青空さんが電車に乗らなくなって、一ヶ月が経った。違う車両に乗っているのかとホームを端から端まで見たけれどいなかった。もしかしたら一本遅いのに乗っているのかもしれない。そう思って、遅刻ギリギリになるけれど、一本遅らせたときもあった。それでも、青空さんの姿はなかった。
 青空さんの乗ってきた駅で降りて探してみようか……。そう考えて、気付いた。私は青空さんのことをなんにも知らないことに。名字も、どこに住んでいるかも知らない。唯一知っていることといえば、最寄り駅と、名前、それから北条高校に通っていたお姉さんがいるってこと。たったそれだけ。

「年齢すら、知らなかったなんて……」

 漠然と、年上だろうとは思っていた。私服だったし、高校に通っているにしては週に二日しか電車に乗らないなんておかしかったから。だから、私の降りる駅より向こうにある大学に通っているのかな、と。でも、思ってただけじゃなくて、聞けばよかった。こんなふうに突然会えなくなるなら……。
 最初こそ急に会えなくなって寂しかった。でも、一ヶ月も来ない日が続くと、もしかして何かあったんじゃないか、と不安になる。だって、次に会ったときに教えてくれるって……。

「言ってない……」

 そうだ、あのとき、青空さんは笑って手を振るだけでなんにも言ってなかった。私が勝手に次に、って言ってただけで……。
 もしかして、こうなることがわかってた……? もう乗ってこないから、だから約束しなかったの……?
 再び一人きりになってしまった電車の中は、妙に静かで、寂しくて。ポトリポトリと、頬を伝い落ちる涙が膝を濡らす。
 青空さんと一緒に電車に乗っていたのなんて、たった一ヶ月程度のはずなのに、こんなにも私の中で大きくなっていたなんて……。

「あの……」
「っ……! 青空さ……っ」

 誰かが私を呼ぶ声が聞こえて、慌てて顔を上げた私の前には青空さん――ではなく、車掌さんが立っていた。目深にかぶった帽子を、さらに深く引き下げると、車掌さんは私に何かを手渡した。

「……これ、よければ使って」
「あ……」

 それは、清潔そうにアイロンのかかったハンカチだった。

「もうすぐ降りる駅でしょ。そんな顔で電車から出たら、何事かと思われるよ」
「っ……すみません」

 差し出されたハンカチを受け取ると、車掌さんはホッとした顔で乗務員室へと戻っていく。借りたハンカチを目に押し当てると、どうしてだろう。余計に涙があふれてくる。
 一瞬、そんなわけないのに、青空さんが来たのかと思った。彼が乗ってくる駅なんてもうとっくに過ぎたのに。いるわけないのに、なのに……。

「っ……くっ……あっ……」

 必死に涙を拭うけれど、ハンカチがぐっしょりと濡れても、止まる気配はなかった。


 翌日、借りたハンカチを返そうと、私はいつもより少し早く家を出た。今日もあの車掌さんはいるのだろうか。そういえば、私と青空さんがまだ通路を隔てて座っていたときに、あの車掌がどちらかに寄るようにって言ってくれたんだっけ。あの人のおかげで、自然と隣の席に座ることができるようになった。

「っ……」

 そんなことを考えていると、また涙が出そうになる。いけない、これじゃあ返すはずのハンカチをまた貸してもらうはめになっちゃう。私はツンとする鼻をこすると、熱くなった目尻に滲む涙を拭った。

「おはようございます」
「っ……お、はよう」

 ちょうど電車から降りてきた車掌さんに声をかけると、驚いたような表情を浮かべて、車掌さんは帽子を深く被り直した。

「ご、ごめんなさい。驚かせようとしたわけじゃなくて……」
「ああ、いや。大丈夫だよ。どうしたのかな? まだ発車には時間があるけれど、もう中に入るかい? 今、中の確認とかが終わったから入れるよ」
「あ、はい。えっと、そうじゃなくて……これ、ありがとうございました」

 小さな袋に入れたハンカチを渡すと、車掌さんは困ったような、複雑そうな表情を浮かべてそれを受け取った。

「ありがとう。……返さなくてもよかったのに」
「そんなわけには……。おかげで、泣き顔でホームに立たなくてすみました。ありがとうございました」

 ペコリと下げた私の頭を、車掌さんは優しく撫でた。

「っ……」

 その何気ない動作に、青空さんを思い出してしまう。私がしょんぼりしていると、青空さんはよく頭を撫でてくれた。そのたびに私の心臓は壊れそうなほどドキドキしていた。でも、もう……。

「っ……失礼します」

 このままじゃあ、動けなくなってしまう。私は、車掌さんの手を振り払うようにして顔を上げると、誰もいない電車へと乗り込んだ。
 がらんとした車内を見回したあと、私はいつもの席へと向かった。この間までは、二人がけの席の右側に座って、左に青空さんが乗り込んでくるのを待っていたのに……。重い足を引きずりながら、席へと向かう。誰もいないいつもの席に。けれど、そこにはいつもと違うものがあった。

「……え?」

 私の座る隣の席、つまりこの間まで青空さんが座っていたあの席に、真っ白な封筒が置いてあった。これは……。
 封筒には『梓へ』と書かれている。裏返すと――青空さんの名前があった。

「っ……!」

 誰が、とかどうして、とかそんなこと考える余裕なんてなかった。私は、慌てて席に座ると、封を開けた。
 そこには、性格が表れるような丁寧な字で、私へのメッセージが書かれていた。


 梓へ

 突然、俺が来なくなって心配したと思います。悲しい思いをさせたなら、ごめんね。
 梓にずっと言わなきゃいけないって思ってて、それでもやっぱり言えなくて、結局、もう無理ってなってから手紙を書くなんてかっこ悪いことしてるなって思う。
 梓に、どうして俺があの電車に乗っているか、その理由を話したことなかったよね。
 聞かれなかったから、なんていうとズルいかな。でも、本当は聞かれたくなかったから聞かれなくてホッとしていた部分もあったんだ。
 ここまで書くと、なんとなく想像がつくかもしれないけれど、俺があの電車に乗っていたのは、病院に通うためでした。俺の住んでいる街よりも少し遠くにある病院に行くために、週に二回電車に乗っていたんだ。びっくりした? それとも、どうして言ってくれなかったのって怒ってるかな。
 でも、これから書くことはもっと梓を怒らせるかもしれない。
 もう病院に通うことはなくなった。と、書くとまるで病気が完治したみたいに聞こえるね。でも、そうじゃないんだ。入院することになった。だから、通う必要がなくなったんだ。だから……もう、会えない。
 もしいつか、なんて言葉を使うのは好きじゃないけれど、もしも、いつかまた会えるときが来たら、そのときは笑顔の君に会えますように。

                                                                  青空
                                  』


 読み終える頃には、便箋は涙で濡れて、青空さんの書いた文字が滲んでしまっていた。いつの間に発射したのだろうか。電車はもう青空さんが乗ってくることのない、あの駅に着いていた。

 病気……通院……入院……。

 突然知らされたことに、理解が追いつかない。入院しなければいけないぐらい、重病なのだろうか。ずっと通院していたって……どうして……。

「そうだ、お見舞い……」

 入院中なら、お見舞いに行かなくちゃ。そう思った瞬間、思い知らされる。……どこの病院かも、わからないのに、どうやって行くというのか、と……。
 結局、私には何もできない。手紙に書いてあったように、いつか会える可能性にすがるしかないのだ。

「っ……せいあ、さん……」

 どれだけ名前を呼んでも、彼の返事が聞こえることはなかった。


 あの手紙をもらった日から一週間が経った。青空さんが乗ってこない電車に一人乗り、私はなんとか休まず学校に通っていた。
 教えてもらった図書館にはまだ行けていない。行けば、あの日の青空さんを思い出して泣いてしまいそうだったから。
 学校は可もなく不可もなく。楽しくもないけれど、不快なわけでもない。ときおり感じる、クラスメイトからの視線が居心地の悪さに拍車をかけるけれど、なんとかやっていた。
 今日も授業が終わり、教室を出て行くクラスメイトたちの姿を見送ってから、私も席を立った。鞄の中からイヤホンを取り出すと、スマホにつなげて音楽をかける。思考も、外からの音も全てシャットアウトしたかった。そうじゃないと、すぐ青空さんのことを考えてしまうから。
 けれど、選曲が悪かったのか、イヤホンからは『もらった手紙に書いてあったあなたの文字が震えてる』なんて、歌詞が聞こえてきた。青空さんの手紙はどうだっただろうか。震えてたのかな……。あの日から、鞄の奥底に入れて一度も出していないあの便箋を思い出してしまう。考えたくないのに、考えてしまう。だって、考えたって仕方ないじゃない。会えないんだもん。あの電車に、青空さんが乗ってくることは、ないんだもん……。

「え……?」

 そこまで考えたとき、一つの疑問が頭をよぎった。
あの手紙を、あの席に置いたのは、誰……?
 むしろ、なぜ今まで気にならなかったのか……。青空さんが置いた、のだとすると、始発駅であるあの駅まで一度来て、車内において、私が乗ってくるよりも早くにあの電車から降りる必要がある。でも、あの日私は車掌さんに借りたハンカチを返すために、普段電車に乗るよりも少し早く駅に着いた。車掌さんもあのとき、『今、中の確認が終わった』と、言っていた。と、いうことは――。
 私は、駅へと走った。もしかしたら、もしかして、たぶん、きっと……!
 ホームに入ってきている電車は私の住む街へと向かうものだった。キョロキョロと、辺りを見回すと……。

「いたっ!」

 そこには、いつもの車掌さんの姿があった。車掌さんは私に気付くと、ペコリと頭を下げる。私もつられて下げそうになって、今はそんなことをしている場合じゃないことを思い出す。

「あの!」

 電車が発車するまでのほんのわずかな時間しか話をすることはできない。

「あなたですよね?」
「え……?」

 私の言葉に、車掌さんは一瞬戸惑ったような表情を見せた。違ったのだろうか……。ひるみそうになったけれど、もうこの人しか手がかりは、ないのだ。

「青空さんの手紙! 席に置いたの、あなたですよね!」

 もう一度、今度ははっきりと言うと……その人は、困ったような顔をして――それから、「ごめんね」と言った。

「なに……」
「もう、電車が出るから。その話は、あとでいいかな」
「あ……」

 発車のベルが、ホームに鳴り響く。私は渋々電車に乗ると、車掌さんはもう一度「ごめんね」と言って、乗務員室へと入っていく。
 あの「ごめんね」は、どういう意味なのだろうか。でも、間違いなくあの人が何かを知っている。
 普段から長く感じる二時間が、この日はもっと長く感じた。本当は間の駅で話しかけようとしたけれど、すぐに発車する駅で話しかけるのは迷惑になってしまうと思って、必死に我慢した。――そして、ようやく、終点である私の降りる駅へと着いた。

「あの!」
「……ご乗車ありがとうございました」
「そうじゃなくて!」

 ホームに降り立つ車掌さんを捕まえると、形式通りの礼をされて思わず声を荒らげた。

「さっきの話の続き! 教えてください!」
「…………」
「あの手紙を置いたの、車掌さんですよね?」

 去って行こうとする腕を掴むと、車掌さんは帽子を目深に被り直して、それから首を傾げた。

「なんのことかな」
「車掌さんしかいないんです。あの手紙を、車内に置けるのは」
「…………」

 お願い、どうかそうだと言って……。もう、車掌さんしか手掛かりがないの……。握りしめた手に自然と力がこめられる。そんな私の手に、車掌さんはそっと手のひらを重ねた。

「……確かに、あの手紙は僕が置いたものです」
「っ……! やっぱり! あなたは青空さんの知り合いですか? 彼は今どこに……」

 その瞬間、ホームに風が吹き抜けた。勢いよく吹いた風は、無造作に置かれていた缶すら転がしていく。そして……目の前の車掌さんの帽子すらも――。

「っ……せい、あ……さん?」

 目の前には、会いたくて会いたくてたまらなかった人がいた。でも、どうして……。

「僕は青空じゃないよ」
「え……?」

 青空さんと同じ顔で、目の前の人は困ったように笑った。青空さんじゃ、ない……? なら、いったい誰だというの……。

「僕は、青空の兄です」
「おにい、さん……?」

 そう言われると、確かに青空さんより少し大人びていて……。よく見れば、別人だと言うことがわかる。

「そう、だよね……。青空さんがここにいるわけ、ないもんね……」

 入院すると言っていた彼がこんなところで車掌さんをしているわけがない。ちょっと考えればわかることなのに……。

「青空じゃなくて、ごめんね」
「……いえ」

 私は崩れそうな身体をなんとか起こす。青空さんじゃなかった。でも、お兄さんなら……!

「お兄さんなら、知ってますよね」
「…………」
「青空さんが今どこにいるか、教えてください!」

 本当は、迷っていた。青空さんが手紙に書いてなかったのに、探し出してもいいのかって。会いたくないんじゃないか、来てほしくないんじゃないか。
 でも、青空さんを見つける手掛かりに繋がるんじゃないか、そう思ったらもうダメだった。会いたい、会ってもう一度話をしたい。また笑った顔が見たい。それに、まだ何にも伝えてない。青空さんに、好きだって、伝えてない!

「参ったなぁ」

 車掌さんは困ったように頭をかく。そして、申し訳なさそうに言った。

「青空にね、伝えるなって言われてるんだ」
「っ……」

 やっぱり、青空さんは、私に会いたくないんだ……。

「でも」

 涙があふれそうになった私の頭上で、車掌さんが優しく言った。

「女の子をこんなふうに泣かせるなんて、ルール違反だよね」
「え……?」
「それに青空も……」
「車掌さん?」

 小さな声で何かを呟いた車掌さんの言葉が聞き取れず思わず聞き返した私に、車掌さんは優しく微笑むと、路線図を指さした。

「いつも君が乗っている電車で終点まで行くと、大学病院があるの知ってるかな。――そこに、青空はいるよ」
「大学、病院……」

 そんな偶然ってあるだろうか。だって、そこは、そこは……年明けになくなったおばあちゃんがずっと入院していた病院だ。そして、最後を迎えた場所でもあった。そこに、まさか青空さんも入院しているだなんて……。
 それに……。

「大学病院に入院するほど、悪いんですか……?」

 普通の病院よりも高度な治療をするところ、そんなイメージが大学病院にはあった。と、いうことは青空さんも、まさか……。

「ああ、いや。そういうことじゃないんだ。最初にかかったところが小さな病院だったから、転院するときに大学病院になっただけで。……だから、そんな顔しないで」

 車掌さんが明るい声で言うから、私はほんの少しだけホッとした。
 次の電車の時間が来るというので、お礼を言って駅を出る。さっきまで雨が降っていたのだろうか。外は雨の匂いがした。
 青空さんに、会いに行こう。迷惑かもしれない。追い返されるかもしれない。でも、それでも、一目会いたい。あんな手紙一枚でさよならなんて嫌だ。
 私は、顔を上げた。視線の先にはいつの間にか出た虹が大きく架かっていた。


 車掌さんから教えてもらった翌々日、土曜日で学校が休みだった私は、電車に乗っていた。病院のホームページで調べると面会は午後からだと書かれていたので、お昼前に家を出た。休みの日に出かける私を両親は少し不思議そうな訝しげな、そんな表情で見送っていた。
 いつもよりも遅い時間の電車には、たくさんの人が乗っていた。いつもの席に座ろうとした私は、先客がいることに気付いて通路を挟んで一つ隣の席に座った。そこは、話しかけることができなかった頃に、青空さんが座っていた席だった。
 ここから彼は何を見ていたんだろう。窓のところに肘を置いてボーッと外を見つめる。いつも私が座っている席から見るのとは違う景色が見えて、同じ線路を走っているはずなのに不思議な感じがした。
 見慣れない景色を見続けていると、電車はいつの間にか私がいつも降りている駅を通り過ぎた。――そして、大学病院前というアナウンスとともに、電車が止まった。
 駅を出て、少し歩いた先にそれはあった。車で来ていたときはいつも駐車場に止めていたからわからなかったけれど、正面から見ると古く大きなその病院は威圧感たっぷりだった。ここに、青空さんが……。

「……でも、どうしよう」

 受付に言えば、病室を教えてもらえるのだろうか。と、思ったところで私は肝心なことを聞くのを忘れたことに気付いた。病院の名前と場所は聞いたけれど、結局青空さんの名字を知らないままなのだった。青空さんのお兄さんである車掌さんの胸元に名札が着いていた気がするけれど、じっくりと見たことがないからぼやっとしか思い出せない。
 それでも、せっかくここまで来たのだ。受付の人に聞くだけ聞いてみよう。もしかしたら、名前を言えば調べてもらえるかもしれないし。
 私はギュッと手のひらを握りしめると、自動ドアを通り抜け、病院の中へと足を踏み入れた。
 土曜日の午後ということもあって、病院の中は閑散としていた。人気のないロビーを歩いて行くと、受付を見つけた。

「すみません」
「どうしました?」
「あの、お見舞いに来たんですけど……」

 どう言えばいいだろうか、と一瞬悩んで口ごもった私に、受付のお姉さんは優しく微笑みかけた。

「はい。ご家族の方ですか?」
「あ……いえ」
「じゃあ、お友達?」
「友達……でもなくて……」
「……?」

 受付のお姉さんの表情が訝しげなものになるのがわかった。なんと言えばいいんだろう。私と青空さんの関係を。友達、というには知らなすぎて。でも、知り合いと言うほど遠い関係でもない。そんな私たちの関係を、何というのだろうか。

「あの……青空さんがここに入院しているって聞いて……」
「青空さん、ですか。名字も教えていただけますか?」
「名字……は、知りません」

 ああ、もうダメだと思った。怪訝そうな表情を浮かべていたお姉さんは、いかにも不審者を見るような表情で私を見つめていた。これ以上は……。

「すみませんが、名字がわからなければその方をお捜しすることはできませんし……そもそも、どなたかもわからない方を患者さんの病室にお通しすることはできません」
「っ……」

 その言葉に、私はその場を駆け出した。逃げるようにして自動ドアを走り抜けると、病院の外へと出た。せっかくここまで来たのに、何をやってるんだろう。自分が情けなくて、悲しくて、みっともなくて涙がこぼれそうになる。友達だって、言えばよかった。あんなところで嘘吐いたところで、何があるわけでもないのに。せっかく、会いに来たのに……。
 ぽたり、と足下に涙が落ちて、私は慌てて上を向く。こんなところで泣いたら誰かに見られちゃう……。必死に目元をこすると、辺りを見回した。

「ここ、どこだろ……」

 逃げるようにして走って、それから周りを見ることもなく歩き続けた私は、いつの間にか見覚えのない場所にいた。そこは、たくさんの花が咲いていて、ベンチもあって……。

「あ、そうだ。ここ、中庭だ」

 見え方が違うから気付かなかったけれど、ここは病院の中からも繋がっている中庭だった。おばあちゃんのお見舞いに来たときに、一度だけ入ったことがある。外からも行けることはしらなかったけれど。
 懐かしさと、人気のないそこが心地よくて、私はもう一度辺りを見回した。小道の向こうにドアが見えて、あそこから病院の中に入れるんだと気付く。けれど、病院の中に入ったところで、青空さんの名字も、それから病室もわからない私が、青空さんに会うすべはない。

「はぁ……」

 重いため息を吐いて、もう帰ろうと視線を右に向けた。

「っ……!」

 そこには、小さなベンチと、それから、そのベンチに座る人の姿があった。一目見て入院患者だとわかるパジャマ姿で、彼はそこにいた。

「青空、さん……」

 それは、紛れもなく、青空さんの姿だった。会いたくてたまらなかった、青空さんがそこにいた。こんな偶然あり得るのだろうか。だって、もう会えないって、そう思って……。

「青空さん!」
「え……?」

 名前を呼ぶと、驚いたように、青空さんが振り返った。
 私は走った。左右にたくさんの花が咲く小道を、必死に、全力で走った。

「青空さん!」
「梓……?」
「嘘、みたい。本当に、青空さんに会えた」

 駆け寄った私は、青空さんに会えた喜びで気付いていなかった。

「梓……」

 青空さんの口調が、困ったような、迷惑そうなそれだったことに。

「どうして、ここに?」
「車掌さんに聞いて」
「……そう」

 歯切れ悪く言葉を切った青空さんを見て、初めて気付いた。喜んでいる私とは対照的に、青空さんの表情が暗いことに。

「…………」
「…………」

 居心地の悪い空気が、沈黙が、私たちの間に流れた。

「まいったな……。梓には、会いたくなかったのに」

 その言葉に、心臓が痛いぐらい苦しくなった。やっぱり会いに来ちゃいけなかったんだ。会いたくないって、こんな苦しそうに言わせてしまうなんて……。
 そう思った私は、俯いて、地面を見つめる。でも、私の頭上に聞こえてきた言葉は、想像とは違うものだった。

「でも、ダメだ。……目の前に梓がいるって思ったら、嬉しくて嬉しくて仕方がない」
「青空さん……?」

 顔を上げると、青空さんが悲しそうに微笑んでいた。

「本当は、梓にこんな姿を見られたくなかった。だから、退院するまでは会わないでいようってそう思ってたのに……」

 青空さんは、私の身体をギュッと抱きしめた。初めて触れた青空さんの身体は、温かくて、優しくて、それからお日様の匂いがした。

「本当はずっと会いたかった」
「青空さん……」
「今も梓のことを考えてた。元気かなって。笑ってるかなって。無理してないかなって。……そしたら、梓がいたんだ。梓に会いたいって、そう思ってたら目の前に梓が……」

 抱きしめられた手に力がこめられたのがわかった。だから私も、そっと背中に腕を回すと、青空さんの身体をギュッと抱きしめた。

「っ……ごめん!」

 けれど、次の瞬間、押しのけるようにして私の身体は青空さんから引き剥がされた。どうしたのかと青空さんの方を見ると――。

「青空さん……?」
「待って……今、俺のほう、見ないで……」
「青空さん!?」

 青空さんは口元を押さえて後ろを向いた。まさか、身体に何か……。

「大、丈夫……だから、見ないで」
「え……」

 慌てて青空さんの顔をのぞき込むと、そこには……顔を真っ赤にした青空さんがいた。

「青空さん、顔……」
「だから、見ないでって言ったのに……」
「っ……」

 つられるようにして、私も自分の顔が熱くなる。そんな私を見て、へへっと恥ずかしそうに青空さんは笑う。そして私たちはまだ少し熱の残る顔を見合わせて、もう一度笑った。


 青空さんに促されるようにして、私はさっきまで青空さんが座っていたベンチに座った。何から話そうか、悩んでいると先に青空さんが口を開いた。

「よく、ここがわかったね」
「あ……。車掌さん――青空さんのお兄さんから聞きました」
「……あの、おしゃべり。言わないでって言ったのに」

 青空さんが呆れたように言う。でも、その口調が優しくて、きっと仲のいい兄弟なんだろうな、なんて思ってしまった。

「なんてね……。あんな手紙をもらったら、そりゃ気になるよね」
「はい……」
「ごめんね」

 苦笑いを青空さんは浮かべる。けれど私は笑ってなんていられなかった。だって、だって……。

「あんな手紙一つ置いていなくなって……。私、突然青空さんが来なくなってビックリして……それで……」
「うん、本当にごめん」

 謝ってもらいたいわけじゃないのに、困らせたいわけじゃないのに、口を開けば次から次に青空さんを責めるような言葉ばかり出てくる。
 けれど、そんな私を青空さんは、何度も「ごめんね」と言いながら、優しく見つめてくれる。

「どうしたら、許してくれる……?」
「それは……」

 怒ってるわけでも責めたいわけでもない。なのに、青空さんにこんなこと言わせて……どうしたら……。

「あ……」
「え?」

 私は、ふと思いついて青空さんの方を向いた。

「じゃあ……一つだけ、言うことを聞いてください」
「言うこと? いいよ、俺にできることならね」
「青空さんの、名字が知りたいです」
「へ?」

 そんなことを言われるなんて思ってもみなかったのか、青空さんはどこか間の抜けたような声を出した。けれど、私は真剣だ。

「だって、今日も受付で患者さんのお名前は? って聞かれたのに答えられなかったんですよ! それに、青空さんが来なくなったとき、青空さんのことを探そうと思ったのに、私が知ってるのなんて、青空さんの名前と降りる駅だけで……」
「ふっ……」
「あ、笑った! もう! 私は真剣なのに!」
「ごめん、ごめん。あまりにも梓が可愛くて……」

 青空さんは、目尻に涙を浮かべるほど笑うと、小さく咳払いをして、それから口を開いた。

「そっか、俺、梓に何にも自分のこと言ってなかったんだね」
「そうですよ! 私、青空さんのこと、何にも知らない……」
「うん」
「だから、教えてほしいんです」

 青空さん自身のこと、それから――青空さんが抱えている病気のこと。
 そう告げた私に、青空さんはもう一度「うん」と言って優しく微笑んだ。

「何から聞きたい?」
「まずは名前! それから、年齢!」

 青空さんがいなくなって、青空さんを探そうとしたときに、名前も年齢すらも知らないことに気付いて、ショックだった。そんなことすら知らなかったのかと、私たちの関係の薄さを思い知らされた。だから、些細なことでもいい。青空さんのことが知りたい。

「瀧岡青空。一八歳」
「一八歳ってことは、高校生? それとも大学生?」
「三月に卒業したところだよ。――通信制の高校を」
「え……?」

 通信制の高校……?
 どういうことだろう、そう思った私の疑問に青空さんは答える。

「一五歳の二月に骨肉腫が判明して……。治療のために入院したから、受かった高校は合格を辞退したんだ。それで、病院にいても可能な通信制を申し込んだんだ」
「そんな……」
「だから、前に梓に言った、いい学校に行くばっかりが価値があることなんかじゃない。自分自身で価値を見いだすんだ、っていうのは、俺自身に言い聞かせてきたことなんだ」

 なんと言っていいかわからなくて、黙ったまま話を聞く私に、青空さんは苦笑いを浮かべた。

「偉そうに言ったくせに、格好悪いね」
「格好悪くなんかない!」
「梓?」

 気が付けば、私は立ち上がって、青空さんを見下ろすようにして叫んでいた。だって、だって、そんなの……。

「そんなの、何にも格好悪くなんかない! だって、だって! 全部、青空さんが生きるために選んだことでしょう!? その選択をしたから、今、青空さんはここにいるんでしょう!?」
「梓……」
「あの言葉に、私は救われた。少なくとも、今いる場所で頑張ってみようって思えた。だから、格好悪いだなんて言わないで!」

 なんで、こんなにも悔しいのかわからなかった。でも、私の気持ちを救ってくれた人が、自分自身をあざ笑うかのような態度を取っているのが、悔しくて、そして悲しかった。

「……ありがとう」
「別にお礼を言われるようなことなんて……」
「本当に、ありが……とう」
「青空さん……?」

 青空さんの声が、震えていた。だから私は、それ以上何も言えなくなって、首を振って、それから青空さんの隣に座り直した。
 ――どれぐらいの時間が経っただろう。青空さんは、目をこすると、小さな声で言った。

「足の手術をするんだ」
「え……?」

 言われた言葉の意味が理解できなかった。病気で入院しているんじゃないの……? なのに、足の手術って、どういうこと……?
 不思議そうな表情を浮かべた私に、青空さんは苦笑いを浮かべた。

「骨肉腫って知ってる?」
「……聞いたことは、あります」

 それはドラマなんかで聞いたことがある病名だった。でも、詳しくは知らない。興味を持って調べたことなんてなかったから……。
 でも、青空さんは「そうだよね」と笑った。

「俺も、自分が病気になるまでなんとなく聞いたことがあるなって程度だった。……足の骨に、腫瘍ができるんだって」
「腫瘍……?」
「簡単に言うと、骨の中に癌ができている。俺の場合は、ここ」

 青空さんは左膝に触れた。その手が、かすかに震えていることに気付く。

「昔は切断してたらしいんだけど、今は手術で取り除くことができるらしい。初発のときにも手術して、今回も」
「大丈夫、なんですか……?」

 その問いかけが正しいのか、わからないけれどそれ以外になんと言っていいのかわからなかった。そんな私に、青空さんは優しく微笑んだ。

「うん。だから、そんな顔しないで」

 辛いのは青空さんなのに……なのに、そんな青空さんが微笑むから……私は、必死で笑顔を浮かべた。

「よかった……」

 そんな私にホッとしたよう息を吐き出すと、青空さんは話を続けた。

「でね、その手術を――来月、することになったんだ」
「そう、なんだ……」
「……梓」

 青空さんの、声のトーンが変わった。真剣な表情で私を見つめると、ギュッと手を握りしめた。

「俺、梓に言いたいことがあって。でも、今のこんな俺じゃあ何にも言えなくて……。だから、絶対に手術を成功させて、もう一度あの電車に乗って梓に会いに行くから。……それまで、待っててくれないかな」
「っ……」
「退院予定が八月末なんだ。だから、九月になったら、あの電車で会おう」
「青空、さん……」

 私は、頷くことしかできなかった。

「……俺、頑張るから。逃げないで、頑張るから」
「はい……」
「だから……」

 だから、梓も頑張って。
 きっと青空さんは、そう続けたいんだと思った。言葉には出さなかったけれど、青空さんの瞳がそう語っていた。


 いつまでも話をしていたかったけれど、検査があるんだと看護師さんが青空さんを呼びに来た。

「じゃあ……」
「…………」
「必ず行くから、いつもの電車で待ってて」

 頷いた私に、青空さんは優しく微笑みかけると、看護師さんに連れられるようにして病院内へと戻っていった。
 その背中を見送って、帰ろうか――と、歩き出そうとしたそのとき、なんとなく、本当になんとなく青空さんの去って行った方を振り返った。

「っ……」

 その瞬間、病院内へと繋がるドアを開けようとしていた青空さんが、こちらを振り返った。

「え……」

 青空さんも、少し驚いたような表情をして、それから私に手を振ると病院内へと姿を消した。たまたまかもしれない、偶然こちらを向いただけなのかも……。でも、同じタイミングで振り返ってくれたことが嬉しくて、胸が温かくなるのを感じた。
 青空さんが戻ってくるまであと二ヶ月。
 そのときに、胸を張って会えるように、必死に病気と闘っている青空さんに負けないように、私も、私のできることを――。

「頑張ろう」

 小さく口に出して呟くと、私は歩き出した。自分自身の足で、一歩ずつ、未来を踏みしめるように。