カラランッと、ドアベルが勢いよく鳴った。ドアのほうを向いたスバルさんが笑顔を輝かせて、軽く手を挙げた。このリアクションはハルタだな、と思いながら、おれは振り返る。正解だ。
「おー、いたいた。何だ、兄貴のほうが先に着いてたのか」
クラシカルな喫茶店には見事に不似合いなハルタは、おれの隣に、どさりを腰を下ろした。スバルさんは、にこやかに目を見張っている。
「ハルタくん、デカくなったね。背も伸びたし、日に焼けて、ずいぶんがっしりして」
「そりゃー、伸び盛りだし、筋トレ好きだし。それに、近所のクルマの整備工場でバイトさせてもらってて、何本もタイヤかついだり、工具や部品がやたら重かったりで、気付いたら、すげー筋肉付いてた」
「高校生でバイトか。ぼくは進学校で、バイトは禁止だったから、ハルタくんの高校生活の話を聞くと、新鮮だよ。ねえ、ユリトくん」
「そうですね。工業高校は全然違うなって思います。バイトのこともなんですが、実践に即した機械工学の授業がいろいろあって、うらやましくなります。今は、ぼくよりハルタのほうが、機械いじりのチャンスが多いんですよ」
「兄貴、機械系の実習んとき、代わってやろうか? 細かい作業ばっかで、ひたすら面倒くさいんだぞ」
ハルタは思いっ切り、眉間にしわを寄せた。お冷を持ってきた店員に、アイスコーヒーを注文する。
工業高校に通うハルタは、授業よりもバイトに熱意を燃やしながら、週末にはサーキットに通ってレーシングカートを続けている。サーキットの中でいちばん強いらしい。プロへの道も開けつつあって、たまに新聞やウェブニュース、ラジオなんかの取材を受けている。
ハルタはお冷を一気飲みすると、日に焼けた顔をまっすぐ俺に向けて、ニッと笑った。
「兄貴とまともにしゃべるの、久しぶりだよな。同じ家に住んでんのに、全然、時間が合わねぇんだもん。兄貴、家じゃ、ずっと部屋にこもって勉強してるし。朝もやたら早くに出ていくし」
「課題が多いんだよ。朝は補習がある」
「完璧に合格圏内なのに、いちいち補習なんか出なきゃいけねぇのか?」
「当たり前だ。内申点も一応、稼いでおくほうが安心だし」
「生徒会長やって、部活もレギュラーだったろ。今さらその内申点を引っ繰り返そうと思ったら、よっぽどヤベェことしなきゃ無理じゃねーの? たまには遊べよ。ちゃんと寝てるか? 頑張り過ぎると、息が詰まって、またぶっ倒れんぞ?」
笑っていたはずのハルタは、いつの間にか真剣そうに眉をひそめていた。くっきりと大きな目は情感豊かにハルタの心模様を映し出す。ひどくまっすぐな熱を向けられて、おれは気まずくなった。
「息抜きはできてる。中学のころみたいに、誰にも弱音を吐けないなんてことは、今はない。志望校のレベルが近くて、成績や勉強のことでも遠慮なく話せる相手がいるし」
「え、そんな相手いるのか? マジで? 兄貴、点数の話をするの、すげー嫌がってただろ。いちいち噂を立てられんのが面倒くさいっつって」
「お互い、成績の話は口外しないっていう暗黙の了解がある。だから、安心して話せるんだよ」
ぱちぱちとまばたきをしたハルタが、急に、心得顔になった。
「この前、兄貴と一緒にいた女の子、そういう子だったのか。一緒に東京の大学受けるってことだな。もう付き合ってんのか?」
ぱんっ、と風船が割れるような衝撃が頭の中で起こって、思考回路が断裂した。ゆっくりゆっくり時間をかけて、ハルタに何を言われたのかを理解する。そして、理解が至った瞬間、湯気が噴き出しそうな勢いで顔が熱くなった。
「お、おまえ、根拠もなく何言ってんだよ!」
「根拠あるし。見たもんな」
「い、いつどこで!」
「はい、その言い方。身に覚えがあるんだな。おれの見間違いじゃなかったわけだ。兄貴も水くさいな。カノジョができたんなら、教えてくれりゃいいのに」
やってしまった。言葉の詰まるおれに、ハルタはニヤッと笑ってみせる。
スバルさんが目尻にしわを刻んで笑った。
「ユリトくんにはカノジョがいるのか。同じ学校の子?」
「ち、ちょっと、待ってください。カノジョじゃないんです。付き合ってるわけじゃなくて」
「でも、いい雰囲気の女の子がいるわけだ。いやぁ、うらやましい。青春だね」
「だから、違うんですって。お互い、肩肘張らずに話せる相手ってだけで、向こうは全然、恋愛とか望んでるタイプじゃないから、おれも今はまだ……って、うわ」
口が滑った。今の言い方じゃ、おれのほうは彼女との恋愛を望んでいる、と表明したようなものだ。
こういうときだけは頭の回転が速いハルタが、すかさずおれを冷やかした。
「モテモテ野郎の兄貴が初めて、自分から女の子にアプローチしてやがるー」
「う、うるさい」
「いいじゃんいいじゃん! 兄貴ってプライド高いから、肩肘張らずに話せる相手、あんまりいねぇだろ? ナチュラル系のきれいな子だったよな。かあちゃんが喜ぶぞ。これからの展開が楽しみだ」
おまえの楽しみになんかされたくない。バイト三昧でけっこう忙しいくせに、ちゃっかり目撃しやがって。
彼女とは家の方角が正反対だから、行き帰りで一緒になることはない。彼女はショッピングやイベントにはまったく興味を示さないし、生徒会役員だったおれが寄り道なんていうマナー違反をやらかすわけにもいかないから、学校帰りにどこかに行ったこともない。
でも、おれはそういう出不精な関係に悩んでなんかいない。おれと彼女の場合、二人になるために、わざとらしい理由をこしらえる必要はないから。
今年から同じ理系の特進クラスで、志望校の難易度別の授業も同じで、放課後の自習室でも何となく近い席に座ることが多い。参考書の貸し借りや、過去問の答案を題材にした議論、より美しい計算式の模索。そういうところには、ほかの誰も入ってこられない。
学校の外で彼女と会ったのは、今までに一度だけ。奇跡的に補習も模試もなかった日曜日に、Tシャツにジーンズのラフな格好で、おれの家から近いバス停で待ち合わせをして。ハルタに見られたのは、このときしかあり得ない。
あの日の目的地は、おれが小学生のころに行きつけにしていた模型屋だった。おれは久々にシュトラールをコースに放って、小さなマシンのスピードを楽しんだ。彼女はミニ四駆を一台買って、初めてとは信じられない手際のよさで組み立てて、早速コースを走らせた。
楽しいね、と彼女が目を輝かせたのが嬉しかった。ドキドキして、ワクワクして、また模型屋で会う約束を取り付けた。デートと呼んだら、叱られるだろうか。
去年、生徒会室で偶然出会った彼女は、どこかなつかしい感じのする大きな薄茶色の目の持ち主だ。初対面のときにきれいな声だと感じたけれど、歌ったらもっときれいだった。合唱コンクールでソロのパートがあって、それがすごくよかった。
彼女は一目でミニ四駆を気に入った。もともとラジコンやプラモデルをいじるのが好きで、ラジオでも何でも自力で組み立てることができるという。
失礼な言い方だけど、機械いじりが得意って、女の子なのに変わってるね。おれがそう言ったら、彼女は得意げに笑ってみせた。変わってるって言われるほうが嬉しいの、と。
彼女はいつも自然体の等身大だ。その姿はきれいで、ほかの誰とも違う。だから、おれも同じように、自分のままでありたいと思えるようになった。型の中に嵌まり切れない自分を、きちんと自分で認めてやりたい。
最近、おれは、趣味はミニ四駆だとハッキリ言っている。受験対策の一環で、自己PRの文章を書く機会が多いのだけれど、ミニ四駆を題材にすると、自分という人間を表現しやすい。評価も上がった。彼女のおかげだ。
実は今も、バッグの中には、プラスチックケースに入ったシュトラールがいる。オープンキャンパスにあたって、実は少しナーバスになっているところもあったから、守護神に同行してもらった、という感じ。
シュトラールのデザインは、ボディが白地に赤いグラデーションで、シャーシもそれに合わせたカラーリングで通してきた。最近、一つだけ変化があった。
シャーシの上にボディを固定するために、キャッチという部品を使う。この間、シュトラールのキャッチを、彼女のブルー系のマシンのキャッチと交換した。だから何だと訊かれても、うまく答えられないけれど、とにかく交換してみたかったんだ。おそろい、というか。
連鎖的にいろいろと思い出してしまって、頬の熱がなかなか引いてくれない。おれは、ハルタのニヤニヤ笑いとスバルさんの温かな笑みから顔をそむける。
「おー、いたいた。何だ、兄貴のほうが先に着いてたのか」
クラシカルな喫茶店には見事に不似合いなハルタは、おれの隣に、どさりを腰を下ろした。スバルさんは、にこやかに目を見張っている。
「ハルタくん、デカくなったね。背も伸びたし、日に焼けて、ずいぶんがっしりして」
「そりゃー、伸び盛りだし、筋トレ好きだし。それに、近所のクルマの整備工場でバイトさせてもらってて、何本もタイヤかついだり、工具や部品がやたら重かったりで、気付いたら、すげー筋肉付いてた」
「高校生でバイトか。ぼくは進学校で、バイトは禁止だったから、ハルタくんの高校生活の話を聞くと、新鮮だよ。ねえ、ユリトくん」
「そうですね。工業高校は全然違うなって思います。バイトのこともなんですが、実践に即した機械工学の授業がいろいろあって、うらやましくなります。今は、ぼくよりハルタのほうが、機械いじりのチャンスが多いんですよ」
「兄貴、機械系の実習んとき、代わってやろうか? 細かい作業ばっかで、ひたすら面倒くさいんだぞ」
ハルタは思いっ切り、眉間にしわを寄せた。お冷を持ってきた店員に、アイスコーヒーを注文する。
工業高校に通うハルタは、授業よりもバイトに熱意を燃やしながら、週末にはサーキットに通ってレーシングカートを続けている。サーキットの中でいちばん強いらしい。プロへの道も開けつつあって、たまに新聞やウェブニュース、ラジオなんかの取材を受けている。
ハルタはお冷を一気飲みすると、日に焼けた顔をまっすぐ俺に向けて、ニッと笑った。
「兄貴とまともにしゃべるの、久しぶりだよな。同じ家に住んでんのに、全然、時間が合わねぇんだもん。兄貴、家じゃ、ずっと部屋にこもって勉強してるし。朝もやたら早くに出ていくし」
「課題が多いんだよ。朝は補習がある」
「完璧に合格圏内なのに、いちいち補習なんか出なきゃいけねぇのか?」
「当たり前だ。内申点も一応、稼いでおくほうが安心だし」
「生徒会長やって、部活もレギュラーだったろ。今さらその内申点を引っ繰り返そうと思ったら、よっぽどヤベェことしなきゃ無理じゃねーの? たまには遊べよ。ちゃんと寝てるか? 頑張り過ぎると、息が詰まって、またぶっ倒れんぞ?」
笑っていたはずのハルタは、いつの間にか真剣そうに眉をひそめていた。くっきりと大きな目は情感豊かにハルタの心模様を映し出す。ひどくまっすぐな熱を向けられて、おれは気まずくなった。
「息抜きはできてる。中学のころみたいに、誰にも弱音を吐けないなんてことは、今はない。志望校のレベルが近くて、成績や勉強のことでも遠慮なく話せる相手がいるし」
「え、そんな相手いるのか? マジで? 兄貴、点数の話をするの、すげー嫌がってただろ。いちいち噂を立てられんのが面倒くさいっつって」
「お互い、成績の話は口外しないっていう暗黙の了解がある。だから、安心して話せるんだよ」
ぱちぱちとまばたきをしたハルタが、急に、心得顔になった。
「この前、兄貴と一緒にいた女の子、そういう子だったのか。一緒に東京の大学受けるってことだな。もう付き合ってんのか?」
ぱんっ、と風船が割れるような衝撃が頭の中で起こって、思考回路が断裂した。ゆっくりゆっくり時間をかけて、ハルタに何を言われたのかを理解する。そして、理解が至った瞬間、湯気が噴き出しそうな勢いで顔が熱くなった。
「お、おまえ、根拠もなく何言ってんだよ!」
「根拠あるし。見たもんな」
「い、いつどこで!」
「はい、その言い方。身に覚えがあるんだな。おれの見間違いじゃなかったわけだ。兄貴も水くさいな。カノジョができたんなら、教えてくれりゃいいのに」
やってしまった。言葉の詰まるおれに、ハルタはニヤッと笑ってみせる。
スバルさんが目尻にしわを刻んで笑った。
「ユリトくんにはカノジョがいるのか。同じ学校の子?」
「ち、ちょっと、待ってください。カノジョじゃないんです。付き合ってるわけじゃなくて」
「でも、いい雰囲気の女の子がいるわけだ。いやぁ、うらやましい。青春だね」
「だから、違うんですって。お互い、肩肘張らずに話せる相手ってだけで、向こうは全然、恋愛とか望んでるタイプじゃないから、おれも今はまだ……って、うわ」
口が滑った。今の言い方じゃ、おれのほうは彼女との恋愛を望んでいる、と表明したようなものだ。
こういうときだけは頭の回転が速いハルタが、すかさずおれを冷やかした。
「モテモテ野郎の兄貴が初めて、自分から女の子にアプローチしてやがるー」
「う、うるさい」
「いいじゃんいいじゃん! 兄貴ってプライド高いから、肩肘張らずに話せる相手、あんまりいねぇだろ? ナチュラル系のきれいな子だったよな。かあちゃんが喜ぶぞ。これからの展開が楽しみだ」
おまえの楽しみになんかされたくない。バイト三昧でけっこう忙しいくせに、ちゃっかり目撃しやがって。
彼女とは家の方角が正反対だから、行き帰りで一緒になることはない。彼女はショッピングやイベントにはまったく興味を示さないし、生徒会役員だったおれが寄り道なんていうマナー違反をやらかすわけにもいかないから、学校帰りにどこかに行ったこともない。
でも、おれはそういう出不精な関係に悩んでなんかいない。おれと彼女の場合、二人になるために、わざとらしい理由をこしらえる必要はないから。
今年から同じ理系の特進クラスで、志望校の難易度別の授業も同じで、放課後の自習室でも何となく近い席に座ることが多い。参考書の貸し借りや、過去問の答案を題材にした議論、より美しい計算式の模索。そういうところには、ほかの誰も入ってこられない。
学校の外で彼女と会ったのは、今までに一度だけ。奇跡的に補習も模試もなかった日曜日に、Tシャツにジーンズのラフな格好で、おれの家から近いバス停で待ち合わせをして。ハルタに見られたのは、このときしかあり得ない。
あの日の目的地は、おれが小学生のころに行きつけにしていた模型屋だった。おれは久々にシュトラールをコースに放って、小さなマシンのスピードを楽しんだ。彼女はミニ四駆を一台買って、初めてとは信じられない手際のよさで組み立てて、早速コースを走らせた。
楽しいね、と彼女が目を輝かせたのが嬉しかった。ドキドキして、ワクワクして、また模型屋で会う約束を取り付けた。デートと呼んだら、叱られるだろうか。
去年、生徒会室で偶然出会った彼女は、どこかなつかしい感じのする大きな薄茶色の目の持ち主だ。初対面のときにきれいな声だと感じたけれど、歌ったらもっときれいだった。合唱コンクールでソロのパートがあって、それがすごくよかった。
彼女は一目でミニ四駆を気に入った。もともとラジコンやプラモデルをいじるのが好きで、ラジオでも何でも自力で組み立てることができるという。
失礼な言い方だけど、機械いじりが得意って、女の子なのに変わってるね。おれがそう言ったら、彼女は得意げに笑ってみせた。変わってるって言われるほうが嬉しいの、と。
彼女はいつも自然体の等身大だ。その姿はきれいで、ほかの誰とも違う。だから、おれも同じように、自分のままでありたいと思えるようになった。型の中に嵌まり切れない自分を、きちんと自分で認めてやりたい。
最近、おれは、趣味はミニ四駆だとハッキリ言っている。受験対策の一環で、自己PRの文章を書く機会が多いのだけれど、ミニ四駆を題材にすると、自分という人間を表現しやすい。評価も上がった。彼女のおかげだ。
実は今も、バッグの中には、プラスチックケースに入ったシュトラールがいる。オープンキャンパスにあたって、実は少しナーバスになっているところもあったから、守護神に同行してもらった、という感じ。
シュトラールのデザインは、ボディが白地に赤いグラデーションで、シャーシもそれに合わせたカラーリングで通してきた。最近、一つだけ変化があった。
シャーシの上にボディを固定するために、キャッチという部品を使う。この間、シュトラールのキャッチを、彼女のブルー系のマシンのキャッチと交換した。だから何だと訊かれても、うまく答えられないけれど、とにかく交換してみたかったんだ。おそろい、というか。
連鎖的にいろいろと思い出してしまって、頬の熱がなかなか引いてくれない。おれは、ハルタのニヤニヤ笑いとスバルさんの温かな笑みから顔をそむける。