夏はもう目の前だった。そんなとき、忘れていた相手から数ヶ月ぶりの電話が掛かってきた。
竜也だった。
〈蒼さん、久しぶりです!〉
竜也の声音からは、にこにこしているのが伝わってきた。高校三年間でいちばん、いや、中二から今まででいちばん楽しかった日々の出来事が、パッと胸によみがえった。
「何? どうしたの? 何か用事?」
竜也につられて、わたしの声も弾んだ。そういうちゃんとした自分でなければ、竜也と話をするのは恥ずかしい。竜也が思い描いているわたしは、少し変わっているとしても、狂っても壊れても病んでもいない。
そのとたん、口の中に砂でも含んでいるかのような、ざらざら引っ掛かって飲み込めない不快感がわたしをとらえた。その不快感は、罪悪感に似ている。やってはいけないことをしているという自覚が、わたしの内側で膨れ上がった。
わたしは今、笹山ではない男性と親しく言葉を交わしている。笹山ではない男性に対して、自分を魅力的に見せようとして笑顔をこしらえている。それらは、笹山から禁じられていることだった。
一度、クラスの男子とテストやレポートのことを話しているのを、笹山に見られたことがある。笹山は猛烈に不機嫌になった。その後、連れていかれたカフェでは一言も話さず、偶然を装いながら、わざとアイスティーのグラスを床に叩き付けた。
竜也は言った。
〈イチロー先生からの伝言です。『前にも話したとおり、ホームステイの引率の仕事を手伝ってもらえるとありがたい。バイトということで、かなり格安で渡米できるよ』って〉
「ホームステイ……ミネソタの?」
〈そうです。おれは今年も行きますよ。今年はロングとショートの二つのコースがあって、おれはショートのほうのリーダーとして、空港で小中学生の点呼を取ったりとか〉
「すごい。受験生なのに、そういうことやる余裕あるんだ?」
竜也は冗談っぽく笑った。
〈おれが受けようとしてる響告大の理学部は、本番の試験で国語がないんです。数学と理科と英語で勝負。ということになれば、けっこう戦える自信があります〉
「そうなんだ」
〈もし国語があったら、百点満点で二十点も取れるかな? まあ、理学部志望はみんなそんなもんですよ。響告大対応の模試でも、十点超えたらスゲーって〉
それで、と竜也は改めてわたしに誘いの声を掛けようとした。わたしの答えは一つだった。
「ごめん。わたしは行けない」
笹山が許すはずもない。
呼吸ふたつぶんの間、竜也は黙った。それから、ため息をつきながら笑った。
〈バイトとか勉強とか、忙しいですか?〉
「うん、まあ」
〈蒼さん、まじめだもんな。仕方ないですよね。ほぼ一年ぶりに会えるかなって、思ってたんですけど〉
「……うん」
〈あ、そうだ。今年もまたブレットたちの家にステイするんで、お土産とか預かっていきますよ。ちょっとさすがに響告市に何度も行くのは厳しいんで、おれの家に何か送ってくれたら持っていけるって感じですけど〉
「そっか。お願いしようかな」
思考も感情も鈍くて重い。頭の中のもやが少しも晴れなくて、わたしは何も感じられない。
ケリーやブレットとまた会いたかったはずなのに。受験が終わったらホームステイに行けるはずだったのに。ギターも歌も再開するはずだったのに。
激しく心を突き動かされた高二の夏を思い返すと、けだるい気持ちになる。あんなにエネルギーを使うこと、わたしはもう、できる気がしない。
竜也は元気だ。受験勉強で疲れている様子もない。
〈ミネソタから戻ったら、向こうのお土産を持って、蒼さんのところに届けに行きます。ちょうど響告大のオープンキャンパスもあるんで、新幹線とホテルがパックになった旅行ツアー、もう予約済みなんです〉
「あ、来るんだ?」
〈行きます。あの、蒼さん、時間がもしあったらでいいんで、ちょっと会ってもらえませんか?〉
笹山の存在感がわたしにのしかかってきた。でも、バレなければいい、と思った。
「いいよ。時間、作れるから」
〈やった、ありがとうございます! 具体的な時間とか、また連絡しますね。見返せるし、電話よりメールのほうがいいかな〉
「そうだね。バイトは夜だから、わたしは割と動けると思う」
〈了解しました。じゃあ、また〉
「うん」
通話を終えた後、わたしは自分の部屋の床にへたり込んだまま、ぼんやりと自分の手を見下ろした。手の甲の、中指の付け根の関節には、治り切れない傷がある。吐くために手を喉に突っ込むとき、前歯が皮膚にこすれてできてしまう傷だ。
こんな状態なのに、わたしは竜也に会ってもいいんだろうか?
電話ひとつで、何だか疲れて、眠くなった。疲れたとはいっても、ストレスが掛かったのとは違ったみたいで、頭の中がカーッと真っ赤になるような「食べたい吐きたい」という衝動は起こらない。ただ、眠くなった。
眠くて当然かもしれなかった。夜、なかなか寝付けなくてイライラして、食べて吐くことをしてしまう。増え続ける食費を稼ぐために、かなり無理をしてバイトのシフトを入れている。体はヘトヘトなのに眠れない。
たまには寝よう。食べて吐くという異様な儀式をせずに済むなら、そういうときくらいは、おとなしく寝よう。
疲れたのは、自分への失望のせいかもしれなかった。深い深い失望。わたしは、ミネソタで交わしたいくつもの大切な約束を破っている。でも、もう、あのキラキラしてくたびれる場所には戻れそうもない。
竜也だった。
〈蒼さん、久しぶりです!〉
竜也の声音からは、にこにこしているのが伝わってきた。高校三年間でいちばん、いや、中二から今まででいちばん楽しかった日々の出来事が、パッと胸によみがえった。
「何? どうしたの? 何か用事?」
竜也につられて、わたしの声も弾んだ。そういうちゃんとした自分でなければ、竜也と話をするのは恥ずかしい。竜也が思い描いているわたしは、少し変わっているとしても、狂っても壊れても病んでもいない。
そのとたん、口の中に砂でも含んでいるかのような、ざらざら引っ掛かって飲み込めない不快感がわたしをとらえた。その不快感は、罪悪感に似ている。やってはいけないことをしているという自覚が、わたしの内側で膨れ上がった。
わたしは今、笹山ではない男性と親しく言葉を交わしている。笹山ではない男性に対して、自分を魅力的に見せようとして笑顔をこしらえている。それらは、笹山から禁じられていることだった。
一度、クラスの男子とテストやレポートのことを話しているのを、笹山に見られたことがある。笹山は猛烈に不機嫌になった。その後、連れていかれたカフェでは一言も話さず、偶然を装いながら、わざとアイスティーのグラスを床に叩き付けた。
竜也は言った。
〈イチロー先生からの伝言です。『前にも話したとおり、ホームステイの引率の仕事を手伝ってもらえるとありがたい。バイトということで、かなり格安で渡米できるよ』って〉
「ホームステイ……ミネソタの?」
〈そうです。おれは今年も行きますよ。今年はロングとショートの二つのコースがあって、おれはショートのほうのリーダーとして、空港で小中学生の点呼を取ったりとか〉
「すごい。受験生なのに、そういうことやる余裕あるんだ?」
竜也は冗談っぽく笑った。
〈おれが受けようとしてる響告大の理学部は、本番の試験で国語がないんです。数学と理科と英語で勝負。ということになれば、けっこう戦える自信があります〉
「そうなんだ」
〈もし国語があったら、百点満点で二十点も取れるかな? まあ、理学部志望はみんなそんなもんですよ。響告大対応の模試でも、十点超えたらスゲーって〉
それで、と竜也は改めてわたしに誘いの声を掛けようとした。わたしの答えは一つだった。
「ごめん。わたしは行けない」
笹山が許すはずもない。
呼吸ふたつぶんの間、竜也は黙った。それから、ため息をつきながら笑った。
〈バイトとか勉強とか、忙しいですか?〉
「うん、まあ」
〈蒼さん、まじめだもんな。仕方ないですよね。ほぼ一年ぶりに会えるかなって、思ってたんですけど〉
「……うん」
〈あ、そうだ。今年もまたブレットたちの家にステイするんで、お土産とか預かっていきますよ。ちょっとさすがに響告市に何度も行くのは厳しいんで、おれの家に何か送ってくれたら持っていけるって感じですけど〉
「そっか。お願いしようかな」
思考も感情も鈍くて重い。頭の中のもやが少しも晴れなくて、わたしは何も感じられない。
ケリーやブレットとまた会いたかったはずなのに。受験が終わったらホームステイに行けるはずだったのに。ギターも歌も再開するはずだったのに。
激しく心を突き動かされた高二の夏を思い返すと、けだるい気持ちになる。あんなにエネルギーを使うこと、わたしはもう、できる気がしない。
竜也は元気だ。受験勉強で疲れている様子もない。
〈ミネソタから戻ったら、向こうのお土産を持って、蒼さんのところに届けに行きます。ちょうど響告大のオープンキャンパスもあるんで、新幹線とホテルがパックになった旅行ツアー、もう予約済みなんです〉
「あ、来るんだ?」
〈行きます。あの、蒼さん、時間がもしあったらでいいんで、ちょっと会ってもらえませんか?〉
笹山の存在感がわたしにのしかかってきた。でも、バレなければいい、と思った。
「いいよ。時間、作れるから」
〈やった、ありがとうございます! 具体的な時間とか、また連絡しますね。見返せるし、電話よりメールのほうがいいかな〉
「そうだね。バイトは夜だから、わたしは割と動けると思う」
〈了解しました。じゃあ、また〉
「うん」
通話を終えた後、わたしは自分の部屋の床にへたり込んだまま、ぼんやりと自分の手を見下ろした。手の甲の、中指の付け根の関節には、治り切れない傷がある。吐くために手を喉に突っ込むとき、前歯が皮膚にこすれてできてしまう傷だ。
こんな状態なのに、わたしは竜也に会ってもいいんだろうか?
電話ひとつで、何だか疲れて、眠くなった。疲れたとはいっても、ストレスが掛かったのとは違ったみたいで、頭の中がカーッと真っ赤になるような「食べたい吐きたい」という衝動は起こらない。ただ、眠くなった。
眠くて当然かもしれなかった。夜、なかなか寝付けなくてイライラして、食べて吐くことをしてしまう。増え続ける食費を稼ぐために、かなり無理をしてバイトのシフトを入れている。体はヘトヘトなのに眠れない。
たまには寝よう。食べて吐くという異様な儀式をせずに済むなら、そういうときくらいは、おとなしく寝よう。
疲れたのは、自分への失望のせいかもしれなかった。深い深い失望。わたしは、ミネソタで交わしたいくつもの大切な約束を破っている。でも、もう、あのキラキラしてくたびれる場所には戻れそうもない。