バスで登校する。朝の便の路線は智絵の家のそばを通る。わたしは窓から顔を背けた。明日からは反対側を向いて立とう、と決めた。
 智絵は通信制の高校に受かった。春休みに一度だけ電話でしゃべったとき、制服はないと聞いた。入学式には頑張って出ようかな、と智絵は言っていた。行ったんだろうか。話せる相手がいただろうか。

 教室に着くや否や、ひとみがわたしのところに飛んできた。
「おはよ、蒼ちゃん!」
「うん。早いね」
「早いでしょー。あたしの下宿屋さん、学校のすぐそばだから、登下校がすごく楽なんだよ」

「そうだよね。あのさ、今週の日曜の夜にごはん食べに来ないかって、うちの親が言ってたよ」
「行かせてもらいまーす。雅樹くんもだよね?」
「うん。でもそれ大声で言わないで」
「あっ、ごめん」

 わたしが戸惑ったことに、ひとみは四六時中、わたしと一緒にいたがった。中一のころまでは、ここまでベッタリじゃなかったはずだ。
 木場山の小さな小学校では、子どもたち全員が仲のいい兄弟姉妹みたいな雰囲気だった。寂しがりやがいたとしても、心を埋めるために誰かと特別にベッタリになる必要はなかった。その和気あいあいとした空気は、中一のころもそうだったと思う。

 ひとみは今、天真爛漫な様子を見せてはいるけれど、慣れない環境の中で本当は不安なのかもしれない。だから、寄り掛かれる誰かを求めているのかもしれない。
 まずいな、と感じた。わたしは、寄り掛かられたときに支えられるほどには、きちんと立っていない。だいたい、今のわたしは、ひとみが知っているわたしじゃないんだ。わたしは強くもないし、優しくもない。

 ひとみがわたしに向ける笑顔が痛い。正面から向き合えない。でも、ひとみはわたしの内心を察することなく、わたしの手を引っ張って、キラキラした声を上げる。
「ねえねえ、蒼ちゃん、理系特進の担任の先生がオープンキャンパスのときの数学の先生だったの! あいさつに行くから、蒼ちゃん、付いてきて。お願い!」

 雅樹たちの担任は、平田先生といった。四十歳で、背が高くてメガネを掛けている。お坊さんっぽいと感じるのは、やや伸びかけの坊主頭なのと、染み入るような声をしているからだ。
 あいさつに行ったら、平田先生は、ひとみのことを覚えていた。というよりも、ひとみはオープンキャンパスの時点から先生方の注目株だったらしい。

「木場山中学校から、とんでもなく優秀な子が来ると、教職員一同、楽しみにしていたんですよ。実は、ぼくが初めて赴任した学校が木場山の隣の町でね。あっちのほうは、縁のある土地なんです」
「そうだったんですか! すごい。木場山、行ったことあります?」
「そりゃもう。学校の遠足で行ったのがきっかけで、気に入っちゃって、季節ごとに景色を見に行ってましたよ。きみたちの年齢だと、生まれていたかどうかっていう時期ですよね」

 ひとみは夢中になって話し込んでいた。わたしは何もすることがなくて、少し離れて、ひとみと平田先生を見ていた。
 噂話が耳に飛び込んできた。理系特進クラスの男子が数人、ぼそぼそとささやき交わしていたんだ。

「あの子だよ。入試の成績がトップだったって噂のある子」
「うちのクラスの委員長が、実は二番だったってやつ?」
「そう。入学式で壇上に立ったのは委員長だったけど、本当の主席の子は下宿生で、引っ越しだ手続きだ何だかんだで忙しいから、委員長が代役を務めたんだって」

「下宿生って時点で彼かと思ったけど、本人が否定したもんね。あいつ、何で男なんだろうってくらい、きれいな顔してるよな」
「木場山から来た下宿生って、二人ともヤバいってことだよな。塾ではおれも上位だったのに、高校に来てみたら化け物がいたって感じだ」

 ぐゎん、と頭を殴られたような気分だった。ひとみがそこまで成績優秀だなんて知らなかったし、雅樹もやっぱり最初から目立っている。
 そして、わたしが「木場山中の三羽烏」ではないことをハッキリと知らされた。今さらだけれど。自分でもわかっているつもりだったのに。

 いや、三羽烏の中に加えられても、わたしだけ見劣りがする。まともに学校行事に参加しない、暗くて不愛想なひとりぼっち。そんなわたしが、ひとみや雅樹と同じくくりに入れるはずがない。

 ひとりぼっちってのは別にいいんだ。自分から選んだことだから。
 何ともいえないイヤな気分になったのは、劣等感のせいだ。置いていかれている。わたしが学校という世界を拒んで暗闇に沈み込んでいる間に、ひとみも雅樹も光の中を走って走って、ずっと遠くまで、うんと前のほうまで行ってしまった。

 平田先生と話をしたひとみは、目を輝かせていた。
「よーし、数学、頑張る! 平田先生って結婚してるのかな?」
「は?」

 ひとみは声をひそめて、嬉しそうに秘密を打ち明けた。
「内緒だよ。あたしね、先生のこと好きになっちゃうんだ。若くてカッコいい先生じゃなくて、おじさんみたいな人」
「え。何で?」
「何でだろ? わかんないけど、好きなの。中二のときも中三のときもそうだったんだ。平田先生はたぶん三年間ここにいるって言ってたから、安心した」

 ひとみは頬を赤くして笑っていた。小柄ではあっても、バランスよく肉付いた体は大人びている。誰なんだろうこの人、と思ってしまった。
 わたしだけじゃない。ひとみも変わったんだ。