「うひひひひ~」
駄目だ、全然耳に入っていない。
中古のブランド腕時計を専門に扱う店長・時任刻は、穏やかな嬉笑を引きつらせた。
彼は弱冠二九歳にして店を切り盛りする、一国一城の主である。アルマーニのダブルスーツをパリッと着こなす紳士であり、常に笑顔を絶やさない美丈夫でもある。
一方、その店長に雇用されて間もない二三歳の淑女――だか何だか――である風師時花は、右も左も判らない新米店員だ。
制服のタイトスカートとスーツは貸与されたもので、足下のヒールも履き慣れない。
今日は長い黒髪をねじ上げてバレッタでとめており、見た目は楚々とした令嬢のように見えなくもなかった。実際はひたすら残念な子でしかないのだが。
(ああ~、私ってば店長に下の名前で呼ばれています! 親密度が半端じゃないです!)
天にも昇る気持ちとは、このことだろう。
先日から店長は「時花さん」と呼ぶようになったが、甘美すぎて腑抜けをもたらす。
これでは仕事にならない。接客の他にも商品の整列、店内の清掃、金銭の勘定と言った事務全般、さらに通販のメール対応も加われば、今の時花には処理しきれまい。
店長は店長で、質入れ品の鑑定やら商品のメンテナンスやらと言った実務にかまけることが多く、時花に目が行き届かない日もある。
夢見心地でそそっかしい時花が職務をきちんとこなせるのか、心配してしまうのも頷ける話だ。