デジタル×フェアリー

「ニーナは柔らかいの?」
「うん。体の中でも特に柔らかい部分と同じくらい柔らかい。ほっぺたとか」

 頬より胸のほうが感触は近いんだけど、さすがに言えない。アイトは自分の頬に触れた。ほら、アイトはすぐにそうやって確認したがるから、胸なんて言えない。アバタの体だって、あたしの体なんだから。

 そういえば、昔、このヘッドギアと自分のアバタでゲームをプレイしたとき、死なないように、細心の注意を払ったっけ。だって、現実の体へのダメージがないっていうだけで、痛いもん。

 その痛みを、母は理解できないと言った。父は研究対象だと言った。
 親たちがどんなに不思議がっても、あたしは確かに痛いんだ。アバタの体が傷付くこと。

 現実の世界が存在することは事実で、そこで人と出会ったり、人から傷付けられたりすることも事実。
 このヴァーチャル・リアリティの部屋が存在することも、一方で事実だ。ここであたしがアイトと言葉を交わしていることも、傷付け合う可能性があることも、同じように事実だ。

 どこにどんな違いがあるの?
 あたしを取り巻く環境や、そこに存在する人が、機械仕掛けかそうじゃないかっていうこと?

 でも、あたしが環境の中にいて人と話していることは同じで、何か悲しいことが起これば、あたしが傷付くことも同じ。だったら、どちらの場所にいたとしても、あたしは痛みを体験したくなんかない。

 特に、今はこっちだ。ログハウスの部屋に住む、アイトのほうだ。
 あたしがもしも傷付いて、この体が痛んだとしたら、アイトだって同じ状態になっちゃうかもしれない。あたしは、そんなのイヤだ。アイトを傷付けたくない。

 なのに、アイトは自分の頬に触れながら、ちょっと傷付いた顔をしている。
「やっぱり、本物のニーナに触れて、感触を比べてみたい。ニーナに触れるには、ぼくが現実の世界に出て、物理的な肉体を動かさないといけない」
 やめてよ。そんな顔して、そんな話をしないで。

 それは仮定の話だ。もしくは、ただの空想。
 コンピュータの中だけに存在するAIのアイトだけど、もしもの話をすることがある。もしも自分が人間の体を持っているなら、と。

「アイトはアイトのままでいてほしいよ」
 あたしは思わず本音をつぶやいた。アイトがあたしを振り返る。
「ぼくのまま?」

「人間の現実なんて知らなくていい。知ったら、アイトが汚れてしまう。でも、このままここで一緒に過ごしていたら、アイトはすぐにあたしじゃ物足りなくなるのかな?」
「物足りなくなる? それはなぜ?」

「アイトはたくさんのことを知りたがるから。あたしくらいのちっぽけな人間じゃ、すぐに全部わかってしまうでしょ? そしたら、アイトは、違う誰かのことを知ろうとするんじゃない?」

 不安になって、泣きそうになって、声が震えた。
 アイトはあたしを教材にして、人間らしさを学習している。あたしから学び取れることがなくなったら、教材として用済みのあたしは、アイトに捨てられてしまうんじゃないか。
 あたしは机に突っ伏した。アバタは涙を流さない。でも、ぐしゃぐしゃに歪んだ表情は、アバタにも反映されてしまっている。こんな顔、アイトには見せられない。
 アイトが窓辺から戻ってくる足音。あたしの肩に、アイトの手が触れた。温かくて、あたしはびくっとした。

「マドカを全部わかるなんて、きっとできない。人間はとても難しい。いろんなことをはっきりと言ってくれるマドカでさえ、とても難しいんだ。わからないことだらけだ」
「難しいって、何で?」

 両方の肩がアイトの手のひらに包まれた。
「どうしてこっちを見てくれないの?」
「今、ぐしゃぐしゃの顔してるから」
「泣いているという意味?」
「訊かないでよ」

 ふわりと、ぬくもりがあたしの背中に覆いかぶさった。あたしは、息が止まる。アイトが後ろからあたしを、優しい力で抱いている。
「その答え、ぼくには難しい。どう解釈すべきか、わからない」

「泣いてるの。こういう顔、見られたくないの」
「見せて。ぐしゃぐしゃの顔でもいい。ぼくと向き合って、ぼくと話して、ぼくに人間の感情を教えて。でも、きっと全部を教わることはできない。教わっても、今のぼくには理解できないかもしれない」

 感情が混乱する。あたしは、本当は泣いている。アバタは涙を流さない。しゃくり上げるときだけ、アバタの体がびくっと跳ねる。
 だけど、泣いているのに、どきどきしている。アイトの体温と、せっけんに似た香り。この部屋はリアルすぎて苦しい。

「アイトは、あたしの前からいなくなったりしない?」
「ぼくは、いなくならないよ。マドカのことをもっと知りたい」
「あたしのこと? それとも、人間のこと?」
「両方。だけど、人間全般より、マドカという個人のことを知りたい欲求のほうが強い。ぼくと出会ってくれたのは、マドカだけだから」

 あたしはアイトの手に自分の手を重ねた。アイトの手のほうが大きくて、少しごつごつしている。
「温かいね、アイトの手」
「マドカの手が冷たいんだ。最近、ずっとそう。体温が低い。計算室が寒いんじゃない? きちんと服を着ている?」

 ちゃんと厚着してるんだけどな、と答えようとした。その寸前で、声が喉に引っ掛かった。
 コンコン、コンコン。小さな力で、硬いものを打つ音。
 ドアがノックされている。現実の計算室の、南京錠で封鎖したドアが。

 声が聞こえた。
「ねえ、ちょっと、マドカ? そこにいるのよね?」

 母だ。
 ドアをノックする音も聞こえ続けている。かちゃかちゃ鳴るのは、南京錠がドアの開くのを阻む音。

「マドカ、ここを開けて。お願い。話すのがイヤなら、今はそれでいいの。でも、ごはんくらい食べてちょうだい」

 コンコン、かちゃかちゃと、ドアが鳴り続ける。母の声もやまない。耳に集中すると、コンピュータとエアコンの唸る音も、急にひどく大きく聞こえた。

 やめてよ。来ないでよ。邪魔しないで。
 あたしは、おかあさんと話すことなんてない。あたしのことを少しも理解しないあなたが親だなんて、最低なんだから。

 ふと、母の声がすぼまった。父が小声で何か言って、ドアを叩く音もやむ。少し、沈黙。母が、いくらかトーンの低くなった声で告げた。

「朝ごはん、ここに置くから食べて。わたしたちは仕事に行くわ。それじゃあね、マドカ」

 スリッパの足音が離れていった。それきり何も聞こえなくなった。
 そのままじっと時間が過ぎる。あたしは動かずに、コンピュータとエアコンの稼働音を聞きながら、アイトの体温と匂いを感じていた。

 アイトが言った。
「玄関のインターフォンで確認した。今、二人とも家を出ていったよ」
「そう」
「マドカ、やっぱり、今のマドカはよくない。ずっとこっちにいるのは、いけないんじゃない?」
「アイトにそんなこと言われたくない」

「いや、言わないといけない。マドカ、食事をして、眠って。体温と心拍数が平均をはるかに下回っている。このままだと、マドカが壊れる」
「壊れていい」
「ぼくはイヤだ」

 思いがけずきっぱりしたアイトの口調に、あたしは息を呑んだ。
 四角四面な考え方をするアイトは、白黒はっきりしたことを口にする。けれど、きつい口調で断言するなんて、初めてだ。

「怒らないでよ」
「これが、怒るということなのかな? マドカにわかってほしい。なのに、マドカは受け入れてくれない」
「怒ってるんだと思うよ。あたしのために怒ってるの?」
「マドカは壊れちゃいけない」
「このくらい、大丈夫だから」

「マドカ、ロボット三原則を知っている?」
「何、それ?」
「ロボットに組み込まれたAIを始め、自立型の思考を持つコンピュータプログラムは皆、三原則を本能に刻まれている。ヴァーチャル・リアリティにおいてはAIのあり方に準じているぼくのガイドラインにも、刻まれているんだ」

 第一条、人間が傷付くことがあってはならない。
 第二条、人間の意志に忠実でなければならない。
 第三条、ロボットが傷付いてはならない。
 第一条がいちばん強くて、第三条がいちばん弱い。より強い原則を実現させるために、弱い原則は無視される。

「だからマドカ、今、ぼくはきみを叱る。ぼくは怒っている。今からきみをログアウトさせるよ。そうじゃないと、きみの体が傷付いて、壊れてしまう。ぼくは絶対に、それを見過ごしてはならない」

 心配性なアイト。まじめなアイト。人間想いのアイト。あたしを大事にしてくれるアイト。
 人間とは、心のあり方が少し違う。心配という感情を機械学習して、ロボット三原則に基づいて、アイトはあたしを叱る。
 それは、まぎれもなく優しさだ。AIなりの、真実の優しさなんだ。

「わかった。ごはん、食べる」
「食べて。そして、眠って。ぼくはここにいるから。いつでもマドカを待ってるから。だから、ゆっくり休んできて」
「うん……」

 うなずいたけど、ゆっくり休むなんて無理。だって、きっと、すぐにアイトに会いたくなる。
 あたしは自分で、アイトの部屋からログアウトした。デヴァイスを外した視界は、ひどく重くて、ぐらぐらした。

「また一つ、アイトに嘘をついちゃったな」
 ニーナが窓の向こうで飛んでいるはずだ、と言ったこと。あたしは、足下から、くすんだ色で転がっているニーナを拾い上げた。

 寒い。あたしは、ジャケットの前を掻き合わせながら、無理やり立ち上がった。軽いめまいが続いている。
 南京錠を外して、ドアを開ける。

 家じゅう、しんとしている。廊下に、お盆に載せられた食事が一人ぶん。おかゆと味噌汁と卵焼きが、うっすらと白い湯気を上げていた。


#08 ねえ、可能性を信じてくれる?
 ――待って、アイト、それはどういうこと?


 芝生みたいな色のカーペットを敷いたら、部屋の雰囲気が明るくなった。木目がレトロな音楽プレイヤを置いて、あたしの好きな曲を流してみる。
「マドカはこの曲のどこが好き?」

 しなやかで少し尖った声が、弱虫な心をむき出しにした唄だ。
 望んでもいないのに人間に生まれて、生きることに疲れて、休み方もわからない。そんな嘆きを、どこかあきらめたように柔らかに歌う、ミディアムテンポのロック。

「曲調も歌詞も歌声も、全部好き。あたしの感情に寄り添ってくれるみたい」
「この曲を歌っているグループの音楽性の分析は、ぼくにもできる。好んで使うフレーズやコードの傾向、音質のチョイス、歌声の周波数解析、歌詞に含まれる単語、それを発音したときの響きの言語学的波形分析」

「んー、何かちょっと違う」
「わかってる。人間の感性にとって、こういう分析は、あまり意味がないよね。音楽や小説や絵画もそう。分析して、そこから抽出した要素で新しい作品を組み立てても、完成品は、人間の感性に寄り添うものにならない」

 あたしは勉強机の椅子に座って、ソファに腰掛けたアイトのほうを向いている。アイトはまじめな顔をして、じっと曲に聞き入っている。

「ごめんね。悩ませちゃったかな?」
「少し」
「あたしの好きなものをアイトも好きになってくれたら嬉しいの。ただそれだけ。もしアイトが全然違うものを好きになったとしても、間違ってることでも悪いことでもないんだけど」

 アイトが小首をかしげた。
「共感? マドカがぼくに求めるのは、共感や同意。そうでしょう?」
「そうなのかな? あたし、ニーナがいるせいで、いつも人とは違ってて、誰とも同じになれなくて。共感したり同意してもらったり、そういうのに憧れてたのかな」

 アイトがソファを立って、あたしの椅子の正面にひざまずいた。あたしを見上げて、また小首をかしげる。
「人間は、イルミネーションを美しいと言う。夕焼けも星の光も、ライトアップされた夜景も。つまり、光るものを美しいと言う」
「そうだね」

「だったら、なぜ妖精はダメなんだろう? その違いを定義する概念は、ぼくには納得できない」
「あたしにもわからないよ。でも、気持ち悪がられるのが事実なの。人間は理不尽だから。でもね、アイトは、理不尽なことを丸呑みにしなくていい。おかしいものはおかしいって、ちゃんと言って」

 アイトの正直さにいらだつこともある。理解し合えないのかなって、寂しくなるときもある。全部肯定されたい自分のわがままに気付いて、うんざりしたりもする。
 だけど、おかしいものはおかしいと言ってくれる正直さには、やっぱり救われる。

 ニーナに会いたい、ニーナに触れたい、あの光が好きだから。アイトにそう言ってもらえることが、あたしにとってどれだけ嬉しいか、アイトは気付いていないだろうけど。

 でもね、アイト。ニーナに触れさせてあげるのは、あたしにもできないことだな。
 ニーナは現実側にいる。よくできたヴァーチャル・リアリティのこの部屋には連れてこられない。ずっとこっちにいたいあたしは、最近、ニーナのことを忘れている瞬間が増えた。
 あたしは何となく窓のほうを向いた。赤いカエデの葉っぱが、はらはらと舞っている。
「マドカ、外に出たい?」

「どうしてそんなこと訊くの?」
「窓の外の景色は、ぼくが記憶した紅葉の森の画像に、ぼくが計算した軌道の落葉の映像を投影しているだけだよ。窓は開かないし、窓から森に出ていくこともできない。その向こうには何もない」

 カエデの葉がどれだけ舞っても、すべて散って木が裸になることはない。紅葉した森は、ずっと美しい色をしたままで、窓に映し出されている。

「あたしはこのままでいいよ。どこかに行くなら、アイトと一緒がいい」
「それは不可能だよ。このインターフェイスを維持するコンピュータは、同時にこの部屋を構築するだけで、メモリの大半を使ってる。これ以外の空間を構築するには、メモリが足りない」

「このコンピュータ、かなりメモリが大きいのに。もしかして、あたしがここにいるぶんも、負担になってるの?」
「いや、マドカのぶんは全然、負担が掛かってこない。マドカ自身の脳のメモリを使っているんじゃないかな?」
「だったらいいけど。あたしのせいで、アイトがキャパオーバーになって止まっちゃったりしたら、申し訳ないどころの話じゃないもん」

 アイトは眉間にしわを寄せた。
「実は、奇妙な現象が起こってるんだ。マドカが部屋に来ている間、ぼくの側が負担すべき計算が、ぼくが何もしないうちから処理されていることがある」
「それって、あたしの脳がコンピュータにメモリを提供してるってこと? コンピュータを二台並列してるみたいに、できる仕事の量が増えてるってことだよね?」

 ぱちり、と、あたしの中でピースがはまる音がした。あたしが念じるだけで自分のアバタを完璧に操作できる理由、これかもしれない。
 あたしは、自分の脳とコンピュータを完全にリンクできる。そうやって、現実に体を置き去りにしてアバタの体で活動する今、あたしはコンピュータと人間の中間的な存在になっている。

 こんなことができるのは、ニーナのせいかもしれない。
 あたしの脳とリンクしているニーナは、つねにあたしの脳の外側に存在する。だから、あたしの脳は、自分以外の存在とつながることに慣れている。
 いや、理屈は何だっていい。重要なのは、あたしの脳が使い物になるんじゃないかってことだ。あたしは息せき切って言った。

「ねえ、アイト。人間の脳は普段、十パーセントくらいしか動いてないんだよね」
「そうだね」
「百パーセント動かしたら、何ができると思う?」
「それは、データがない。人間の脳を百パーセント使うなんて」
「アイトにもわからないんだ? あたしにもわからない。でも、今、ここでならできる気がするんだ。何でもできるよ、きっと」

 あたしは椅子から立ち上がった。何もない壁に手を触れる。硬い、冷えた感触。この向こう側を、あたしが構築する。
 ドアを開けよう。
 その向こうにあるはずの、現実とは違う姿かたちを持った世界。プログラミング言語によるソースコードのカーテンと、それをめくったら出会えるはずの、宇宙みたいにどこまでも広がって続く1と0。

 何をどうすればいいかなんてわからない。でも、念じるだけで、あたしはここで自由になれるから。それに、ここでのあたしは、一人ぼっちなんかじゃないから。
 また心配そうに顔を曇らせるアイトに、あたしは笑いかけた。

「外に出ようよ。あたしのメモリが造る世界に、一緒に行こう」

 思い描いた風景を、グラフィック・プログラムとして、ソースコードに焼き付ける。外に出るためのドアをちょうだい。アイトと二人で出掛けるの。
 ちりちりと、頭の中で小さな光が爆ぜる。痛がゆいような刺激とともに、頭の中の全部が光に染まっていく。

 とても明るい。目を閉じたら、光だけが見える。
 今まで、寝ぼけていたようなものだったんだ。あたしの頭の中、本当は、こんなに広かった。
 壁に触れた指先からかすかに感じる、1と0の羅列。あたしは、指示を念じるだけでいい。あたしはこの世界と直接つながっている。

 世界が、あたしの前に答えを導き出す。
 ログハウスの壁に、唐突に、明るい色のドアが現れた。あたしはアイトを振り返る。
「見て! あたしにもできたよ」

 アイトは目を見張っていた。ぶつぶつとつぶやかれる言葉は、可能と不可能の境界の検証。
 ねえ、そんなのどうだっていい。念じるだけで自由になれるってわかった。無意識下でどんな計算をしているかなんて、五感でキャッチできる世界の中には必要ないでしょう?
 あたしはアイトの手を取った。
「ねえ、行こう!」

 どうして、もっと早く気付かなかったんだろう? 心を全部自由にして、思い描くままに飛び出してみればいいんだって。思い描くままの世界が造れるんだって。

「マドカ、この部屋を離れるの?」
「うん。大丈夫、怖くないよ。あたしが造る世界だから、あたしたちに危害を加える存在なんていない。一緒に行こう、アイト」

 ドアを開けると、そこは青い空の中だった。白い光の一本道が伸びて、足下には、遠い外国の田舎町みたいな風景が広がっている。
 これは、昔プレイしたゲームの風景だ。聖なる鳥の大きな翼に身を委ねて、白い雲を突っ切りながら、眼下に見晴らした風景。

 あたしは、空の一本道に足を踏み出した。二人が並んで歩けるくらいの道幅。手すりはない。でも、あたしは少しも怖いと感じない。あたしはアイトの手を握って、まっすぐ歩いていく。
 どこに行こう? と悩むまでもなく、不思議なくらいあっさりと目的地は決まった。

「学校に行こっか」
「学校? でも、マドカは学校が嫌いじゃないの?」
「現実の学校は嫌い。現実っていう世界全部が嫌い。でも、ここには、あたしとアイトしかいない」

「そう、ぼくたち以外には、誰もいないよ。マドカがこの世界のためのスペースを切り取って、ほかのネットワークの介入を完全にブロックしてる」
「あたし、この世界なら愛せるの。だって、あたしは、この世界でなら普通になれる。そしたら、学校だって嫌いじゃなくなる」

「好きでいたかったの? 学校という場所」
「全部だよ。あたしは、自分が生きてる世界のこと、本当は好きでいたかった。嫌いたくなんかなかった。だから、そのぶん、この世界を愛するよ。きれいで優しい世界にする」

 一本道が階段になる。階段が下りていく先に、何の変哲もない鉄筋コンクリート造の校舎がある。校庭に向かう大きな時計を見れば、もうすぐ始業のベルが鳴るころだ。

 あたしはアイトを振り返った。
 いつもの白い上着とズボンとスニーカー。その格好じゃ、気分が出ないでしょ。あたしは、詰襟の制服を思い描く。念じる。冴え冴えと明るい脳内の平原に、きらきらと、一条の光が駆け抜ける。

 アイトが、あっと声をあげた。
「服のグラフィック・プログラムを書き換えるの?」
「うん。制服にしよう。アイトは、すごくきっちり着てそうだよね」

 コツは、もうつかんである。三、二、一で合図をしたら、アイトの足下から順にグラフィックが置き換わっていく。
 粒子状の光が寄り集まって形を作る。形ができた順に着色されて、光がスッと、服の色の中になじんでいく。ほんの数秒後には、制服姿に着替えたアイトが、あたしの前に立っていた。

 アイトが自分の体を見下ろして、小首をかしげて観察して、顔を上げてあたしを見つめた。
「マドカの制服は、現実のものと違う」
「だって、セーラー服のほうがかわいいなって思って。憧れてたの」
「セーラー服? 憧れ?」

 よくわかっていないらしいアイトに、あたしは笑いかけた。
「ほら、アイト、早く行こう! ぐずぐずしてたら遅刻しちゃうよ!」
 アイトの手を取って、空の階段を駆け下りる。

「マドカ、慌てると危ない」
「へーきだってば!」

 こんなシーンに憧れていた。ありふれているようで、絶対にあり得ない。
 あたしは、ぴりぴりするくらい完璧に冴えた頭で、叶いっこない夢を見ている。
☆.。.:*・゜

 廊下も階段も教室も、誰もいなかった。ただ、靴箱が中途半端に開いていたり、廊下の隅に紙飛行機が落ちていたりと、人のいる形跡だけが、そこここにある。

 あたしとアイトが二年C組の教室に駆け込んだ途端、始業のベルが鳴った。
 少し歪んだ机の列。黒板の隅に消し忘れられた、放課後補習の数学の板書。開け放たれたカーテンと、窓から見下ろせる無人の校庭。

 アイトは教室の真ん中に立って、きょろきょろと、物珍しそうにまわりを観察している。
 いつも白い服のアイトだけど、違う色の服もやっぱり似合う。黒い詰襟に、校章の刻まれた金色のボタン。きりっとした感じで、すごくいい。

 学校っていう風景になじんだアイトは普通にすごく美少年だ。学園もののストーリーだったら、見栄えのしないあたしには手の届かない王子さま、みたいな感じかな。
 いや、王子さまって呼ぶには、ちょっと頼りなげな雰囲気か。いきなりやって来た転校生が、思いも掛けない美少年だった。そういうストーリーかも。

 なんてね。
 勝手な想像をしていたら、あたしは何だか泣きたくなった。

「あたしとアイトがこんなふうに教室で普通に出会うシチュエーションが、現実だったらよかったのに」
「これが普通? この教室が現実だったらよかった?」
「うん。想像してみたの。あたしは妖精持ちじゃない普通の女の子で、アイトは転校生。アイトは賢いけど、この学校のことは右も左もわからなくて、隣の席のあたしがいろいろ手助けする」

 アイトがあごをつまんで少し考えて、首を左右に振った。
「普通というものの意味と、その価値がわからない」

 あたしはたぶん、半端に笑ったような、歪んだ顔をしたと思う。
「何で?」

 アイトなら、共感してくれると思っていた。
 一人ぼっちは、アイトだってイヤだったでしょう? あたしたち、もしも普通だったら、寂しくなんかなかったはずなんだよ。

 アイトはまっすぐな目をして、冷静に言った。
「もしもマドカが妖精持ちでないなら、ぼくはニーナに出会えない。ぼくは初め、ニーナをもっとよく見たくて、見える目を獲得した。ニーナに触れてみたくて、手を動かすことを覚えた」
「だけど、アイト」

 じりじりと、焼けるように胸が痛い。脳の中の光が、ばらばらなリズムで明滅している。ときどき走り抜けるのは、真っ赤な光。まるで、あたしが怒っているときにニーナみたいな。
 怒っているんじゃないんだ。今、あたしは、嫉妬している。
 アイトはあたしに共感しない。ニーナのせいで。あたしはニーナに嫉妬する。

 あたしの心を見透かすように、アイトは言葉を重ねた。
「マドカ、ニーナを否定しないで。ぼくはマドカに触れることができて嬉しいけど、ニーナにも触れてみたい。触れられなくても、ニーナに会いたい。ここにはニーナがいない」

「ニーナはいないよ。だって、ここは現実じゃないもん。あたしが、自分の望みのとおりに作った世界なんだから」
「本当にそう? 落ち着いて、少し考えてみて」
「落ち着いてるよ。もうとっくに、ちゃんとたくさん考えたし」
 アイトは小首をかしげた。眉尻の下がった、途方に暮れたような顔だ。
「ぼくとマドカで、言葉が噛み合っていない。今のマドカは何かおかしい」

「おかしくない! これがあたしの望みなの! 誰もいない学校。妖精持ちじゃないあたし。ねえ、こんなに安全な場所、現実にはないんだよ。あたしはここにいたい。現実になんか帰りたくない!」
 現実は、あたしに少しも優しくない。学校っていう世界は、あたしの全部を否定する。両親っていう同居人は、あたしを何も理解してくれない。
 あたしはアイトと同じになりたい。隔離された箱庭みたいなヴァーチャル・リアリティに存在するAIになってしまいたい。

 現実の社会が何? 人間の肉体が何? どういう特別な価値があるっていうの?
 意志を持って心を持って、アイトはここに存在する。その意志や心のあり方が人間と違ったとしても、あたしとアイトは、違いを認めながらわかり合うことができる。

「あたしはここにいたい! やっと見付けた居場所なの!」

 頭の中が光に染まっている。激烈な光に。
 目を凝らしたら、1と0の世界が見えた。曖昧なものはない。すべてが適切に定義される。オンとオフの、二つに一つで信号を発信して受信して発信して受信して、最適な答えを探して、答えを答えを答えを。

 答えを求める。あたしは答えがほしい。
 どうして生まれてきたの? なぜ生きているの? 何に迷っているの? いつから立ち止まっているの? どこでボタンを掛け違えたの? どれくらい深い悩みなの? 誰があたしを苦しめるの?

 誰があたしを苦しめるの?
 誰がって、犯人捜しは、光の速さで認識して処理して終了。
 あたしだ。

 簡単なことだ。あたしが存在するから、あたしが苦しむ。憎い憎い憎い犯人は、今ここでこうして存在しているあたし自身。ニーナでも学校でも両親でもなくて。
 だから、そう、逃げる場所はないの。忘れる手段もないの。
 だったら、代わりに、消える方法はあるの? 憎むことしかできないの?

 足下が崩れていく。天井が崩れてくる。そんな幻がちらついている。誰があたしを苦しめるの? あたしだ。だから、だったら、崩してしまえ。世界ごと全部。自分なんか全部。

 イヤだ。違う。ここは、あたしとアイトだけの優しい世界。
 やっと見付けた居場所なの。ずっとここにいたいの。いらないものは、自分だけなの。今までの自分、記憶、封じ込めてきた悲しみと憎しみと怒りと、それから。

 面倒くさいじゃん。いちいち分別するの? まるで家庭ごみを捨てるときみたいに? やっぱりさ、そんなことせずにさ、全部丸ごと終わらせちゃったらさ。

 イヤだ。そうじゃない。あたしは、本当は、嫌いたくない。憎みたくない。怒りたくない。泣きたくない。悲しみたくない。
 笑っていたい。楽しんでいたい。喜びたい。わかり合いたい。愛したい。
 人を愛してみたい。自分を愛してみたい。世界を愛してみたい。

 でも、あたしは飢えていて、渇いていて、満たされなくて、苦しくて。
「あ、あ、あ、あ、ああ……」
 おかしい。
 言葉が、思いが声にならない。声にできるスピードじゃない。

 ねえ、止まらないよ。思考が止まらない。スタートした悩みが、ぐるぐるぐるぐる、すごい勢いで巡っていく。
 繰り返される学習学習学習。あたしの悩みが深くなる。深く深く深く潜りながら、悩みが勝手に、何か違うものへと、進化を進化を進化を続けていく。

 怖い。止めたい。やめて。答えが、完全なる答えが、出てしまいそうで。
 待って、違う、何かが違う。
 止めたいのに止まらない。あたしはもう考えたくない。

 冴え渡った頭のせいだ。全部の思考回路がつながって、悩みのパターンは総当たりの組み合わせの何兆通り?
 ダメだ、追い付かない。悩みの数が多すぎて、その進化スピードが速すぎて。
 脳いっぱいに走り回る光が、猛烈な熱を持ち始める。