あの日から、私の毎日は変わった。青空さんは毎週木曜日と金曜日に電車に乗ってくる。だから、木曜と金曜の朝はいつもよりも念入りに髪をセットして、ちょっとでも可愛く見えるようにと鏡の前でにらめっこする時間が増えた。
 少し高い位置でポニーテールを結ぶと、私はポケットから取り出した色つきリップを塗って、鏡に向かって笑いかけた。決して美人というわけじゃないけれど……でも、暗い顔じゃなくてニッコリと笑った表情を浮かべることで、少しでも明るく見えるように。

「いってきます」
「……いってらっしゃい」

 家族とは、まだ少しギクシャクしている。むしろ、私自身が北条高校を受け入れたことで母親との間の亀裂に拍車がかかった気がする。
 とはいえ、学校が楽しいかといえばそうではないんだけれど……。

「おはようございます」
「おはよう。もうすぐ電車が出るよ」
「はーい」

 いつもと同じ車掌さんに挨拶すると、私は電車に乗り込んだ。いつもの席に座ると、鞄から鏡を取り出した。
 前髪、変じゃないかな。リップ、はみ出してないかな……。
 前みたいに、読む気もない小説を取り出すことはなくなった。だって、そんなカムフラージュしなくても……。
 発車のベルが鳴ると同時にガタンという音を立てて、電車が動き出す。早く青空さんのいる駅に着かないかな。そんなことを考えていると、一駅なんてあっという間で、気が付くと、電車はスピードを緩め始め、私はホームにいるであろう青空さんの姿を探した。

「……いた!」

 青空さんも電車の中の私を見つけると、ニッコリ笑って手を振ってくれる。私も振り返して、それから青空さんが笑っていることに気付いた。どうしたんだろう……。

「おはよう」
「おはようございます。……さっき、なんで笑ってたんです?」

 電車に乗り込んできた青空さんは、いつものように通路を挟んで一つ隣の席に座る。そんな青空さんに、私は疑問をぶつけた。

「……ああ、あれ?」

 けれど、青空さんはもう一度思い出したかのように笑い出すだけで教えてくれない。いったいなんだっていうのか……。それとも、私には教えられないようなこと……?
 たしかに、まだ青空さんと知り合ってそんなに経ってないし、話せないようなことがあっても仕方ないのかもしれないけど、でも……。
 鼻の頭がツンとなるのを感じて、私は青空さんとは反対の窓の方を向いた。

「教えてくれないなら、もういいです」
「ごめん、ごめん」
 自分でも、めんどくさい性格をしていると思う。でも……。
「梓ー?」
「…………」
「ごめんね?」
「…………」

 どうしよう。別に、そんなに怒っているわけじゃない。でも、こんなふうに謝られてしまうと、振り返りづらい……。
 でも、このままじゃあ、絶対にめんどくさい子だって思われちゃう……。

「っ……」
「あー、すみません」
「え……?」

 突然、そんな声がすぐ後ろから聞こえてきた。私たちの他にはお客さんは乗っていないはずなのに、いったい……。そんな疑問は、振り返るとすぐに解決した。そこには、車掌さんが立っていた。
 どうして電車が走っているのに車掌さんが……?

「ちょっと通りますね」

 車掌さんは、私と青空さんの間を申し訳なさそうに通る。そして……。

「このあと、もう一回ここ通るんで……もしよければ、どちらかの席に一緒に座ってもらえると、僕も二人の間を邪魔しながら通らなくていいんですけどね」

 そう言って、車掌さんは笑うと、隣の車両へと移動した。
 私たちはというと……、少し気まずそうに青空さんは笑った。

「そっち、行ってもいい?」
「……はい」

 私が少しだけ右によると、隣に青空さんが座る。肩が当たりそうで当たらない、手が触れそうで触れないこの距離は、恥ずかしくて、照れくさくって、それから……少しだけドキドキする。

「あの、さ……」
「…………」
「さっきの、だけど……」

 青空さんも、緊張しているのだろうか。声が、いつもよりうわずっている気がする。でも、私は自分の心臓の音がうるさくてそれどころじゃない。

「別に、梓を笑ったとか、そういうのじゃなくて……。その、ホームから電車を見てたら梓が見えて。でもって、すっごく嬉しそうに手を振ってるから……」
「振ってるから……?」
「……可愛いなって思って」
「っ……!」

 青空さんのストレートな言葉に、全身の血が沸騰してしまったんじゃないかと思うぐらい、顔が、それから身体中が熱くなる。可愛いって、そんな……。

「ユリみたいで」
「……ユリ?」

 聞き覚えのない名前に、私は顔を上げた。

「ユリって……?」
「うちの犬」
「……もう!」

 思わず頬を膨らませた私に、青空さんは悪びれることなく笑う。でも、私はおもしろくない。だって、犬って……。

「俺が小さい頃から飼ってた犬でさ、めちゃくちゃ可愛くて、俺のこと大好きでさ」

 青空さんの声のトーンが変わったことに気付いた。飼ってたって……もしかして……。

「俺も大好きだったんだけど……」
「もしかして……」
「去年、ね……」

 困ったような、悲しそうな、そんな顔をさせてしまったことが申し訳なくて、私は「ごめん」と呟いた。青空さんの顔を見られなくて、俯く私の頭に何かが優しく触れた。

「謝らないでよ。……さっきホームから梓を見たときに、ああ、そういえばユリもあんなふうに俺の顔を見ると全身で嬉しいのを表してくれたなって思い出して、なんか嬉しくなってさ」
「青空さん……」
「だから……って、なんか恥ずかしいな」

 青空さんは照れくさそうに鼻をこする。その姿がとても可愛くて、胸の奥がキュッとなる。……今は、ユリちゃんと同じ扱いでもいいや。だって、こんな表情を見せてもらえるんだから。

「……ワンって言った方がいいです?」
「ごめん、やめて」
「ワン」
「こら!」

 わざとふざける私に、青空さんは怒ったフリをする。そして私たちは、顔を見合わせて笑った。
 青空さんと一緒の時間は心地いい。楽しくて、ドキドキして、胸がキュッてなって。ずっとずっと一緒にいたいって思う。
 でも……。

「もうすぐ駅に着くね」
「……ホントだ」

 あっという間に、降りる駅に着いてしまう。あんなに長く感じた通学時間が、今じゃあもっと長くてもいいのにって思ってしまう。

「…………」
「そんな顔、するなよ」
「どんな顔……?」
「電車から降りたくないって顔」

 私の頭をポンポンとすると、青空さんは優しく言った。

「まだ、学校楽しくない?」
「……そんなことは、ないですけど」

 学校に行きたくないんじゃなくて、青空さんと一緒にいたいだけ、とはさすがに言えない。

「――友達、できないし」
「そっかぁ……」

 だから私は青空さんが納得しそうな言葉を呟いた。……嘘ではない。学校が楽しいか楽しくないかと聞かれたら、全く楽しくない……と、いうわけでもないけれども。
 ただ、入学してから一ヶ月以上が経ち、周りの子たちはグループを作って行動している。私はというと、馴染む気もなく誰とも話さずにいたものだから、当たり前と言えば当たり前なのだけれどクラスで孤立していた。
 そうなる原因を作ったのは自分なのだから、その状況に対し文句を言うつもりはないけれど、やっぱりみんながわいわい言っている中で一人ぽつんといるのは辛いものがある。

「休み時間とかはどうしてるの?」
「……一人でいるか、ジュース買いに行ったり……。あとは空き教室で本を読んでたり」
「誰かに話しかけてみるとか……」

 そんな、先生みたいなこと言わないで……!
 クラスで一人孤立している私に、担任は何度もクラスメイトの輪に自分から入ることも大事だと言った。そんなのわかってる。できたらしている。でも……!

「なんて、言うのは簡単だけど、実際にするのは難しいよね」
「え……?」

 隣にいる青空さんを見ると、優しく笑っていた。

「何、その反応」
「……もっとちゃんとクラスの輪に入るように、とか言うのかと思ってたから」
「それが難しいから、梓は今困ってるんでしょ? なのに、そんなこと言わないよ」
「っ……」

 青空さんの言葉に、心臓がわしづかみにされたように苦しくなった。どうしてこの人は、私が言ってほしい言葉をこんな当たり前のように言ってくれるんだろう。

「青空さん……」
「あと、どうしても教室にいるのがしんどかったら図書館に行ってみるといいよ」
「図書館?」
「そう。北条の図書館は県立の図書館ぐらい本があるって姉ちゃんが言ってた。本が好きだったら喜ぶんじゃないかなって……」
「どうして……?」

 思わず問いかけた私に、青空さんは不思議そうな表情を浮かべた。

「どうして、私が本好きだって知ってるんです?」
「それ……は……」

 そんな話していないし、青空さんと話をするようになってからは電車で本を開いたこともない。なのにどうして……。

「それは?」
「……あ、ほら。電車着いたよ」
「え、あ……」

 話しているうちに、電車はホームへと到着していたようで、何人かの人が違う車両から降りていくのが見えた。

「梓も行かなきゃ」
「そ、そうですけど……。でも、まだ話が……」
「あ、発車のベルが鳴ったよ」
「~~っ。今度! 今度会ったとき、続き聞かせてくださいね!」

 後ろ向きに話しながら降りていく私に、青空さんはニコニコと笑いながら手を振る。
 そんな彼に手を振ると、来週また会ったときは、絶対に理由を聞くんだと心に決めた。
 また来週、そんな未来が当たり前に来ると思って。

 でも、その日から、青空さんは来なくなった。次の週の木曜日も、金曜日も、そのまた次の週も、どれだけ待っても青空さんは来なかった。