バイトのシフトに入るたび、笹山が夢飼いに来店していることに気付いた。わたしのほうからは挨拶しない。たまに目が合ってしまって、そのときだけは会釈をする。
 マスターも笹山の行動に気付いていた。

「彼、毎日来るわけじゃないんだよ。蒼ちゃんが入ってる曜日はいつも来てるけどね」
「そうなんですか」
「カッコいいよね。オシャレだし。響告大生には珍しいタイプだ」
「はい」
「彼みたいなタイプには興味ない?」
「いえ……何ていうか」

 そもそも他人に興味がない。友達と呼べる相手はできていない。同じクラスの人たちと授業で顔を合わせれば、それなりに普通にあいさつをしてしゃべって、ノートを見せたりもする。でも、それだけ。誰かと一緒に出掛けるとか、そういうのは一度もない。

 ケータイの連絡先も、まだ誰とも交換していない。アドレス帳に入っているのは、日山高校時代に登録した家族と雅樹と竜也、それから鹿島先生の自宅の住所。響告市に引っ越してきてから登録したのは、マンションの管理会社や夢飼いの連絡先だけだ。

 一人で過ごす癖がついている。それで何の不自由もないし、自分のことだけで頭も心も精いっぱいだ。自分に対する感情がポジティブなら、大したナルシストなんだけれど、わたしは逆。自分が嫌いで、憎くて、うっとうしくて仕方がない。
 ネガティブな感情を持て余している。ほかの何が入ってくる余地もないくらいに。だから、友達なんかつくれるはずもなくて、不機嫌な無表情を隠すために口元だけで笑ってみせるのが上手になってきた。

 受験の一年間で学力は伸びた。一方で、小説の書き方がよくわからなくなった。問題を解くための集中と文章を書くための集中では、頭のどのあたりを使うかが違う。小説の部分が働かない。
 ギターもそうだ。指の動かし方を忘れているだけじゃない。楽譜を見ても、脳の反応が鈍い。指先の皮がすっかり柔らかくなっていて、ちょっと弦を押さえるだけで、すぐに痛くなる。

 イライラする。モヤモヤする。わたしは、前はもっとできたのに。
 あせってしまう。こんな情けない状態じゃ、わたしは生存する価値がない。わたしはもっとやれるはずで、この能力をここで捨ててしまうのはもったいない。だから生きている。そうでしょう? 早く、早く理想に近付かなきゃ。絶望が完全に追いすがってくる前に。

 必死になっていたい。去年は、何もかも忘れて勉強に没頭することで、一年という時間を駆け抜けてこられた。今年もその没頭がほしい。早くほしい。
 なのに、笹山の存在が少しずつわたしの日常の中に入ってくる。わたしのバイトの日に、夢飼いに来る。教育心理学の講義で、わざわざわたしの隣に座りに来る。

 どうして?
 混乱がひたひたと迫ってくる。視界に笹山が飛び込んでくると、わたしは逃げ出したくなる。わたしの進む道はシンプルでいい。イチかゼロかの二択で、できるだけゼロを選びたい。

「蒼ちゃん、よかったら昼休み、一緒に学食にでも行かない?」
「すみません。語学の予習があって、クラスの人と約束してるので」
「そう。まじめなんだな。じゃあまた、時間のあるときに」
 どうして? わたしはあなたを拒絶したいって、伝わらない?

 足早に立ち去ろうとしたとき、呼び止められた。
「連絡先、教えてもらえない?」
「……どうしてですか?」
「話をしたいなって思って。メールででも」

 わたしはそのとき、どんな顔をしていただろう? メガネと少し長めの前髪だけでは、動揺はきっと隠せなかった。
「すみません。あんまり、連絡とか、メールって……ケータイは、家族との連絡用のつもりだから……」
 笹山は、それでも、にこにこと笑ってみせている。
「迷惑?」

「……ごめんなさい。今は」
「そう。じゃあまた、大学生活に慣れて、考え方が変わったときにでも。ボクは、このくらいでは引き下がらないよ」
 冗談っぽく軽やかな口調だった。わたしは頭を下げて、そのまま視線をそらした。

 急に思い立った。今日はホームセンターに寄って帰ろう。わたしの新しい部屋には一つ足りないものがある。体重計だ。
 数字を気にするのはきついからと、今まで買わずにきたけれど、それじゃダメだ。自分を甘やかしてはいけない。

 体重計を買わないと。もっとやせないと。中学や高校のころとは違うんだ。大学での毎日は、勉強することで壁を作れるような環境ではない。わたしは見られている。人の視線をかわす方法がないのだから、もっとやせて、見られて大丈夫な自分にならないと。

 笹山の視線を背中に感じ続けていた。胸がざわざわした。ドキドキではなくて。あせりと寒気を伴う、ざわざわだった。