.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜
髪を伸ばすことになった。笹山がそれを望んだから。毎月ファッション誌を買うことにした。笹山がそれを望んだから。ケータイの連絡先を笹山に教えた。笹山がそれを望んだから。新しい服をいくつか買った。笹山がそれを望んだから。
笹山は、夢飼いのマスターや教育心理学の教授に、「蒼ちゃんの彼氏になりました」と報告した。わたしは何も口を挟まなかった。教授は面食らっていた。マスターは報告の数日後、営業スマイルを引っ込めだ真顔でわたしに言った。
「何か変なことがあったら、いつでも吐き出しにおいで。笹山くんはちょっと、何というか、うまく表現できないんだけど、変わった人かもしれない」
「変わった人?」
「ちょっとね、違和感がね、ないとは言えない。蒼ちゃんが客の男と接触しないように、ホールの仕事はさせないでくれって頼まれてさ」
「はあ。なるほど」
「笹山くん自身は、もうこの店には来られないって。蒼ちゃんが客の男に営業スマイルを向けるのがイヤなんだって。精神的な潔癖症っていうのかな。さすがにそれはどうなんだろうって感じでね」
そうです。何かおかしいかもしれないんです、あの人。急にキスされたとき、意味がわからなかったんです。もとには戻せないものを簡単に壊したんです。あの人とわたしでは、何を大切にするかが全然違うみたいなんです。
言えたらよかったのに。
頭に、もやがかかっているみたいだった。週末、デートをした。肩を抱かれて、髪を撫でられて、キスをされた。恋人らしい振る舞いを求められるたび、自分の意識がかすんでいくみたいだった。人格が消えていく。
笹山は、わたしにスカートを買い与えた。何度も試着をして、やっと選んだ一着。ベージュのふわふわした服は、色も形もわたしに合っていなかった。太って見えた。鏡の中の自分にゾッとして、もっとやせないといけないと思った。
一緒に入ったレストランの、夕食はイタリアンだった。油っこいソースがどろどろしている。水をちゃんと飲んでおけば、パスタもピザも、小麦製品は全般に吐きやすい。ああ吐きたい吐きたいとばかり思いながら、愛想笑いだらけの会話をやり過ごす。
帰り際、無人になった最寄り駅のホームで、笹山はわたしを抱きしめながら、わたしの体じゅうをまさぐった。服の上からではあっても、その手がどういう欲望を持って動いているのか、ハッキリと感じられた。
キモチワルイ。
帰宅して吐いた。食べてから時間が経っていたから、吐き切るまでの作業は苦しかった。消化されかけた、カロリーの高すぎるパスタとピザ。さっさと出ていってくれないと、また太ってしまう。イヤだ。イヤだ。イヤだ。
毎月買い始めたファッション誌のモデルは、信じられないくらい細い。わたしと同じ身長の人でも、わたしより三キロ、五キロ軽い。わたしもそのくらいにならないといけない。
ファッション誌にはダイエットの情報も載っていた。炭水化物を抜くこと、女性ホルモンに成分が近い豆乳を毎日摂取すること、ヨーグルトにきなこやゴマを混ぜて食べること、そういういろんな食事の方法が提案されていた。
豆乳ときなこヨーグルトに、わたしは縛られた。摂取しなければならない、という義務感。朝から必ずそれを口にしておかないと、落ち着かなかった。
後から振り返って考えると、特定の食品だけにかたよった食事が体にいいはずもない。体重は落ちるかもしれない。でも、それはただの栄養失調。やつれているだけだ。飢餓状態なんて、美容にとってマイナスでしかない。
いや、豆乳ときなこヨーグルトだけなら、そこまで健康被害はなかっただろう。わたしの体をやせにくくて不健康な性質に変えてしまったのは、当時ひどく流行していた「水飲みダイエット」と「にがり水ダイエット」だ。
一日に三リットルくらいの水を飲みなさい、という記述をあちこちで見掛けた。体にたまった老廃物を水で流し去らなければならないから、と。
その水は、にがり水であれば効果が高い、という風潮でもあった。にがりは海水から作られるもので、主な成分は塩化マグネシウム。もともとは、豆腐を固めるときに使われる液体で、直接、人が飲んだり食べたりするためのものではない。
結論から言う。やってみたダイエットの中で、にがり水の大量がぶ飲みがいちばん体に悪かった。
にがり水を大量にがぶ飲みして、最初はいくらかやせた。おなかを壊した状態だった。それでも、体重計に表示される数字が減ったことに気をよくして、わたしは、にがり水を続けた。にがりが多ければ多いほど効果が高いような気がして、大量ににがりを摂取した。
体に水分がたまりやすい体質になった。つまり、むくみが取れなくなった。冷えやすくもなった。汗をかけなくなった。
それから、塩化マグネシウムの過剰摂取は、腎臓や肝臓にも負担がかかるらしい。後になって調べてみたら、腎機能障害による死亡事例もあったそうだ。
でも、わたしには、自分の体を傷めることをしているなんていう自覚がなかった。
わたしは自分の体質を悪い方向へと作り変えてしまった。むくむ、冷える、汗をかかない、老廃物が出ていかない、すぐニキビができる。腎臓が弱ったせいもあるのか、何度もひどい膀胱炎になった。
三十代になるころ、ようやく脚も汗をかけるようになった。ヨガやジョギングで体を温めること、筋肉を動かすことを知って、それから数年かけて体質を変化させた。そんなに時間がかかるとは想像もしていなかった。
毎日飲むだけでやせる魔法の物質があるとしたら、そんなものはただの毒物だ。毒物以外に、ただ摂取するだけでごっそりやせる物質なんて存在しない。
でも、当時のわたしには相談できる相手もいなかったから、ファッション誌に書かれたダイエット情報だけをひたすらに信じた。
これをやろうと決めたときのわたしの学習能力と集中力は、極端に高くなる。そのアンバランスな能力と、食べ吐きを繰り返してしまう摂食障害と。わたしの体はどんどん壊れていった。精神状態も、もちろん悪かった。悪い精神状態に引っ張られて、また食べて吐いて。
悪循環が続いた。大学の授業はおもしろくて、バイトに集中している時間も悪くはなくて、でも、それ以外のときには何ひとつ心が弾まない。小説にもギターにもレンタルDVDにも、なかなか関心が向かない。
小説も書かないし、ギターの練習もしなくなった。堕落した自分がイヤだった。自分を責めて責めて責めて。そんな精神状態で恋愛感情が湧くはずもなく、笹山を好きになることもできないままだった。感情もない相手と付き合っていることがまた、わたしにとって苦痛だった。
髪を伸ばすことになった。笹山がそれを望んだから。毎月ファッション誌を買うことにした。笹山がそれを望んだから。ケータイの連絡先を笹山に教えた。笹山がそれを望んだから。新しい服をいくつか買った。笹山がそれを望んだから。
笹山は、夢飼いのマスターや教育心理学の教授に、「蒼ちゃんの彼氏になりました」と報告した。わたしは何も口を挟まなかった。教授は面食らっていた。マスターは報告の数日後、営業スマイルを引っ込めだ真顔でわたしに言った。
「何か変なことがあったら、いつでも吐き出しにおいで。笹山くんはちょっと、何というか、うまく表現できないんだけど、変わった人かもしれない」
「変わった人?」
「ちょっとね、違和感がね、ないとは言えない。蒼ちゃんが客の男と接触しないように、ホールの仕事はさせないでくれって頼まれてさ」
「はあ。なるほど」
「笹山くん自身は、もうこの店には来られないって。蒼ちゃんが客の男に営業スマイルを向けるのがイヤなんだって。精神的な潔癖症っていうのかな。さすがにそれはどうなんだろうって感じでね」
そうです。何かおかしいかもしれないんです、あの人。急にキスされたとき、意味がわからなかったんです。もとには戻せないものを簡単に壊したんです。あの人とわたしでは、何を大切にするかが全然違うみたいなんです。
言えたらよかったのに。
頭に、もやがかかっているみたいだった。週末、デートをした。肩を抱かれて、髪を撫でられて、キスをされた。恋人らしい振る舞いを求められるたび、自分の意識がかすんでいくみたいだった。人格が消えていく。
笹山は、わたしにスカートを買い与えた。何度も試着をして、やっと選んだ一着。ベージュのふわふわした服は、色も形もわたしに合っていなかった。太って見えた。鏡の中の自分にゾッとして、もっとやせないといけないと思った。
一緒に入ったレストランの、夕食はイタリアンだった。油っこいソースがどろどろしている。水をちゃんと飲んでおけば、パスタもピザも、小麦製品は全般に吐きやすい。ああ吐きたい吐きたいとばかり思いながら、愛想笑いだらけの会話をやり過ごす。
帰り際、無人になった最寄り駅のホームで、笹山はわたしを抱きしめながら、わたしの体じゅうをまさぐった。服の上からではあっても、その手がどういう欲望を持って動いているのか、ハッキリと感じられた。
キモチワルイ。
帰宅して吐いた。食べてから時間が経っていたから、吐き切るまでの作業は苦しかった。消化されかけた、カロリーの高すぎるパスタとピザ。さっさと出ていってくれないと、また太ってしまう。イヤだ。イヤだ。イヤだ。
毎月買い始めたファッション誌のモデルは、信じられないくらい細い。わたしと同じ身長の人でも、わたしより三キロ、五キロ軽い。わたしもそのくらいにならないといけない。
ファッション誌にはダイエットの情報も載っていた。炭水化物を抜くこと、女性ホルモンに成分が近い豆乳を毎日摂取すること、ヨーグルトにきなこやゴマを混ぜて食べること、そういういろんな食事の方法が提案されていた。
豆乳ときなこヨーグルトに、わたしは縛られた。摂取しなければならない、という義務感。朝から必ずそれを口にしておかないと、落ち着かなかった。
後から振り返って考えると、特定の食品だけにかたよった食事が体にいいはずもない。体重は落ちるかもしれない。でも、それはただの栄養失調。やつれているだけだ。飢餓状態なんて、美容にとってマイナスでしかない。
いや、豆乳ときなこヨーグルトだけなら、そこまで健康被害はなかっただろう。わたしの体をやせにくくて不健康な性質に変えてしまったのは、当時ひどく流行していた「水飲みダイエット」と「にがり水ダイエット」だ。
一日に三リットルくらいの水を飲みなさい、という記述をあちこちで見掛けた。体にたまった老廃物を水で流し去らなければならないから、と。
その水は、にがり水であれば効果が高い、という風潮でもあった。にがりは海水から作られるもので、主な成分は塩化マグネシウム。もともとは、豆腐を固めるときに使われる液体で、直接、人が飲んだり食べたりするためのものではない。
結論から言う。やってみたダイエットの中で、にがり水の大量がぶ飲みがいちばん体に悪かった。
にがり水を大量にがぶ飲みして、最初はいくらかやせた。おなかを壊した状態だった。それでも、体重計に表示される数字が減ったことに気をよくして、わたしは、にがり水を続けた。にがりが多ければ多いほど効果が高いような気がして、大量ににがりを摂取した。
体に水分がたまりやすい体質になった。つまり、むくみが取れなくなった。冷えやすくもなった。汗をかけなくなった。
それから、塩化マグネシウムの過剰摂取は、腎臓や肝臓にも負担がかかるらしい。後になって調べてみたら、腎機能障害による死亡事例もあったそうだ。
でも、わたしには、自分の体を傷めることをしているなんていう自覚がなかった。
わたしは自分の体質を悪い方向へと作り変えてしまった。むくむ、冷える、汗をかかない、老廃物が出ていかない、すぐニキビができる。腎臓が弱ったせいもあるのか、何度もひどい膀胱炎になった。
三十代になるころ、ようやく脚も汗をかけるようになった。ヨガやジョギングで体を温めること、筋肉を動かすことを知って、それから数年かけて体質を変化させた。そんなに時間がかかるとは想像もしていなかった。
毎日飲むだけでやせる魔法の物質があるとしたら、そんなものはただの毒物だ。毒物以外に、ただ摂取するだけでごっそりやせる物質なんて存在しない。
でも、当時のわたしには相談できる相手もいなかったから、ファッション誌に書かれたダイエット情報だけをひたすらに信じた。
これをやろうと決めたときのわたしの学習能力と集中力は、極端に高くなる。そのアンバランスな能力と、食べ吐きを繰り返してしまう摂食障害と。わたしの体はどんどん壊れていった。精神状態も、もちろん悪かった。悪い精神状態に引っ張られて、また食べて吐いて。
悪循環が続いた。大学の授業はおもしろくて、バイトに集中している時間も悪くはなくて、でも、それ以外のときには何ひとつ心が弾まない。小説にもギターにもレンタルDVDにも、なかなか関心が向かない。
小説も書かないし、ギターの練習もしなくなった。堕落した自分がイヤだった。自分を責めて責めて責めて。そんな精神状態で恋愛感情が湧くはずもなく、笹山を好きになることもできないままだった。感情もない相手と付き合っていることがまた、わたしにとって苦痛だった。