甘くて熱い感情が体じゅうに満ちて、空を飛んでもいないのに、全身がふわふわする。