なぜこんなに気が焦るのかが自分でも不思議だ。
きっと、月星丸が上さまの娘を知ってしまったからなのだろう。
そんな一大事を見逃すわけにはいかない。
月星丸の居る屋敷の前までたどり着いた。
辺りはすっかり夜の闇に覆われ、中の様子も分からない。
静かであるのならば、俺なんかの出番ではなかったのかも。
ふと気になって辺りを見渡した。
もしやお萩とその仲間が来ているやも知れぬ。
そう思うと、急に身が引き締まった。
そうだ、俺はさっきからずっと、そのことが気になっていたんだ。
「きゃあ!」
突然、屋敷の中から悲鳴が上がった。
俺は中へ飛び込む。
声の聞こえた庭先の方へ回った。
戸板が破られた様子はない。
だとしたら、刺客が入り込んだのはどこだ?
内側から、ガラリと扉が開いた。
そこに立っていたのは、月星丸だった。
「千さん!」
月星丸は素足のまま庭に飛び出すと、俺に抱きつく。
「遅いよ! なんで俺を置いていったんだよ、もっと早く迎えに来て!」
思わず抱き留めそうになった自分の腕を、空に高く掲げる。
家斉公の娘に失礼など出来ない。
「迎えに来たのではない、様子を見に来ただけだ。先ほどの悲鳴はなんだ?」
月星丸は後ろを振り返った。驚いた女中や控えの役人が集まっている。
「あいつらが俺に嫌なことばっかりやらせようとするんだ。これじゃあせっかく抜け出したのに、元に戻されたみたいだ。ねぇ、長屋に帰ろう、俺はあっちの方がいい」
「葉山はどうした?」
「あんな奴、だいっきらいだ!」
月星丸は、吐き捨てるようにつぶやいた。
「だから、出て行けって言ってやった。もうあいつは、ここには来ないよ」
「そうか」
俺は胸にしがみつく月星丸を、振り払うようにして後ろに下がる。
「あいつには、役不足ということだな」
月星丸を残して、俺は屋敷に上がった。
そこにいる女中たちを見下ろす。
「月星丸が何をした」
女たちは、お互いの顔を見合わせるばかりで、ろくな返事が返ってこない。
この荒らされた部屋は、全部月星丸の仕業か。
俺は足元に落ちていた紙を拾った。
寺子屋通いの長屋の虎次郎よりも拙い文字、ろくに筆を持ったことのない者の筆跡だ。
「あ、見ないでよ」
俺の手から、月星丸がそれを奪い取ろうとするのを取り上げる。
「お前、いろはを最初から言ってみろ」
「『いろは』といえば、『いろは』に決まってるだろ」
足元に落ちている「庭訓往来」を広げる。
「ほら、これを読め」
「漢字はまだ読めない」
月星丸は本を奪い取った。
「お前はこの歳まで、一体何をやっていたんだ」
月星丸は、顔を真っ赤にしてうつむく。
何も教えられていないというのは、こういうことか。
壁には棹の折られた三味線と、弦の全て切られた琴が立てかけられている。
「月星丸が、ここに居られるのはいつまでだ」
「それは……」
女中たちが言葉を濁す。
「ねぇ、ちょっと待って。ここに居られるって、どういうこと? ここに居られるのは、いつまでって、なに?」
月星丸は俺に向かって、本を投げつけた。
「だから、帰らないってずっと言ってるのに! こんなことしたって無駄なんだよ。どうしてそれが分からないの?」
「どこの大名屋敷の娘かは知らぬが」
俺は、そう言った。
「家から抜けるのなら、それなりの覚悟が必要だ。本当に屋敷を抜け出して自由な暮らしがしたいのなら、ちゃんと家に戻って父上と話しをつけてこい」
月星丸は、眉間にしわを寄せ俺を見上げた。
「それが出来ぬのなら、大人しく戻れ。出来るというのなら、ここで誰にも負けぬ知恵という力をつけて戦え。選ぶのはお前だ」
返事はない。
月星丸は、ただ黙ってうつむいた。
無理難題を押しつけているのは分かっている。
だけど、月星丸が自ら江戸城の姫だと名乗らぬ限りは、こうするしかない。
名乗ればその時は、無理矢理にでも城に帰す。
「元の場所には……、戻らない」
月星丸は、ぼそりとつぶやいた。
「そうか。では俺もここに用はない。葉山に頼まれてお前の面倒を見ろと言われたが、その必要もなかったようだ」
「待って!」
「邪魔したな。この仕事の依頼はなしってことだ。では御免」
背を向けた俺の背に、月星丸はしがみつく。
「分かった! 分かったよ。だからお願い、ここに居て。他に信じられる人が、ここには誰もいないんだ」
涙を必死で堪えている。
月星丸は鼻水をすする。
「今日はもう遅い。さっさと寝ろ。明日からしっかり学べ。それがお前の生きる道だ」
大人しくうなずいたのを見届けると、女中たちは寝支度を始めた。
俺は月星丸を残して部屋を出る。
女中に案内させて、別室に移った。
「葉山はどうした。どこにいる」
「葉山さまは、夜は非番にございます」
俺はため息をつく。
布団を整えると、女中は姿を消した。
あの男は、どこまでやる気があるのかないのかが分からん。
朝になって一番に駆け込んで来たのは、無遠慮に襖を開る月星丸だった。
「千さん、居た!」
寝間着のままのその姿に、俺の心拍数は一気に上がる。
「だからその格好で来るな!」
「病気は治ったんじゃないのか?」
「治ってない! 出て行け!」
女中たちには広間で一緒にと勧められたが、断って一人部屋で朝食をとる。
葉山が組んだという稽古の割り振りの時間になって、読本の師範がやって来た。
俺は月星丸が怒って暴れだしたり、飽きて教授を放り出さぬよう、同じ部屋の隅に座って監視している。
昨夜の用心棒の仕事と、たいして変わりはない。
昼近くになって、ようやく葉山が姿を現した。
俺の姿を見て、一瞬ビクリと体を震わせる。
「本当に来ていたのか」
「なんだ、迷惑だったか」
「いや」
俺は立ち上がり席を外した。
葉山を連れ出して縁側に腰掛ける。
「昨夜はあれからどこへ行っていた」
「それをお前に話す義理はない」
見上げる厚い雲の隙間から、かろうじて空が見えていた。
「城へはいつ戻る」
「急いではいるが、まだ話しがまとまらぬ」
葉山は何かを考えるように、視線を横に流した。
「それまでにとにかく、月子さまの教育を急がねばならん」
「あの時間割を組んだのはお前か」
葉山はうなずいた。
あのような過密な仕様では、月星丸が音を上げるのも無理はない。
だが、時間がないのもまた事実。
「あれの始末は俺に任せろ。お前は城に戻る手はずを急げ」
葉山は俺の眼を見た後で、わずかにうつむいた。
「随分と、協力的なんだな」
「……これでも一応は、武士の端くれのつもりだ。上さまへの忠義の心は、持ち合わせているつもりなんだよ」
ここは、狭い庭でも、きちんと手入れは行き届いている。
「浪人に身を落として、気づいたことがある。誰も仕える者がいなくなったとき、俺は俺の信じるものにこの身を任せて、仕えようと思った。その相手を自分で選ぶようになった時、初めて自由になったと感じた」
その気持ちに、今も嘘偽りはない。
「だから、俺がこうしていられるのも、こうしているのも、全て俺の意思だ。ただ仕える相手を間違っちゃいけない。それを見極めるには知恵も必要だ。俺はその知恵を、月星丸にはつけてほしいと思っている」
俺は顔に、ふっと笑顔を浮かべる。
「まぁ、生まれながらのお役人さんには、分からん話しだろうがな」
葉山はじっと腕組みをして、前を向いていた。
「何も疑わず、忠義の心を持つのも、それはそれで難しい」
葉山は俺と同じ空を見上げた。
「自分は一体、誰のために、何のために、仕えているのかと思う時もある」
葉山はため息をついた。
「ただそれを正しいと信じるより、他にあるまい」
奥の部屋で、女中の悲鳴と騒ぎ声が聞こえた。
「姫さまがお呼びだ」
葉山の声に、俺は渋々と立ち上がった。
「月星丸が呼んでいる」
そう言って、葉山を見下ろす。
「よろしく頼んだぞ」
書の時間のはずだった。
月星丸がひっくり返した硯のせいで、畳や先生の服に墨が散っている。
この畳や服も、すぐに新しいものに取り替えられるのだろうか。
月星丸はずっとここの閉じ込められている抑圧からか、泣いている。
俺はため息をついた。
「次は琴の時間か」
俺は壁にあった琴と三味線を手にとる。
「じゃあ俺は三味線にしよう。一度やってみたかったんだ。月星丸、一緒に習おうか」
縁側に再び戻って、二人でそれぞれの弦を思い思いに弾いてみる。
まぁ酷いもんだ。
師匠がやって来て、俺と月星丸に手ほどきを始めた。
男の先生で助かった。
「ねぇ、葉山と何を話してたの」
月星丸がこっそりと尋ねる。
「気になるのなら、本人から聞け」
俺は弦の調子を整えると、バチを手に三味線の練習を始めた。
午後からは薙刀の稽古だった。
師範は葉山。
葉山は薙刀に見立てた木の棒を月星丸につかませると、ひたすら素振りと型を教えている。
すぐに月星丸は腕が痛いだの、疲れただの文句を言い始めた。
それをよしとせぬ葉山とジリジリとしたにらみ合いが続いている。
なるほど、葉山は遠慮して声を荒げたり厳しく接したりはせぬが、逆にそれを知っている月星丸はわがままを言いたい放題で、まるで葉山の堪忍袋の限界を試すような素振りだ。
あの葉山の頬の引っかき傷は、このようにして作られたのか。
他の師範とのいざこざはつゆ知らず、葉山との確執だけは、今後のためにも避けた方が月星丸の身の為だ。
「どれ、では俺がどれくらい出来るようになったのか、試験をしてやろう」
置いてあった木刀を手に取る。
「ほら、かかってこい」
俺が木刀を片手に構えると、喜び勇んで月星丸は斬りかかってくる。
しかしまぁ、幼いころからちゃんばらの相手もいなかったと見えて、ひどいものだ。
長すぎる薙刀の扱いの方に苦労をしている始末。
「先ほどの基本の型と素振りの所作はどうした。それを身につけておらねば、その長剣は扱えぬ」
俺は遠慮なく、月星丸の脇腹に木刀を当てる。
おろおろと振り回す棒を、叩き落とした。
「我が身を守りたいのなら、まず己の力をつけよ。自由の意思が許されるのは、それからだ」
「なぜ自分の好きなように生きてはならぬのだ」
「お前が好き勝手に何も学ばず、生きてきた結果がこれではないか。元いた居場所に居つづけることも出来ず、愚かな相手に簡単に騙され傷も負う。外に出せばあっという間に死に絶えてしまうひな鳥に、どうして巣立ちをさせられようか」
踏み込んだ月星丸の剣を、さっと避けて足元を払う。
基本の型がなっていない月星丸は、簡単に転んだ。
「天下太平の世で、武器とするのは剣術だけではダメだ。誰にも負けぬ知恵と知識と、生きる為の賢さを身につけられよ」
そうして奥へ戻っても、藤ノ木や他の御目見え連中に立ち向かえるだけの、思慮深さを今のうちに学べ。
「文字を覚えることが勉学ではない。問題に対して、どう立ち向かい戦えばいいのか、先に予習をし本番に臨む。そしてそれを反省、復習し次に備える。それが勉学の基礎であり学ぶという姿勢だ。算術や漢字だけではない、この過程で身につける姿勢が、あらゆることに通ずるのだ」
立ち上がった月星丸が、長刀を俺に振り下ろす。
「難しい算術や漢詩にあたっても、逃げずに取り組め。どこかに解法はある。そなたの生まれ持った運命と向き合うことも、同じだ」
振り下ろされた長剣を横から下に押しつける。
筋力のない月星丸は、上から押さえられた剣を持ちあげていることすら難しい。
「気に入らぬことは多いかもしれぬが、それも全てそなたの身になる。それを正しいと、まずは信じることから始められよ」
俺がふっと腕の力を抜くと、月星丸の腕が宙に上がった。
その勢いで俺が長剣を叩くと、簡単に手から離れた。
木刀の剣先を月星丸に向ける。
「誰のために何のために、学んでいるのかと思う時もあるだろう。だがそれを見極めるにも、知恵も必要だ。まずはその知恵を身につけられよ」
「本気で、それが出来ると思ってるの?」
「お前にそれが出来ると信じていなければ、俺は今ここに居ない」
構えた剣を脇に戻すと膝をつき礼をする。
「さぁ、これで俺からの教授はお終いだ。後はちゃんとした師範にしっかり学べ」
木刀を葉山に返す。
俺は縁側に戻ると、再び三味線を手に取った。
きっと、月星丸が上さまの娘を知ってしまったからなのだろう。
そんな一大事を見逃すわけにはいかない。
月星丸の居る屋敷の前までたどり着いた。
辺りはすっかり夜の闇に覆われ、中の様子も分からない。
静かであるのならば、俺なんかの出番ではなかったのかも。
ふと気になって辺りを見渡した。
もしやお萩とその仲間が来ているやも知れぬ。
そう思うと、急に身が引き締まった。
そうだ、俺はさっきからずっと、そのことが気になっていたんだ。
「きゃあ!」
突然、屋敷の中から悲鳴が上がった。
俺は中へ飛び込む。
声の聞こえた庭先の方へ回った。
戸板が破られた様子はない。
だとしたら、刺客が入り込んだのはどこだ?
内側から、ガラリと扉が開いた。
そこに立っていたのは、月星丸だった。
「千さん!」
月星丸は素足のまま庭に飛び出すと、俺に抱きつく。
「遅いよ! なんで俺を置いていったんだよ、もっと早く迎えに来て!」
思わず抱き留めそうになった自分の腕を、空に高く掲げる。
家斉公の娘に失礼など出来ない。
「迎えに来たのではない、様子を見に来ただけだ。先ほどの悲鳴はなんだ?」
月星丸は後ろを振り返った。驚いた女中や控えの役人が集まっている。
「あいつらが俺に嫌なことばっかりやらせようとするんだ。これじゃあせっかく抜け出したのに、元に戻されたみたいだ。ねぇ、長屋に帰ろう、俺はあっちの方がいい」
「葉山はどうした?」
「あんな奴、だいっきらいだ!」
月星丸は、吐き捨てるようにつぶやいた。
「だから、出て行けって言ってやった。もうあいつは、ここには来ないよ」
「そうか」
俺は胸にしがみつく月星丸を、振り払うようにして後ろに下がる。
「あいつには、役不足ということだな」
月星丸を残して、俺は屋敷に上がった。
そこにいる女中たちを見下ろす。
「月星丸が何をした」
女たちは、お互いの顔を見合わせるばかりで、ろくな返事が返ってこない。
この荒らされた部屋は、全部月星丸の仕業か。
俺は足元に落ちていた紙を拾った。
寺子屋通いの長屋の虎次郎よりも拙い文字、ろくに筆を持ったことのない者の筆跡だ。
「あ、見ないでよ」
俺の手から、月星丸がそれを奪い取ろうとするのを取り上げる。
「お前、いろはを最初から言ってみろ」
「『いろは』といえば、『いろは』に決まってるだろ」
足元に落ちている「庭訓往来」を広げる。
「ほら、これを読め」
「漢字はまだ読めない」
月星丸は本を奪い取った。
「お前はこの歳まで、一体何をやっていたんだ」
月星丸は、顔を真っ赤にしてうつむく。
何も教えられていないというのは、こういうことか。
壁には棹の折られた三味線と、弦の全て切られた琴が立てかけられている。
「月星丸が、ここに居られるのはいつまでだ」
「それは……」
女中たちが言葉を濁す。
「ねぇ、ちょっと待って。ここに居られるって、どういうこと? ここに居られるのは、いつまでって、なに?」
月星丸は俺に向かって、本を投げつけた。
「だから、帰らないってずっと言ってるのに! こんなことしたって無駄なんだよ。どうしてそれが分からないの?」
「どこの大名屋敷の娘かは知らぬが」
俺は、そう言った。
「家から抜けるのなら、それなりの覚悟が必要だ。本当に屋敷を抜け出して自由な暮らしがしたいのなら、ちゃんと家に戻って父上と話しをつけてこい」
月星丸は、眉間にしわを寄せ俺を見上げた。
「それが出来ぬのなら、大人しく戻れ。出来るというのなら、ここで誰にも負けぬ知恵という力をつけて戦え。選ぶのはお前だ」
返事はない。
月星丸は、ただ黙ってうつむいた。
無理難題を押しつけているのは分かっている。
だけど、月星丸が自ら江戸城の姫だと名乗らぬ限りは、こうするしかない。
名乗ればその時は、無理矢理にでも城に帰す。
「元の場所には……、戻らない」
月星丸は、ぼそりとつぶやいた。
「そうか。では俺もここに用はない。葉山に頼まれてお前の面倒を見ろと言われたが、その必要もなかったようだ」
「待って!」
「邪魔したな。この仕事の依頼はなしってことだ。では御免」
背を向けた俺の背に、月星丸はしがみつく。
「分かった! 分かったよ。だからお願い、ここに居て。他に信じられる人が、ここには誰もいないんだ」
涙を必死で堪えている。
月星丸は鼻水をすする。
「今日はもう遅い。さっさと寝ろ。明日からしっかり学べ。それがお前の生きる道だ」
大人しくうなずいたのを見届けると、女中たちは寝支度を始めた。
俺は月星丸を残して部屋を出る。
女中に案内させて、別室に移った。
「葉山はどうした。どこにいる」
「葉山さまは、夜は非番にございます」
俺はため息をつく。
布団を整えると、女中は姿を消した。
あの男は、どこまでやる気があるのかないのかが分からん。
朝になって一番に駆け込んで来たのは、無遠慮に襖を開る月星丸だった。
「千さん、居た!」
寝間着のままのその姿に、俺の心拍数は一気に上がる。
「だからその格好で来るな!」
「病気は治ったんじゃないのか?」
「治ってない! 出て行け!」
女中たちには広間で一緒にと勧められたが、断って一人部屋で朝食をとる。
葉山が組んだという稽古の割り振りの時間になって、読本の師範がやって来た。
俺は月星丸が怒って暴れだしたり、飽きて教授を放り出さぬよう、同じ部屋の隅に座って監視している。
昨夜の用心棒の仕事と、たいして変わりはない。
昼近くになって、ようやく葉山が姿を現した。
俺の姿を見て、一瞬ビクリと体を震わせる。
「本当に来ていたのか」
「なんだ、迷惑だったか」
「いや」
俺は立ち上がり席を外した。
葉山を連れ出して縁側に腰掛ける。
「昨夜はあれからどこへ行っていた」
「それをお前に話す義理はない」
見上げる厚い雲の隙間から、かろうじて空が見えていた。
「城へはいつ戻る」
「急いではいるが、まだ話しがまとまらぬ」
葉山は何かを考えるように、視線を横に流した。
「それまでにとにかく、月子さまの教育を急がねばならん」
「あの時間割を組んだのはお前か」
葉山はうなずいた。
あのような過密な仕様では、月星丸が音を上げるのも無理はない。
だが、時間がないのもまた事実。
「あれの始末は俺に任せろ。お前は城に戻る手はずを急げ」
葉山は俺の眼を見た後で、わずかにうつむいた。
「随分と、協力的なんだな」
「……これでも一応は、武士の端くれのつもりだ。上さまへの忠義の心は、持ち合わせているつもりなんだよ」
ここは、狭い庭でも、きちんと手入れは行き届いている。
「浪人に身を落として、気づいたことがある。誰も仕える者がいなくなったとき、俺は俺の信じるものにこの身を任せて、仕えようと思った。その相手を自分で選ぶようになった時、初めて自由になったと感じた」
その気持ちに、今も嘘偽りはない。
「だから、俺がこうしていられるのも、こうしているのも、全て俺の意思だ。ただ仕える相手を間違っちゃいけない。それを見極めるには知恵も必要だ。俺はその知恵を、月星丸にはつけてほしいと思っている」
俺は顔に、ふっと笑顔を浮かべる。
「まぁ、生まれながらのお役人さんには、分からん話しだろうがな」
葉山はじっと腕組みをして、前を向いていた。
「何も疑わず、忠義の心を持つのも、それはそれで難しい」
葉山は俺と同じ空を見上げた。
「自分は一体、誰のために、何のために、仕えているのかと思う時もある」
葉山はため息をついた。
「ただそれを正しいと信じるより、他にあるまい」
奥の部屋で、女中の悲鳴と騒ぎ声が聞こえた。
「姫さまがお呼びだ」
葉山の声に、俺は渋々と立ち上がった。
「月星丸が呼んでいる」
そう言って、葉山を見下ろす。
「よろしく頼んだぞ」
書の時間のはずだった。
月星丸がひっくり返した硯のせいで、畳や先生の服に墨が散っている。
この畳や服も、すぐに新しいものに取り替えられるのだろうか。
月星丸はずっとここの閉じ込められている抑圧からか、泣いている。
俺はため息をついた。
「次は琴の時間か」
俺は壁にあった琴と三味線を手にとる。
「じゃあ俺は三味線にしよう。一度やってみたかったんだ。月星丸、一緒に習おうか」
縁側に再び戻って、二人でそれぞれの弦を思い思いに弾いてみる。
まぁ酷いもんだ。
師匠がやって来て、俺と月星丸に手ほどきを始めた。
男の先生で助かった。
「ねぇ、葉山と何を話してたの」
月星丸がこっそりと尋ねる。
「気になるのなら、本人から聞け」
俺は弦の調子を整えると、バチを手に三味線の練習を始めた。
午後からは薙刀の稽古だった。
師範は葉山。
葉山は薙刀に見立てた木の棒を月星丸につかませると、ひたすら素振りと型を教えている。
すぐに月星丸は腕が痛いだの、疲れただの文句を言い始めた。
それをよしとせぬ葉山とジリジリとしたにらみ合いが続いている。
なるほど、葉山は遠慮して声を荒げたり厳しく接したりはせぬが、逆にそれを知っている月星丸はわがままを言いたい放題で、まるで葉山の堪忍袋の限界を試すような素振りだ。
あの葉山の頬の引っかき傷は、このようにして作られたのか。
他の師範とのいざこざはつゆ知らず、葉山との確執だけは、今後のためにも避けた方が月星丸の身の為だ。
「どれ、では俺がどれくらい出来るようになったのか、試験をしてやろう」
置いてあった木刀を手に取る。
「ほら、かかってこい」
俺が木刀を片手に構えると、喜び勇んで月星丸は斬りかかってくる。
しかしまぁ、幼いころからちゃんばらの相手もいなかったと見えて、ひどいものだ。
長すぎる薙刀の扱いの方に苦労をしている始末。
「先ほどの基本の型と素振りの所作はどうした。それを身につけておらねば、その長剣は扱えぬ」
俺は遠慮なく、月星丸の脇腹に木刀を当てる。
おろおろと振り回す棒を、叩き落とした。
「我が身を守りたいのなら、まず己の力をつけよ。自由の意思が許されるのは、それからだ」
「なぜ自分の好きなように生きてはならぬのだ」
「お前が好き勝手に何も学ばず、生きてきた結果がこれではないか。元いた居場所に居つづけることも出来ず、愚かな相手に簡単に騙され傷も負う。外に出せばあっという間に死に絶えてしまうひな鳥に、どうして巣立ちをさせられようか」
踏み込んだ月星丸の剣を、さっと避けて足元を払う。
基本の型がなっていない月星丸は、簡単に転んだ。
「天下太平の世で、武器とするのは剣術だけではダメだ。誰にも負けぬ知恵と知識と、生きる為の賢さを身につけられよ」
そうして奥へ戻っても、藤ノ木や他の御目見え連中に立ち向かえるだけの、思慮深さを今のうちに学べ。
「文字を覚えることが勉学ではない。問題に対して、どう立ち向かい戦えばいいのか、先に予習をし本番に臨む。そしてそれを反省、復習し次に備える。それが勉学の基礎であり学ぶという姿勢だ。算術や漢字だけではない、この過程で身につける姿勢が、あらゆることに通ずるのだ」
立ち上がった月星丸が、長刀を俺に振り下ろす。
「難しい算術や漢詩にあたっても、逃げずに取り組め。どこかに解法はある。そなたの生まれ持った運命と向き合うことも、同じだ」
振り下ろされた長剣を横から下に押しつける。
筋力のない月星丸は、上から押さえられた剣を持ちあげていることすら難しい。
「気に入らぬことは多いかもしれぬが、それも全てそなたの身になる。それを正しいと、まずは信じることから始められよ」
俺がふっと腕の力を抜くと、月星丸の腕が宙に上がった。
その勢いで俺が長剣を叩くと、簡単に手から離れた。
木刀の剣先を月星丸に向ける。
「誰のために何のために、学んでいるのかと思う時もあるだろう。だがそれを見極めるにも、知恵も必要だ。まずはその知恵を身につけられよ」
「本気で、それが出来ると思ってるの?」
「お前にそれが出来ると信じていなければ、俺は今ここに居ない」
構えた剣を脇に戻すと膝をつき礼をする。
「さぁ、これで俺からの教授はお終いだ。後はちゃんとした師範にしっかり学べ」
木刀を葉山に返す。
俺は縁側に戻ると、再び三味線を手に取った。