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オープンキャンパスが終わった、その夜。順番にシャワーを浴びて、ひとみが最後に風呂場に向かった直後だった。お客さん用の寝室にいた雅樹が、わたしの部屋に入ってきた。
「何か用でもあるの?」
「用っていうか、話。ひとみから木場山中のこと、恋バナ関係、聞いた?」
「恋バナ?」
「一年のころとはやっぱ全然違っててさ、誰かと誰かが付き合ったりとか、別れてギクシャクしたりとか。まあ、琴野中の人らに比べたら、子どものままごとみたいなもんなんだろうけど」
「ひとみからは何も聞いてないし、あんまり聞きたい話でもない」
木場山という場所は、わたしの中ではきれいな思い出のまま、壊れないでいてほしい。きれいすぎて近寄れない、そのままでいてほしい。
雅樹はため息をついて、わたしの隣に座った。ベッドを背もたれ代わりにして、畳の上で膝を抱えるような格好だ。
「聞いてよ。ちょっとでいいから」
「何? 悩んでんの?」
「おれもさ、付き合ってる子がいる。蒼は知らない子だよ。よその学校出身の、一つ下の子」
イヤな気分になったのは、どうしてだろう? 嫉妬とか、そういうのじゃなくて。あせりというのでもないし。
雅樹が変わってしまった。恋愛なんて興味ないみたいに子どもっぽくてサバサバしたやつだったのに、それをやめたんだ。そう思うと、大人になることを拒みながら何かにしがみ付いている自分が、ひどくバカバカしい人間に感じられた。
いや、当たり前のことなのに。時間が流れれば、人は変わる。雅樹は背が伸びて声が低くなって、そのぶん、内面も。
わたしだって変わってしまった。違う方向へと変わっていく誰かを、雅樹やひとみを、非難したり遠ざけたりする正当な理由なんて、どこにもない。
「なあ、蒼。好きな人いねぇの? 今日の昼に話した琴野中の男子が、蒼は一匹狼の優等生で、相手にしてもらえないって言ってた。前の学校に彼氏がいるんだろうって噂があるらしいけど、そういうんじゃないよな?」
「興味ないだけ。好きな人とか恋愛とか、意味わかんない。学校は勉強しに行ってる。それ以外、ないよ」
「そっか。まあ、意味わかんないってのは、おれも同感だけどね」
「彼女いるんでしょ?」
「いるけど、妹の友達と大差ないっていうか。おれんち、妹の友達が来て遊んだり勉強したりって、昔からよくあるだろ。おれが全員のにいさん役。
付き合ってる子もさ、後輩だし、感覚がそれと一緒なんだよ」
「一緒に帰るとか手をつなぐとか、しないの?」
「手をつないだことならあるって程度。向こうからコクってきて、委員会つながりで。嫌いじゃないし、おれのことをすごい好いてくれてて、正直かわいいなとは思うんだけど、何ていうか……何か違う。思ってたのと、違う」
「違うって? 相手の子に対して失礼なこと言ってるって、わかってる?」
「わかってる。でも、どうしようもないんだよ。だって、やっぱ違うんだ」
「何が違うっていうの?」
「好きで付き合ってたら、普通、もっと何かしたいって思うようになるもんだろ? キスしたり抱きしめたり、したくなるはずで。でも、それがないんだ。彼女相手だと、そういうのしたいって思えない」
わたしは横目で雅樹を見た。雅樹は眉間にしわを寄せて、抱えた膝の頭を見つめている。
「好きになってないの、彼女のこと?」
「その好きっていう感覚がわかんないんだって。そりゃ、おれだって男だし、その……性欲っていうか、そういうのはあるけど。違うじゃん。恋と単なる性欲って、違う」
「やめてよ、そんな話」
「さわってみたいってのはあるんだよ。女の体とか、どうしても見ちゃうような衝動って、男だったらやっぱあるから。でも、彼女を前にすると、違う気持ちが働く。潔癖症、みたいなやつ」
「潔癖症?」
「変なことしたら、自分が汚れる気がする。自分の経歴に傷が付くのがイヤというか。失敗したくないって気持ちがある」
「女の子みたい」
「男だって、別に、おれみたいなやつくらいいるよ。経験人数が多けりゃカッコいいみたいなの、わからなくはないけど、自分がそれをできるかっていうと無理。汚れたくない」
「彼女に対して失礼すぎるよ。汚れるなんて言葉」
「でも、そうしたいって気持ちがないのにそういうことするのも、ひでぇじゃん。おれはそこまで悪くなれない。ガキだよなって思うけど、純粋なものがいいっていうこだわりが強すぎる」
「じゃあ、何で付き合うことにしたの? その時点で、もう……」
「わかってるよ。わかってんだよ。あのときは好奇心が勝って、手を出してみたいとか思って。でも、向こうは本気だから、おれは逆に何もできなくなった。遊ぶとか試すとか、できない」
雅樹は頭を抱えて髪を掻きむしった。
「バカだね」
「知ってる。彼女のこと、嫌いじゃないからこそ別れたいって思ってて、こういう論理的じゃないことをやろうってのも、かなりバカだよなって」
「別れたい?」
「別れたいよ。続けんのがつらい」
「バカすぎ。別れるほうがいいかもね。彼女のためにも」
「なあ、蒼。吹っ切れたいから、ちょっと協力して。おれと蒼だったら、恋っていうの、まずないだろ。男同士みたいな感覚ってとこ、おれにはあって。たまたま蒼が生物学的に言えば女だったってだけで」
「まあ、それはたぶん正しい感覚だけど」
「じゃあ、あの、十秒くらいじっとしてて」
変な予感がした。次の瞬間には、息が詰まっていた。
硬い、細い、力強い体が、きつくわたしを抱きしめている。雅樹の髪と肌の匂い。体温、汗、呼吸の音。
わたしはゾッとして身動きがとれない。背筋に寒気が走る。鳥肌が立つのがわかる。相手は雅樹だ。雅樹なのに、こんなにも怖くて、キモチワルイ。
雅樹はつぶやいた。
「こういう感触なんだ。すげー。ちょっと想像できなかったな、これは」
雅樹の鼓動の音が、そのやせた胸板から伝わってくる。速い。雅樹は何を感じているんだろう?
顔を背けながら、雅樹はわたしから離れた。
「ぶん殴ってくれていいよ。こうしてみたいっていう衝動を、ただテストするだけのために、失礼だってわかってても彼女と別れずにきたんだけど。おかげさまで、これで別れられる」
雅樹が傷付きたがっているのがわかった。だから、わたしは雅樹の頭を思いっ切り叩いた。いや、思いっ切りのつもりだったけれど、震える腕にはあまり力が入らなかった。
「あんたがここまでバカとは知らなかった」
「どんどんバカになってってるよ。頭と心と体がバラバラに動く瞬間って、ない? おれ、そんなのばっかりだ。今のもかなり最低だよな。自分でも意味わかんねえ」
雅樹が低い声で吐き捨てたとき、ひとみが風呂場から出てくる音が聞こえた。わたしも雅樹もそれっきり、ひとみと雅樹が木場山に帰っていくまで、一度も目を合わせないままだった。
オープンキャンパスが終わった、その夜。順番にシャワーを浴びて、ひとみが最後に風呂場に向かった直後だった。お客さん用の寝室にいた雅樹が、わたしの部屋に入ってきた。
「何か用でもあるの?」
「用っていうか、話。ひとみから木場山中のこと、恋バナ関係、聞いた?」
「恋バナ?」
「一年のころとはやっぱ全然違っててさ、誰かと誰かが付き合ったりとか、別れてギクシャクしたりとか。まあ、琴野中の人らに比べたら、子どものままごとみたいなもんなんだろうけど」
「ひとみからは何も聞いてないし、あんまり聞きたい話でもない」
木場山という場所は、わたしの中ではきれいな思い出のまま、壊れないでいてほしい。きれいすぎて近寄れない、そのままでいてほしい。
雅樹はため息をついて、わたしの隣に座った。ベッドを背もたれ代わりにして、畳の上で膝を抱えるような格好だ。
「聞いてよ。ちょっとでいいから」
「何? 悩んでんの?」
「おれもさ、付き合ってる子がいる。蒼は知らない子だよ。よその学校出身の、一つ下の子」
イヤな気分になったのは、どうしてだろう? 嫉妬とか、そういうのじゃなくて。あせりというのでもないし。
雅樹が変わってしまった。恋愛なんて興味ないみたいに子どもっぽくてサバサバしたやつだったのに、それをやめたんだ。そう思うと、大人になることを拒みながら何かにしがみ付いている自分が、ひどくバカバカしい人間に感じられた。
いや、当たり前のことなのに。時間が流れれば、人は変わる。雅樹は背が伸びて声が低くなって、そのぶん、内面も。
わたしだって変わってしまった。違う方向へと変わっていく誰かを、雅樹やひとみを、非難したり遠ざけたりする正当な理由なんて、どこにもない。
「なあ、蒼。好きな人いねぇの? 今日の昼に話した琴野中の男子が、蒼は一匹狼の優等生で、相手にしてもらえないって言ってた。前の学校に彼氏がいるんだろうって噂があるらしいけど、そういうんじゃないよな?」
「興味ないだけ。好きな人とか恋愛とか、意味わかんない。学校は勉強しに行ってる。それ以外、ないよ」
「そっか。まあ、意味わかんないってのは、おれも同感だけどね」
「彼女いるんでしょ?」
「いるけど、妹の友達と大差ないっていうか。おれんち、妹の友達が来て遊んだり勉強したりって、昔からよくあるだろ。おれが全員のにいさん役。
付き合ってる子もさ、後輩だし、感覚がそれと一緒なんだよ」
「一緒に帰るとか手をつなぐとか、しないの?」
「手をつないだことならあるって程度。向こうからコクってきて、委員会つながりで。嫌いじゃないし、おれのことをすごい好いてくれてて、正直かわいいなとは思うんだけど、何ていうか……何か違う。思ってたのと、違う」
「違うって? 相手の子に対して失礼なこと言ってるって、わかってる?」
「わかってる。でも、どうしようもないんだよ。だって、やっぱ違うんだ」
「何が違うっていうの?」
「好きで付き合ってたら、普通、もっと何かしたいって思うようになるもんだろ? キスしたり抱きしめたり、したくなるはずで。でも、それがないんだ。彼女相手だと、そういうのしたいって思えない」
わたしは横目で雅樹を見た。雅樹は眉間にしわを寄せて、抱えた膝の頭を見つめている。
「好きになってないの、彼女のこと?」
「その好きっていう感覚がわかんないんだって。そりゃ、おれだって男だし、その……性欲っていうか、そういうのはあるけど。違うじゃん。恋と単なる性欲って、違う」
「やめてよ、そんな話」
「さわってみたいってのはあるんだよ。女の体とか、どうしても見ちゃうような衝動って、男だったらやっぱあるから。でも、彼女を前にすると、違う気持ちが働く。潔癖症、みたいなやつ」
「潔癖症?」
「変なことしたら、自分が汚れる気がする。自分の経歴に傷が付くのがイヤというか。失敗したくないって気持ちがある」
「女の子みたい」
「男だって、別に、おれみたいなやつくらいいるよ。経験人数が多けりゃカッコいいみたいなの、わからなくはないけど、自分がそれをできるかっていうと無理。汚れたくない」
「彼女に対して失礼すぎるよ。汚れるなんて言葉」
「でも、そうしたいって気持ちがないのにそういうことするのも、ひでぇじゃん。おれはそこまで悪くなれない。ガキだよなって思うけど、純粋なものがいいっていうこだわりが強すぎる」
「じゃあ、何で付き合うことにしたの? その時点で、もう……」
「わかってるよ。わかってんだよ。あのときは好奇心が勝って、手を出してみたいとか思って。でも、向こうは本気だから、おれは逆に何もできなくなった。遊ぶとか試すとか、できない」
雅樹は頭を抱えて髪を掻きむしった。
「バカだね」
「知ってる。彼女のこと、嫌いじゃないからこそ別れたいって思ってて、こういう論理的じゃないことをやろうってのも、かなりバカだよなって」
「別れたい?」
「別れたいよ。続けんのがつらい」
「バカすぎ。別れるほうがいいかもね。彼女のためにも」
「なあ、蒼。吹っ切れたいから、ちょっと協力して。おれと蒼だったら、恋っていうの、まずないだろ。男同士みたいな感覚ってとこ、おれにはあって。たまたま蒼が生物学的に言えば女だったってだけで」
「まあ、それはたぶん正しい感覚だけど」
「じゃあ、あの、十秒くらいじっとしてて」
変な予感がした。次の瞬間には、息が詰まっていた。
硬い、細い、力強い体が、きつくわたしを抱きしめている。雅樹の髪と肌の匂い。体温、汗、呼吸の音。
わたしはゾッとして身動きがとれない。背筋に寒気が走る。鳥肌が立つのがわかる。相手は雅樹だ。雅樹なのに、こんなにも怖くて、キモチワルイ。
雅樹はつぶやいた。
「こういう感触なんだ。すげー。ちょっと想像できなかったな、これは」
雅樹の鼓動の音が、そのやせた胸板から伝わってくる。速い。雅樹は何を感じているんだろう?
顔を背けながら、雅樹はわたしから離れた。
「ぶん殴ってくれていいよ。こうしてみたいっていう衝動を、ただテストするだけのために、失礼だってわかってても彼女と別れずにきたんだけど。おかげさまで、これで別れられる」
雅樹が傷付きたがっているのがわかった。だから、わたしは雅樹の頭を思いっ切り叩いた。いや、思いっ切りのつもりだったけれど、震える腕にはあまり力が入らなかった。
「あんたがここまでバカとは知らなかった」
「どんどんバカになってってるよ。頭と心と体がバラバラに動く瞬間って、ない? おれ、そんなのばっかりだ。今のもかなり最低だよな。自分でも意味わかんねえ」
雅樹が低い声で吐き捨てたとき、ひとみが風呂場から出てくる音が聞こえた。わたしも雅樹もそれっきり、ひとみと雅樹が木場山に帰っていくまで、一度も目を合わせないままだった。