数日後、なんとか夏休みの宿題を終えた莉緒とともに私は教室にいた。夏休み明けだというのに始業式があるわけでもなく、数日後からはじまるテスト範囲の確認と宿題の提出で終わった。

「はぁ……」
「どうしたの? 元気ないね」
「莉緒……」

 思わずため息を吐いた私に、莉緒が不思議そうに尋ねてくる。

「何かあった?」
「何か……」

 どちらかというと、何もなかったからため息を吐いている。八月末には退院できると言っていたはずの青空さんは、今日の電車には乗っていなかった。
 そもそも、退院したらもう病院には通う必要はないから乗ってこないのではないか、と気付いた頃には、電車は青空さんが乗る駅を過ぎていた。
 青空さんのお兄さんである車掌さんに聞こうかな、と思ったけれど、今日は違う人が乗っていた。夏休み中は乗る時間が違うからお兄さんに会わないのかな、と思っていたけれど、今日も会えないなんて……。

「何でもない、ことはないけど……」

 青空さんのことは、まだ莉緒には話せていない。ううん、青空さんのことだけじゃない。高校受験の件も、だ。私なんかのことを友達だと、そう言ってくれた莉緒だから、いつかは話さなければ、と思っているんだけど……。

「梓?」
「……もうちょっと落ち着いたら、話、聞いてくれる?」

 恐る恐る尋ねた私に、莉緒はいつものように左頬にえくぼを浮かべると笑った。

「梓が話したくなったらでいいよ。……友達だから、じゃなくて、梓が本当に話したいって思ったときでさ」
「莉緒……」

 私が考えていることなんてお見通しとばかりに莉緒は言う。そんな莉緒だからこそ、いつかちゃんと話したいと思えるんだと思う。

「ありがとう」
「どういたしまして?」

 顔を見合わせてくすくすと笑う私たちを、クラスメイトが不思議そうな顔で見つめていた。

「莉緒、福島さんと仲良くなったの?」
「そうだよー。梓のおかげで私、宿題もテスト勉強もバッチリだからね!」
「え、嘘。いいなー! 福島さん、私にも教えてー」
「う、うん。いいよ」
「やったー!」

 莉緒の友達だろうか、クラスメイトが何人も私の机の周りに集まってくる。……こんな日が来るなんて、北条に入学した頃は思いもしなかった。ただただ辛くて悲しくて嫌で仕方がなかったのに、こんなふうに誰かと笑える日が来るなんて……。

「莉緒、ありがとう」

 周りにいたクラスメイトが去ったあとで、私は莉緒と一緒に教室を出た。突然、お礼を言った私に、莉緒は怪訝そうな表情を向けた。

「……何が?」
「莉緒のおかげで、クラスメイトとも馴染めそうだから……」

 入学してから五ヶ月。ようやく、この学校の一員になれた気がする。それは、きっと今隣にいてくれる莉緒のおかげだから……。でも、私の言葉に莉緒は首を振った。

「別に私のおかげとかじゃないよ。多分だけど、みんな梓と仲良くなりたかったんだよ。ただ、梓が近寄るなって雰囲気を出してたから今まで近づけなかっただけで」
「え……?」

 私、と……?

「梓、気付いてないと思うけど、雰囲気が柔らかくなったよ。教室にいても、もう居場所がないなんて感じないでしょ? だから、周りの子たちも、梓に話しかけてもいいんだって思ったんじゃないかな」

 そうなの、だろうか。私が――私の気持ちが変わったから、だから……? 今まで誰も私に話しかけてこなかったのは、私が嫌われてたからじゃなくて、私が、みんなを拒絶していたから……?

「……でも、きっとそんなふうに周りに思ってもらえるのも莉緒のおかげだよ」
「ちが……」
「違わないよ! ……莉緒がいてくれるから、あの教室で一人じゃないって思えたんだよ。だから、ありがとう」
「な……」

 プイッとそっぽを向いてしまった莉緒の耳が赤くなっているのを見て、私は笑った。そんな私を見て莉緒も笑った。
 私たちは校門を出たところで別れた。莉緒は隣町に住んでいるらしく、学校のそばのバス停からバスに乗るんだと、夏休み中、図書館からの帰り道に聞いた。
 私は駅までの道のりを一人で歩き、タイミングよく来た電車に乗った。一人で乗る電車は退屈で、でもほんの少しそれに慣れてきたことに寂しさを覚える。青空さんはいつ戻ってくるのだろうか。
 青空さん、私、学校で笑ってるよ。友達と笑い合ってるよ。
 早く会って伝えたい。
 青空さん……。

「梓」
「え……?」

 最初、青空さんのことを考えすぎて、幻聴が聞こえたんだと思った。でも、降り立った最寄り駅のホームにいたのは、間違いなく青空さんだった。

「梓!」
「青空さん……!」

 駆け寄った私は――青空さんの姿に、言葉を失った。だって……青空さんは……。

「青空、さん……」
「ただいま」
「青空さん……」

 おかえり、と言いたいのに開いた口からうまく言葉が出てこない。青空さんは、車椅子を器用に操作すると、私の方へと近づいた。

「歩けなくなっちゃった」
「どうして……」
「……思ったより悪化しててね。切断は免れたんだけど、自力で歩くのが厳しくて……」

 青空さんは苦笑いを浮かべながら左足に触れるとそう言った。

「悪化って……。大丈夫なの……?」
「うん。大丈夫になるように、こうなったんだ」
「そ、う……なんです、か……」

 なんて言っていいかわからなかった。だって、大丈夫なわけないじゃない。歩けないなんて、大変なことになったのに……。

「梓」
「……ぅ」
「そんな顔、するなって」

 青空さんは手を伸ばすと、私の頬を両手で挟んで、それから笑った。

「俺なら大丈夫だから。今って、バリアフリーも進んでて、意外と不便じゃないんだよ。ここだって、エレベーターがあるし」
「青空さん……」
「だからさ、――そんな可哀想な人を見るような目で、見ないで」
「あ……」

 そう、だ……。青空さんがこうやって笑っているのに、私が暗い顔をしていてどうするの。辛いのは、悲しいのは私じゃない。青空さん自身なんだから。

「ごめ……」
「謝るのもなし」
「……はい」
「よろしい」

 そう言って青空さんは笑う。だから、私も……青空さんに負けないように、満面の笑みを浮かべた。
 ちょっと話そうか、青空さんはそう言って器用に車椅子を反転させると、進み始めた。ホームの端のベンチには誰もいなくて、私はベンチに、青空さんはその隣に車椅子を止めて並んで座った。
 青空さんが隣にいる、それだけで心臓がドキドキと音を立てる。……でも。

「これ、気になる?」
「あ……」

 私の視線に気付いたのか、青空さんが困ったように笑う。気にならない、と言ったら嘘になる……。だから、私は小さく頷いた。

「だよね」
「ごめんなさい……」
「いや……。ここで『気にならない』って言われる方が、気を使われてるんだろうなって思うから。むしろ、本当のことを言ってくれた方がいいよ」

 青空さんは悲しそうに微笑む。今、こんな顔をさせたのは、私だ……。
 ――何を怖じ気づいていたんだろう。足がなくなったって、青空さんは青空さんだ。
 私が前を向くきっかけをくれた、大事な人だ――。

「青空さん!」
「ん?」
「私ね、同じクラスに友達ができたんです」

 突然の私の言葉に、青空さんは一瞬驚いたような表情をしたあと、嬉しそうに笑った。

「本当に!? うわー、よかった。頑張ったね」

 私の頭を優しく撫でると、青空さんは本当に嬉しそうにそう言ってくれる。だから……。

「はい! ……青空さんのおかげです」
「俺の?」

 青空さんは不思議そうに首を傾げた。そんな仕草が妙に可愛くて笑ってしまう。私は、隣に座る青空さんの手をそっと握りしめた。

「青空さんが、俺も頑張るって言ったから。だから、私も頑張ろうって思えた。手術を頑張る青空さんに負けないように、今度会うときに胸を張って会えるような自分になりたいってそう思って」

 そこまで話して、一呼吸置いた。息を吸い込むと、心臓がいつもよりもうるさいのがわかる。緊張している。でも、この緊張は、嫌なものじゃない。

「青空さん、私に話したいことがあるって言ってくれてたでしょう。その前に、私も青空さんに言いたいことがあるんです。……先に話してもいいですか?」
「……うん」

 もう、バレてるかもしれない。でも、それでもきちんと自分の口で伝えたかった。

「青空さんが好きです。青空さんがいてくれたから、私は一歩踏み出すことができた。あの日、電車の中で青空さんが言ってくれた言葉が、私の世界を変えた。真っ暗でもう何の希望も未来もないと思っていた私に、見方を変えてくれた。こんなにも世界がきらめいていたんだって教えてくれた」
「梓……」

 私の手を、青空さんは握り返してくれない。ダメだったのだろうか……。もしかしたら、青空さんの話というのも同じものではないか、そんな都合のいいことを思ったこともあったけれど……。

「青空さん……」

 やっぱり、一方的に、私が青空さんを想っていただけだったんだ。

「ごめんなさい……」

 私は、握りしめていた青空さんの手をそっと離した。

「……梓!」
「え……?」

 けれど、その手を、青空さんは握りしめた。私の手を、強く、強く握りしめた。

「ごめん、梓。俺……っ」

 握りしめられた手は、熱くて、そして小さく震えていた。

「自信がなかった。今日会ったら、梓に気持ちを伝えようって、君と会って俺がどれだけ救われたか。梓のことが、どれほど好きか……そう想っていたのに……」
「せい、あ……さん……」

 青空さんの瞳からは、涙があふれていた。その涙が、頬を伝い、重なった私たちの手の甲へと落ちる。
 その涙はとても温かくて、綺麗だった。

「こんな足になって、梓の隣を歩くこともできない。梓に助けてもらうことしかできないのなら、いっそ気持ちを伝えずにこのまま友達でいた方がいいんじゃないかってそう思って……」
「そんなこと……っ」
「うん……。梓、これから俺と一緒にいると大変なこともたくさんあると思う。行けない場所だってたくさんある。周りの目だって気になるかもしれない。でも、それでも……こんな俺と、一緒にいてくれますか……?」

 青空さんの言葉に、次から次へと涙があふれてきて言葉にならない。こんなに嬉しいのに、涙が止まらない……。

「っ……あ……せ、いあ……さ……」
「好きだよ、梓。俺は、梓のことが大好きだ」

 青空さんは両手を広げると、優しく微笑んだ。

「おいで」

 その言葉に、私は広げられた青空さんの腕の中に飛び込んだ。
 青空さんの腕の中は、優しくて、温かくて……まるでお日様に抱きしめられているみたいだった。
 ――どれぐらいそうしていただろう。私たちはそっと身体を離すと、顔を見合わせて笑った。照れくさくて、恥ずかしくて笑うことしかできなかった。
 それから、青空さんはこれからのことについて話し始めた。

「手術が終わったから、これからは以前ほど病院には行かなくてよくなったんだ」
「そうなんですね……」

 よかったような、寂しいような……。

「っ……!」

 病院に行かなくてよくなったことはいいことなのに、一緒に電車に乗れなくなることが寂しいだなんて、自分勝手もいいところだ……。
 私はみっともない気持ちを抑えつけたくて、手のひらをギュッと握りしめた。
 でも、そんな私の隣で、青空さんは笑った。

「ちょっと残念だけどね」
「え?」
「せっかく二時間も梓のことを独り占めできる時間だったのにさ」
「せ、青空さんっ!」

 青空さんの言葉に、頬が熱くなるのを感じた。慌てて顔を両手で隠すけれど、そんな私を青空さんはわざと除き込んでくる。

「え、梓は違った? そっか、そう思ってたのは俺だけだったんだね」
「ち、ちが……。そんなこと……」

 ない、と言おうとした私を――青空さんが笑いながら見ていることに気付いた。これは、もしかしなくても……。

「青空さん……。もしかして私のこと、からかってます??」
「ん? なんのことかな?」

 おかしそうに笑う青空さんに、もう! と、想ったけれど、でも……青空さんが笑っていることに安心したので、からかわれたことはどうでもいいような、そんな気持ちになった。でも、何も言わない私に、青空さんは不安そうな表情を見せた。

「梓? 怒った? ごめん、からかうつもりはなかったんだけど、梓の反応が可愛くてつい……」
「…………」
「梓? 梓ちゃん? あーずーさー……?」
「ふふ……」

 思わず笑ってしまった私に、青空さんも笑う。

「嵌められたー!」
「先に意地悪したのは青空さんですー」
「……それも、そうか」

 顔を見合わせて笑う、そんな他愛もない時間が幸せなんだと、初めて知った。こんな時間が続いてほしい。たとえどんな困難があったとしても、青空さんとなら乗り越えられる気がする。ううん、そうであってほしい。

「あーおかしい。……で、なんだっけ。あ、そうだ。病院には行かなくなったから朝は会えなくなるんだけど、その分……土日にデートしませんか?」
「デート……?」
「そう。デート。……嫌?」
「嫌じゃない!」

 青空さんの言葉を遮るようにして言う私に、青空さんはもう一度笑った。今日だけで、何度も青空さんの笑顔を見た気がする。これからたくさんの時間を一緒に過ごすことができれば、もっといろんな青空さんの顔を見ることができる。それが嬉しくて、幸せで、胸の中が温かくなる。

「じゃあ、土日は一緒にいろんなところに行こう。平日は会えない分、いっぱい会おう」
「平日……。そうですよね、朝会えないとなるとそうなりますよね……」

 通学に二時間かかる私は、授業が終わってから帰ってくると六時……遅いときは七時過ぎにになる。それから会うとなると、私の両親はいい顔をしないだろう。たとえ、私に対して無関心を貫いていたとしても。

「ごめんなさい、私のせいで……。学校がもっと近かったら……」
「梓だけのせいじゃなくて」

 でも、私の言葉に、青空さんは困ったような表情を浮かべた。

「梓に会いたいから終わる時間に学校まで迎えに行く、なんてことができたらいいんだけどね……。この足で外出するとなると、やっぱり家族に心配も負担もかけるから」
「あ……」
「今日も、本当のこと言うとこの駅まで兄に送ってもらったんだ。たまたま仕事が休みだったから。慣れたら大丈夫かもしれないけど、今はまだ、ね」
「ごめんなさい……」

 少し考えればわかることだ。八月に手術して、今はまだ九月になったところだ。青空さん本人も大変だろうし、ご家族だって心配に決まっている……。
 なのに、そんなことも考えずに私は、私のことばかり考えて……。

「謝らせたい訳じゃないんだ。……それに、俺だって休日以外も梓に会いたい。だから、会えるように頑張るから、もう少しだけ待ってくれる?」
「無理、しないでくださいね?」
「心配しないで」

 そう言って青空さんは私の頭を優しく撫でた。


 そのあと、お互いの連絡先の交換をしたり、会えなかった間の話をしたりしていたけれど、そのうち青空さんのスマホに連絡が入った。どうやらお兄さんからだったようで、そろそろ帰らなければいけないと画面を見ながら残念そうに青空さんは言った。

「もう少しいたかったけど……ごめんね」
「そんな……。会えただけで、嬉しかったです」

 連れてきてくれたお兄さんのおかげで会うことができたのだ。感謝することはあっても、文句なんてあるわけがない。それは青空さんも同じだったようで「まあね」と言って笑った。

「でも、今日会えてよかった」

 お兄さんはホームの外で待っているらしく、私は車椅子を器用に操る青空さんの隣を歩いていく。

「そうですね。今日会えなかったら次のお兄さんの休みまで会えなかったかもしれないですもんね」
「それも、あるんだけど……」

 青空さんはなぜか視線をそらすと、口ごもる。どうしたというのだろう?

「青空さん?」

 もう一度、尋ねた私に青空さんは渋々口を開いた。

「……今日、俺誕生日なんだ」
「えっ!?」
「だから何? って感じだよね。恥ずかしいな、俺」

 驚く私に、青空さんは照れくさそうに笑う。

「でも……。やっぱり今日、梓に会いたいなって思って。それで、本当に会えたから嬉しくて」
「そ、そんなの……知ってたらプレゼントとか……」
「プレゼントなら、もうもらったよ」
「え?」

 嬉しいもの……? でも、青空さんになんにもあげてないのに……。思い当たるものもなく首を傾げた私に、青空さんはおいでおいでと手招きをする。その手に誘われるようにして近づくと――青空さんは私の手を引っ張った。

「きゃっ」

 突然のことにバランスを崩した私は、気が付くと青空さんの腕の中にいた。

「ご、ごめんなさ……」
「こうやって、梓が俺のそばにいてくれることが、一番のプレゼントだよ」
「え……」
「もう一度、梓に会いたいって、ずっとそればっかり想ってた。だから、こんなに幸せな気持ちにしてくれた梓がそばにいてくれること以外に、欲しいものなんてない」
「青空さん……」

 私は何も言えなかった。言えば、涙があふれてしまいそうだったから。

「でも……」
「え?」

 私の耳元で、青空さんがまるでいたずらを思いついた子どものような声で言った。さっきまでとは違う声のトーンに思わず顔を上げた私は、ニッコリと笑う青空さんと目が合った。

「梓が何も用意してないってしょんぼりするぐらいなら」
「ぐらいなら?」
「好きだって、もう一回言って?」
「っ……!?」

 真っ赤になった私に、追い打ちをかけるように青空さんは続ける。

「もう一回聞きたい」
「なっ……」
「ダメ?」
「ダメ!」

 身体を押すようにして立ち上がると、私は青空さんに背中を向けた。頬だけでなく、耳まで熱くなっているのを感じる。ちらっと後ろを見ると、青空さんはニコニコと嬉しそうに笑っていた。

「梓、可愛い」
「可愛くないです!」
「可愛いよ」

 青空さんの言葉が恥ずかしくて、顔を見ることもできない。そんな私の隣に並ぶと、青空さんはそっと手を握りしめた。

「梓」
「…………」
「ごめんね? からかい過ぎちゃった」
「…………」
「梓ー?」

 青空さんは少し心配そうに私の顔をのぞき込む。だから、私は……。

「っ……!」
「えっ……ええっ!?」
「さっきの仕返し!」

 一瞬、唇の触れた頬に手を当てると、青空さんは私に負けないぐらい真っ赤な顔で、口をパクパクとしながら、声にならない声を出す。私だって恥ずかしくて仕方なかったけど、何でもないふりをしながら青空さんの手に手のひらを重ねた。

「…………」

 でも、やっぱり顔を見ることができなくて、お互いにそっぽを向いたままその場から動けずにいた。
 どうしよう……。
 困っている私たちを救うように、青空さんのスマホが鳴った。

「……兄が着いたって」
「そうなんですね……」
「うん……。行こうか」

 私たちは歩き出す。普段は階段で下りるところを、駅の奥にあるエレベーターを使って下に降りた。駅の外は相変わらず日差しが熱い。けれど、どことなく風は秋の匂いがしていた。

「青空」
「兄ちゃん」

 目の前に止まった車が窓を開けると、そこには――私服姿の車掌さんがいた。制服姿しか見たことがなかったので少し不思議な気分……。
 そんなことを考えていると、エンジンを止めたお兄さんが車から降りてきた。

「お待たせ……って、何その顔」
「別に……!」
「ちゃんと会えてよかったな」

 幼い子どもにするように、頭を撫でるお兄さんの手を、青空さんは鬱陶しそうに払う。そんな青空さんの態度に少しビックリした。こんな顔もするんだなぁ……。

「やめろよ」
「えー。なに? 梓ちゃんの前だから格好つけてんの?」
「ちが……!」
「ほら、梓ちゃんに笑われてるぞ」

 こらえようと思ったのに、気が付くと笑ってしまっていた私を見てお兄さんは言った。

「っ……。ごめん、格好悪いところ見せた」

 少し赤くなった頬を隠すように腕で顔を覆う青空さんは、なんだかとても可愛くて私はもう一度笑ってしまう。そんな私の態度に、青空さんは恨みがましい視線をお兄さんに向けた。

「もういいって」
「ごめん、ごめん。なんか青空のそんな態度、珍しいから」

 お兄さんは笑うと、後部座席のドアを開けた。開いたドアの横に車いすをつけると、青空さんは起用に車の中へと移動していく。ときおり、お兄さんに手伝ってもらいながらも、少しでも自分でできることは自分でしよう、と思っているであろう青空さんの気持ちが伝わってくる気がした。
 車に乗り込んだのを確認すると、お兄さんは運転席へと移動した。エンジンをかける音が聞こえると、青空さんは車のドアを閉めて窓を開けた。
 近くにいるはずなのに、ドア一枚しか隔ててないはずなのに、こんなに寂しく感じるのはどうしてだろう。昨日まで、ずっと会ってなかったのに、会えた途端、こんなにも別れが辛い。
 俯いてしまった私の頭を、青空さんの手が優しく撫でた。

「それじゃあ、また」
「はい……」

 頷くと同時に車が動き出す。あっという間に見えなくなった車の姿を、動けないままずっと見つめ続けていた。
 いい加減、帰らなきゃ。ようやくそう思えたのは、真っ赤な夕日があたりを照らし始めた頃だった。ふわふわとした気持ちと、ショックな気持ち、それからほんの少しの寂しさがごちゃまぜになって、どうしたらいいのかわからない。
 青空さんと付き合えることになって嬉しいはずなのに……。

「あれ……?」

 トボトボと歩き始めた私は、スマホに一通のメッセージが届いていることに気付いた。送り主は……。

「青空さん?」

 アプリを開くと、そこには聖愛さんからのメッセージがあった。

『いろいろビックリさせたと思う。でも、梓のことが好きで、一緒にいたいっていう気持ちに嘘はないから。これから二人でたくさんの思い出を作っていこう。大好きです』

 送信時間は、今から十五分も前。車が出発してすぐに送ってくれたんだろう。青空さんを見送った私が、きっとしょんぼりしてるだろうと思って……。

「青空さん……」

 だから私も、一言だけメッセージを送った。

『私も、青空さんが大好きです』

 と――。

 送ったメッセージに既読を示すマークがついたのを確認して、私は前を向いて歩き出した。これから先、たくさんの楽しいを青空さんと作っていくんだ。
 沈み始めた夕日を、見つめながら。


 付き合い始めたあの日から、私は週末になるのを心待ちにしていた。メッセージアプリではやり取りをしているけれど、やっぱり実際に会いたい。電話で話はしているけれど、直接声を聞きたい。そう思うのは仕方のないことだと思う。

「早く明日にならないかな」
『そうだね、梓に会いたいよ』
「私も青空さんに会いたいです。……っ」

 思わず言ってしまった言葉に恥ずかしくなる。つい昨日も青空さんに「あの日はあんなにだいたんだったのに」なんて笑われるたけど、あれはきっと青空さんに久しぶりに会えて、そして付き合えることになってどこかハイになっていたんだと思う。じゃないと、あんな……あんなこと……。

『梓? どうかした?』
「あっ、う、ううん。なんでもないです!」

 突然、無言になってしまった私を、青空さんが心配そうに尋ねた。誤魔化そうと慌てて返事をするけれど……電話の向こうから青空さんの笑い声が聞こえた。

「……青空さん?」
『梓のことだから、またあの日のこと、思い出してたのかな? と、思って』
「っ……!」

 言い当てられたことが恥ずかしくて、私は思わず電話を枕に押し付ける。けれど、そんな私の行動さえお見通しとでも言うように、枕の下から漏れ聞こえる青空さんの笑い声。

『ごめんってば』
「声が笑ってます」
『ごめん、ごめん。梓の反応が可愛くてつい、ね』
「もう……」

 こんな会話を、あの日から毎日のように繰り広げている――なんていうと、バカップルだとか頭がお花畑だとか言われそうだけれど、私はいたって真剣で……。でも、恥ずかしくて仕方がないのに、その照れくささすら心地いい気がするのは、どうしてだろう。

『あ、ごめん。そろそろ切るね』

 時計を見ると、十時を過ぎていた。そろそろ電話をやめないとまた……。

「ごめんなさい。うちの親がうるさくて」
『いや、あれは俺が悪いよ。あんな時間まで喋ってたら怒られても仕方ないし』

 青空さんと付き合うようになった翌日、初めて電話をしたとき、あまりの嬉しさか私たちは電話を切ることを忘れてしゃべり続けた。そろそろ切らなければいけない、それはお互いわかっていたのに、切りたくなくて気付かないふりをしていた。……お母さんが部屋のドアを開けるまでは。
「何時だと思ってるの!」そう言われて時計を見ると、日付がちょうど変わった頃だった。突然の乱入者に慌てた私たちは、挨拶もそこそこに電話を切ったのだった……。

「でも……」
『そういえば、お母さんとその後どう?』
「……前よりは、マシだと想います」

 私が高校に落ちたことに劣等感を抱いていたように、母親も悩んでいたんだと今ならわかる。それは私が落ちたこともだし、カンニングという冤罪についてもそうだ。でも……。
 口を開こうとしたそのとき、部屋にノックの音が響いた。

「ご、ごめんなさい。母親かも」
『うん、それじゃあまた明日』

 いつもなら名残惜しいはずのその言葉もそこそこに電話を切ると、私はドアに向かって返事をした。

「はい」

 ドアの開く音と同時に、母親が顔を出した。

「……電話中だったの?」
「まあ……」
「そう」

 何の用だろう。遅くまで電話して、って言われるほど遅い時間でもないし……。
 いぶかしげに見つめていると、母親は私の勉強机の椅子を引っ張り出して座った。

「……お母さん?」
「梓、最近楽しそうね」
「……え?」

 こんな時間まで浮かれたように電話をしていることに対しての嫌味か何か? と、一瞬思った。でも……。

「うん、楽しいよ」

 素直に、そう答えることができた。
 青空さんと出会って、世界の見え方が変わった。自分の思考がどれだけちっぽけだったかに気付けた。受験に落ちたからなんだ。誤解されたからってなんだ。そんなことにずっと囚われたままでいるよりも、今を全力で楽しんで生きていく方が何倍もいい。
 そう私に気付かせてくれたのは、青空さんだった。だから……。

「そうなのね」

 私の返事に、母親は微笑むだけだった。
 もしかしたら、この人はこの人なりに私のことを心配していたのかもしれない。みんなが行くはずの学校に行けず、友人たちからは信じてもらえず、この街で生きづらさを感じたまま過ごさなければいけない私のことを。
 そんなことを考えていると、母親が少しためらいながら、それでも口を開いた。

「――さっきの電話、彼氏?」
「え?」
「この間、電話してたのも同じ子?」
「……うん」

 なんとなく、親に彼氏の、好きな人の話をするのは恥ずかしくて、つい返事に戸惑ってしまう。でも、そんな私の態度なんて気にならないようで、母親は話を続けた。

「そう。……どんな人?」
「どんなって……」

 どんな人……。優しくて、温かくて、私のことを想ってくれてて、それで……。

「前を向いている人」
「前を?」
「うん。苦しい時でも、辛い時でも前を向いて頑張ってる人。……私が前を向くきっかけをくれた人」

 青空さんがいなかったら、莉緒とも、他のクラスメイトとも未だに話ができてなかったかもしれない。クラスの中で一人、誰ともかかわらないままだったかもしれない。でも、青空さんが教えてくれたから。前を向いて一歩踏み出すことの大切さを。

「そう、素敵な人なのね。……お母さんも、いつか会ってみたいわ」
「……いつか、ね」

 私の返事に、母親は少し意外そうな顔をして、それからもう一度微笑んだ。
 用はそれだけとばかりに、部屋を出て行こうとする母親の背中に、私は声をかけた。

「お母さん!」
「……なに?」
「私ね、友達もできたし、学校楽しいよ。だから、もう大丈夫だよ」
「――そう。なら、よかった」

 母親の声が涙声になっているのに気付いたけれど、私はもう何も言わなかった。
 早く青空さんに会いたい。
 会って、あなたのおかげで母親と――お母さんと仲直りすることができたよって、伝えたい。

「早く、明日にならないかな」

 天気予報は晴れ。明日は――青空さんとの初デートだ。


 翌日、九月にしては良すぎる天気に、片付けそびれていた夏物のワンピースを着ると、カーディガンを羽織って家を出た。今日の待ち合わせは青空さんの最寄り駅だった。
 普段は降りない駅で降りると、私は改札へと向かった。
 休日の駅はたくさんの人がいた。青空さんはどこだろう、きょろきょろと辺りを見回すと、青空さんは改札から少し離れたところにいた。

「っ……」

 駅は人であふれているのに、車いすに乗る青空さんの周りにはぽっかりと誰もいない空間ができていた。配慮して開けてくれている人もいるだろう。でも、どこか邪魔そうに、露骨に迷惑そうにそこを避けて歩く人もたくさんいたから……。

「青空さん!」
「梓?」

 わざと明るい声で名前を呼ぶと、青空さんがパッと顔を上げてこちらを見た。私が駆け寄ると、周りの人がジロジロとこちらを見るのが分かった。でも、気にするもんか。

「待たせちゃいました?」
「今来たところだよ」

 お決まりの台詞を言い合うと、私たちは顔を見合わせて笑った。

「行こうか」

 青空さんは車椅子のタイヤに手を添える。……私は、そんな青空さんの背後に回った。

「梓?」
「これ、私が押してもいいですか?」

 それは、この一週間ずっと考えていたことだった。この間は隣を歩いたけれど、青空さんと一緒にこれから先も出かけるのであれば、きっと私が押すことで手伝えることもあるはずだ。

「でも……」
「私が押すのじゃ不安かもしれないけど……少しでも、青空さんの助けになりたくて」
「…………」

 私の言葉に、青空さんが振り返った。その表情は曇っている。

「言ったよね? 可哀想だって想われたくないって」
「思ってないです」
「嘘だ。思ってないならどうして……」
「青空さんのことが好きだから」

 青空さんが息を呑むのがわかった。でも、きちんと伝えたい。私の想いを。覚悟を。

「これから先も青空さんと一緒にいたいから。青空さん一人じゃ乗り越えられないことがあったとしても、二人なら乗り越えられるかもしれない。私が青空さんに助けられたように、今度は私が青空さんの助けになりたい」
「……梓」
「ダメ、ですか……?」

 俯いてしまった青空さんに不安になる。思い上がりだっただろうか。私なんかが、青空さんの助けになりたいなんて……。

「……ない」
「え?」
「ダメじゃない」

 青空さんは振り返ると、泣きそうな顔で笑っていた。

「ありがとう」

 そんな青空さんに首を振ることしかできなくて、私は車椅子のグリップを握りしめる手に力をこめた。

「……それじゃあ、お願いしようかな」
「はい」

 私は足を踏みしめると、車椅子を押して歩き出した。一歩、また一歩と私が歩くと、車椅子も進んでいく。
 きっとこれが本当の意味での、私たちの始まりなんだ。
 本当は不安もまだまだある。段差はどうしたらいいのか、とか階段しかないようなところはどうするのかとか。でも、それでも私たちは進まなければいけない。二人で、乗り越えていかなければいけない。
 私は顔を上げると、私たちの進む先を見つめた。