私は、手元のプリントと渡されたチケットを見つめたまま、かれこれ数十分悩んでいた。

「梓、どうしたの?」
「莉緒……」

 授業が終わったというのに動かないでいる私に莉緒は不思議そうだ。周りを見回すと、教室にはもう私たちの姿しかなかった。そりゃそうだ。ホームルームが終わってからすでに三十分は経っている。普段なら私だってもう教室にいない時間だ。
 それなのに、どうしてここにいるかというと……。

「文化祭のチケット?」

 手の中のそれを見た莉緒は余計に不思議だとでも言うかのように首を傾げた。

「それがどうかしたの? あ、もしかして彼氏誘うとか? 来たら紹介してね! 梓の彼氏見てみたい」
「……それが、迷ってて」
「どうして? 他校に彼氏がいる子は結構誘ってるよ? 一般公開は土曜日だし」
「うん、そうなんだけど……」

 言いよどんでしまうのは、莉緒のことを信用していないからじゃない。ただ、どんな反応をされるかが不安なだけで……。
 不安……?
 私は、自分自身の思考が信じられなくて、ショックを受けた。今の言葉は、莉緒にも、そして青空さんにも失礼だ。
 決めたじゃない。二人で一緒に進んでいくんだって。二人で乗り越えていくんだって。

「あの、ね。莉緒には言ってなかったけど」
「うん?」
「私の彼氏……青空さん、病気で足が動かなくて、それで……車椅子に乗ってるの」
「…………」

 無言になる莉緒に、私は俯いてしまう。なんて弱い覚悟なんだろう。でも、莉緒だから。莉緒にだから受け入れてほしいし、受け入れてもらえるって信じている。
 信じているけど……。
 私は、そっと顔を上げると、莉緒を見つめた。莉緒は――首を傾げた。

「で?」
「え……?」
「それでどうしたの? あ、バリアフリーの問題? そうだよね、外は大丈夫でも校舎の中は階段で移動だもんね。どうしよっか、一度担任に相談してみる?」
「…………」
「梓?」

 思った以上の反応に、今度は私が言葉を失う番だった。

「どうしたの? あ、周りの視線が気になるとかそういう話だった?」
「あ、ううん……。バリアフリーの話であってるんだけど……。ビックリ、しないの?」
「何に?」

 ビックリする意味がわからないとでも言うかのような返答に……私はおかしくなって、思わず笑ってしまう。不安になんてなる必要なかった。信じて、よかった。

「なんでもない」
「えー? 何笑ってるの?」
「なんでもないって。そっか、担任に相談したらいいんだね」

 来てもらいたいけどどうしたらいいんだろう、そればっかり思っていたけれど。そうか、相談してみればいいんだ。どうしてそんな簡単なことに気付かなかったんだろう。

「今から行く?」
「着いてきてくれるの?」
「用もないし。それに誰かが一緒に行ってくれる方が心強いでしょ?」
「莉緒……」

 友人の優しさに、胸が苦しくなる。こんなふうに言ってくれる友達が、私にもいた。けれど、彼女たちはみんなあの一件で離れてしまった。そのことを、今もなお莉緒に打ち明けられずにいた。
 もしも、莉緒にあのことが知られたときに、どんな反応をされるのかが、怖い。莉緒のことを信じているなんて言ったくせに、もしもまた、莉緒もあの子たちと同じように離れて言ってしまったらと思うと――私は怖くて仕方がないのだ。なのに、そんな私に莉緒は優しくしてくれる。こんな、秘密を持っている私に……。

「梓?」
「……ううん。ありがとうね、莉緒」
「これぐらい、なんともないよー」

 隣でニコニコと笑ってくれる莉緒を見ると、罪悪感でいっぱいになるのに……私はそんな莉緒になんでもない顔をして笑いかけた。

「それじゃあ行こっか」

 莉緒と一緒に教室を出ると、私は職員室へと向かった。

「せんせー」
「どうした?」
「あのね、梓が聞きたいことがあるんだって」

 担任を見つけた莉緒は、まるで友達にでも話しかけるように先生に言う。こういう風に喋れるのは莉緒の凄いところだと思う。馴れ馴れしいというよりは親しみをこめて、そして言われた相手にも嫌な気持ちにさせない。私には真似できない。

「おう、福島。どうした?」
「あ、えっと……校内のバリアフリーについて、聞きたいんですけど……」
「バリアフリー?」

 私の質問に、先生の頭にはてなマークが浮かんでいるのがわかる。説明の仕方を間違えた……。どうすれば……。パニックになりそうな私に、莉緒は助け船を出してくれた。

「文化祭でね、梓が招待したい人が車椅子に乗ってるんだって。でも、うちの教室って三階でしょ? だから、どうしたらいいかなって」
「ああ、そういうことか。事前に言ってくれれば、職員室内にあるエレベーターを使ってもらうことができるぞ」
「……職員室の」
「エレベーター?」

 今度は私と莉緒がはてなマークを浮かべる番だった。職員室に、エレベーターがあるなんて聞いたことない……。

「普段は使用禁止なんだが、事情があって階段を上れないときや車椅子の生徒には使用を許可してるんだ。ちなみに、職員室横のトイレに多目的トイレが設置されてることは知ってるな?」
「……知ってた?」
「知らなかった」
「お前らなぁ……」

 顔を見合わせる私たちに、先生はため息を吐いた。

「どっちも入学のパンフレットに書いてあるぞ」
「あー……読んだような、読まなかったような」
「……私も」

 本当はパンフレットなんて読んだことも見たこともなかったけれど、莉緒に合わせてそう言った。そんな私たちに、先生は本日二度目の大きなため息を吐いた。

「あれ、俺が作ったやつなんだから、そんなこと言わないでくれよ」
「先生が作ったの?」
「そう。頼まれて。……って、まあそんなのはどうでもいいんだ。福島、車椅子の人でも安心して来てもらえるようになってるから、呼びたい人がいるなら来てもらえよ」
「ありがとうございます」

 これで、何の心配もなく青空さんを文化祭に呼ぶことができる。ホッと息を吐き出すと、莉緒が嬉しそうに私の手を握った。

「よかったね、梓」
「ありがとう、莉緒」
「私、着いてきただけだし」

 なんてことないよ、と言うかのように笑う莉緒に上手く笑い返すことができない。

「梓?」

 思わず俯いてしまった私に、莉緒は不思議そうに首を傾げる。そんな私たちに、先生は机の中から何かを出すと、差し出した。

「何これ」
「紙?」
「購買のジュース引換券だ。この間、買おうと思ったらちょうど冷えてなくてな。お詫びにともらったんだが、お前らにやるよ」
「え、なんで?」

 莉緒は怪訝そうな表情をしていたけれど、私は……もしかしたら先生は全部知っているのかもしれないと、そう思った。知ってて、それで話をしろと言ってるのかな、と……。

「ありがとう、ございます」
「なんか、よくわかんないけどありがとうございますー。そしたら、これ引き換えに行こう」
「うん」

 私は先生にペコリと頭を下げると、莉緒と一緒に職員室を出た。まだ開いていた購買でジュースを引き換えると、私たちは中庭へと向かった。肌を撫でる風が心地よくて、気持ちが落ち着いていく。今なら、話せるかもしれないと、そう思った。

「梓? 飲まないの?」

 ベンチに座ったあともジュースを開けることなく黙り込んでいる私を、莉緒は心配そうに見つめる。私は……ジュースをベンチに置くと、莉緒の方を向いた。

「……私、ね。莉緒に話せてないことがあって」
「うん……」
「もしかしたら、その話を聞いて、莉緒が私のことを嫌になるかもしれない。でも……莉緒に聞いてほしいの。知ってほしいの。……できれば、私のことを信じてほしい。でも、もし無理でも……」
「信じるよ」
「え……?」

 莉緒は、真剣な口調で言った。

「梓が嘘を吐くわけないって、私知ってるから。だから、梓が言うなら信じる」
「莉緒……」

 まだ、何も話してないのに、なのに信じると言ってくれた。私が言うことだから、無条件で信じると。そう言ってくれた。もう、それだけで嬉しくて、涙があふれてくる。

「あり、がとう……」
「聞かせてくれる……?」
「うん……。あのね……」

 私は、あの日の事を話し始めた。今もなお、私の心の奥で燻り続けているあの出来事を。


「っ……なに、それ! 酷い!」
「莉緒……」

 話し終えた私の隣で、莉緒は怒っていた。試験官の先生に、過去の友人に。

「どうして誰も梓の話を信じないの!? 庇わないの!? 一人ぐらい、先生に抗議してくれたっていいのに!」
「それは……」

 あの状況で私を庇えば、その子まで退出させらされていただろう。そんなこと……。

「でも! 友達がそんな風に濡れ衣を着せられてたら、怒るのが本当の友達でしょ!? 私が梓の友達でその場にいたら、絶対に怒ってた!」
「……ありがとう」

 莉緒の言葉が上辺だけのものじゃなくて、きっと莉緒なら本当に怒ってくれたんだろうなって思えるから……。

「そう言ってもらえるだけで嬉しい」
「それで……そのあと、どうなったの?」
「……どうって?」
「だから、本当にカンニングしたやつは……」

 私は首を振ることしかできなかった。あのときの子が誰なのか、今も私にはわからないしわかったところでどうすることもできない。もしも受かっていれば私の代わりに今もあの学校に通っているだろうし、落ちていたら……私が受けることができなかった市内の二次募集に応募してどこかで高校生活を送っていることだろう。

「そんなの!」
「……うん、酷いよね。悔しいって思う。……思ってた」
「思ってた、ってことは……今はもう、そうは思ってないってこと?」
「……うん」

 本当は、まだちょっと辛いときはある。でも、こうやって怒ってくれる友達に出会えたから。

「……でも、もしも。もしもだよ? 濡れ衣を着せられたことが明らかになって、それで……」
「そんなこと、ありえないよ」

 私は、莉緒の言葉を遮った。そんな私の言葉に、莉緒は小さく「ごめん」と言うと黙ってしまった。
 本当は、何度も何度も考えた。もしも、本当のことがわかって、今からでもあの高校に通えて、それで友達からも「信じてあげられなくてごめんね」って言ってもらえたらって、何度も、何度も考えた。今更だっていい。今からだっていい。あの日をやり直せたらって。
 でも、そんなこと……。

「まあ、でも……そのおかげで……って言ったら変だけど、北条に来ることになったから莉緒にも出会えたし、ね」
「梓……」

 それも、私の本心だった。あんなことが会ったから、北条に来ることになって、莉緒に会えた。もしもあのまま高校に受かってたら、きっと莉緒に会うことはなかったから……。

「青空さんにも、でしょ?」
「っ……」
「あ! 赤くなった」
「もう!」

 からかうように言う莉緒と顔を見合わせると、私たちは笑った。
 たくさんの「ああだったら」「こうだったら」はあるけれど、今、私はここで笑っている。それでいい。それが、一番いい。

「文化祭、楽しみだね」
「そうだね」

 鞄の中に入ったチケットを、今度会ったら青空さんに手渡そう。今、私はこんなにも素敵な友達に囲まれた高校生活を送っているんだと、見てもらいたいから。


 その日は、快晴だった。十月の終わりの土曜日、待ちに待った文化祭の日がやってきた。今日は、一般公開のため学校内に保護者や中学生、それから他校生の姿もあった。
 もうすぐ着くと、と青空さんからメッセージが届いたのは十一時を少し過ぎた頃だった。

「莉緒。私、抜けてもいいかな?」
「大丈夫だよー。ってか、もうすぐ交代の時間だから、そのまま回ってきていいよ」
「ありがとう!」

 一緒に受付をしていた莉緒にそう言うと、私は校門へと急いだ。
 青空さんはどこにいるんだろう。たくさん人がいるけれど見つけられるかな……。少し不安に思ったけれど、そんな不安はすぐに解消された。それは人混みの中で青空さんの周りだけが妙に空間ができている……とか、そんなマイナスな理由ではなく、私が青空さんを見つけるよりも早く、青空さんが私の名前を呼んでくれたからだった。

「梓!」
「青空さん! お待たせしました!」
「大丈夫、今ちょうど受付してもらったところだから」

 青空さんは、胸につけた『ゲスト』と書かれたシールを見せてくれる。どうやら招待チケットと引き換えにこのシールをもらえるようだ。

「梓は俺と回って大丈夫なの?」
「うん、ちょうど店番終わりだったから」
「梓のところは何やってるんだっけ?」
「コスプレ写真館です」

 いろんな服を着てデジカメで写真を撮る。そしてその場で印刷してプレゼントする。たったそれだけではあるけれど、意外に好評で朝から行列ができていた。

「そっか。……それは、俺は厳しいね」
「あ……。ごめんなさい」

 着替えとなると、補助が必要となるようで……。車椅子の青空さんにコスプレ衣装を着てもらうことは難しいだろう。本当は二人で写真を撮りたかったけれど、仕方ない。

「で、でも他にもいろんなお店あるし! いっぱい回りましょう!」
「そうだね」

 少し寂しそうに青空さんが微笑むから、私は目一杯楽しんでもらおうと、行くところにチェックをつけたパンフレットを取り出した。

「どこから行きしょうか? 甘味処も気になるし、フランクフルトも売ってるって言ってたよ! それから、かき氷に……」
「梓、それ食べるところばっかり」
「あ……」

 青空さんに笑われて、私は失敗に気付く。たしかに、私がメモしているところは全部私が食べたいものばかりだ……。

「ごめんなさい……」
「いいよ、今言ってくれたやつ全部行こう」
「いいんですか?」
「うん。梓の嬉しそうな顔見てたら、なんかお腹すいてきちゃったし」
「もう!」

 笑う青空さんの後ろにつくと、私は車椅子に手をかけた。ガタン、とならないようにそっと押し始めると、青空さんが小さな声で「ありがとう」と言ったのが聞こえた。
 それから二人で、たくさんのお店を回った。途中、体育館でやっていた軽音楽部のライブを見たりもした。
 周りの目が全く気にならない、と言えば嘘になるし、誰かがどこかでヒソヒソと何かを言っている声にモヤモヤすることもあるけれど、それでもこうやって青空さんと一緒に学校の中を歩けるのが楽しかった。でも……。

「え、あれって一組の福島さん?」
「車椅子? もしかして彼氏?」
「うわー、大変そう……」
「っ……」

 すれ違いざまに言われると、悲しくなる。どうしてそんなこと言われなきゃいけないのか。大変かどうかなんてどうしてわかるの? そう言い返したくなってしまう。

「なっ……」
「梓」
「んぐ」

 買ったフランクフルトを、言い返そうと開けた私の口に放り込むと、青空さんは笑った。

「美味しい?」
「……うん」
「よかった」

 ゴクンと飲み込むと、さっきまでのイライラも一緒に飲み込んでしまったようで、少し気持ちが落ち着く。青空さんは凄い。本当は私なんかよりも、青空さんの方がずっとずっと傷ついているはずなのに……。

「ねえ、梓」
「え?」

 そんな私に、青空さんはどこか遠くを見ながら声をかけた。

「あれって何?」

 青空さんの視線の方向を追うと、そこには図書館があった。夏休みに、私がずっと通っていた図書館が。

「あれ、図書館です。ほら、前に青空さんが教えてくれた」
「あれが……。ね、行ってもいい?」

 青空さんの言葉に、私はパンフレットを確認する。図書館は……。

「開いてるみたいなので大丈夫です。でも、特になんのお店もやってないみたいですけど……」
「中を見てみたいだけだから」
「じゃあ、行きましょうか」

 私は青空さんの車椅子を押すと、少し離れた場所にある図書館へと向かった。夏休み中はあんなにも通った場所だったけれど、最近は忙しかったり、莉緒や他の友達と過ごす時間が増えたりと、行くのは久しぶりだった。
 重いドアを開けると、空気が変わる。念のため司書さんに車椅子での入館の確認を取って、私たちは誰もいない図書館の中へと進んだ。

「ここが、姉ちゃんの言ってた……」
「青空さんが言ってたとおり、面白い本がたくさんありましたよ」
「そっか……」

 青空さんは辺りをキョロキョロと見回すと、私に尋ねた。

「梓はいつもどこに座ってたの?」
「私はあそこです」

 窓際の日の当たる席を指さすと、青空さんは車椅子を操作してそちらへと向かう。慌てて後を追うと、机の前で立ち止まっていた。

「青空さん?」
「……これ、どけてくれる?」

 青空さんは三つ並んでいる椅子のうち、二つを指さすとそう言った。どうしたというのだろうか。私は青空さんの意図がわからなかったけれど、言われたとおり机から椅子をどけた。

「ありがとう。そしたら、梓はそこに座って」
「ここ、ですか?」

 言われたとおり一つ残った椅子に座る。いったい……。

「っ……」

 青空さんは椅子があったところに車椅子をつけると、私の方を向いた。それはまるで隣り合って座っているように見えて、思わず言葉を失う。

「いいなぁ」

 机の上に頭を乗せると、青空さんは呟いた。

「俺もこうやって、梓とここで勉強したり、本を読んだりしたかった」
「青空さん……」
「同い年だったら……こんなふうに、一緒に過ごせたのかな」

 同い年の、青空さんと一緒に……。そんな高校生活が送れたら、どんなに幸せだろう。毎日、学校で会って「おはよう」って言って。一緒に授業を受けて、帰り道にどこか寄り道なんかしたりして。

「楽しそうですね」
「ね。……ね、梓。俺のこと、青空って呼んでよ」
「え……」
「同い年だったら、きっとそう呼んでたでしょ?」

 それは、そうかもしれないけれど……。でも……。

「ね、お願い」
「っ……」
「梓」
「……せい、あ」
「なぁに」

 青空さんはふにゃっとした笑顔でこちらを見ると、嬉しそうに笑っていた。初めて見るそんな顔に、心臓が破裂しそうなほどうるさくて、顔が熱くて……。私は思わず自分自身の腕で顔を隠した。

「梓? どうしたの?」
「……恥ずかしい」
「可愛いなぁ。……ね、もう一回呼んで」
「……ダメ」
「どうして?」
「どうしても」

 私の返事に青空さんはクスクス笑うから……からかわれていたんだと気付いて、私は顔を上げた。

「梓?」
「そろそろ行きましょうか。青空さん!」

 わざと「さん」を強調する私に青空さんはまた笑ったけれど、私は気にせずに椅子から立ち上がり、青空さんの車椅子に手をかけた。
 図書館を出たところで私のスマホに連絡が入った。

「あ、まずい」

 メッセージを確認して、慌ててポケットに手を入れるとそこには小さな鍵があった。

「それ、何?」
「えっと……教室にある金庫の鍵、です」
「金庫?」
「今日の売り上げとかを入れるために用意してたんですけど、鍵を私が持ったままにしちゃったみたいで、鍵が開けられないって連絡が……」

 交代の時に渡さなきゃと思っていたのにすっかり忘れていた。

「これ、教室まで持って行かなきゃいけなくて……申し訳ないんですけど……」
「うん、じゃあ行こうか」
「え……?」

 どこかで待っていてもらえないか、そう言おうと思っていたのに――。青空さんは当たり前のようにそう言うと、不思議そうに首を傾げた。

「梓? 行かないの?」
「一緒に行ってくれるんですか?」
「行っちゃダメだった?」
「い、いえ。それじゃあ行きましょう!」

 車椅子を押す手に力を込めると、私は教室へと向かった。途中で寄った職員室で事情を話してエレベーターを使わせてもらうと、三階まで一瞬で着いた。

「普段、階段めっちゃしんどいのに……」
「今日はラッキーだね」

 ですね! と、言ってしまっていいのかわからず、苦笑いを浮かべてしまう。
 エレベーターを降りると、一瞬、周りの人がこちらを見たのがわかった。でも、みんな自分たちの出し物に忙しいのか、そこまで私たちのことを気にすることはなく、私はホッと息を吐いた。

「あ、福島!」

 教室の近くまで歩いて行くと、私のことを待っていたのか、クラスメイトの男子が廊下で慌てたように声をかけてきた。

「ちょっとすみません」

 青空さんに断りを入れて、私はその子の元へと向かった。

「ごめんね、鍵すっかり忘れてて」
「いや、こっちこそごめんな。……デートだったんだろ?」
「あ、うん……。まあ、ね」

 私の後ろに見える青空さんの姿を見て、茶化すように言う男子に照れくさくて適当な返事をすると、私はポケットから出した鍵を渡した。

「ありがと。んじゃ、ホントごめんな」

 男子は慌てて教室へと入っていく。私は、そんな男子の背中を見送ると、青空さんの元へと戻った。

「お待たせしました」
「…………」
「青空さん?」
「……ね、梓」
「なんですか?」
「……違う」

 私の返事に、青空さんは不服そうだった。いったいどうしたのか……。

「ね、梓。梓のクラスはコスプレ写真館、だったよね」
「はい。それが、どうか……」
「入ろうか」
「え、ええ!?」

 私の返事なんか待たず、青空さんは教室へと向かっていく。ちょうど、お客さんが途切れたタイミングだったのか、列に並ぶこともなく、教室へと入っていく青空さんのあとを私は慌てて追いかけた。

「せ、青空さん?」
「すみません。写真、撮りたいんですけど」
「あ、はーい。……って、福島? それに……」

 青空さんの姿を見て、クラスメイトは顔を見合わせている。教室の中の空気が固まったのがわかって、居心地が悪い。でも、青空さんはそんなの気にならないように受付をしていたクラスメイトに話をする。

「彼女と写真を撮りたいんだけど……北条高校の制服ってある?」
「あ……。ちょっと待ってくださいね」

 その言葉に、何かを思いついたのか、クラスメイトは相談を始め――そして、青空さんを手招きした。完全に置いてけぼりにされた私が所在なくいると、こっちこっちと別のクラスメイトが手招きした。

「さっきの、福島さんの彼氏?」
「うん」
「かっこよかったね! 写真、今準備してるからさ、ちょっと待ってて」

 そうこうしている間にも、私の前には片付けていたはずの机と椅子が準備されて、そこに座るように指示をされる。隣に並べられた机には椅子の準備はなく……なんとなく、今から何が起きるか、わかった気がした。

「お待たせしましたー!」

 その声に顔を上げると、そこには北条高校の制服――のシャツを着てブレザーを羽織った青空さんの姿があった。照れくさそうに私を見ると、青空さんは笑って隣の机へとやってきた。

「どう、かな?」
「すっごく、似合ってます」
「ホント?」
「はい! まるで、クラスメイトみたい!」

 私の言葉に、青空さんはニッコリと笑った。

「……じゃあ、似合ってます、じゃなくて」
「え?」

 隣の机に、起用に車椅子をはめ込むと、青空さんは私の方を向いた。

「似合ってるね、でしょ」
「っ……」
「同じクラスの男子に、敬語なんて使う?」
「それは……」

 たしかに、そうなんだけど……。

「ほら、言ってみて?」
「っ……」
「梓」

 ダメ押しのように耳元で言われると、もう逆らうことなんてできない。

「似合って……るね」
「やった」

 嬉しそうに笑う青空さんの隣で、私は真っ赤になった顔を隠すのに精一杯だった。なのに……。

「はーい。じゃあ、写真撮るんでこっち向いてくださいー って、福島? 何、顔隠してんの?」
「ほら、梓。言われてるよ」
「わかってます……」
「違うでしょ?」
「っ……わかって、るよっ」

 やけくそのように言うと……私の手に、何かが触れた。

「え……?」

 いつの間にか、私の手を青空さんがギュッと握りしめていた。いつもは、後ろから青空さんを押しているから、こんなふうに手をつなぐことなんてなくて……。

「っ……」
「撮りまーす。ハイチーズ!」

 必死に笑顔を作るけれど、意識は全部手元にいっていて……。きっと真っ赤な顔で映ってるんだろうな、なんて思うと写真を見るのが恥ずかしくて仕方なかった。
借りていた制服を返す頃には写真の印刷も終わっていたようで、青空さんと一緒にそれを受け取るとお礼を言って教室を出た。

「綺麗に撮れてるよ」
「ホントに……?」
「うん。ほら」

 再びエレベーターを借りて中庭へと出た私たちは、近くのベンチに座った。青空さんから手渡された写真には、幸せそうに微笑む青空さんと、恥ずかしそうに笑う私たち――が机の下で手をつないでいる姿が映っていた。

「ホントだ……」
「あーあ。ホントにクラスメイトだったらよかったのになー」

 残念そうに呟く青空さんに、私は……。

「クラスメイトじゃないけど……。彼女だし……ね、青空君」
「……梓、今なんて?」
「な、なんでもない!」
「え、よく聞こえなかったからもう一回言ってよ」
「もう言わないー!」
「えーー!」

 じゃれ合いながら笑い合う。そして、なんとなく会話が途切れたとき、青空さんと目が合った。

「ね、梓」
「……何?」
「キス、してもいい?」
「そ、そんなの……」

 突然の問いかけに、どうしていいかわからなくなる。でも、青空さんの瞳は私を捉えて放さない。

「同級生なら……このシチュエーションで、キス、しないわけないと思うんだけど、どう思う?」
「それは……そうかも、だけど……」
「じゃあ、いい……?」

 小さく頷いた私の唇に、そっと優しく青空さんの唇が触れる。恥ずかしくて、心臓が苦しい。
 青空さんの顔を見ることができず、俯いたままの私に、青空さんは小さく笑った。

「可愛い」
「もう……!」
「ね、もう一回、名前呼んで」
「せい……んっ」

 名前を最後まで呼ぶことなく、私の唇は青空さんに塞がれた。二度目のキスは甘酸っぱくて、泣きそうなぐらい幸せだった。