「きみ、夢飼いのバイトさんですよね? 定食屋の、夢飼いの」
いきなり声を掛けられたのは、レンタルDVDショップでのことだった。
定食屋ドリームキーパー、通称夢飼いでのバイト上がり、二十三時三十分。わたしの部屋はこの店の真上だ。DVDショップのビルは、二階以上が一人暮らし向けの賃貸マンションになっている。
わたしに声を掛けたのは若い男性だった。愛想がよくて隙のない笑顔の、色白な美形。少し長めの茶髪がオシャレな印象だった。大学生だろう。
響告市は大学や専門学校がたくさんあって、どこもかしこも学生であふれている。本屋やカラオケやゲームセンターみたいな若者向けの娯楽が豊富で、飲食店も学生がターゲット。響告大学のほど近くに位置する定食屋の夢飼いもご多分に漏れず、お客さんの大半は響告大の学生や院生だ。
わたしは彼の顔をじっと見たまま、返事をしなかった。どう答えたらいいのか。にらむとまではいかなくても、目元をしかめるのが自分でもわかった。
彼は笑った。
「ごめんなさい、いきなり。ボクはあの店の常連なんです。響告大の教育学部の三年で、笹山といいます。きみは新入生? この四月からバイトに入りましたよね?」
「……そうですけど」
「やっぱり。響告大でしょう? 実はキャンパス内でも見掛けるんですよ。火曜の教育心理学、取ってますよね」
「はい」
「あの講義、ボクのゼミの教授が担当してるんですよ。そういうわけで、ボクも出席してて」
店内BGMが今週のヒットチャートを流している。この店に来るようになって、以前よりも少しだけ流行がわかるようになった。それに、ギターを再開して、本屋で音楽雑誌を買うようにもなった。
笹山と名乗った彼は、髪を軽く掻き上げながら足を踏み替えた。わたしと笹山との距離が少し近付いた。ふわっと、コロンか何かのかすかな匂いがした。わたしは急に、自分の髪や服に付いた定食屋の油やソースの匂いが恥ずかしくなった。
「きみ、夢飼いのマスターやバイトさんたちから、蒼ちゃんって呼ばれてるよね? ボクもそう呼ばせてもらっていいですか?」
「……どうぞ」
「夢飼いのバイトって、ホールに出る仕事とキッチンの仕事があるの? 蒼ちゃんはいつも奥にいるよね。ホールに出てくるときも、空いた皿を下げるとか、地味な仕事ばっかりで」
「それを希望したので」
「ちょっともったいないな。顔立ちも声もきれいなのに。ボクの仲間内でも、そういう評判ですよ」
胸がざわついて落ち着かない。わたしはかぶりを振った。嘘だ、と言いたかった。
ニキビの治らない顔には、まともな化粧もしていない。パーカーとジーンズとスニーカーに、短い髪。女らしくなんかなくていい。男になりたいわけではないけれど、ナンパされる格好なんて興味もなくて、そんなガラでもなくて。
笹山は笑顔を崩さなかった。
「変な声の掛け方をして、驚かせたかな? すみません。でも、蒼ちゃんと話してみたかったんですよ。邪魔してごめんね。それじゃあ、また」
ひらひらと手を振って、笹山は洋画コーナーへ歩いていった。それが笹山と話した最初の出来事だった。
翌日のバイト中、キッチンとホールのつなぎの仕事をしていたら、小声で呼ばれた。声のほうを向くと、笹山がわたしに手を軽く手を振った。わたしはとりあえず小さく頭を下げた。
ホールを担当する先輩がその様子に気付いて、楽しそうにニマニマした。
「うちの店、バイトとお客さんが付き合っちゃうことがけっこう多いんだよ。マスターと常連さんが仲いいから、その流れとかでね」
「わたしには関係ないです」
「チャンスは逃しちゃダメだって。タイミングってものがあるんだから。彼氏ほしいって思うようになってから合コンしても、なかなかうまくいかないし」
先輩はため息をついた。彼氏がほしい、彼氏がほしいと、先輩は口癖のように言っている。わたしには、彼氏がいたら何がいいのか、その意味がわからない。
「蒼ちゃん、ホールの仕事、代わろうか?」
「キッチンがいいです」
「変わってるよねー。うちのキッチンの洗い物、油系が多くてベタベタでしょ。あたしは、できることならやりたくないよ」
「わたしは、人としゃべることになるホールのほうが苦手です」
「常連のお客さんから、若くてかわいい子を隠すな、とか言われるんだけど」
「お世辞だと思います」
いつも明るくお客さんたちとしゃべっている先輩こそ、夢飼いの看板娘として有名だ。ネットの掲示板で話題に上がっているのを見掛けた。
響告市は地元よりもネットが普及していて、ほとんどの学生が一人暮らしの部屋に回線を引き込んでいる。当時、不特定多数との情報共有の手段はSNSではなく、無料の匿名掲示板だった。ネットユーザーの発言は過激で、そのぶん一人ひとりの警戒と防衛の心構えも強かった。
わたしは今のところ掲示板に登場していない。何と書かれるんだろう、と想像すると、背筋や胃のあたりがぞわぞわする。たぶん、ああいう場所は見ないほうがいい。基本的に悪口雑言の温床なんだ。
「蒼ちゃんは今日もラストまで?」
「はい」
「まかない、食べて帰ってる?」
「いいえ。やっぱり、上がってからだと遅すぎるので」
「だよねー。でも、シフト入る前も何も食べないでしょ? いつ何を食べてるの? というか、食べてる? 細くて白いから心配になるんだけど」
わたしは無理やり微笑んだ。
「食べてますよ。そんな細くないし、心配ないです」
やめてほしい。食べることに関する話題には触れないでほしい。
一人暮らしを始めてみたら、食事を、料理を、どうすればいいかわからない。
今までは、母や大叔母が作ってくれる料理を、好き嫌いしながら選んで食べればよかった。一から選べるなら簡単かと思いきや、どのくらいの量をいつ食べればいいかわからないわたしに、食事の管理は難しすぎる。
夢飼いのバイトは、シフトが入っている日には何を注文して食べて無料、ということになっている。わたしは、最初の二回だけ、マスターが「日替わりが余ったから」と出してくれたプレートをいただいた。それ以降は、シフト上がりの時間が遅いことを言い訳にして断っている。
まかないを断る本当の理由は、食べられないメニューだからだ。日替わりはたいてい揚げ物で、味の濃いソースもたっぷりかかっている。もちろん白米も付いて、全体として量が多い。
響告大は男子学生の割合が高いこともあって、夢飼いのお客さんは大半が男性だ。彼らが好むようなメニューと味付け、彼らを満足させるカロリーと量。マスターの好意を無下にしたくなくて二回は食べたけれど、つらかった。
つらい、というこの感情は、罪悪感に似ている。食事を取ると、まるで悪事を働いたかのような気分になる。食べてしまった。これはいけないことだ。こんなに食べたら太る。やせなきゃいけないのに。
いきなり声を掛けられたのは、レンタルDVDショップでのことだった。
定食屋ドリームキーパー、通称夢飼いでのバイト上がり、二十三時三十分。わたしの部屋はこの店の真上だ。DVDショップのビルは、二階以上が一人暮らし向けの賃貸マンションになっている。
わたしに声を掛けたのは若い男性だった。愛想がよくて隙のない笑顔の、色白な美形。少し長めの茶髪がオシャレな印象だった。大学生だろう。
響告市は大学や専門学校がたくさんあって、どこもかしこも学生であふれている。本屋やカラオケやゲームセンターみたいな若者向けの娯楽が豊富で、飲食店も学生がターゲット。響告大学のほど近くに位置する定食屋の夢飼いもご多分に漏れず、お客さんの大半は響告大の学生や院生だ。
わたしは彼の顔をじっと見たまま、返事をしなかった。どう答えたらいいのか。にらむとまではいかなくても、目元をしかめるのが自分でもわかった。
彼は笑った。
「ごめんなさい、いきなり。ボクはあの店の常連なんです。響告大の教育学部の三年で、笹山といいます。きみは新入生? この四月からバイトに入りましたよね?」
「……そうですけど」
「やっぱり。響告大でしょう? 実はキャンパス内でも見掛けるんですよ。火曜の教育心理学、取ってますよね」
「はい」
「あの講義、ボクのゼミの教授が担当してるんですよ。そういうわけで、ボクも出席してて」
店内BGMが今週のヒットチャートを流している。この店に来るようになって、以前よりも少しだけ流行がわかるようになった。それに、ギターを再開して、本屋で音楽雑誌を買うようにもなった。
笹山と名乗った彼は、髪を軽く掻き上げながら足を踏み替えた。わたしと笹山との距離が少し近付いた。ふわっと、コロンか何かのかすかな匂いがした。わたしは急に、自分の髪や服に付いた定食屋の油やソースの匂いが恥ずかしくなった。
「きみ、夢飼いのマスターやバイトさんたちから、蒼ちゃんって呼ばれてるよね? ボクもそう呼ばせてもらっていいですか?」
「……どうぞ」
「夢飼いのバイトって、ホールに出る仕事とキッチンの仕事があるの? 蒼ちゃんはいつも奥にいるよね。ホールに出てくるときも、空いた皿を下げるとか、地味な仕事ばっかりで」
「それを希望したので」
「ちょっともったいないな。顔立ちも声もきれいなのに。ボクの仲間内でも、そういう評判ですよ」
胸がざわついて落ち着かない。わたしはかぶりを振った。嘘だ、と言いたかった。
ニキビの治らない顔には、まともな化粧もしていない。パーカーとジーンズとスニーカーに、短い髪。女らしくなんかなくていい。男になりたいわけではないけれど、ナンパされる格好なんて興味もなくて、そんなガラでもなくて。
笹山は笑顔を崩さなかった。
「変な声の掛け方をして、驚かせたかな? すみません。でも、蒼ちゃんと話してみたかったんですよ。邪魔してごめんね。それじゃあ、また」
ひらひらと手を振って、笹山は洋画コーナーへ歩いていった。それが笹山と話した最初の出来事だった。
翌日のバイト中、キッチンとホールのつなぎの仕事をしていたら、小声で呼ばれた。声のほうを向くと、笹山がわたしに手を軽く手を振った。わたしはとりあえず小さく頭を下げた。
ホールを担当する先輩がその様子に気付いて、楽しそうにニマニマした。
「うちの店、バイトとお客さんが付き合っちゃうことがけっこう多いんだよ。マスターと常連さんが仲いいから、その流れとかでね」
「わたしには関係ないです」
「チャンスは逃しちゃダメだって。タイミングってものがあるんだから。彼氏ほしいって思うようになってから合コンしても、なかなかうまくいかないし」
先輩はため息をついた。彼氏がほしい、彼氏がほしいと、先輩は口癖のように言っている。わたしには、彼氏がいたら何がいいのか、その意味がわからない。
「蒼ちゃん、ホールの仕事、代わろうか?」
「キッチンがいいです」
「変わってるよねー。うちのキッチンの洗い物、油系が多くてベタベタでしょ。あたしは、できることならやりたくないよ」
「わたしは、人としゃべることになるホールのほうが苦手です」
「常連のお客さんから、若くてかわいい子を隠すな、とか言われるんだけど」
「お世辞だと思います」
いつも明るくお客さんたちとしゃべっている先輩こそ、夢飼いの看板娘として有名だ。ネットの掲示板で話題に上がっているのを見掛けた。
響告市は地元よりもネットが普及していて、ほとんどの学生が一人暮らしの部屋に回線を引き込んでいる。当時、不特定多数との情報共有の手段はSNSではなく、無料の匿名掲示板だった。ネットユーザーの発言は過激で、そのぶん一人ひとりの警戒と防衛の心構えも強かった。
わたしは今のところ掲示板に登場していない。何と書かれるんだろう、と想像すると、背筋や胃のあたりがぞわぞわする。たぶん、ああいう場所は見ないほうがいい。基本的に悪口雑言の温床なんだ。
「蒼ちゃんは今日もラストまで?」
「はい」
「まかない、食べて帰ってる?」
「いいえ。やっぱり、上がってからだと遅すぎるので」
「だよねー。でも、シフト入る前も何も食べないでしょ? いつ何を食べてるの? というか、食べてる? 細くて白いから心配になるんだけど」
わたしは無理やり微笑んだ。
「食べてますよ。そんな細くないし、心配ないです」
やめてほしい。食べることに関する話題には触れないでほしい。
一人暮らしを始めてみたら、食事を、料理を、どうすればいいかわからない。
今までは、母や大叔母が作ってくれる料理を、好き嫌いしながら選んで食べればよかった。一から選べるなら簡単かと思いきや、どのくらいの量をいつ食べればいいかわからないわたしに、食事の管理は難しすぎる。
夢飼いのバイトは、シフトが入っている日には何を注文して食べて無料、ということになっている。わたしは、最初の二回だけ、マスターが「日替わりが余ったから」と出してくれたプレートをいただいた。それ以降は、シフト上がりの時間が遅いことを言い訳にして断っている。
まかないを断る本当の理由は、食べられないメニューだからだ。日替わりはたいてい揚げ物で、味の濃いソースもたっぷりかかっている。もちろん白米も付いて、全体として量が多い。
響告大は男子学生の割合が高いこともあって、夢飼いのお客さんは大半が男性だ。彼らが好むようなメニューと味付け、彼らを満足させるカロリーと量。マスターの好意を無下にしたくなくて二回は食べたけれど、つらかった。
つらい、というこの感情は、罪悪感に似ている。食事を取ると、まるで悪事を働いたかのような気分になる。食べてしまった。これはいけないことだ。こんなに食べたら太る。やせなきゃいけないのに。