春休み、一度も智絵と会えなかった。
会おうとしてみた。智絵の家に電話をかけた。何度もかけて、やっとつながったとき、疲れ切った声のおかあさんがわたしに告げた。
〈智絵は入院してるの。新学期が始まるまでには退院する予定だけど、学校は……〉
そのとき初めて事態の大きさを知った。智絵は、教室に行けないだけじゃないんだ。心も体も壊れかけている。入院しないといけないほどボロボロなんだ。
「お見舞いに行ったら、ダメですか? 会えませんか?」
答えが来る前に少し間があって、結局、断られた。
〈ごめんね。蒼ちゃんとなら、智絵は会うと思うけど、今はちょっと……〉
「わかりました」
〈小さな刺激に対しても敏感になってしまって、すぐに体調がおかしくなるのよ。吐いたり、脱水症状になるほどおなかを壊したり。もう、どうしてあげればいいか、わからない〉
ごめんなさい。
ただそれだけを思った。ごめんなさい、と。
目の前で智絵がいじめられていた。わたしは何もしなかった。何もできなかった。いじめを止めることも、智絵と一緒にいることさえ、しなかったしできなかった。自分のことで精いっぱいだった。智絵はわたしと友達になってくれたのに。
短くて重たい電話を終えた。わたしはそのまま呆然と座り込んだ。
わたしに何ができるんだろう、と考えた。智絵のために何かできないだろうか。わたしにできることって、何だ?
智絵は、わたしに会える状態じゃなくても、わたしの小説だったら読んでくれるかな? 喜んでもらうこと、できないかな? 一時でもいいから現実を忘れるための助けにならないかな?
始業式の日、一人で登校した。生徒玄関の前に人だかりができていた。クラス分けの表が貼り出されているせいだ。
授業中にだけ掛けるメガネをカバンから取り出して、レンズ越しに人の頭の後ろから、クラス分けの表を見る。智絵とは別のクラスになっていた。
二年のころのクラスで幅を利かせていたグループはみごとにバラバラになったらしい。ぎゃーぎゃー騒いでいる人たちに巻き込まれないように、わたしは人だかりから離れた。
三年の靴箱の場所がわからなくて、ちょっと迷う。一年のころからいたわけじゃないから、琴野中の常識がわたしには欠けていて、不便だなと、ときどき感じる。智絵がいたら、教えてくれたのだろうけれど。
ふと、呼ばれて顔を上げた。
「蒼さん」
上田がいた。わたしはちょっと目を合わせて、すぐに顔を背ける。
わたしの苗字はかぶっている人が多いせいで、誰もがわたしを下の名前で呼ぶ。それがいつまで経っても、慣れない。新しいクラスでも、やっぱり同姓の人がいた。名前呼びは変わらないんだろう。
上田は、微笑みを含んだような声で言った。
「また同じクラスだよ。靴箱、こっち。三年の玄関、奥まったところになってるから、最初はわかりづらいよね」
「……ありがとう」
「メガネ掛けてるの、珍しいね。普段は、授業中だけでしょう? 席が近い人しか知らない、レアな姿だと思ってた」
クスクスと笑う上田に、わたしはどうすればいいかわからなくて、メガネを外してたたんで、セーラー服の胸ポケットに突っ込んだ。ポケットに縫い付けた名札の端っこが少しほつれているのが見えた。糸くずをつまんで、ちぎる。
上田がまた唐突なことを言った。
「友達を待ってるんだ。小学校のころの親友で、塾ではいつも会ってたんだけど、久々に同じクラスになれた。もうすぐ来るだろうし、何となく、待ってようかなって思って」
「そう」
「菅野っていって、去年は隣のクラスだった。小柄で、野球部で、たまにうちのクラスに遊びに来てたんだけど、わかる?」
「さあ?」
「菅野、蒼さんのファンなんだって。菅野だけじゃないな。隠れファン、多いよ。蒼さんはこういう話を嫌ってそうだけど、こういう話をしたがってる人はけっこういる」
何が言いたいんだろう? 上田の柔らかい声は、イヤでも耳に流れ込んでくる。聞きたくもない話でも、聞かされてしまう。
「興味ないの」
突っぱねても、上田は相変わらず微笑んでいるらしい。
「蒼さんも放送委員やらない? 発表のときの声とか、国語や英語で音読する声とか、すごくキレイだし、なまりもないし、いいなあって思う。もしかして、発声のレッスンとか受けたことある?」
「ない。受けたかったけど、住んでた場所、いなかだったし」
「木場山だっけ? やっぱり、蒼さんは自分でも、自分の声を特別に感じてるんだ? 意識しなきゃできないようなキレイな読み方、するもんなあ。アナウンサーとかラジオDJとか、目指してる?」
「歌ってた。趣味で。それだけ」
「えっ、そうなんだ。楽器もできる?」
わたしは、かぶりを振った。
「もう忘れた」
おしゃべりをするつもりなんてない。この喉はもう使い物にならない。ちょっとしゃべるだけで疲れてしまう。
わたしは、上田が言葉を重ねないうちに、サッとその場を離れた。智絵だったら、上田とのおしゃべりを楽しんだんだろうか。それとも、縮こまって何も言えなくなったんだろうか。
会おうとしてみた。智絵の家に電話をかけた。何度もかけて、やっとつながったとき、疲れ切った声のおかあさんがわたしに告げた。
〈智絵は入院してるの。新学期が始まるまでには退院する予定だけど、学校は……〉
そのとき初めて事態の大きさを知った。智絵は、教室に行けないだけじゃないんだ。心も体も壊れかけている。入院しないといけないほどボロボロなんだ。
「お見舞いに行ったら、ダメですか? 会えませんか?」
答えが来る前に少し間があって、結局、断られた。
〈ごめんね。蒼ちゃんとなら、智絵は会うと思うけど、今はちょっと……〉
「わかりました」
〈小さな刺激に対しても敏感になってしまって、すぐに体調がおかしくなるのよ。吐いたり、脱水症状になるほどおなかを壊したり。もう、どうしてあげればいいか、わからない〉
ごめんなさい。
ただそれだけを思った。ごめんなさい、と。
目の前で智絵がいじめられていた。わたしは何もしなかった。何もできなかった。いじめを止めることも、智絵と一緒にいることさえ、しなかったしできなかった。自分のことで精いっぱいだった。智絵はわたしと友達になってくれたのに。
短くて重たい電話を終えた。わたしはそのまま呆然と座り込んだ。
わたしに何ができるんだろう、と考えた。智絵のために何かできないだろうか。わたしにできることって、何だ?
智絵は、わたしに会える状態じゃなくても、わたしの小説だったら読んでくれるかな? 喜んでもらうこと、できないかな? 一時でもいいから現実を忘れるための助けにならないかな?
始業式の日、一人で登校した。生徒玄関の前に人だかりができていた。クラス分けの表が貼り出されているせいだ。
授業中にだけ掛けるメガネをカバンから取り出して、レンズ越しに人の頭の後ろから、クラス分けの表を見る。智絵とは別のクラスになっていた。
二年のころのクラスで幅を利かせていたグループはみごとにバラバラになったらしい。ぎゃーぎゃー騒いでいる人たちに巻き込まれないように、わたしは人だかりから離れた。
三年の靴箱の場所がわからなくて、ちょっと迷う。一年のころからいたわけじゃないから、琴野中の常識がわたしには欠けていて、不便だなと、ときどき感じる。智絵がいたら、教えてくれたのだろうけれど。
ふと、呼ばれて顔を上げた。
「蒼さん」
上田がいた。わたしはちょっと目を合わせて、すぐに顔を背ける。
わたしの苗字はかぶっている人が多いせいで、誰もがわたしを下の名前で呼ぶ。それがいつまで経っても、慣れない。新しいクラスでも、やっぱり同姓の人がいた。名前呼びは変わらないんだろう。
上田は、微笑みを含んだような声で言った。
「また同じクラスだよ。靴箱、こっち。三年の玄関、奥まったところになってるから、最初はわかりづらいよね」
「……ありがとう」
「メガネ掛けてるの、珍しいね。普段は、授業中だけでしょう? 席が近い人しか知らない、レアな姿だと思ってた」
クスクスと笑う上田に、わたしはどうすればいいかわからなくて、メガネを外してたたんで、セーラー服の胸ポケットに突っ込んだ。ポケットに縫い付けた名札の端っこが少しほつれているのが見えた。糸くずをつまんで、ちぎる。
上田がまた唐突なことを言った。
「友達を待ってるんだ。小学校のころの親友で、塾ではいつも会ってたんだけど、久々に同じクラスになれた。もうすぐ来るだろうし、何となく、待ってようかなって思って」
「そう」
「菅野っていって、去年は隣のクラスだった。小柄で、野球部で、たまにうちのクラスに遊びに来てたんだけど、わかる?」
「さあ?」
「菅野、蒼さんのファンなんだって。菅野だけじゃないな。隠れファン、多いよ。蒼さんはこういう話を嫌ってそうだけど、こういう話をしたがってる人はけっこういる」
何が言いたいんだろう? 上田の柔らかい声は、イヤでも耳に流れ込んでくる。聞きたくもない話でも、聞かされてしまう。
「興味ないの」
突っぱねても、上田は相変わらず微笑んでいるらしい。
「蒼さんも放送委員やらない? 発表のときの声とか、国語や英語で音読する声とか、すごくキレイだし、なまりもないし、いいなあって思う。もしかして、発声のレッスンとか受けたことある?」
「ない。受けたかったけど、住んでた場所、いなかだったし」
「木場山だっけ? やっぱり、蒼さんは自分でも、自分の声を特別に感じてるんだ? 意識しなきゃできないようなキレイな読み方、するもんなあ。アナウンサーとかラジオDJとか、目指してる?」
「歌ってた。趣味で。それだけ」
「えっ、そうなんだ。楽器もできる?」
わたしは、かぶりを振った。
「もう忘れた」
おしゃべりをするつもりなんてない。この喉はもう使い物にならない。ちょっとしゃべるだけで疲れてしまう。
わたしは、上田が言葉を重ねないうちに、サッとその場を離れた。智絵だったら、上田とのおしゃべりを楽しんだんだろうか。それとも、縮こまって何も言えなくなったんだろうか。