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 その晩、電話がかかってきた。母に呼ばれて、わたしはてっきり智絵からだと思って、子機の外線をつないだ。
 電話の相手は、智絵ではなかった。

〈よう、久しぶり。蒼がやっと電話に出てくれた〉
 雅樹だった。電話越しだからか、声変わりが少し進んだのか、記憶にある雅樹の声よりかすれて低く聞こえた。

「用事?」
〈いや、別に。何となく。元気だった? 病気とか、してない?〉
「……心配されるようなことは、何もない」
〈だったらいいけど。夏休みは? 木場山に遊びに来ないの?〉
「行かない。みんな部活とか家の用事とかあって、暇じゃないだろうし」

〈確かにね。いなかだから、祭りやお盆も昔ながらで、盛大にやらなきゃいけないもんな。そういや、この間、電話したときにおばさんから聞いたけど、蒼は帰宅部なんだって?〉
「やりたい部活が見付からなかったから。バレー部は、ジュニアから上がった子が幅を利かせてて、学校で一二を争うくらい雰囲気が悪いって評判だし」

 雅樹は低い声で笑った。わたしは耳元に息を吹きかけられるような錯覚におちいって、思わず首をすくめた。

〈部活の雰囲気がそんなんじゃあ、おれもやりたくないな。ギター弾くのは? 都会の学校だったら、バンドやってる部活とか、あるんじゃないの?〉
「ないみたい。どっちにしても、誰かと音楽やるつもりはないよ。ギターの弾き語りは一人でできるし」

 嘘だ。確かに、弾き語りそのものは一人でできることだけれど、発表のチャンスもないのにギターの練習ができるかというと、わたしはそういうタイプではない。
 わたしにとって音楽は、ちょっと得意でちょっと楽しいっていうレベル。毎日を過ごすのが苦しくなると、とたんに手が付かなくなった。苦しさをまぎらわすためにギターを弾く、という本気のミュージシャンに生まれついたらよかったのに。

 沈黙を埋めるように、雅樹は言葉を重ねた。
〈こっちは相変わらずだよ。おれは陸上だけじゃなくて、人数合わせのために野球部にも呼ばれてる。テストの点数もキープできてる。ひとみも当然、だな。おれら二人とも、高校は絶対にそっちに行くよ〉
「ふぅん。頑張って」
〈棒読みじゃん。ひっでぇな〉

 そう言いながらも雅樹は笑っていた。わたしは気まずかった。一緒に笑えたらいいのに、できない。
 笑うのが苦しい。転校して、学校というものが嫌いだと気付いて、自分がいなければならない世界の全部を否定することに決めて、笑うことが忌まわしくなった。わたしは笑わない、笑ってはいけないんだと、心に刻むようになった。

 わたしは雅樹の笑い声を断ち切るように言った。
「用事ないなら、切るけど」
 雅樹は、ふっと静かになった。少し間があって、それから雅樹はため息をついた。
〈ここんとこ毎年、おれんとこと蒼んとこの家族でバーベキューやってたろ? あれって、もう、おしまいかな。今年、やらねぇんだよな〉

 楽しかったはずの思い出が、今はただ、うっとうしい。
「おしまいでいいじゃん」
 後ろめたいんだ。まともに学校に行っていなくて、人付き合いも拒んでばっかりで、親に暗い顔をさせている。それなのに、こんなわたしが何か楽しいことをするなんて、許されない。

 雅樹はもう一度、ため息をついた。
〈みんなさ、今年になってから、ちょっとずつ変わった気がすんだ。付き合い始めたりとかさ、いろいろ〉
「だから何? 変わらない人なんかいないでしょ」

〈ひとみも三年にコクられてたし、おれも……何か自分でも意味わかんないんだけど、おれ、二年になってから妙にモテるっていうか。何なんだろ?〉
「知らないよ。状況、わたしにはわからないし」
〈恋愛感情って何?〉
「知らないってば」

〈蒼は人を好きになったこと、ない?〉
「ない」
〈おれのことは?〉
「腐れ縁」
〈……何だかんだ言ってもさ、おれと蒼、ひそかに噂になってたろ? おれらがちっちゃいころは、母親同士はけっこうその気だったし。二人が結婚するなら将来安泰とか言ってて。おれ、わりとそれ本気にしてたんだけど〉

 うんざりした。
「わたしは本気にしたことなんかない。結婚するって、意味わかんなかったし、今でもわかんない。恋愛もそう。わかんない」

 胸の奥がザラザラする。ドキドキじゃなくて、ザラザラ。あるいは、悪寒がするようなザワザワ。
 雅樹は何を考えているんだろう? 電話越しとはいっても、噂になっている相手に直接、恋愛感情がどうとか訊くなんて。

 恋愛だ何だって話が、わたしにわかるわけがない。イライラする。
 結婚して子どもが生まれて幸せに暮らしましたっていう「めでたしめでたし」の意味が、わたしには昔からわからなかった。そういうのが幸せというものなんだと大人に説明されても、納得できなかった。
 大人になれば、その幸せの価値が理解できるらしい。じゃあ、わたしには理解できる日は来ないかもしれない。そんなふうに、子どものころから思っていた。

 わたしは、大人になるという将来像を思い描いたことがない。大学生になった自分とか、二十歳を迎える自分とか、想像できない。ましてや、大人になって何かの仕事をしている自分なんて。
 だから、恋愛なんかわからない。その先にあるかもしれない結婚というものは、もっとわからない。

〈なあ、蒼〉
「電話、切るよ」
〈何でそんなにイライラしてんだよ? 今日、ずっとだろ。何かイヤなことでもあった?〉
「あんたが変な話するからじゃん」
〈その前からだろ。悩みとかあるなら、聞くよ〉
「余計なお世話」

 雅樹は噴き出した。
〈きっつー! やっぱ蒼は蒼だな〉
「は?」
〈さっきも言ったけど、最近、おれモテんだよ。そういうひでー言い方する女子、全然いなくなっちゃってさ、やりづらいんだ。でも、もしこっちに蒼がいるままなら、蒼だけは態度が変わらないんだろうな。安心する〉

 違う。何を言っているんだろう?
 わたしは変わったよ。何もかも。雅樹が知らないだけ。雅樹に見せていないだけ。
 喉が痛い。昼間に智絵と話して、今は雅樹とも話して、これで一体、何日ぶんのおしゃべりになるだろう? こんな現状、雅樹にはイメージできないでしょ?

 わたしは咳払いをして、言った。
「おじさんやおばさんによろしく。長電話になったら、親に迷惑かかる。そろそろ本当に切るから」
〈了解。まあ、時間あるとき、木場山に遊びに来いよ。みんな歓迎すると思う。それじゃあ〉
「バイバイ」

 電話の子機を耳元から離して、通話終了のボタンを押す。通信が途切れる直前、雅樹が何か言ったように聞こえた。わたしの名前を呼ぼうとしていた気がする。
 呼ばれたって、応えようがない。
 わたしは変わってしまったんだ。情けなくてカッコ悪い、弱い人間になってしまった。こんな姿、前のわたしを知っている人には見せたくない。

 胸の奥は、ザラザラし続けている。疲れるなあ、と思った。
 感情なんか全部死んでしまえば、ザラザラもチクチクもズキズキもしないんだろう。そうしたら、わたしはあのくだらない学校にも平気で通えるようになるんだろうか。