雅樹から電話が掛かっていた。何度も何度も。
 大学一回生の冬だ。後期の授業もテストも全部終わって、長い春休みに入っていた。雅樹からのメールや電話は、年が改まったころからときどきあった。メールは、来るたびにすぐ消去した。笹山に見られる前に。

 雅樹からの電話に出てしまったのは、うっかりしていたからだ。ちょうどメールの作成中で、文字変換の確定ボタンを押したつもりが、通話になってしまった。

〈もしもし? 蒼だよな? 生きてる?〉
 そんなこと言って、間違い電話だったらどうするつもりなんだろう?
「生きてるけど」
〈掛けても掛けても電話に出ないのは、あんまりだろ。どうかしたのかよ? 大学は行ってんのか?〉
「授業は出席してたよ。おもしろいし」

〈だよな。そういや、合格発表、昨日だったろ? 去年の今ごろは、響告大に落ちたおれは、さんざんな気分だったけど〉
「今は楽しいの?」
〈クラスの連中もサークルの仲間も、すごくいいよ。うちの専攻はほとんど男子校状態なんだけど、こういうのは楽だな〉
「そう」

〈蒼がたまに連絡取ってた一個下の、ホームステイで一緒だったっていう受験生は? 前に宣言してたとおり、響告大、受けたのか?〉
「合格したって」

 竜也は自宅で合否の連絡を待っていたらしい。今はウェブで合否がわかるけれど、それが全国的に始まったのは、確か二〇一〇年ごろだ。わたしや竜也のころは、合否を告げる速達郵便が自宅のポストに届くシステムだった。
 合格の通知を受け取った竜也は、まずわたしにメールをして、それから学校に電話を掛けたらしい。夜になって、改めて竜也から電話が掛かってきて、弾んだ声でそんなことを言っていた。

〈ひとみとは連絡取ってないの?〉
「取ってない」
〈あいつのとこ、都会すぎてきついって。おれら、もともと木場山のド田舎育ちだからな。ひとみはけっこう精神的に参ってるみたいで、春休みはずっと地元にいるって言ってた。新学期から本当に大学に復帰できんのかな?〉
「一人じゃいられない子だからね」

〈だよな。新しいとこでも、蒼みたいな相手ができりゃいいのに〉
「わたしはあの子のこと支え切れないと思った」
〈蒼と正反対だよな。蒼はもっと誰かに支えてもらえよって感じ〉
「いらない」
 雅樹は低い声で笑った。
〈変わってねぇな〉

 それは間違っている。わたしは変わった。「勉強すること」を軸に、いびつな形をどうにか保っていた「わたし」という人格が、もうバラバラになってしまった。
 小説を書いていない。ギターを弾いていない。本を読んでも、食べ物のことが頭をちらついて、すぐに集中力が切れる。じっとしていることが苦痛で、食べたい吐きたいという衝動に、あっという間に呑み込まれる。

 毎日、食べて吐いている。「これを食べたらやせる」というダイエットの知識が増えて、その反面、口にしても吐かずに済むものの数がどんどん減っている。もうめちゃくちゃだ。空腹感も満腹感も、あるはずがない。

 笹山と会うのは週末。別にどこかに出掛けるというのでもなく、あの広い部屋で過ごすだけだ。悲劇的な結末、後味の悪い結末を迎えるサスペンスの洋画をずっと観ていることが多い。不幸に浸り込む体験は刺激的なエンターテインメントなのだと、笹山は言う。

 わたしはそんなもの観たくない。映像は、文章と違って、情報を取り入れようと努力しなくても、絵も音も動きながら脳に飛び込んでくる。拷問や殺戮のシーンも、人が人を憎んで放つ呪詛のセリフも、鮮烈なインパクトでわたしの中に入ってくる。

 笹山がそれを楽しめるのは、今まで生きてきた中で何も不幸なことがなかったからなのか。わたしは、自分のぶんだけで精いっぱいなのに。
 洋画のDVDの後は、抱かれる。いつもまったく同じ流れだ。終わったら、笹山は必ずシャワーを浴びて服を着る。この儀式は何なんだろうかと、わたしはいつも思う。

 電話口で黙っているわたしに、雅樹は尋ねた。
〈あのさ。彼氏とか、できた?〉
「……うん」
〈そっか……どういう人?〉
「……どういう人なんだろ?」
〈何だよ、それ?〉
「いや、何ていうか……」

 雅樹がため息をつくのが、ハッキリと聞こえた。
〈おれらさ、あんまりマメに連絡取り合う間柄じゃないけど、蒼が妙に電話に出ないよなって、変に思ってたんだ。その何かよくわかんねぇ彼氏のせいってこと?〉

 どうなんだろう? 笹山のせいだけではないと思う。食べて吐いて食べて吐いて、やせることだけが気になって、集中力がなくなっている。こんな自分を、必死で突っ張って生きていた以前のわたしを知る人に、見せたくない。

 雅樹が、変に明るい声で言った。
〈もしおれが響告大に受かってたら、おれと蒼、なし崩し的に付き合ってたんじゃないかって気がするんだよな。昔から家族ぐるみで、お互いよくわかってんじゃん? 結婚とか、簡単にそこまで行っちゃったかもなって〉
「そう、かもね」

〈でもまあ、道はそんなふうに伸びてなかったわけで。おれ、入学前は、大学院で響告大に行きたいって思ってたけど、こっちの大学で最高におもしろい教授と出会っちゃった。この人んとこに行って、やってみたかった研究をやるよ〉
「もう将来のこととか考えてるの?」
〈そんなまじめなもんじゃねーよ。その教授、五十過ぎてんのに、研究の話をするときは小学生みたいなんだ。その楽しそうな様子見てたら、おれも一緒に楽しんでみたくなった。そんだけ」

 雅樹はクスクス笑った。
 楽しいって、何だろう? わたし最近いつ笑ったっけ? 営業スマイルさえ、作ると頬が痛む。中学のころも同じようなことがあって、全然笑わなかったから、頬の筋肉が動かなくなっていた。

 それからすぐに雅樹は電話を切った。
〈変な話になって、ごめん。まあ、会えるときがあったら、会って飯でも食おう。それじゃ〉

 わたしは、沈黙したケータイをしばらく見つめていた。そして、雅樹からの着信履歴を選択した。
 消去しますか? はい/いいえ。
 はいを選んで、誰かからの着信やメールを消去するとき、むなしくなる。むなしくて、自分がどうでもよくなって、頭の中がカッと真っ赤になって。

 食べたい吐きたい壊れたい暴れたい。
 衝動に勝てない。食パンを丸ごと一斤とか、スーパーの弁当を三つとか、ファミリーパックのフライドチキンとか、それを胃に流し込みながらジュース一リットルとか。異様な量を食べて食べて食べて、そして吐く。

 大学の授業がなくて暇なぶん、食べて吐く時間が増えた。苦しくてたまらない。みじめで、顔を上げて歩けない。吐いた後は体重計に乗る。減ることはもうなくなってしまって、増えてさえいなければ、とりあえず自分を許しておける。