智絵はおずおずとスケッチブックを取り出した。
「あたし、美術部で……イラストレーターになれたらいいなって、思ってて。今日もね、絵の具、買いに来てたの。ここの文房具屋、大きいから、ほしいものがいろいろあって」

 中ほどのページで開かれたスケッチブックには、大きな鳥にまたがって空を駆ける少女の絵が描かれていた。わたしが買ったばかりのファンタジー小説のヒロインだった。
 繊細なタッチのイラストだ。極細のペン先で輪郭が描き込まれている。塗りは色鉛筆。光の描き方が立体的で、触れれば凹凸を感じられそうだ。

「すごい。うまいね」
 気の利いたことの言えないわたしの前で、智絵は真っ赤になっていた。
「あ、あたし、絵しかなくて……得意なことっていうか、できること、絵だけだから。でも、あのっ、蒼ちゃんがイラストとか興味なかったら、邪魔して悪いなって……」

「興味あろうがなかろうが、うまい絵を見たら感心するものだと思うけど」
「ん、そうでもないの。あたし、オタクで暗いから、こういうイラストはあんまり……教室では、出せない……」
 ハッキリ言えない智絵が本当は何が言いたいのか、わたしにはわかった。
「今のクラスの人たちのうち、自分がイケてるって思ってるグループは、自分が持ってないものを否定したがるよね。自分が好きなもの以外は全部、悪口の対象にする」

 智絵は、真っ赤なままの顔を上げた。せわしないくらいのまばたきをして、また目を伏せる。智絵の視線の先には、鳥の背の上で戦うヒロインの姿がある。

「もう慣れてるから。あたしは、何ていうか……教室の隅っこで、影みたいになってればいいんだって、もうわかってるの。放課後、美術室で絵を描くのは楽しいし」
「悪いことしてるわけじゃないのに、何でそうビクビクしてなきゃいけないの?」

「……蒼ちゃんは、そういうとこ、カッコいいよね」
「え?」
「堂々としてる。イヤな相手のこと無視できるくらい、強くて。嫌いなものは嫌いって、態度で示すことができて……だから、教室から、ふっといなくなったりするでしょ? でも、成績よくて。あたしには、できないことだよ」

 違うよ。逃げているだけ。
 カッコよくなんかない。わたしは自分が情けない。前の学校の人たちに顔向けできないくらい、情けない。
 わたしは、とっさに浮かんだ言葉を呑み込んだ。言えない。カッコ悪いことは言いたくない。バッグの中から分厚いノートを取り出す。

「これ、わたしが書いてる小説。オリジナルで世界観を作るのは難しくて、練習のために二次創作してるの」
「えっ、小説で二次創作? すごい……み、見せてもらってもいいの?」
「うん。短編っていうか、おおもとになった小説では描かれてないキャラの視点で、同じシーンを書いてみたのが多い」

「あ、じゃあ、BLとか夢小説とかじゃなくて……」
「そういう恋愛系は書けない。もともと恋愛要素の薄い小説が好きだし。悩んでるシーンを書くのが多いかも。強くなりたいっていう気持ちとか、修行のシーンとか」
「カッコいい。蒼ちゃんらしいと思う」
「そう?」

「あっ、あの、今日初めて話したのに、勝手なこと言って、ごめんなさい。で、でもね、ほんと、蒼ちゃんは一匹狼っていうか……カッコいいイメージなんだよ? まわりの人たちもね、何かすごいよねって、蒼ちゃんのことだけは言ってる。ほんとだよ」
「まわりにどう思われていようが、どうでもいいけど」
「そ、そっか……」

「でも、今こうして話してみて、よかったなって思う。同じ小説が好きな人と知り合えてよかった。わたしが小説を書いてること、こっちに転校してきてからは、誰にも言ってない。言える相手なんかいないと思ってた」

 智絵は顔を上げた。そして笑った。えくぼができた。クルンとカールしたまつげの下で、やせているからひどく大きく見える目が、光を映し込んでキラキラした。
 こんな笑顔になれる子が、クラスでは「暗い」と言われて、影に押し込まれているんだ。

 智絵はわたしの小説を一編、読んでくれた。その間に、わたしは智絵のスケッチブックを見せてもらった。智絵のイラストも、二次創作がほとんどだった。プロが作った世界観を借りて絵を描くのは練習になるから、と智絵も言った。

「蒼ちゃんは、ここ、よく来るの?」
「そうだね。家にいても暑いし、ここか図書館にいる」
「また、会える? 夏休みの間に」
「いいよ」
「あたしは、美術室に行く日もあるんだけど……文化祭用の絵、もう描き始めてて。大きいサイズの油絵だし、オリジナルだから、時間かかっちゃうの。でも、学校に行くのは毎日ではないから」

「会いたいとき、前日に電話して」
「う、うん。あのっ、蒼ちゃんちは、おとうさんが最初に電話に出ることってある?」
「めったにないと思う。たいていは母が電話に出る」
「だったら、よかった。あたし、男の人や男子が相手だと、すっごい緊張して、しゃべれなくなるから……学校でも、そうなんだよね。授業で、男の先生に当てられるのも、顔が真っ赤になって舌が動かなくなる」
「そうなんだ」

「あ、あのね、今もね、赤いでしょ? あたし、赤面症で……ほんとはね、家族の前とかではおしゃべりなんだけど、しゃべれるようになるまで、時間かかるの。いつも。何かね、蒼ちゃんは不思議。初めてしゃべるのに、あたし、言葉がどんどん出てくる」

 智絵は、本人が言うとおり、しょっちゅう赤くなった。でも、照れたような笑顔を崩さずに、ときどきはわたしの目をまっすぐに見ながら、共通の話題であるファンタジー小説のことを語った。

 好きなキャラクターのことや、好きなシーンのこと。わたしも智絵も、たくさんしゃべった。喉が渇いて、声が嗄れた。いつの間にか、そろそろ帰らないといけない時間帯だった。帰りのバスが同じ路線で、意外と近所に住んでいることがわかった。
 バスを降りる直前に、智絵が顔を真っ赤にして、勢い込んでわたしに言った。

「しょ、小説のノート貸してくれない? 明日、返すから。読みたいの。全部」
「いいよ。おもしろくないかもしれないけど」
「そ、そんなことないよっ。同じ中二なのに、文章、すごくうまいもん」
「きみだって、絵、うまいでしょ」

 智絵は目を真ん丸に見開いて、まばたきもせずにわたしを見つめた。
「ありがとう」
 えくぼのできるキラキラした笑顔。智絵はわたしの小説のノートを胸に抱きしめて、バスを降りていった。