問題が起こったのは、バイトが終わった後だ。
 夢飼いの裏手の駐輪場に、笹山がいた。まともな状態でないと、一目でわかった。笹山の目は異様にギラギラしていた。ひどく酔っているのかと、一瞬、思った。でも、酒の匂いはしない。

「蒼、うちに来い」
 押し殺した低い声に、酔っているのではないとわかった。激怒しているのだとわかった。いつだったかカフェでグラスを叩き割ったときと同じだ。

 肩をつかまれたと思ったら、背中が壁に打ち付けられた。息のかたまりが肺の中で弾けて、呼吸が止まる。
 キスをされた。いや、噛み付かれた。唇に。舌に。歯を立てられた箇所はもともと、吐いてしまうせいで荒れていた。笹山の口が離れていった後、口の中に血の味が広がった。

 笹山がつばを吐いた。血の味を消すように、何度も。
 胸に痛みと圧迫感があった。笹山の手がわたしの胸をつかんで押さえているせいだ。
 頭が真っ白になって、その後は、手首をつかんで引っ張られる痛みのほかは覚えていない。笹山の手は爪が伸びていて、わたしの腕にはいくつもの引っ掻き傷ができた。

 笹山の部屋は広かった。わたしの部屋の倍くらいありそうだった。
 わたしの背後で、笹山は玄関の鍵を閉めてチェーンロックまで掛けた。わたしはいつ靴を脱いだんだろう? 呆然と立ち尽くしていると、笹山はわたしの真正面に立った。

「どうしてボクとの約束が守れない? 夕方に会ってたやつ、誰? ずいぶん親しそうだったけど?」

 言ってはいけない、と直感的に思った。竜也のことを知られるのが気まずいとか、そういうなまやさしいものではなくて。
 この人が竜也の連絡先を知ったら、竜也に対してどんな言い方をするか、わからない。それが怖い。

 笹山はわたしに右手を差し出した。
「ケータイ、見せて」
「……イヤです」

「確かにね、恋人のケータイをのぞき見するのは、なかなかひどいことだ。でも、そんなことをボクに言わせる蒼が悪いよね? 蒼がボクとの約束を無視したせいなんだよ」
「ごめんなさい」
「ねえ、どうして? 自覚が足りないの? それとも寂しいの? 蒼はボクの彼女だよ。わかってる?」
「ごめんなさい」

「謝ってばっかりじゃわからないよ。蒼、どうしてほしい? ボクは蒼を愛してるのに、蒼がそんなふうじゃ安心できない」
「ごめんなさい……!」
「ああ、もう、そうだよ。ほんと、もどかしいよ。何で伝わらないかな? もっとしっかり、体に覚え込ませたほうがいいかな?」

 笹山の顔を見るのが怖かった。わたしは目をそらしていた。笹山の呼吸も語調も荒くなっていくのを、ただ固まったまま聞いていた。
 手加減のない力で、ベッドの上に押さえ込まれた。壊されて奪われることへの絶望感。わたしの心は凍り付いて砕けた。

 抵抗できなかった。声すら上げられなかった。他人の身に起きている出来事みたいに思えた。でも、体の上を這い回る湿った手のひらや、ぬめぬめした舌を、確かに自分の肌の上で感じた。体ごと引き裂かれるような痛みも、確かに自分のものだった。

 長い長い長い時間、痛くて苦しくて重たくて。泣き叫びたいのに声が出なくて、体を動かすこともできずにいた。
 体が動いたのは、明け方だった。まず、メガネを探して掛けた。それから、重たい体を引きずるようにして服を着た。

 笹山のほうはパジャマを着て眠っていた。シャワーを浴びに行く音が、そういえば聞こえていた。わたしは目を開けて、天井を眺め続けていたように思う。睡眠を取ったという感覚は、少しもない。
 ゴミ箱を見ると、血の色にまぎれて、避妊具がキレイに処理されて捨ててあった。笹山が避妊をしたのは優しいからでも気配りがあるからでもないと、わたしは感じた。用意周到さが不気味だった。怖かった。

 わたしは泣かなかった。怒りも憎しみもなかった。もちろん、喜びなんかあるわけなかった。心を凍らせておかなければ、と身構えるまでもなく、死んでしまったかのように、何も感じなかった。
 ただ、体の内側が傷だらけになったみたいで、痛かった。