ふぶきがきびすを返した。

「もう戻るの?」
「不吉とわかっている場所に長く留まる道理もないでしょう。祖父母が食糧や水、張幕《ユルタ》を用意してくれてますし、先を急ぐに越したことはありません。何より、姫は……」

 言いかけたまま、ふぶきは口をつぐんだ。ゆめさきは立ち上がった。あらしが前肢を伸ばし、ゆめさきの膝に付いた土をパタパタと払う。
「ふぶき、わたしが何?」

 ため息を一つ。ふぶきは、かぶりを振って歩き出した。山肌に沿って細長く拓かれた畑へと、身軽に跳び下りる。急坂と石段を下りるより、こうして跳んでいくほうが早い。
 一段、二段と跳び下りて、ふぶきの姿は林檎畑の中にまぎれた。ゆめさきはあらしを小脇に抱え、ふわりと空を飛ぶ。

「ねえ、ふぶき」
 林檎畑の段から跳び下りようとするふぶきの前に、ゆめさきは回り込んだ。まだ青い林檎の甘酸っぱい匂いがする。ふぶきは後ずさり、林檎の木に体を預けながら、ゆめさきから顔を背けた。

「もし、きらぼしさんたちが同行することにならなかったら、姫はぼくだけを旅に伴うつもりだったんですよね?」
「そうね。ふぶきは何かと頼りになるし、竜の谷に入るには、ひよどり村を通ることになる。だから真っ先に、ふぶきのことを思い付いたわ」
「許されることではないんですよ、こんなのは」

 地面に降りたゆめさきは、ふぶきを見上げた。まっすぐに立たず、木に寄り掛かっていてさえ、ふぶきのほうが背が高い。
 もともと、ふぶきは小柄で、二つ年下のゆめさきとさほど変わらない背丈だった。ずっとそうだったのに、ふぶきの背は、いつの間にこんなに伸びたのだろうか。父王よりも高いだろうと、ゆめさきは目測した。

 ふぶきの青い目は、ゆめさきを見ようとしない。秀麗な横顔に苛立ちがにじんでいる。
「姫だって本当はわかってるんでしょう? ヴェールで顔を覆っていなければならない時期の、婚礼直前の若い女が、赤の他人の男に顔をさらして、寝泊まりまでともにしている。誰かに気付かれるかどうかの問題じゃなく、行動そのものが異常なんですよ」

「わがままだと思ってるわ。でも、わたしは……」
「もし仮に、ぼくが間違いを起こしたらどうするつもりですか?」

 一瞬、意味がつかめなかった。
「間違い?」
 口に出してみて、やっと意味を理解する。もし仮に、ふぶきがゆめさきを性的な暴力で以て襲ったらどうするのか、と。

「起こり得ない事態だと言い切れますか? 姫は、男の愚かさを甘く見ている。ぼくに限りません。きらぼしさんも、もちづきさんも、男なんですよ。夜陰に誘われて欲望の夢を見るのは、まれなことなんかじゃないんです。むしろ、毎夜なのに」
「だ、だけど、ふぶきは昔からの友達で……きらぼしも、もちづきもちゃんとした人だし」

「みつるぎ国の男は礼儀正しくて自律的ですからね。姫がどんなに甘えようと、彼らはまじめな態度で接しています」
「わたし、甘えてない」

「自覚もないんですか? もちづきさんに一から十までみつるぎ国のことを尋ねて、声がかすれるまで説明させた夜がありましたね。きらぼしさんの剣術稽古を、追い払われてもしつこく見物しているのもしょっちゅうでしょう?」
「それは……でも、もちづきは優しくて、許してくれて……きらぼしは、あの……」

「きらぼしさんの腕の筋肉をさわったり汗を拭いてあげたり、していましたよね?」
「……見てたの?」

 黙々と修練の剣を振るい、汗を流すきらぼしの姿が美しかった。みつるぎ国の武術は、体を鍛えるだけでなく心をも鍛える「人生の道」なのだと、きらぼしは教えてくれた。その言葉を体現しているのは、きらぼし自身だ。
 触れてみたいと思った。無邪気なふりで腕の太さを比べて、何気なさを装ってタオルを差し出した。目を泳がせたきらぼしがじれったくて、あらしみたいに困った子ね、なんて言いながら、きらぼしの汗を拭ってやった。

「いけないことをしているんですよ、姫。婚礼前なのに、これは危険なことなんですよ」
「でも、待って、あのね」
「ぼくは、怖いんです。きらぼしさんたちの名前を持ち出しましたけど、そうじゃない。ぼく自身の問題なんだ」

「ふぶきの、問題?」
「むらくも族の掟に従えば、婚礼前の花嫁の純潔を奪う男は、例えそれが花婿であっても、皆の前で鞭打たれて首を斬られます。花嫁もそれを見届けた後、その場で首を刎ねられます。姫は、ぼくに、とんでもない試練を強いている」

 驚いた、というのが、ゆめさきの本心だった。ふぶきは女性を前にしても淡々とし、恋愛や結婚にはいっそ無関心に見える。ふぶきの口から花嫁という言葉を聞いたのは、細工物や人形の注文の確認以外では、これが初めてだ。

「で、でも、ふぶきは……違うでしょ? いけないことなんて、しない。わたしたちは、親友で、ずっと今まで……」
「そうですね。今までもこれからも親友ですよ」
 叩き付けるような口調だった。ふぶきは唇を噛んだ。

 ふぶきの考えていることが、わかりそうでわからない。わかってしまうことを、ゆめさきの心は拒んでいる。頭が痺れて、うまくものが考えられない。
 ゆめさきの腕から、ひょいと、あらしが跳び下りた。駆けていったあらしは、ふぶきの脚を鼻先でつつく。

 ふぶきがあらしを見下ろし、ふぅっと長いため息をついた。ゆめさきが知る限り、ふぶきほどしょっちゅうため息をつく人はいない。
 気持ちをなだめるためには深い呼吸をするのがよいと、むらくも族の唄に伝わっているらしい。だから、ふぶきはいつも大きく息を吐くのだと、ふぶき自身がずいぶん前に教えてくれた。
 どんな気持ちをなだめながら、その息は吐き出されるのだろう?

 ふぶきは足音もなく進み、長い袖の折り返しをすべてもとに戻して、ゆめさきの前にひざまずいた。袖を折らずに深く頭を垂れるのは、むらくも族の、高貴なる者に目通るときの正式の礼儀だ。

「あさぎり国王陛下と王妃殿下、みつるぎ国第四皇子殿下の御ために、ゆめさき王女殿下の御身をお守りするのが私、むらくも族のふぶきの務め。幼少のころより、陛下と王妃殿下から御直々に、我が務めについて拝命いたしております」
「ふぶき?」

「今般に至り、みつるぎ国第四皇子殿下からの言伝てとして、もちづきどのより、ゆめさき王女殿下の身辺警備を固く命じられました。謹んで拝命し、務めをまっとうする所存にございます」

 棒立ちになったゆめさきの手を、ふぶきが、そっと取った。ふぶきの繊細で温かく、少しかさついた手は、ゆめさきの手よりずっと大きい。
 ふぶきは、ゆめさきの手にくちづけなかった。きわめて貴いものであるかのように、額づくほどに深く下げた頭よりも高く、ゆめさきの手を保っている。ふぶきは、震える吐息を絞り出した。

 ゆめさきは戸惑った。
「どうして? 急に、こんな……ふぶき、顔を上げてちょうだい」

 命じられたふぶきが、のろのろと面を見せる。苦悩に眉をひそめ、熱く潤んだ目をしたふぶきを、ゆめさきは、知らない男のようだと思った。

「姫の手にくちづけるのを許されるのが、ぼくひとりならいいのに。残念ながら、ぼくは、あさぎり国の騎士じゃなく、みつるぎ国の皇子でもない。姫の結婚を祝うことしかできない、ただの親友なんですよ」

 やめて、と、ゆめさきはささやいた。何か大切なものがバラバラに壊れてしまうようで、恐ろしくて。

 突如。
 地面が揺れ、轟音が鳴った。

 ゆめさきは反射的に体をかがめ、ふぶきは立ち上がって身構え、あらしはキュッと悲鳴をあげる。そして見た。
 ひよどり村が襲われている。家より巨大な人形戦士が五体、拳を繰り出し、丸太を振り回している。大理石から成る、精巧で端正な姿の人形戦士である。

「あの造形は、むらくも族の人形!」
 ふぶきが目を見張った。

 人の背丈に五倍するほどの城壁は、ひよどり村が要塞であったころの名残である。人形戦士の背丈は、その城壁とほぼ同じ高さだ。いくぶん緩慢な、しかし十分に人間らしい動きで、人形戦士は分厚い城壁に火焔弾を仕掛ける。

 ボフッと、くぐもった爆発音がした。城壁の一部が瓦解し、その一ヶ所を狙って、人形戦士たちが次々と丸太を突き入れる。またたく間に城壁が崩れていく。
 人形戦士が村に侵入した。新たな爆発音がして、火の手が上がる。悲鳴が聞こえる。人々が逃げ惑っている。

「何が起こってるの?」
「姫はここにいてください」
「やだ!」
 即答したゆめさきに、ふぶきが、いつもの調子でため息をついた。
「……一人で飛んで突っ込んでいくのだけはやめてください。一緒に行きますよ」