一歩、二歩と、きらぼしは王座から下がり、剣を捨て、すめらぎの亡骸に手を合わせた。ふぶきは怒りのような表情に顔を歪ませ、深い息を吐き出した。
きらぼしが振り返った。まっすぐにゆめさきを見つめ、微笑む。
ゆめさきはハッとした。きらぼしの笑顔があまりに純粋なせいで、とてつもなく不吉な予感が、ゆめさきの胸に刺さった。
「きらぼし!」
ゆめさきは宙を飛んだ。きらぼしの名を呼びながら、その手に触れたくて、ゆめさきは手を伸ばす。きらぼしがそれに応じ、右手を持ち上げて。
きらぼしがこの上なく真剣な目をして、ゆめさきを強く見つめた。
そして、きらぼしは倒れた。
ゆめさきの指先はむなしく宙を掻く。
「イヤよ、そんな……ねえ、きらぼし!」
ゆめさきは床に膝を突き、きらぼしの肩に触れた。ヌルッとした血の感触。温かく、引き締まった体。きらぼしを揺さぶる。悪夢の中のように、ゆめさきの体はふわふわとしてうまく動かない。
駆け寄ってくる足音がある。最初に到着したあらしが小さな手で、きらぼしの黒髪をわしわしと掻き回す。きらぼしは動かない。キュイ、と、あらしが首をかしげ、鼻先できらぼしをつつく。
ふぶきはゆめさきの隣にひざまずき、きらぼしの首筋の脈を取った。ゆめさきはふぶきを見る。ふぶきは顔を上げ、声を張り上げた。
「生きてます! 早く!」
足音が走ってきた。ゆめさきは、のろのろと首をめぐらせた。
「もちづき?」
両手に枷を嵌められた格好で、黒衣の男が駆けてくる。彼の背後に、赤毛の少年が右腕をかばいながら立っている。
黒衣の男は、仮面を付けていなかった。柔和に整った顔立ちを悲痛な色に染めて、きらぼしのそばにへたり込んだ。
「なぜここまで無茶を? 自分の立場を考えろ。甘いのはどちらだ!」
まぎれもなく、もちづきの声だ。初めて目にした美貌はひどく繊細で、今にも壊れてしまいそうに見える。
もちづきは、枷のある両手をきらぼしの体にかざした。ほのかな光がその手に起こり、光が清浄な気を引き連れて、きらぼしの体に流れ込んでいく。
ぶわり、と、もちづきの全身の気が膨らみ、熱風になって噴き上がる。きらぼしの体を凝視する目が光を帯びた。
「鎖骨、肋骨、脊椎に、腎も傷付いている。大腿骨、膝蓋の損傷。よくこの体で戦ったものだ。いかに力が増そうとも、気を失いそうなほどの痛みがあったろうに」
負傷箇所を見抜き、重い症状の部位から、もちづきは治癒の光を当てていく。
もちづきの内側から噴き上がる風に、一つに結った髪が舞った。その黒が、見る間に白く変わっていく。
ゆめさきは、じっとしていられなかった。
「もちづき、わたしにも手伝わせて。もちづきの根ざしものの力を、わたしに貸して」
「なりませぬ」
「どうして? こんな大怪我の治癒、もちづきひとりに任せたら、もちづきだって体を壊してしまうわ」
「大怪我だからこそです。生死に関わるほどの症状は、経験の浅い治癒師の手には負えませぬゆえ」
「でも、きらぼしが」
「きらぼしの手を握って、呼び掛けてください。きらぼしが彼岸へ渡ってしまわぬように、こちらにつなぎ止めてください」
ゆめさきは、言われるままに、きらぼしの手を握った。少しゴツゴツして、指の長い手。強くて優しい手。
きらぼし、と呼ぶ。応える声がないのが悲しくて、何度も呼ぶ。目を閉じて祈りながら、繰り返し彼の名を呼ぶ。
もちづきの呼吸が上がり始めた。きらぼしの体にかざす手から、次第に潤いが削がれていく。なびく髪は完全に白い。
ハッと、ふぶきが息を呑んだ。
「もちづきさん、肌が……」
ゆめさきもまぶたを開き、目撃した。もちづきの手が、老人のもののように、しわだらけになってしおれている。ゆめさきは視線を上げようとした。もちづきがささやいた。
「見てはなりませぬ」
その声もしわがれていた。ゆめさきは、そっと、もちづきから顔を背けた。
ふぶきがナイフで、自分の服の袖を肩口から切り落とした。縫い針と糸を道具袋から取り出し、あっという間に袖を頭巾に作り替えて、もちづきにかぶせてやる。
もちづきが礼を述べた。苦しげな呼吸をしながら、休むことなく治癒を続けていく。
長い長い時間をかけて、もちづきはきらぼしの傷を癒やした。すべての傷が消えたとき、きらぼしは、すやすやと健康的な寝息を立てていた。
もちづきは疲れ切っていた。ぶかぶかの黒衣の内側で体を丸め、頭巾に顔を隠してうずくまり、立ち上がることもできなかった。
ふぶきが、待機させていた人形戦士を呼び寄せた。
「水晶《ボルール》、きらぼしさんを背負え。珊瑚《マルジャーン》は、もちづきさんを。まずは手枷を壊して外せ。真珠《モルヴァリッド》、あの孤独な王者を敷布《キリム》にくるんで抱えてこい。遺していくわけにもいかない」
赤毛の少年が、いつしかそばに立っていた。ゆめさきは、じっと少年を見つめた。
「もちづきを連れてきてくれて、ありがとう」
「別に。この砦に忍び込む途中で見掛けたから」
「あなたは地下からここに入ったの?」
「そうだけど。道案内でもさせるつもり?」
「お願いしてもいい? ひよどり村まで一緒に来てくれたら、あなたの怪我の治療もしてあげられる」
少年は、笑うのとは違うやり方で両目を細め、ゆめさきを見据えた。
「あんた、バカなの? 自分を殺そうとした相手を治療するとか、意味わかんないんだけど。動ける状態になったら、またその竜を狙うよ?」
「でも、今のあなたは無力だわ。おかしなことをすれば、わたしでも簡単にあなたを捕らえることができる。おとなしく言うことを聞いてちょうだい。ね?」
少年はきびすを返した。
「来るなら、勝手について来れば? ここに長居するつもり、ないし」
ふらつきながら歩き出す少年に、ゆめさきは問うた。
「名前を教えてくれる?」
少年は、ちしお、と短く答えた。その名にふさわしい赤い髪の後ろ姿を追って、ゆめさきたちは、生者のいなくなった砦を後にした。
きらぼしが振り返った。まっすぐにゆめさきを見つめ、微笑む。
ゆめさきはハッとした。きらぼしの笑顔があまりに純粋なせいで、とてつもなく不吉な予感が、ゆめさきの胸に刺さった。
「きらぼし!」
ゆめさきは宙を飛んだ。きらぼしの名を呼びながら、その手に触れたくて、ゆめさきは手を伸ばす。きらぼしがそれに応じ、右手を持ち上げて。
きらぼしがこの上なく真剣な目をして、ゆめさきを強く見つめた。
そして、きらぼしは倒れた。
ゆめさきの指先はむなしく宙を掻く。
「イヤよ、そんな……ねえ、きらぼし!」
ゆめさきは床に膝を突き、きらぼしの肩に触れた。ヌルッとした血の感触。温かく、引き締まった体。きらぼしを揺さぶる。悪夢の中のように、ゆめさきの体はふわふわとしてうまく動かない。
駆け寄ってくる足音がある。最初に到着したあらしが小さな手で、きらぼしの黒髪をわしわしと掻き回す。きらぼしは動かない。キュイ、と、あらしが首をかしげ、鼻先できらぼしをつつく。
ふぶきはゆめさきの隣にひざまずき、きらぼしの首筋の脈を取った。ゆめさきはふぶきを見る。ふぶきは顔を上げ、声を張り上げた。
「生きてます! 早く!」
足音が走ってきた。ゆめさきは、のろのろと首をめぐらせた。
「もちづき?」
両手に枷を嵌められた格好で、黒衣の男が駆けてくる。彼の背後に、赤毛の少年が右腕をかばいながら立っている。
黒衣の男は、仮面を付けていなかった。柔和に整った顔立ちを悲痛な色に染めて、きらぼしのそばにへたり込んだ。
「なぜここまで無茶を? 自分の立場を考えろ。甘いのはどちらだ!」
まぎれもなく、もちづきの声だ。初めて目にした美貌はひどく繊細で、今にも壊れてしまいそうに見える。
もちづきは、枷のある両手をきらぼしの体にかざした。ほのかな光がその手に起こり、光が清浄な気を引き連れて、きらぼしの体に流れ込んでいく。
ぶわり、と、もちづきの全身の気が膨らみ、熱風になって噴き上がる。きらぼしの体を凝視する目が光を帯びた。
「鎖骨、肋骨、脊椎に、腎も傷付いている。大腿骨、膝蓋の損傷。よくこの体で戦ったものだ。いかに力が増そうとも、気を失いそうなほどの痛みがあったろうに」
負傷箇所を見抜き、重い症状の部位から、もちづきは治癒の光を当てていく。
もちづきの内側から噴き上がる風に、一つに結った髪が舞った。その黒が、見る間に白く変わっていく。
ゆめさきは、じっとしていられなかった。
「もちづき、わたしにも手伝わせて。もちづきの根ざしものの力を、わたしに貸して」
「なりませぬ」
「どうして? こんな大怪我の治癒、もちづきひとりに任せたら、もちづきだって体を壊してしまうわ」
「大怪我だからこそです。生死に関わるほどの症状は、経験の浅い治癒師の手には負えませぬゆえ」
「でも、きらぼしが」
「きらぼしの手を握って、呼び掛けてください。きらぼしが彼岸へ渡ってしまわぬように、こちらにつなぎ止めてください」
ゆめさきは、言われるままに、きらぼしの手を握った。少しゴツゴツして、指の長い手。強くて優しい手。
きらぼし、と呼ぶ。応える声がないのが悲しくて、何度も呼ぶ。目を閉じて祈りながら、繰り返し彼の名を呼ぶ。
もちづきの呼吸が上がり始めた。きらぼしの体にかざす手から、次第に潤いが削がれていく。なびく髪は完全に白い。
ハッと、ふぶきが息を呑んだ。
「もちづきさん、肌が……」
ゆめさきもまぶたを開き、目撃した。もちづきの手が、老人のもののように、しわだらけになってしおれている。ゆめさきは視線を上げようとした。もちづきがささやいた。
「見てはなりませぬ」
その声もしわがれていた。ゆめさきは、そっと、もちづきから顔を背けた。
ふぶきがナイフで、自分の服の袖を肩口から切り落とした。縫い針と糸を道具袋から取り出し、あっという間に袖を頭巾に作り替えて、もちづきにかぶせてやる。
もちづきが礼を述べた。苦しげな呼吸をしながら、休むことなく治癒を続けていく。
長い長い時間をかけて、もちづきはきらぼしの傷を癒やした。すべての傷が消えたとき、きらぼしは、すやすやと健康的な寝息を立てていた。
もちづきは疲れ切っていた。ぶかぶかの黒衣の内側で体を丸め、頭巾に顔を隠してうずくまり、立ち上がることもできなかった。
ふぶきが、待機させていた人形戦士を呼び寄せた。
「水晶《ボルール》、きらぼしさんを背負え。珊瑚《マルジャーン》は、もちづきさんを。まずは手枷を壊して外せ。真珠《モルヴァリッド》、あの孤独な王者を敷布《キリム》にくるんで抱えてこい。遺していくわけにもいかない」
赤毛の少年が、いつしかそばに立っていた。ゆめさきは、じっと少年を見つめた。
「もちづきを連れてきてくれて、ありがとう」
「別に。この砦に忍び込む途中で見掛けたから」
「あなたは地下からここに入ったの?」
「そうだけど。道案内でもさせるつもり?」
「お願いしてもいい? ひよどり村まで一緒に来てくれたら、あなたの怪我の治療もしてあげられる」
少年は、笑うのとは違うやり方で両目を細め、ゆめさきを見据えた。
「あんた、バカなの? 自分を殺そうとした相手を治療するとか、意味わかんないんだけど。動ける状態になったら、またその竜を狙うよ?」
「でも、今のあなたは無力だわ。おかしなことをすれば、わたしでも簡単にあなたを捕らえることができる。おとなしく言うことを聞いてちょうだい。ね?」
少年はきびすを返した。
「来るなら、勝手について来れば? ここに長居するつもり、ないし」
ふらつきながら歩き出す少年に、ゆめさきは問うた。
「名前を教えてくれる?」
少年は、ちしお、と短く答えた。その名にふさわしい赤い髪の後ろ姿を追って、ゆめさきたちは、生者のいなくなった砦を後にした。