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笹山と外食をしたことなんて、何度あっただろう? 一緒に食事をすること自体、めったになくて、それはわたしにとっていいことだったのか悪いことだったのか、よくわからない。
竜也は、わたしがうまく食事を取れないと打ち明けたとき、すぐに言った。
「一緒に飯食いに行きましょう。蒼さんが食いたくないものは、おれが食うから。食事の時間が合うときは全部、一緒に食いましょう」
人目のある間は、例えば大学では、わたしは吐かずに済んでいる。部屋で一人になるのがダメだ。だから一緒にいればいいだろうと、竜也の出したシンプルな答えこそがすべてだった。わたしは誰かに助けてほしかった。
精神的におかしいと自覚していても、わたしは病院に行かなかった。風邪をひいたら抗生物質を飲めば治るみたいな、そんな簡単な薬なんて、摂食障害の治療には存在しない。入院して管理してもらえるなら別だけれど、わたしはそこまで重症ではないと、自分でわかっていた。
笹山を呼び出した先は、一度だけ二人で入ったことのあるカフェバーだった。平日の夜で、食事がメインではないその店は、がらんとしていた。
カクテルを注文した笹山は、不機嫌そうに切り出した。
「大事な話って、何?」
わたしはブラックコーヒーだった。未成年とはいえ、アルコールが飲めないわけではない。中学時代から、家に引きこもりながら、隠れて父のお酒を飲むことがよくあった。大学に上がってからはますますそのあたりがめちゃくちゃになっていた。
でも、今はブラックコーヒーだった。しらふでなければならなかった。
「別れたいんです」
わたしは笹山の部屋の合鍵をテーブルに置いた。笹山は目を見開いた。
「どうして?」
一般的な基準で言えば、笹山をふる理由なんてないだろう。国内で指折りの難関校に通うイケメンで、四月からの就職先ももう決まっている。何に付けても、そつのないタイプ。
でも、わたしはこの人のスペックになんて何の魅力も感じない。そんな自分の気持ちをハッキリと理解した。ずっと苦しみ続けてきた間も、具合の悪い予兆があったときも、実際に倒れてしまったときも、わたしはこの人には助けを求めなかった。それが答えだ。
わたしは笹山の目を見た。いつ以来のことか。
「あなたといても、つらいだけなんです。同じ映画を好きになれない。あなたは小説を読まない。音楽の趣味も違う。会話もほとんどない。何のために一緒の空間にいるのか、わからない」
「他人同士なんだから、趣味が違ったりするのは当たり前だろう。会話って、蒼はもともとあんまりしゃべらないじゃないか。そんな、ボクを責められても」
「わたしも、こんなふうでも、楽しいときは笑います。大学のクラスメイトとはしゃべります。でも、あなたの部屋では、そういうのが全然ない。やるのはセックスだけで」
店の照明は薄暗かった。ひどく陰った笹山の顔は、おびえるようにこわばっていた。
「蒼がしゃべらないし笑わないから、抱き合う以外のコミュニケーションが取れなくて、どうしようもなくて」
「イヤだった。そういう目的でしか求められてないんだと思った。黙って、人形になってる気分だった」
「人形……ボクがただ自分のために蒼を抱いてると思ってたってこと? 違う。全然違う。性欲のためとかじゃなくて、いや、何ていうか……ボクは蒼にしか欲情しない。そういうの、蒼には伝わってなかった?」
「わかるわけない。暴力と何が違うんだろうって、いつも考えてた。その程度のものでしかなかった。キスも何もかも、最初から、全部」
冷静に話しているつもりだった。でも、わたしの手は細かく震えていて、声まで震えてきて、それで気が付いた。わたしは激怒している。マグマみたいな感情を無理やり抑えているせいで、震えてしまう。
笹山もまた震えていたけれど、わたしとは理由が違った。笹山は涙声だった。
「蒼は、ほかに好きな男がいるんだろう? だからボクを捨てるんだろう? どうしてそんなひどいこと……浮気なんかするんだ? ボクが蒼を愛してる気持ちは、少しも伝わってない?」
愛してる、と。こんなタイミングで告げられても、ゾッとするだけだ。この人はわたしと別れる気がない。あきらめてくれない場合、どうなる?
竜也の身の危険を、まずわたしは心配した。次に、夢飼いという場所が壊されることを。そして、笹山の善意も良心もまったく信用していない自分を、改めて知った。だって、笹山はわたしを追い込むばかりで、手を差し伸べてはくれなかった。
「わたしは腕にも肩にも胸にも傷があるのに、あなたは何も言わなかった」
精神がボロボロになっていても、外から見れば何ともない。そのアンバランスがつらくて、体の表面を傷付けた。それはきっとサインだった。誰かに見付けてほしかった。なのに、笹山は。
「言えなかった。何て言えばいいかわからなかった。言葉よりも、抱きしめるほうがいいと思ってた」
笹山に誠意があるのだとしても、わたしにはそれが見えない。
「もう解放してください。別れてください。わたしは、あなたを好きになれませんでした」
呆然と見張られた笹山の目から涙が落ちた。
「……蒼は、ボクの名前、本当に覚えてる? 呼んでって、ボクが求めるときしか、呼んでくれなかったよね。それって結局、そういう……感情が少しもないから……」
わたしはテーブルの上に千円札を置いて、席を立った。
「さようなら」
笹山に背中を向けることは怖かった。何かされるんじゃないか、と。店を出るや否や、わたしは自転車に飛び乗って、夢飼いを目指して一目散に走った。
笹山と外食をしたことなんて、何度あっただろう? 一緒に食事をすること自体、めったになくて、それはわたしにとっていいことだったのか悪いことだったのか、よくわからない。
竜也は、わたしがうまく食事を取れないと打ち明けたとき、すぐに言った。
「一緒に飯食いに行きましょう。蒼さんが食いたくないものは、おれが食うから。食事の時間が合うときは全部、一緒に食いましょう」
人目のある間は、例えば大学では、わたしは吐かずに済んでいる。部屋で一人になるのがダメだ。だから一緒にいればいいだろうと、竜也の出したシンプルな答えこそがすべてだった。わたしは誰かに助けてほしかった。
精神的におかしいと自覚していても、わたしは病院に行かなかった。風邪をひいたら抗生物質を飲めば治るみたいな、そんな簡単な薬なんて、摂食障害の治療には存在しない。入院して管理してもらえるなら別だけれど、わたしはそこまで重症ではないと、自分でわかっていた。
笹山を呼び出した先は、一度だけ二人で入ったことのあるカフェバーだった。平日の夜で、食事がメインではないその店は、がらんとしていた。
カクテルを注文した笹山は、不機嫌そうに切り出した。
「大事な話って、何?」
わたしはブラックコーヒーだった。未成年とはいえ、アルコールが飲めないわけではない。中学時代から、家に引きこもりながら、隠れて父のお酒を飲むことがよくあった。大学に上がってからはますますそのあたりがめちゃくちゃになっていた。
でも、今はブラックコーヒーだった。しらふでなければならなかった。
「別れたいんです」
わたしは笹山の部屋の合鍵をテーブルに置いた。笹山は目を見開いた。
「どうして?」
一般的な基準で言えば、笹山をふる理由なんてないだろう。国内で指折りの難関校に通うイケメンで、四月からの就職先ももう決まっている。何に付けても、そつのないタイプ。
でも、わたしはこの人のスペックになんて何の魅力も感じない。そんな自分の気持ちをハッキリと理解した。ずっと苦しみ続けてきた間も、具合の悪い予兆があったときも、実際に倒れてしまったときも、わたしはこの人には助けを求めなかった。それが答えだ。
わたしは笹山の目を見た。いつ以来のことか。
「あなたといても、つらいだけなんです。同じ映画を好きになれない。あなたは小説を読まない。音楽の趣味も違う。会話もほとんどない。何のために一緒の空間にいるのか、わからない」
「他人同士なんだから、趣味が違ったりするのは当たり前だろう。会話って、蒼はもともとあんまりしゃべらないじゃないか。そんな、ボクを責められても」
「わたしも、こんなふうでも、楽しいときは笑います。大学のクラスメイトとはしゃべります。でも、あなたの部屋では、そういうのが全然ない。やるのはセックスだけで」
店の照明は薄暗かった。ひどく陰った笹山の顔は、おびえるようにこわばっていた。
「蒼がしゃべらないし笑わないから、抱き合う以外のコミュニケーションが取れなくて、どうしようもなくて」
「イヤだった。そういう目的でしか求められてないんだと思った。黙って、人形になってる気分だった」
「人形……ボクがただ自分のために蒼を抱いてると思ってたってこと? 違う。全然違う。性欲のためとかじゃなくて、いや、何ていうか……ボクは蒼にしか欲情しない。そういうの、蒼には伝わってなかった?」
「わかるわけない。暴力と何が違うんだろうって、いつも考えてた。その程度のものでしかなかった。キスも何もかも、最初から、全部」
冷静に話しているつもりだった。でも、わたしの手は細かく震えていて、声まで震えてきて、それで気が付いた。わたしは激怒している。マグマみたいな感情を無理やり抑えているせいで、震えてしまう。
笹山もまた震えていたけれど、わたしとは理由が違った。笹山は涙声だった。
「蒼は、ほかに好きな男がいるんだろう? だからボクを捨てるんだろう? どうしてそんなひどいこと……浮気なんかするんだ? ボクが蒼を愛してる気持ちは、少しも伝わってない?」
愛してる、と。こんなタイミングで告げられても、ゾッとするだけだ。この人はわたしと別れる気がない。あきらめてくれない場合、どうなる?
竜也の身の危険を、まずわたしは心配した。次に、夢飼いという場所が壊されることを。そして、笹山の善意も良心もまったく信用していない自分を、改めて知った。だって、笹山はわたしを追い込むばかりで、手を差し伸べてはくれなかった。
「わたしは腕にも肩にも胸にも傷があるのに、あなたは何も言わなかった」
精神がボロボロになっていても、外から見れば何ともない。そのアンバランスがつらくて、体の表面を傷付けた。それはきっとサインだった。誰かに見付けてほしかった。なのに、笹山は。
「言えなかった。何て言えばいいかわからなかった。言葉よりも、抱きしめるほうがいいと思ってた」
笹山に誠意があるのだとしても、わたしにはそれが見えない。
「もう解放してください。別れてください。わたしは、あなたを好きになれませんでした」
呆然と見張られた笹山の目から涙が落ちた。
「……蒼は、ボクの名前、本当に覚えてる? 呼んでって、ボクが求めるときしか、呼んでくれなかったよね。それって結局、そういう……感情が少しもないから……」
わたしはテーブルの上に千円札を置いて、席を立った。
「さようなら」
笹山に背中を向けることは怖かった。何かされるんじゃないか、と。店を出るや否や、わたしは自転車に飛び乗って、夢飼いを目指して一目散に走った。