華やかな女子の声に呼ばれた。
「蒼ちゃーん、おはよーっ!」
「ウチらと一緒に教室いこー!」
同じクラスの女子だ。ただし、名前と顔はいまいち一致しない。
智絵がビクリと体を震わせた。
「ご、ごめ……あたし、先に行く……」
よろめくような足取りで、智絵はサッとわたしから離れた。追い掛けようとしたわたしは、スカートの短い女子の集団に囲まれた。
「アレと一緒にいたらダメだよ! くさいのがうつるよ!」
「くさい?」
「根暗で本ばっか読んでるくせに、成績悪いんだよ。アレって、マジバカなの」
智絵のことを指して「アレ」としか呼ばない。彼女たちは智絵を人間扱いしていない。
だからなのか、と、わたしは初めて理解した。
学校が近付くにつれて、智絵の口数は減っていた。顔はだんだん伏せられていって、視線は足下ばかりに向けられていた。なぜそうだったのか、やっとわかった。
智絵はいじめられている。一学期の間、わたしが目を背けてきた同じ教室の中で。
上田への気持ちを誰にも言ってはならないのも、いじめられっ子の智絵が関わることで上田に被害が飛び火しかねないから。
残暑のきつい九月の朝なのに、体が冷たくなっていくみたいだった。わたしは、きゃーきゃー騒ぐ女子の集団に囲まれたまま、智絵を追うこともできなかった。
「蒼ちゃんは頭いいんだから、底辺と一緒にいちゃダメ!」
「そーそー。ウチらと一緒に教室いこ?」
「あっ、ウチクラの男子、来たー! すっご、真っ黒じゃん」
一目で「染めている」とわかる色の髪をした男子が数人。ガニ股で、かかとを踏んだスニーカーを引きずるようにして、左右に揺れながら歩いてくる。
「おーっす! 花火大会以来?」
「おめーらも真っ黒じゃん。女子だけで海とか行ったんだろ?」
当時の男子の制服の着こなしは「腰パン」が流行っていた。今のファッションの「腰ばき」よりもずっと低い位置でズボンをはくスタイルだ。誰もがやっていたわけではなく、「イケてる」と勘違いしている連中が、はく位置の低さを競っていた。
当然、派手な柄のトランクスが丸見えだった。人によっては、トランクスごと低めにはいていた。
正直言って、わたしは「不潔だ」としか感じなかった。他人の下着も肌も見たくない。嫌いだ、イヤだという感情を、わたしは隠すつもりもない。
それなのに、なぜなのか。
女子の集団につかまったわたしを、腰パン男子の集団は平然と輪の中に引き込もうとする。
「珍しー! 蒼ちゃんがいるし!」
「相変わらず白いなー」
「宿題とか完璧でしょ? 頭いいもんなー」
ここでまともにリアクションできるなら、わたしは何の苦労もしないんだろう。派手でイケてる仲間に囲まれて、頭がいいと崇拝されて、楽しい学校生活を送れるんだろう。
わたしは、どうしてこの世界に入っていけないんだろう?
表情を殺す。目をそらす。声が出ない。心が灰色に濁っていくみたい。
ねえ、バカバカしいんだけれど、こんなふうに自分の殻にこもって感情を凍らせるたびに、まわりの連中が口にする言葉があるんだ。
「クールビューティだよね。高貴な感じがして近寄りがたいっていうか、笑わないからこそ美人っていうか」
わたしは親に感謝でもすればいい? 美人って何? 知らないよ、そんなの。
木場山では誰もそんなこと言わなかった。自分の顔が他人から見てどんなふうかって、考えたことがなかった。それに最近は、鏡なんか全然見ていない。鏡に映る自分があまりにも嫌いだから。
見られることが気持ち悪い。髪型もメイクも頑張りまくっている女子の視線。すぐに股間がどうのこうのと言い出す男子の視線。あの人たちの目にわたしの姿がどう見えているのか、想像したくもない。
集団から抜け出したかった。でも、手をつかまれたりカバンを持たれたりして、逃げられなかった。
その日、わたしはずっと、クラスでの智絵の様子をうかがっていた。智絵は息を殺すように、じっと席に着いたままだった。始業式や掃除のために移動するときは、一人きりでサッといなくなった。
智絵は空気みたいに振る舞おうとしている。誰の目にもつかないように、誰の邪魔もしないように。
でも、その日だけで三回あった。智絵にギリギリ聞こえるくらいの声で、悪口と笑い声が交わされる。
「くさい」「うざい」「グズ」「キモイ」「根暗」「バカ」「ブス」「ゴミ」「死ねばいいのに」「何でここにいるの」「どもっててキモイ」
誰のこと、とは言わない。でも、視線を追い掛けて「そういうことか」と、簡単にわかってしまう。ニヤニヤした視線の先で、智絵は独りぼっちでうつむいているから。
智絵、わたしも「そっち側」に行こうか?
反射的に、わたしはそう思った。同情だったかもしれない。打算だったかもしれない。わたしも智絵と一緒にいじめられたら、この場所にいなくてすむ。一緒にどこか別の場所へ行ける。
でも、できなかった。
「蒼ちゃーん、英語の自由研究、担任がめっちゃほめてた! 見せてもらったんだけど、マジすごい! ほら、これ!」
担任は英語の担当だ。提出したばかりのわたしの分厚いファイルが、クラスの派手な女子たちの手にあった。
お気に入りの漫画を英訳した。見開きの左のページに漫画のコピーを貼って、右のページに英訳を書く。それがわたしの自由研究だった。
「見ないで。全然、たいしたことないから」
中学二年生の英語だ。間違っている点や表現力不足な点がたくさんあることは自分でもわかっていた。
でも、すごいすごいと騒がれて、こんな発想はほかの誰もできないとほめちぎられて、秀才だとか天才だとか言われた。
やめてほしい。そんなんじゃない。騒がないで。
智絵は騒ぎの向こう側で、独りぼっちでたたずんでいる。
何でわたしは「こっち側」なの?
重なり合う声の一つひとつが聞き分けられなくて、わたしはスッと現実感が遠ざかった。
頬が熱くなって、胃が冷えていく。腕がカタカタ震えるのに、足は床に貼り付いて動かない。ダメだ、耐えられない。
教室という世界の中に、わたしはいくつものシャッターを下ろす。わたしと、わたしを取り巻く派手な人たちの間に。この大騒ぎと、智絵との間に。そうしないと、わたしはわたしを保てない。
微笑んではいけない。誰の前でも「仲間だ」と意思表示してはいけない。
でも、智絵のもとへも行けない。わたしは「こっち側」から出られない。
その日の夜、わたしは初めて自分から智絵に電話をかけた。明日からも一緒に学校に行こう、と誘った。智絵は小さな声で「うん」とだけ言った。
「蒼ちゃーん、おはよーっ!」
「ウチらと一緒に教室いこー!」
同じクラスの女子だ。ただし、名前と顔はいまいち一致しない。
智絵がビクリと体を震わせた。
「ご、ごめ……あたし、先に行く……」
よろめくような足取りで、智絵はサッとわたしから離れた。追い掛けようとしたわたしは、スカートの短い女子の集団に囲まれた。
「アレと一緒にいたらダメだよ! くさいのがうつるよ!」
「くさい?」
「根暗で本ばっか読んでるくせに、成績悪いんだよ。アレって、マジバカなの」
智絵のことを指して「アレ」としか呼ばない。彼女たちは智絵を人間扱いしていない。
だからなのか、と、わたしは初めて理解した。
学校が近付くにつれて、智絵の口数は減っていた。顔はだんだん伏せられていって、視線は足下ばかりに向けられていた。なぜそうだったのか、やっとわかった。
智絵はいじめられている。一学期の間、わたしが目を背けてきた同じ教室の中で。
上田への気持ちを誰にも言ってはならないのも、いじめられっ子の智絵が関わることで上田に被害が飛び火しかねないから。
残暑のきつい九月の朝なのに、体が冷たくなっていくみたいだった。わたしは、きゃーきゃー騒ぐ女子の集団に囲まれたまま、智絵を追うこともできなかった。
「蒼ちゃんは頭いいんだから、底辺と一緒にいちゃダメ!」
「そーそー。ウチらと一緒に教室いこ?」
「あっ、ウチクラの男子、来たー! すっご、真っ黒じゃん」
一目で「染めている」とわかる色の髪をした男子が数人。ガニ股で、かかとを踏んだスニーカーを引きずるようにして、左右に揺れながら歩いてくる。
「おーっす! 花火大会以来?」
「おめーらも真っ黒じゃん。女子だけで海とか行ったんだろ?」
当時の男子の制服の着こなしは「腰パン」が流行っていた。今のファッションの「腰ばき」よりもずっと低い位置でズボンをはくスタイルだ。誰もがやっていたわけではなく、「イケてる」と勘違いしている連中が、はく位置の低さを競っていた。
当然、派手な柄のトランクスが丸見えだった。人によっては、トランクスごと低めにはいていた。
正直言って、わたしは「不潔だ」としか感じなかった。他人の下着も肌も見たくない。嫌いだ、イヤだという感情を、わたしは隠すつもりもない。
それなのに、なぜなのか。
女子の集団につかまったわたしを、腰パン男子の集団は平然と輪の中に引き込もうとする。
「珍しー! 蒼ちゃんがいるし!」
「相変わらず白いなー」
「宿題とか完璧でしょ? 頭いいもんなー」
ここでまともにリアクションできるなら、わたしは何の苦労もしないんだろう。派手でイケてる仲間に囲まれて、頭がいいと崇拝されて、楽しい学校生活を送れるんだろう。
わたしは、どうしてこの世界に入っていけないんだろう?
表情を殺す。目をそらす。声が出ない。心が灰色に濁っていくみたい。
ねえ、バカバカしいんだけれど、こんなふうに自分の殻にこもって感情を凍らせるたびに、まわりの連中が口にする言葉があるんだ。
「クールビューティだよね。高貴な感じがして近寄りがたいっていうか、笑わないからこそ美人っていうか」
わたしは親に感謝でもすればいい? 美人って何? 知らないよ、そんなの。
木場山では誰もそんなこと言わなかった。自分の顔が他人から見てどんなふうかって、考えたことがなかった。それに最近は、鏡なんか全然見ていない。鏡に映る自分があまりにも嫌いだから。
見られることが気持ち悪い。髪型もメイクも頑張りまくっている女子の視線。すぐに股間がどうのこうのと言い出す男子の視線。あの人たちの目にわたしの姿がどう見えているのか、想像したくもない。
集団から抜け出したかった。でも、手をつかまれたりカバンを持たれたりして、逃げられなかった。
その日、わたしはずっと、クラスでの智絵の様子をうかがっていた。智絵は息を殺すように、じっと席に着いたままだった。始業式や掃除のために移動するときは、一人きりでサッといなくなった。
智絵は空気みたいに振る舞おうとしている。誰の目にもつかないように、誰の邪魔もしないように。
でも、その日だけで三回あった。智絵にギリギリ聞こえるくらいの声で、悪口と笑い声が交わされる。
「くさい」「うざい」「グズ」「キモイ」「根暗」「バカ」「ブス」「ゴミ」「死ねばいいのに」「何でここにいるの」「どもっててキモイ」
誰のこと、とは言わない。でも、視線を追い掛けて「そういうことか」と、簡単にわかってしまう。ニヤニヤした視線の先で、智絵は独りぼっちでうつむいているから。
智絵、わたしも「そっち側」に行こうか?
反射的に、わたしはそう思った。同情だったかもしれない。打算だったかもしれない。わたしも智絵と一緒にいじめられたら、この場所にいなくてすむ。一緒にどこか別の場所へ行ける。
でも、できなかった。
「蒼ちゃーん、英語の自由研究、担任がめっちゃほめてた! 見せてもらったんだけど、マジすごい! ほら、これ!」
担任は英語の担当だ。提出したばかりのわたしの分厚いファイルが、クラスの派手な女子たちの手にあった。
お気に入りの漫画を英訳した。見開きの左のページに漫画のコピーを貼って、右のページに英訳を書く。それがわたしの自由研究だった。
「見ないで。全然、たいしたことないから」
中学二年生の英語だ。間違っている点や表現力不足な点がたくさんあることは自分でもわかっていた。
でも、すごいすごいと騒がれて、こんな発想はほかの誰もできないとほめちぎられて、秀才だとか天才だとか言われた。
やめてほしい。そんなんじゃない。騒がないで。
智絵は騒ぎの向こう側で、独りぼっちでたたずんでいる。
何でわたしは「こっち側」なの?
重なり合う声の一つひとつが聞き分けられなくて、わたしはスッと現実感が遠ざかった。
頬が熱くなって、胃が冷えていく。腕がカタカタ震えるのに、足は床に貼り付いて動かない。ダメだ、耐えられない。
教室という世界の中に、わたしはいくつものシャッターを下ろす。わたしと、わたしを取り巻く派手な人たちの間に。この大騒ぎと、智絵との間に。そうしないと、わたしはわたしを保てない。
微笑んではいけない。誰の前でも「仲間だ」と意思表示してはいけない。
でも、智絵のもとへも行けない。わたしは「こっち側」から出られない。
その日の夜、わたしは初めて自分から智絵に電話をかけた。明日からも一緒に学校に行こう、と誘った。智絵は小さな声で「うん」とだけ言った。