きらぼしは足が速かった。走って追い掛けようにも、ついて行けない。ゆめさきは、ふわりと浮かんで急斜面を飛び上がる。
 野花を咲かせた休耕地に、きらぼしはいた。畑の端に立つ栗の大木に赤い帯を引っ掛け、じっと見据えている。棒立ちしているようでいて、違う。その背中から噴き上がる気迫に、ゆめさきは息を呑み、きらぼしに近寄れない。

 チャキ、と、かすかな音がした。きらぼしが刀を抜く最初の瞬間の音だ。
 次の瞬間、いくつものことが同時に起こった。速すぎて、ゆめさきの目には全部同時にしか見えなかった。
 きらぼしが体を沈め、刀の柄に手を掛け、抜き放つ。振り抜く一閃、さらに次の一手。踏み込み、返す刀で刺突し、引き抜きざまに斬り上げ、そして。

 そこで動きが止まった。栗の木に掛けた赤い帯が、いくらか断たれながらも、きらぼしの刀を絡め取っている。
「くそッ」
 きらぼしは刀を投げ捨てた。刀は、しばし帯にぶら下がり、頼りなく揺れた後、草の上に静かに落ちる。

 ゆめさきはようやく、詰めていた息を吐き出した。
「きらぼしらしくないわよ」

 ゆるゆると、きらぼしは振り向いた。コロコロと表情の変わるはずの秀麗な顔に、どす黒い怒りだけがある。
「許せねぇんだ。自分が」

 胸の前で固めた拳は、血をにじませていた。石畳を打ったときの傷だ。ゆめさきは、抱いていたあらしを下ろし、きらぼしに駆け寄った。

「治癒するわ。右手を傷付けちゃ、剣を十分に振るえないわよ」

 有無を言わせずつかまえた男の拳は、ひどく大きくゴツゴツとしている。ゆめさきは両手を使って、やっと、きらぼしの右手の拳を包み込んだ。
 目を閉じて、念じる。小さなころの些細で真剣なおまじないに似ている。痛いの痛いの、飛んでけ。心からそれを祈る。どうかどうか、痛みよ消えてください。集中のあまり心臓も呼吸も苦しくなるくらい、懸命に祈る。

 と。
「やめろ、バカ」
 手を振り払われた。目を開けると、うっすらとかさぶたの残る右手を、きらぼしが自分のほうへ引っ込めるところだ。

「うまく治せたわね」
「いつの間に、もちづきの根ざしものを?」
「一昨日よ。もちづきが休憩所の壁のささくれで怪我をして、自分の力で自分を治癒することができないって言ったから、それじゃあわたしが治してあげるってことになって」

 不意に手首をつかまれ、ゆめさきは声を失った。きらぼしが、静かにギラリと光る目をしている。

「どこにあいつの唇を許した?」
「え? 何、急に……」
「複写の根ざしものを発動させるためのくちづけを、おれの知らないうちに、あいつから受けたわけだろ」

「やましいことなんてないわ。キスだって、右の手の甲にしてもらっただけ。挨拶を受けるときみたいに」
「手の甲、ね。でもな、おれらの国に挨拶のくちづけの習慣はない。手の甲だろうが足の甲だろうが、男が女にくちづけるってのは、色恋絡みの特別な関係だけだ。あいつはそれについて何か言ってたか?」

 ゆめさきは、かぶりを振った。きらぼしの迫力に呑まれて、頭が働かない。
 きらぼしはゆめさきの右手を自分の顔に引き寄せた。薄い唇が、ゆめさきの手の甲に触れる。かさついて熱い、柔らかな感触。唇は離れず、手の甲を這い、次第に熱を帯びながら、ゆめさきの細い指をついばむ。

「や、やめて、きらぼし」
 体が甘く痺れ、舌がもつれる。きらぼしの唇は、挨拶のキスと、なぜこんなに違うのだろう?

 きらぼしが、ゆめさきの指を甘噛みしながら、伏せていたまつげを上げた。しっとりと黒く濡れた目が、熾火を宿して揺れた。

 見つめ合ったのは、刹那。
 均衡が崩れ、そして、気付いたときにはもう、黒い瞳が近すぎて焦点が合わない。ゆめさきの唇を、あの熱くて弾力のある薄い唇が、貪るように食んでいる。
 力強い腕が背中に回されている。息継ぎを求め、おのずと開いた口を、強引な舌でねぶられる。

 体に痺れが満ちていく。甘い。苦しいのに甘い。こんなことをしている場合ではないと警鐘を鳴らす理性が、恍惚として溶かされていく。
 くちづけ、一つで。
 なんて、みだらな。

 力の入らない腕で、それでも必死で、きらぼしにしがみ付く。何も見えない。何も聞こえない。ただ、互いの体温を感じ、肌の匂いを知り、交じり合うキスの味を覚える。