体重はまた減り始めた。安心している。あとは、肌の調子が安定してくれればいいのに。ニキビがぶつぶつしている上に、気になって引っ掻いてしまって傷ができて、わたしの肌はひどい。せめて傷がふさがらないと、化粧でごまかすことすらできない。
伸びかけの髪は、吐いたもので毛先が汚れることがある。切ったほうがいいか。それとも、もう少し長くなったら、襟足で結ぶことができる。そうなったら、面倒がなくていいかもしれない。
そんなことを考えた数日後、また夢飼いのシフトアップ後に待ち伏せしていた笹山から、言われた。
「蒼ちゃん、髪が長いほうが似合うんじゃないかな。伸ばしてみたら?」
「長くしたこと、ないです」
「そうなんだ? ボクは、見てみたいな。例えば、長い髪を普段はまとめてるのに、何かのときにだけ下ろすとか。そういうギャップっていいよね」
わたしには関係ない。なぜ笹山はそんなことを語るの?
いや、本当はわたしだってわかっている。笹山が何を言いたいのか。
「蒼ちゃんって、普段、めったに笑わないよね。営業スマイルみたいなのはあっても、全然。目が笑ってないっていうか」
「すみません」
「謝らせたいわけじゃないよ。ただね、見てて痛々しいというか。笑ってみてほしいなって。ああ、でも、あんまり大勢に見せたくはないかな。ボクの前でだけ」
ブツッと言葉を切った笹山が、いきなり腕を伸ばした。見慣れない形をした手が、わたしが押す自転車のハンドルをつかむ。ガクンと自転車が止まった。わたしも足を止めた。
初夏だった。涼しい夜気に、笹山の体温が伝わってきた。近い。とても近い。わたしは呼吸ができない。
わたしは動けなかった。視界いっぱいに笹山の顔が映って、男の肌ってキメが粗いんだなと見て取ったときも、何もできなかった。顔を背けることも、声を上げることも。
唇に生ぬるいものが触れた。その柔らかくて生ぬるいものが上下に割れて、ねっとりと濡れたものがわたしの唇をなめ回した。それはすぐわたしの口の中に入ってきた。
キスをされたんだと理解したのは、笹山の顔が離れていった後だ。ロマンチックだとか、そういう感覚はまったくなかった。悪い意味で動物的な、わたしの体の中への侵入行為。
その瞬間、心の全部が凍った。傷付かないために。壊れないために。中学のころに張り方を覚えた、心のバリア。受験を乗り越えて、薄らいでいたはずの「昔の自分」の感覚が、なまなましく戻ってきてしまった。
笹山が少し微笑んだ。
「ごめんね。でも、強引にでもこっちを向かせないと、蒼ちゃんはボクを視界に入れもしないでしょう。きみを好きだという気持ちは本気なんだよ。付き合ってほしい。蒼ちゃんのことを全部知りたい」
ガシャンと音がした。わたしは自転車のハンドルを手放してしまったらしい。笹山はそっちを見向きもせず、わたしの肩をつかんだ。
体の中に魂が入っていないみたいだった。笹山の手が、唇が、舌が、体が、わたしに接触しているという感覚が、あまりにも遠かった。でも、わたしは、自分が何をされているのかはわかっていた。
わたしは、抱きしめられてキスをされていた。恋人でもない男から。
恋人なんてものは、わたしの人生に必要なかった。わたしは、すべてにおいてイチかゼロかのどちらかでよくて、恋なんかゼロでよかった。
壊れてしまった。汚れてしまった。わたしはゼロには戻れない。
付き合ってくださいと、たぶん言われたんだと思う。笹山がわたしの自転車を押してコンビニまで歩いて、わたしは黙って付いていった。コンビニの明かりが届きにくい、ゴミ箱とおぼしき物置のそばで、笹山はまた舌を入れるキスをした。
何かが始まってしまった。
「じゃあ、明日。おやすみなさい」
笹山はわたしの耳元でそう言って、耳にキスをした。まるで照れているかのように、笹山は走っていった。
わたしはへたり込んだ。ぐったりと疲れているのは、ずっと体に力が入っていたせいだ。震えていたせいでもあった。
震えると、体温が上がるらしい。まるで熱があるかのように、わたしはけだるかった。
体の中のどこかがひどく苦しくて、ギリッと奥歯を噛みしめた。頬の内側の肉を噛んでしまった。痛みと血の味が、じわっと口の中に広がった。そうしたら、笹山の唾液の味が舌に残っていたのがハッキリとわかった。
キモチワルイ。
味わったことのない「キモチワルイ」だった。わたしを取り巻く世界の空気がキモチワルイわけでも、自分を含む人間の心情をキモチワルイと思ってしまうわけでもなくて。
自分自身の体が、キモチワルイ。さっきまで自分に対して向けられていた感情と行為が、キモチワルイ。自分の口の中にある他人の唾液の味が、キモチワルイ。
受け入れられないものを押し込まれてしまった。わたしはゼロには戻れない。イチにされてしまったからには、もう拒めない。
「キズモノだ」
儀式のように、その夜も吐いた。一度では気が済まなくて、眠れなくて、深夜三時に二十四時間営業のスーパーに出掛けてたくさん買って、また吐いた。頬の内側にできてしまった傷が、食べるたび、吐くたびに痛かった。
伸びかけの髪は、吐いたもので毛先が汚れることがある。切ったほうがいいか。それとも、もう少し長くなったら、襟足で結ぶことができる。そうなったら、面倒がなくていいかもしれない。
そんなことを考えた数日後、また夢飼いのシフトアップ後に待ち伏せしていた笹山から、言われた。
「蒼ちゃん、髪が長いほうが似合うんじゃないかな。伸ばしてみたら?」
「長くしたこと、ないです」
「そうなんだ? ボクは、見てみたいな。例えば、長い髪を普段はまとめてるのに、何かのときにだけ下ろすとか。そういうギャップっていいよね」
わたしには関係ない。なぜ笹山はそんなことを語るの?
いや、本当はわたしだってわかっている。笹山が何を言いたいのか。
「蒼ちゃんって、普段、めったに笑わないよね。営業スマイルみたいなのはあっても、全然。目が笑ってないっていうか」
「すみません」
「謝らせたいわけじゃないよ。ただね、見てて痛々しいというか。笑ってみてほしいなって。ああ、でも、あんまり大勢に見せたくはないかな。ボクの前でだけ」
ブツッと言葉を切った笹山が、いきなり腕を伸ばした。見慣れない形をした手が、わたしが押す自転車のハンドルをつかむ。ガクンと自転車が止まった。わたしも足を止めた。
初夏だった。涼しい夜気に、笹山の体温が伝わってきた。近い。とても近い。わたしは呼吸ができない。
わたしは動けなかった。視界いっぱいに笹山の顔が映って、男の肌ってキメが粗いんだなと見て取ったときも、何もできなかった。顔を背けることも、声を上げることも。
唇に生ぬるいものが触れた。その柔らかくて生ぬるいものが上下に割れて、ねっとりと濡れたものがわたしの唇をなめ回した。それはすぐわたしの口の中に入ってきた。
キスをされたんだと理解したのは、笹山の顔が離れていった後だ。ロマンチックだとか、そういう感覚はまったくなかった。悪い意味で動物的な、わたしの体の中への侵入行為。
その瞬間、心の全部が凍った。傷付かないために。壊れないために。中学のころに張り方を覚えた、心のバリア。受験を乗り越えて、薄らいでいたはずの「昔の自分」の感覚が、なまなましく戻ってきてしまった。
笹山が少し微笑んだ。
「ごめんね。でも、強引にでもこっちを向かせないと、蒼ちゃんはボクを視界に入れもしないでしょう。きみを好きだという気持ちは本気なんだよ。付き合ってほしい。蒼ちゃんのことを全部知りたい」
ガシャンと音がした。わたしは自転車のハンドルを手放してしまったらしい。笹山はそっちを見向きもせず、わたしの肩をつかんだ。
体の中に魂が入っていないみたいだった。笹山の手が、唇が、舌が、体が、わたしに接触しているという感覚が、あまりにも遠かった。でも、わたしは、自分が何をされているのかはわかっていた。
わたしは、抱きしめられてキスをされていた。恋人でもない男から。
恋人なんてものは、わたしの人生に必要なかった。わたしは、すべてにおいてイチかゼロかのどちらかでよくて、恋なんかゼロでよかった。
壊れてしまった。汚れてしまった。わたしはゼロには戻れない。
付き合ってくださいと、たぶん言われたんだと思う。笹山がわたしの自転車を押してコンビニまで歩いて、わたしは黙って付いていった。コンビニの明かりが届きにくい、ゴミ箱とおぼしき物置のそばで、笹山はまた舌を入れるキスをした。
何かが始まってしまった。
「じゃあ、明日。おやすみなさい」
笹山はわたしの耳元でそう言って、耳にキスをした。まるで照れているかのように、笹山は走っていった。
わたしはへたり込んだ。ぐったりと疲れているのは、ずっと体に力が入っていたせいだ。震えていたせいでもあった。
震えると、体温が上がるらしい。まるで熱があるかのように、わたしはけだるかった。
体の中のどこかがひどく苦しくて、ギリッと奥歯を噛みしめた。頬の内側の肉を噛んでしまった。痛みと血の味が、じわっと口の中に広がった。そうしたら、笹山の唾液の味が舌に残っていたのがハッキリとわかった。
キモチワルイ。
味わったことのない「キモチワルイ」だった。わたしを取り巻く世界の空気がキモチワルイわけでも、自分を含む人間の心情をキモチワルイと思ってしまうわけでもなくて。
自分自身の体が、キモチワルイ。さっきまで自分に対して向けられていた感情と行為が、キモチワルイ。自分の口の中にある他人の唾液の味が、キモチワルイ。
受け入れられないものを押し込まれてしまった。わたしはゼロには戻れない。イチにされてしまったからには、もう拒めない。
「キズモノだ」
儀式のように、その夜も吐いた。一度では気が済まなくて、眠れなくて、深夜三時に二十四時間営業のスーパーに出掛けてたくさん買って、また吐いた。頬の内側にできてしまった傷が、食べるたび、吐くたびに痛かった。