なぜこんなに気が焦るのかが自分でも不思議だ。

きっと、月星丸が上さまの娘を知ってしまったからなのだろう。

そんな一大事を見逃すわけにはいかない。

月星丸の居る屋敷の前までたどり着いた。

辺りはすっかり夜の闇に覆われ、中の様子も分からない。

静かであるのならば、俺なんかの出番ではなかったのかも。

ふと気になって辺りを見渡した。

もしやお萩とその仲間が来ているやも知れぬ。

そう思うと、急に身が引き締まった。

そうだ、俺はさっきからずっと、そのことが気になっていたんだ。

「きゃあ!」

突然、屋敷の中から悲鳴が上がった。

俺は中へ飛び込む。

声の聞こえた庭先の方へ回った。

戸板が破られた様子はない。

だとしたら、刺客が入り込んだのはどこだ?

内側から、ガラリと扉が開いた。

そこに立っていたのは、月星丸だった。

「千さん!」

月星丸は素足のまま庭に飛び出すと、俺に抱きつく。

「遅いよ! なんで俺を置いていったんだよ、もっと早く迎えに来て!」

思わず抱き留めそうになった自分の腕を、空に高く掲げる。

家斉公の娘に失礼など出来ない。

「迎えに来たのではない、様子を見に来ただけだ。先ほどの悲鳴はなんだ?」

月星丸は後ろを振り返った。驚いた女中や控えの役人が集まっている。

「あいつらが俺に嫌なことばっかりやらせようとするんだ。これじゃあせっかく抜け出したのに、元に戻されたみたいだ。ねぇ、長屋に帰ろう、俺はあっちの方がいい」

「葉山はどうした?」

「あんな奴、だいっきらいだ!」

 月星丸は、吐き捨てるようにつぶやいた。

「だから、出て行けって言ってやった。もうあいつは、ここには来ないよ」

「そうか」

俺は胸にしがみつく月星丸を、振り払うようにして後ろに下がる。

「あいつには、役不足ということだな」

月星丸を残して、俺は屋敷に上がった。

そこにいる女中たちを見下ろす。

「月星丸が何をした」

女たちは、お互いの顔を見合わせるばかりで、ろくな返事が返ってこない。

この荒らされた部屋は、全部月星丸の仕業か。

俺は足元に落ちていた紙を拾った。

寺子屋通いの長屋の虎次郎よりも拙い文字、ろくに筆を持ったことのない者の筆跡だ。

「あ、見ないでよ」

俺の手から、月星丸がそれを奪い取ろうとするのを取り上げる。

「お前、いろはを最初から言ってみろ」

「『いろは』といえば、『いろは』に決まってるだろ」

足元に落ちている「庭訓往来」を広げる。

「ほら、これを読め」

「漢字はまだ読めない」

月星丸は本を奪い取った。

「お前はこの歳まで、一体何をやっていたんだ」

月星丸は、顔を真っ赤にしてうつむく。

何も教えられていないというのは、こういうことか。

壁には棹の折られた三味線と、弦の全て切られた琴が立てかけられている。

「月星丸が、ここに居られるのはいつまでだ」

「それは……」

女中たちが言葉を濁す。

「ねぇ、ちょっと待って。ここに居られるって、どういうこと? ここに居られるのは、いつまでって、なに?」

月星丸は俺に向かって、本を投げつけた。

「だから、帰らないってずっと言ってるのに! こんなことしたって無駄なんだよ。どうしてそれが分からないの?」

「どこの大名屋敷の娘かは知らぬが」

俺は、そう言った。

「家から抜けるのなら、それなりの覚悟が必要だ。本当に屋敷を抜け出して自由な暮らしがしたいのなら、ちゃんと家に戻って父上と話しをつけてこい」

月星丸は、眉間にしわを寄せ俺を見上げた。

「それが出来ぬのなら、大人しく戻れ。出来るというのなら、ここで誰にも負けぬ知恵という力をつけて戦え。選ぶのはお前だ」

返事はない。

月星丸は、ただ黙ってうつむいた。

無理難題を押しつけているのは分かっている。

だけど、月星丸が自ら江戸城の姫だと名乗らぬ限りは、こうするしかない。

名乗ればその時は、無理矢理にでも城に帰す。

「元の場所には……、戻らない」

月星丸は、ぼそりとつぶやいた。

「そうか。では俺もここに用はない。葉山に頼まれてお前の面倒を見ろと言われたが、その必要もなかったようだ」

「待って!」

「邪魔したな。この仕事の依頼はなしってことだ。では御免」

背を向けた俺の背に、月星丸はしがみつく。

「分かった! 分かったよ。だからお願い、ここに居て。他に信じられる人が、ここには誰もいないんだ」

涙を必死で堪えている。

月星丸は鼻水をすする。

「今日はもう遅い。さっさと寝ろ。明日からしっかり学べ。それがお前の生きる道だ」

大人しくうなずいたのを見届けると、女中たちは寝支度を始めた。

俺は月星丸を残して部屋を出る。

女中に案内させて、別室に移った。

「葉山はどうした。どこにいる」

「葉山さまは、夜は非番にございます」

俺はため息をつく。

布団を整えると、女中は姿を消した。

あの男は、どこまでやる気があるのかないのかが分からん。

朝になって一番に駆け込んで来たのは、無遠慮に襖を開る月星丸だった。

「千さん、居た!」

寝間着のままのその姿に、俺の心拍数は一気に上がる。

「だからその格好で来るな!」

「病気は治ったんじゃないのか?」

「治ってない! 出て行け!」

女中たちには広間で一緒にと勧められたが、断って一人部屋で朝食をとる。

葉山が組んだという稽古の割り振りの時間になって、読本の師範がやって来た。

俺は月星丸が怒って暴れだしたり、飽きて教授を放り出さぬよう、同じ部屋の隅に座って監視している。

昨夜の用心棒の仕事と、たいして変わりはない。

昼近くになって、ようやく葉山が姿を現した。

俺の姿を見て、一瞬ビクリと体を震わせる。

「本当に来ていたのか」

「なんだ、迷惑だったか」

「いや」

俺は立ち上がり席を外した。

葉山を連れ出して縁側に腰掛ける。

「昨夜はあれからどこへ行っていた」

「それをお前に話す義理はない」

見上げる厚い雲の隙間から、かろうじて空が見えていた。

「城へはいつ戻る」

「急いではいるが、まだ話しがまとまらぬ」

葉山は何かを考えるように、視線を横に流した。

「それまでにとにかく、月子さまの教育を急がねばならん」

「あの時間割を組んだのはお前か」

葉山はうなずいた。

あのような過密な仕様では、月星丸が音を上げるのも無理はない。

だが、時間がないのもまた事実。

「あれの始末は俺に任せろ。お前は城に戻る手はずを急げ」

葉山は俺の眼を見た後で、わずかにうつむいた。

「随分と、協力的なんだな」

「……これでも一応は、武士の端くれのつもりだ。上さまへの忠義の心は、持ち合わせているつもりなんだよ」

ここは、狭い庭でも、きちんと手入れは行き届いている。

「浪人に身を落として、気づいたことがある。誰も仕える者がいなくなったとき、俺は俺の信じるものにこの身を任せて、仕えようと思った。その相手を自分で選ぶようになった時、初めて自由になったと感じた」

その気持ちに、今も嘘偽りはない。

「だから、俺がこうしていられるのも、こうしているのも、全て俺の意思だ。ただ仕える相手を間違っちゃいけない。それを見極めるには知恵も必要だ。俺はその知恵を、月星丸にはつけてほしいと思っている」

俺は顔に、ふっと笑顔を浮かべる。

「まぁ、生まれながらのお役人さんには、分からん話しだろうがな」

葉山はじっと腕組みをして、前を向いていた。

「何も疑わず、忠義の心を持つのも、それはそれで難しい」

葉山は俺と同じ空を見上げた。

「自分は一体、誰のために、何のために、仕えているのかと思う時もある」

葉山はため息をついた。

「ただそれを正しいと信じるより、他にあるまい」

奥の部屋で、女中の悲鳴と騒ぎ声が聞こえた。

「姫さまがお呼びだ」

葉山の声に、俺は渋々と立ち上がった。

「月星丸が呼んでいる」

そう言って、葉山を見下ろす。

「よろしく頼んだぞ」

書の時間のはずだった。

月星丸がひっくり返した硯のせいで、畳や先生の服に墨が散っている。

この畳や服も、すぐに新しいものに取り替えられるのだろうか。

月星丸はずっとここの閉じ込められている抑圧からか、泣いている。

俺はため息をついた。

「次は琴の時間か」

俺は壁にあった琴と三味線を手にとる。

「じゃあ俺は三味線にしよう。一度やってみたかったんだ。月星丸、一緒に習おうか」

縁側に再び戻って、二人でそれぞれの弦を思い思いに弾いてみる。

まぁ酷いもんだ。

師匠がやって来て、俺と月星丸に手ほどきを始めた。

男の先生で助かった。

「ねぇ、葉山と何を話してたの」

月星丸がこっそりと尋ねる。

「気になるのなら、本人から聞け」

俺は弦の調子を整えると、バチを手に三味線の練習を始めた。

午後からは薙刀の稽古だった。

師範は葉山。

葉山は薙刀に見立てた木の棒を月星丸につかませると、ひたすら素振りと型を教えている。

すぐに月星丸は腕が痛いだの、疲れただの文句を言い始めた。

それをよしとせぬ葉山とジリジリとしたにらみ合いが続いている。

なるほど、葉山は遠慮して声を荒げたり厳しく接したりはせぬが、逆にそれを知っている月星丸はわがままを言いたい放題で、まるで葉山の堪忍袋の限界を試すような素振りだ。

あの葉山の頬の引っかき傷は、このようにして作られたのか。

他の師範とのいざこざはつゆ知らず、葉山との確執だけは、今後のためにも避けた方が月星丸の身の為だ。

「どれ、では俺がどれくらい出来るようになったのか、試験をしてやろう」

置いてあった木刀を手に取る。

「ほら、かかってこい」

俺が木刀を片手に構えると、喜び勇んで月星丸は斬りかかってくる。

しかしまぁ、幼いころからちゃんばらの相手もいなかったと見えて、ひどいものだ。

長すぎる薙刀の扱いの方に苦労をしている始末。

「先ほどの基本の型と素振りの所作はどうした。それを身につけておらねば、その長剣は扱えぬ」

俺は遠慮なく、月星丸の脇腹に木刀を当てる。

おろおろと振り回す棒を、叩き落とした。

「我が身を守りたいのなら、まず己の力をつけよ。自由の意思が許されるのは、それからだ」

「なぜ自分の好きなように生きてはならぬのだ」

「お前が好き勝手に何も学ばず、生きてきた結果がこれではないか。元いた居場所に居つづけることも出来ず、愚かな相手に簡単に騙され傷も負う。外に出せばあっという間に死に絶えてしまうひな鳥に、どうして巣立ちをさせられようか」

踏み込んだ月星丸の剣を、さっと避けて足元を払う。

基本の型がなっていない月星丸は、簡単に転んだ。

「天下太平の世で、武器とするのは剣術だけではダメだ。誰にも負けぬ知恵と知識と、生きる為の賢さを身につけられよ」

そうして奥へ戻っても、藤ノ木や他の御目見え連中に立ち向かえるだけの、思慮深さを今のうちに学べ。

「文字を覚えることが勉学ではない。問題に対して、どう立ち向かい戦えばいいのか、先に予習をし本番に臨む。そしてそれを反省、復習し次に備える。それが勉学の基礎であり学ぶという姿勢だ。算術や漢字だけではない、この過程で身につける姿勢が、あらゆることに通ずるのだ」

立ち上がった月星丸が、長刀を俺に振り下ろす。

「難しい算術や漢詩にあたっても、逃げずに取り組め。どこかに解法はある。そなたの生まれ持った運命と向き合うことも、同じだ」

振り下ろされた長剣を横から下に押しつける。

筋力のない月星丸は、上から押さえられた剣を持ちあげていることすら難しい。

「気に入らぬことは多いかもしれぬが、それも全てそなたの身になる。それを正しいと、まずは信じることから始められよ」

俺がふっと腕の力を抜くと、月星丸の腕が宙に上がった。

その勢いで俺が長剣を叩くと、簡単に手から離れた。

木刀の剣先を月星丸に向ける。

「誰のために何のために、学んでいるのかと思う時もあるだろう。だがそれを見極めるにも、知恵も必要だ。まずはその知恵を身につけられよ」

「本気で、それが出来ると思ってるの?」

「お前にそれが出来ると信じていなければ、俺は今ここに居ない」

構えた剣を脇に戻すと膝をつき礼をする。

「さぁ、これで俺からの教授はお終いだ。後はちゃんとした師範にしっかり学べ」

木刀を葉山に返す。

俺は縁側に戻ると、再び三味線を手に取った。