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 センター試験がおこなわれた週末は、二日とも冷たい雨が降っていた。隣の市にある国立大学の古くて狭いキャンパスが試験会場だった。受験番号で割り振られた部屋も飲食をするための部屋も、冷たく湿ったすきま風が吹いて、寒かった。

 試験の出来がよかったとは思わない。いつもどおりだ。最後の一手の詰めが甘くて、得意教科でさえ満点が取れない。じりじりと焼け付くようなあせりばかりが、強烈に記憶に残っている。

 試験の二日目は日曜で、本来なら下宿屋の食事がない。でも、大叔母は朝ごはんも昼の弁当も作ってくれた。わたしが食べやすいように、朝は野菜を煮込んだスープ、弁当のおかずも小さなサイズのおでんだった。夜もおでんがあるよ、と言っていた。

 受験番号が遠いから、ひとみとは完全に別行動だった。わたしはそれでかまわない。何の不都合もない。最近、以前にも輪をかけて、誰かと話をするのが面倒くさくてたまらない。
 わたしは普通の受験生とは正反対らしい。たまたま受験番号が近くて一緒に昼を過ごすことになった同じクラスの人がそう言っていた。

「普通、ストレスで甘いものを食べまくるよ。それから、友達としゃべるのだけが救いになる。一人でよく耐えられるね。すっごいやせたし。強いんだね」
 どう応えていいか、わからなかった。

 すべての試験が終わって、帰り際。カバンから出してポケットに移したばっかりのケータイが鳴った。母が電話すると言っていたから、てっきりそれだと思ったら、ひとみだった。

〈もしもし、蒼ちゃん? 今どこにいる?〉
「校舎っていうか、建物を出たところだけど」
〈一緒に寄り道して帰ろう! クレープ食べたい!〉
「……ほかの人、誘ったら?」
〈蒼ちゃんがいいの。デートしよ?〉

 何で?
 いらだちがわたしの口を突いて出るより先に、ひとみは矢継ぎ早に約束を取り付けた。
〈正門前のイチョウのところで待ってるね。雨が上がってよかったー〉
 通話は、あっという間に切られた。一方的すぎる。

 わたしは疲れていた。ひとみをほったらかして裏門から帰ろうかと、ちょっと本気で思った。でも結局、重たい足を引きずるようにして、待ち合わせ場所に向かった。
 イチョウの木のそばで、ひとみはケータイで誰かと話していた。わたしの姿を認めると、「じゃあバイバイ」と言って電話を切った。

 ひとみは空を指差して微笑んだ。
「見て。天使のはしごがいくつもできてる」
 わたしは久しぶりに空を仰いだ。黒々とした雲間からまっすぐに差し込む光。

 ひとみはわたしの腕に自分の腕を絡めると、意気揚々と歩き出した。はずんだマイペースなしゃべり方で、あれこれ一人語りをしながら。
 日山高校の近辺に寄り道できるお店が少ないこと、それがずっと不満だったこと。いなかの木場山ではできない高校生活にしたかったこと、特に放課後デートのクレープに憧れていたこと。試験は問題なくクリアしたこと、だから志望校も変更なしだということ。

 ひとみが下宿屋のおばさんに教えてもらった穴場のクレープ屋は、アーケードのただ中にポツリと建つログハウス風の小さな店だった。店に入ったらすぐにカウンターがあってそこで注文をする。奥にイートインスペースがある。

「わたし、甘いもの食べないよ」
「一口も? 試験で疲れて、食べたくならないの?」
「ならない」
「違う種類のを頼んで、分けっこしようと思ったのに」
「だったら、ほかの人を誘えばよかったでしょ」

 ひとみは怒ったように言った。
「ほかの人なんていないよ。蒼ちゃんしかダメなの」
 何で?
 何でそんなむなしい嘘つくの?

 ひとみはいちごとチョコのクレープ、わたしはホットコーヒーを買って、店の奥に進んだ。柱の陰になった、隅の狭い席に向かい合う。テーブルに身を乗り出すまでもなく、向かい側の相手に触れられるくらいの狭さだ。
 クレープを食べ始めると、ひとみは急に静かになった。黙々と、少しずつ、クレープを頬張る。わたしはそれを見るともなしに見ながら、ときどきコーヒーをすすった。頭の中では、引っ掛かりのあった試験問題がぐるぐるとリピートしていた。

 食べ終わったひとみが、いちごとチョコの甘い息を吐きながら、いきなり言った。
「ねえ、キスしてみたい」
「は?」
「ダメ?」
 小首をかしげるひとみから、わたしは顔をそむけた。ドキッとしてしまったことは事実だ。誘惑されている。

「何でわたしなの?」
「好きだから」
「嘘」
「ほんとだよ。キスしたいとか、その手であたしの体じゅうをさわってほしいとか、思うんだよ。こういうのって、いけないことなのかな?」

 ひとみの言う「こういうの」の意味はわからない。同性同士でのデートのことを言いたいのか、高校生カップルが深い関係になることを言いたいのか、進学校らしい恋愛禁止条例を破ることを言いたいのか。
 いや、わたしにとって世間体はまったく関係ないんだ。わたしはガタンと音を鳴らして席を立つ。

「そろそろ本音を出してもいいよね。一月後半からは学校もほとんど自由登校みたいなもんだし、わたし、たぶんあんまり行かなくなるから」
「蒼ちゃん?」
「わたしは先生の代わりなんだよね? 先生と生徒の関係って絶対ダメな上に、先生には家族がある。先生にはこんなこと言えないから……」

 言葉は、ひとみの涙声にさえぎられた。
「こんなこと言ったよ!」
「え?」
「言ったの。好きですって。キスしたりとか、いろいろ、そういうこと想像してしまいますって」
「何で? どうしてあとちょっとの期間、壊さずに保っていられなかったの?」

 ひとみは泣き顔を上げた。
「壊したかったからだよ」
「……先生は、何て答えた?」
「ごめんねって。あと二十五年、若かったらなあって。その後も別に普通で。そうなんだよねって自分で納得した。分別のあるおじさんだから、あたし、先生のこと好きなんだし。ふられたから、もっと好きになってる」

 わたしはひとみの泣き顔を見下ろしながら、どんどん胸の内側が冷めていくのがわかった。ひとみも、上田に告白したという尾崎も、よく恋愛なんかする余裕があるもんだ。わたしはただ、勉強しなきゃ、やせなきゃっていうだけで精いっぱいだった。
 口元が歪むのがわかった。笑ったんだ、わたしは。

「やっぱりわたしは身代わりじゃないか。やけになってるから、そうやって汚れてみようとする」
「違う」
「男子、誘ってみればよかったのに。やってみたいこと、簡単にできると思うよ」
「蒼ちゃん、あのね……」
「巻き込まないで。世界はきみを中心に回ってるわけじゃないんだ」

 胸に薄暗い快感を覚えた。勉強ができて人から好かれるひとみへの劣等感や嫉妬が、わたしの胸にはずっと積もっていた。それを全部ぶち壊して、ひとみをわたしの中から切り離す。たぶん、わたしは前から、こうすることを望んでいた。
 ひとみはきっと泣きじゃくっただろう。わたしはそれを確認せずに店を出た。アーケードを抜けると、また雨が降っていた。